慟哭の彼方 3
俺は昔、雪が好きだった。
毎日外に出て、雪だるまばかり作っていた。
里中に溢れかえるのなんてあっという間で、「よく飽きもせずに、そんなに沢山作れるな」って、大人たちに言われていたし、今の俺も少しそう思うよ。
それから、景色も好きだ。
里をぐるりと囲う針葉樹が雪化粧をして、屋根から道から、何から何まで真っ白の銀世界が広がっていた。
俺の家は、里の中で1番高いところに位置していたから、それがよく見えたんだ。
あの景色が、俺は特別大好きだった――。
あの日は、特に変わったことのない平凡な1日だった。
いつものように厳しい修行を乗り越え、父親の仕事を手伝い、新しい術を学んだ。
その術は難しくて、習得するのに2週間も費やした。
どんな術かって……、妖を捕縛し、己の式にする術だよ。
父さんは習得に1年かかったって言ってた。
爺さんは1ヶ月って言ってたかな。
まあ、そんな話はいいんだよ。
俺は術なんか覚えても、使えないと思っていたし。
だって俺は、霊や妖なんかほとんど見えないんだから……。
話を戻すが、実はその時……そのほんの少し前から、家の中の雰囲気はおかしくなっていた。
母親は俺の外出に嫌な顔をするようになって、厳しい門限を課し、父親はいつもに増して修行のペースを早めていた。
爺さんは……縁側でタバコをふかすのが好きだった爺さんは、四六時中部屋に籠もりきっていた。
一度だけ、こっそり襖を開けて中を覗き込んだことがあるが、部屋の中は使用済みの巻紙で埋め尽くされていた。
見たことのない術式を筆でなぐり書き、何枚も何枚も床に散らかしていた。
俺が部屋を覗き込んでいると気付きもせずに、鬼気迫る様子で机に向かっていた。
何でか分からないけど、俺は生まれて初めて、爺さんが怖いと思った。
そしてその日、突如事件は起こった。
犬猫が騒ぐこともなく、鳥が不吉に空を舞うこともなく、雲行きも風の流れも何1つ変わらない日常に、何の前触れもなしにやってきた。
今日もいつものように、晩御飯を食べ終え、風呂も済ませて、もう寝ようかと部屋に向かっていた。
"僕"は、今日も家の中を遠回りして、おじいちゃんの部屋の前に来た。
おじいちゃんが心配で、1日に何度かこうして、部屋の前に立ち、中の様子をこっそり伺うのが、日常になっていた。
覗きはもうしていない。音を聞くだけだ。
風もなければ、虫もいない、動物もいない。
自分の息遣いがうるさく聞こえるほどの静寂の中、部屋の中から紙に筆を滑らせる音だけが聞こえてくる。
まだ仕事をしている。もうご飯は食べただろうか――。
心配事が積み重なるが、僕にはもうこの襖を開ける勇気はない。
次こそは見つかって怒られるんじゃないか、いつもと違うおじいちゃんの姿に恐怖を覚えるんじゃないか。それがたまらなく怖かった。
僕は、そっとおじいちゃんの部屋から離れた。
離れようとした……その時だ。
バタン!と大きな音がした。部屋の中からだ……。
そして、地を這うようなうめき声が聞こえる。
悲鳴のように、苦しむ声がする。
マズイと、子どもながらに理解した。
僕は襖を勢いよく開いた。
予想通り、おじいちゃんは畳の上に倒れていた。
全身をバタバタと暴れさせ、悶絶しながら、胸を押さえ、喉を掻き毟っている。
握りしめた筆を投げ出し、机の上にはシワの寄った巻紙と、ぐちゃぐちゃと書き損じたような汚い筆の跡が散っていた。
いったい何が起きたのか。病気になってしまったのだろうか……。
わけが分からないまま、僕は必死に叫んだ。
「お父さん!お母さん!助けて!!!」
騒ぎを聞きつけた2人はすぐにやって来た。
お母さんは顔を真っ青にして、2つ折りの携帯を取り出した。診療所の先生に電話をするのだろう。
しかし、お父さんはお母さんから突然携帯を取り上げた。
「お父さん!何やってるの!?」
僕はパニックに陥ったように叫んだ。
しかし何故か、お母さんが僕を制した。
震える瞳で僕を見つめ、必死に首を横に振っている。
何故だ。急に僕が悪者みたいになった。
それからお父さんは、部屋を調べ始めた。
使用済みの巻紙を確認し、机の上を見つめ、そして初めておじいちゃんの顔色を確認した。
そして、お父さんは確信したように言った。
「やはり呪詛返しだ。」
お母さんは「キャッ!」と悲鳴をあげて、両手で口元を覆った。
すぐにお父さんはお母さんの両肩を掴む。そして、大きな背を猫のように丸め、耳元でヒソヒソと何かを囁いた。
お母さんは青白い顔で、ただ黙って頷いていた。
何かが始まったと、僕は考えた。
胸の中に小さな氷が層のように積み重なっていく。
ドライアイスのように冷たくて、ちりちりと焼けるように痛い。
顔の筋肉が石みたいに硬くなって、自分が今どんな顔をしているのかすら分からなくなった。
するとお父さんは、突然僕の腕をつかんだ。
腕を引き、すたすたと廊下の奥に引っ張っていく。
「いいか、霞。今から里を出る。
最低限の荷造りをして、父さんと逃げるんだ。」
「逃げる!?なんで?」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
お父さんは僕の目も見ずに、どこかに憎悪を向けるように宙を睨みつけている。
「菊司さんは、お前のおじいちゃんは何をしていたと思う?」
「な、何?ずっとお仕事をしてたって。」
お父さんの質問の意図が分からなかった。
僕はおじいちゃんが何をしていたのか、全く知らない。
ただ部屋に閉じこもって、狂ったように巻紙に術式を書き記していた。何枚も何枚も、同じ文章をひたすら書き続けていた。
そもそも何日か前に、僕がお父さんに聞いたんだ。
おじいちゃんは何をしているのか。そしたらお父さんが「お仕事だから邪魔をするな。」と言ったんだ。
お父さんは変わらず、ぐいぐいと痛いくらいに腕を引っ張った。
足の長いお父さんの歩幅は大きく、ついて行くのがやっとだ。
「おじいちゃんはね、里の結界を強化していたんだ。侵入者から里を守るために。ところが、それが破られた。敵も同業者で間違いない。」
「結界!?侵入者?何のこと?」
お父さんが質問に答えるより先に、僕の部屋に着いてしまった。
お父さんは手を離し、部屋のタンスを開け、リュックサックに着替えを突っ込んだ。
下着や靴下、あったかいセーターに半袖のシャツ、ズボンと寝巻き。ダンスの上から下まで順に開け、ランダムに詰めていく。
リュックサックが一杯になると、最後に懐から取り出したお父さんのお財布を入れて、ファスナーを閉める。
「さあ、上着を着て。リュックを背負って。行くよ。」
僕はハッと顔を上げた。頭が真っ白で、ぐちゃぐちゃになって、未だお父さんが何をしようとしているのか、さっぱり分からなかった。
お父さんはため息を吐いて、ハンガーにかかっていた白の小さなダウンジャケットを掴むと、僕の腕を掴み、無理やり袖を通させた。そしてリュックサックを背負わせて、もう一度腕を掴もうと手を伸ばした。
僕はすぐにその手を振り払い、後ろに飛び退いた。
「嫌だ!ちゃんと説明してよ!!
お母さんは?おじいちゃんはどうするの!?」
お父さんは、切れ長の目をつり上げて怒った顔をした。
反対に体は膝を折って僕に視線を合わせてくれる。
お父さんは、いつもよりずっと低い声で、さらにゆっくりと、優しく諭すように言った。
「お母さんは、おじいちゃんと里の中の安全な場所に隠れる。あの状態じゃおじいちゃんは山を下れない。1人じゃ安全な場所にもいけない。だから、お母さんがおじいちゃんに付き添うんだ。
お父さんの方が体力があるし、力もある。お前を守りながら雪山を下るのは、お母さんより私が適している。」
「これからどこに行くの?何で僕にお財布をもたせるの?お父さんはどうするの?」
お父さんは一度、焦れたように時計を見つめ、そしてもう一度僕に視線を戻す。
「山を下り、街に出る。電車を乗り継ぎ、ずっと西へ。
敵を攪乱しながら、何日もかけて移動する。そして私の実家に行く。そこは、この里の次に安全な場所だ。私の実家も古い陰陽師の家だと知っているだろう?」
「……知ってる。」
「納得してくれたか?」
お父さんの問いに、僕は頷いてみせた。
するとお父さんはすぐに立ち上がり、僕の腕を引いて部屋を飛び出た。
そうしたら、ちょうどお母さんが大きな荷物を持って、廊下の向こうから駆け足でやってきた。
「芙蓉さん、何をしているの?早く出発しなきゃ。
霞、元気で暮らすのよ。」
お母さんの頬は濡れた跡があった。
目を充血させ、皮膚は乾いた布でこすったように赤い。
僕の前では決して涙を見せないように持ちこたえているようだった。
僕は2人の様子を見て悟った。
恐らくきっと、二度とお母さんに会えなくなるのだろうと。
僕は何も分からないふりをして、渋々小さく頷く。
「さあ、これはあなたの荷物よ。
霞のことを頼んだわ。」
お母さんは荷物をお父さんに渡し、一度軽い抱擁をして、頬を擦り合わせる。
そして、お父さんはお母さんに別れを告げた。
お父さんは再び僕の腕を掴み、急ぎ足で玄関に向かう。
お母さんは廊下に立ち尽くしたまま、動かない。
頬を引きつらせ、必死に笑いながら、僕に小さく手を振った。
僕たちは、家を出た。
庭を抜け、家の門をくぐり、すぐ目の前の林道にさしかかると、お父さんはすぐに道を外れ、茂みの中に踏み込んだ。
「どこに行くの?村の出口はこっちじゃないよ!」
そう言うと、お父さんは首を横に振る。
「林道は1本道だ。逃げ場がない。
林の中を抜け、里の外を回るように抜け出すんだ。」
お父さんは躊躇いなく、どんどん茂みの中に入っていった。
林の中は雪が深く、小さな体では歩くことすら難しかった。
それでもどうにか、お父さんが足で雪を踏みつぶして作り出した道を歩み、必死についていく。
いったいどれくらいの時間、林の中に居たのだろうか。
1時間かもしれないし2時間かもしれないし、案外30分とかその程度かもしれない。
途方もない時間を、歩きつづけた。
息が上がる。空気は氷のように冷たくて、うまく吸い込むことができない。
肺の中が冷気でいっぱいになって、痛みを感じた。
辛くて、苦しいのに、お父さんは足を止めてはくれない。
しばらくすると、突然林の中が昼間のように明るくなった。
まさか昼になったのか?……いや違う。夜空には変わらぬ顔の月がひっそりと浮かんでいる。
じゃあ、いったいどうして?
キョロキョロと首を振ると、ふと鼻に嫌な臭いが付いた。
知っている臭いだった。だが、その臭いの正体を知りたいとはとても思えなかった。
林の中は、わずかに白く濁り、空にもくもくと黒煙が立ち昇る。
出口が近い、差し込む光が強くなる。
何かが焦げたような、気持ち悪い臭いが濃くなった。
息が詰まる、目が染みて涙が出る。
いよいよ出口だ。林の外に出る。
視界が一気に開けた。
すると耳に飛び込むのは、パチパチと火が弾ける音。
女性の悲鳴と子どもの泣き声がして、道の向こうでは家畜が狂ったように全速力で駆け抜けていった。
火が、赤く赤く燃え上がる。
里の至る所で火柱が上がり、辺りは真っ黒な黒煙に包まれていた。
僕は息を呑み、家のある方角を振り返った。
お父さんは何も言わず、僕の腕を引っぱる。
「なんで、里が燃えてるの?どうして?」
「喋ってはいけない。
煙を吸わないように、体を低くして、ハンカチで口元を押さえて。」
僕は従わなかった。
「家は大丈夫なの?おじいちゃんとお母さんは!?」
「大丈夫だ。」
お父さんはもう僕の目を見ようとしなかった。
ただまっすぐ前を見つめ、大きな歩幅で僕の腕をぐいぐいと引っ張る。
僕の中に、疑惑と不安が積み重なっていく。
そんな時だった。
里の人たちが、火の手のない川沿いに並び、燃え盛る家を見上げ、話し合っているのが見えた。
「聞いた?菊司さんが倒れたんですって。
診療所の先生が家に向かったそうよ。」
「ええ。もう高齢ですものね。
でもこんな時に倒れるなんて……。」
「話はそれだけじゃないのよ。
先生が家に行った時、晴藤邸が燃えていたんですって。
火が激しくて、消火なんてできないくらいに――」
僕は足を止めた。お父さんは力強く腕を引くが、僕はその手を全力で振り払い、走り出した。
そして火の勢いに負けないように、必死に声を張り上げる。
「おじいちゃんは!?おじいちゃんは無事だよね?」
おばさんたちは驚いたようにこちらを振り返り、僕の顔を見て、ほっとしたように表情を緩めた。
「霞ちゃん!無事だったのね!!」
「怪我はない?心配してたのよ。」
「芙蓉さんも、無事でよかったわ。」
どの声も優しくて、心から心配してくれていたのがわかった。
でもそれ以上に、彼女たちは何かを知っているような気がしてならない。
おばさんたちの優しさは、かえって僕を不安にさせた。
お父さんは能面のように表情をピクリとも動かさず、僕を見下ろしていた。
そしてすぐに僕の腕をつかみ直し、おばさんたちにペコリと頭を下げた。
「すみません。私たちは急ぎ避難をします。
ここで霞に会ったことは誰にも言わないように……。」
「ええ。菊司さんの事情は聞いているわ。」
「ご迷惑をおかけし、申し訳ございません。」
「これも全て土地神さまが決めたこと。仕方ないのよ。」
おばさんたちは大きく首を横に振り、頭を下げるお父さんの肩を叩いた。
「ほら、行かなきゃいけないんでしょ?」
「霞ちゃん、元気でね。」
おばさんたちは、とても寂しそうに眉を下げる。
するとお父さんはおばさんたちに会釈し、再び僕の腕を強く引っ張って、歩き出した。
「待って!待ってお父さん!」
僕は暴れて、腕を引っ張るお父さんから抜け出そうと藻掻く。
「おじいちゃんは!?診療所の先生は、おじいちゃんに会えたの?お母さんは!?」
ズリズリと引きずられながら、必死におばさんたちに向かって叫ぶ。
おばさんたちは顔を見合わせ、悲しそうに目を伏せた。
そして炎の勢いに隠れるくらい細い声で言った。
「霞ちゃん、ごめんね。私たちには分からないのよ。」
「さあ、早く霞ちゃんもここから逃げなさい。
私たちは大丈夫だから……。」
あまりにも穏やかで、そしてもうどうにもならないことを察しているようなその口調に、僕の胸の奥がギリギリと音を立てた。
「嫌だ。嫌だ!!!」
僕はなんとかお父さんの腕を振り払い、激情のままに走り出した。
お父さんが体を掴もうと手を伸ばすと、僕は即座に術を放つ。
お父さんの影と地面を結びつけると、お父さんはガクンと体が引っ張られたようにその場に倒れ込んだ。
ドスンと大きな音がして、土ぼこりが舞う。
おばさんたちが「きゃあ!」と叫んでいたけれど、僕はもう振り返らなかった。
僕は家へ急いだ。
茶畑の間の道を通り、激しい炎を上げるおじさんとおばさんの家を横目に、お父さんが危ないと言って通らなかった林道を突っ切る。
「霞!待ちなさい!!!」
後ろからお父さんの声が聞こえた。
もう僕の術を解除して追いついてきたらしい。
でもあと少し、もう少しで家なんだ。
家さえ見えれば流石のお父さんも、おじいちゃんとお母さんの避難を手伝うことを考えるはずだ。
「霞!止まれ!!」
お父さんの声は、もうそこまで迫っていた。
家は、間もなく見える。
その時だ、里から臭っていたのと同じ、息が詰まるような、焼け焦げた臭いが鼻の中に入り込む。
赤い炎が、木の上から微かに見えた。
息が苦しくて、足が疲れて思うように動かない。
もう何度も、雪で足を滑らせかけた。
いよいよ、林を抜けた。
家が、僕たちの家が、赤く染まっていた。
赤く激しい炎に包まれ、黒いシルエットのみが僕の目にまっすぐ飛び込んできた。
声が、出ない。
ふらふらと力のない足で、なんとか1歩、また1歩、家に向かって歩き出す。
「霞!!!」
後ろからお父さんの怒鳴り声が飛んだ。
服を掴まれ、無理やり体を持ち上げられて、肩の上に引っかけられた。
お父さんは燃え盛る家になんか目もくれず、再び林道に足を運んだ。
「下ろして!お父さん!!
おじいちゃんとお母さんを助けなきゃ!!」
「霞!!それでお前が死んだらどうするんだ!!
2人なら大丈夫だ。早く逃げないと、取り返しがつかなくなるぞ!!」
僕は今日まで、こんなにお父さんに怒られたことはない。
厳しい声が、僕の頭と胸をグサグサと突き刺した。
なぜ、どうしてお父さんは何も思わないのか。
お父さんはお母さんが大切じゃなかったのか。
悔しくて、悲しくて、涙が溢れて止まらなくない。
僕は無力で、家族も守れない。
何もできない子どもだと、現実が厳しく突きつけられる。
ボロボロと、涙が大きな粒になって地面に落ちた。
お父さんは一度大きなため息を吐いた。
そして、すっかり力をなくした僕を静かに地面に下ろす。
「これ以上手を焼かせるな。
おじいちゃんも、お母さんも、何よりお前の無事を祈っていた。お前が生きなければ、2人の気持ちはどうなる。」
お父さんは静かに諭すように言うと、僕の手を掴み歩き出した。
僕はもう、何も言わなかった。
お父さんはそんな僕をちらりと見つめ、声のトーンをさらに落ち着かせながら言った。
「もう一度、林の中に入ろう。
ついてこれるな?」
僕は頷いた。
お父さんがほっと胸を撫で下ろしたその時、僕の背筋にゾワリとした何かが走った。
氷水より冷たく、夜の闇よりも暗い……これは恐怖だ。
僕は体の震えが止まらなくなった。こんな感覚は生まれて初めてだった。
何かが林の奥にいる。間違いない。
お父さんも林の奥を見つめ、眉間に深くしわを刻んでいた。
そして、強く厳しい声ではっきりと告げた。
「霞、今すぐ走りなさい。
里を出て、トンネルを抜け、その先の茂みの中に隠れるんだ。
トンネルを抜けて、すぐ左側だ。すぐに追いかける。」
お父さんは林の中の気配を探る。
僕は首を横に振った。
そうしないと、おじいちゃんとお母さんみたいに……危ない目に遭うかもしれない。
お父さんの手を引っ張ってでも、一緒に逃げなければならないと思った。
「お父さんも来て!一緒に逃げなきゃ駄目だ!!!」
「霞!!言うことを聞け!!」
お父さんは僕の体を強く突き飛ばした。
僕は雪の上を転がり、ゴチンと頭を強く打った。
お父さんは一瞬僕を悲しそうな瞳で見つめ、すぐに視線を林の中に戻した。
そして懐に手を入れ、何もないところを強く睨みつける。
「早く行け!!!」
これが、お父さんの最期の言葉だった。
林の奥で赤い光が2つ、怪しく光り輝いた。
その瞬間、お父さんはピクリとも動かなくなった。
僕はじっとお父さんの顔を見上げる。
「……ねえ、どうしたの?」
返事はない。
お父さんは、林の中を睨んだまま、微動だに動かなかった。
雪に両手をついて起き上がり、お父さんの腕に触れると、肌は氷のように冷たくて、そして岩のように硬くなっていた。
そして、お父さんの体からみるみる色が抜け落ちた。
紫色の狩衣、日焼けのない肌色、黒い髪、黒い瞳、すべてが灰色一色に塗り替わっていく。
「うわあああああああああああ!!!!!!」
僕は叫んだ。
腰を抜かし、雪の中に体を沈める。
胸が痛い。目の前がぐわんぐわんと揺れる。
心が、真っ2つにちぎれてしまったようだ。
頭の中が真っ白で、涙すら出てこない。
奥歯がガタガタと震える。
頭が動かない、体が動かない。
完全にパニックに陥っていた。
そして、お父さんが睨みつけていた林から、1人の女がぬらりと顔を出した。
髪が長く、真っ白な和服に身を包む1人の女性。
顔は醜く、肌が岩のようにデコボコして雪のように白い。
そして、真っ赤な閃光を放つ瞳がギョロリと僕に向けられた。
その瞬間、お父さんの体が淡く光り輝いた。
光はお父さんの体を抜け出し、人の体を形作り、真っ直ぐ女に向かう。
人型は、透明に限りなく近い白くぼやけた姿で、女の中に取り憑いた。
その時一瞬見えた横顔は、お父さんみたいな顔立ちをしていた。
女の体は瞬く間に白い炎に包まれた。
炎から、微かにお父さんの匂いと温かさを感じる。
僕は、冷たく濡れた地面に尻を付けたまま、呆然と見つめていた。
やがて火は消え、女は灰になって崩れた。
僕は、林道にたった1人残された。
静かだ。何も聞こえない。
空気が冷たい、寒い、怖い……。
そして、目の前に佇むお父さんの姿。
女が消えた今も、お父さんは石のように白く固まったまま、動かない。
お父さんは、死んでしまったのだろうか――。
徐々に現実が、頭の中に強く反響する。
目から涙が溢れ出し、ボロボロと頬を濡らす。
「お父さん、お父さん!……返事をしてよ!!!!」
僕は叫んだ。
心の中に反して、涙は熱く燃えているかのようだった。
目の奥がジリジリと焼けて、次から次に涙が溢れて止まらない。
その時だ。茂みから再び物音がした。
僕は全身をビクッと跳ねさせ、凝視した。
「ママ……?」
茂みから、小さな女の子が現れた。
背丈は僕と同じくらいか、それより少し小さいかもしれない。
彼女は、お父さんを見上げ、そして視線を僕に向ける。
あまりの恐怖に、涙がすっと引っ込んだ。
目が、赤かったのだ。
リンゴのように、さくらんぼのように、鮮烈な赤が僕を睨んでいる。
あの女と同じ光を宿している。
すぐに理解した。コイツはあの女の娘だと。
お父さんを殺した目と同じ目を有している。
彼女は、茂みの中の灰を見つけた。
それを一掴みすると、地面にハラハラと落とす。
手にべっとりついたものをふうっと吹いて、それでも残ったものを薄汚れたワンピースで拭う。
「死んじゃった。」
彼女は言った。
悲観することもなく、激怒するわけでもなく、淡々と告げる。
「君が殺したの?」
彼女は尋ねた。
僕は慌てて立ち上がり、首を振る。
「違う!お父さんがやった……。」
「どうやって?死んでるのに。」
彼女はお父さんに再び視線を向けた。
「死んだあと、霊体みたいなのが、お前の母親を殺したんだ!」
僕は憎しみのまま彼女を睨む。
殺さなきゃいけない。こいつは、放っておけない。
放っておいたら、里の人たちが、お父さんみたいになってしまう……そう思えてならなかった。
いや、そうなってしまうに違いない。
「ねえ。君はどうして死なないの?」
彼女は再び尋ねた。
僕の殺意になんか動じず、淡々とマイペースで、僕の中に異なる種類の苛立ちが湧き上がる。
「……何の話だ。殺されなきゃ僕は死なない。」
「殺してるわ、何回も。
でも死なない。ママがやったときみたいにできない。」
彼女の赤い瞳が、まっすぐ僕を捕らえて離さない。
背筋を駆け抜ける不快感に、顔の筋肉がピクリと動いた。
「お前は、あの女の、娘なんだな。」
「あの女……ええ、そうね。あなたのパパを殺し、殺された女の娘。」
僕はその言葉を受け、即座に術を放った。
彼女の影から黒い鞭のようなものが飛び出し、彼女を縛り上げる。
「きゃあ!!何するの!離して!」
「お前を殺す。」
「なんで?」
彼女は、本当に何もわからないと言った顔をしていた。
「お前も、あの目を持っているんだろ。
お父さんを石にしたのと同じ目を!」
「ええ、持っているわ。
だから殺すというの?」
僕は何も言わず、剣印を結び、彼女に向ける。
あとは、術を唱えれば、彼女は死ぬ。
しかし、体が動かなかった。
鞭で縛られた彼女の体が、僕の目に突き刺さる。
細く痩せ細った手足、ガリガリの胴体、小さな丸い頭、大きくつぶらで純真な瞳。
子どもだ。自分と同じ、それより少し小さな子供だ。
「なんで、僕たちを殺そうとしたの。どうして里に来たの。」
彼女は、ぱちくりと瞬きをした。
「連れてこられたの。人間たちに捕まって。
顔に袋をかぶせられて、抵抗もできずに。
そしてこの地に放たれた。あいつらの指示に従わないといけなかった。」
僕は、それを聞いて手を下ろした。
どうしてかわからない。ただ、殺せないと思った。
たとえ親の仇と同じ目を持っているのだとしても。
それは、彼女にとっても同じだろう。僕は彼女の母を殺した男の息子で、同じ力を持つ陰陽師だ。
彼女も僕を恨んでいるに違いない。
なのに、一方的に彼女を殺すのは、彼女たちを捕らえ村に火を放った奴らと同じになるんじゃないか。
そう思うと、術を唱えることができなくなった。
「殺さないの?」
「殺さない。殺せない。」
「……なんで。」
「僕の式神にしようかと思って」
彼女は大きな目を丸めた。
「お前、名前は?」
「名前は、ない。」
困惑した様子で彼女は答える。
「じゃあ僕が名付ける。いいな?」
彼女は葛藤しているように見えた。
僕の目をまっすぐ見つめる。
その表情には明確な嫌悪が浮かんでいた。
少しして、彼女は一度まばたきをして、顔を伏せる。
「……なんて名前にするの。」
彼女の問いに、僕はハッとした。
そして腕を組み、必死に考えた。
ぼんやりと空を見上げ、月を見つめる。
「……おぼろ。朧だ。」
彼女は顔を上げ、僕の目をまっすぐ見つめた。
それからまた少しの沈黙。
彼女は葛藤し、ヒクヒクと顔の筋肉を動かして、ものすごく嫌な顔をしながらようやく頷いた。
「いいよ。式神になってあげる。」
「決まりだ。」
僕は術を唱え、指で彼女の首を切るように印を結ぶ。
彼女の首に、術式が刻まれた。
赤く焼きつくように文字が燃え、ちりちりと肌を焦がし、溶けるように消えていった。……成功だ。
しかし、僕の胸の中のくすぶりは、決して晴れることはなかった。
炭のように黒いモヤを抱え、目を閉じる。
「……行こう。里を出るから、付いてきて。」
僕は彼女の、朧の拘束を解き、手を差し出した。
朧は、艶々と煌めく瞳で僕をまっすぐ見上げる。
「君の名前は?」
「霞。晴藤霞。」
答えると、朧は手をつかみ、立ち上がった。
その瞬間、里の方から男の野太い声が聞こえてきた。
知らない声だった。それに1人じゃない……複数いる。
「ちゃんと仕留めたんだろうな?」
「分からねえ。」
「そもそも、本当にこっちにいるのか?
とっくに里を出たんじゃ……。」
「先生が自宅に向かったって言ってんだ。間違いない。」
男たちはこちらへ向かっている。
それに、会話の内容からして、明らかに僕とお父さんの話をしている。マズイ。
そこに突然、背中から声がした。
「霞。」と誰かが名を呼んだ。
僕はビックリして、全身の細胞が飛び上がる思いをした。
朧が呼んだのかと思って振り向くが、彼女もまた自分より後ろを見つめている。
暗い林道のずっと向こう、燃え盛る炎の前に誰かがいる。
「霞や。」
その誰かは、もう一度僕の名を呼んだ。
今度ははっきりと分かった。
ずっと、ずっと、僕が求めていた声だった。
「……おじいちゃん!?」
おじいちゃんは着物の裾を滑らかに揺らしながら、すたすたと軽い足取りでやってきた。
呪詛返しにあって、倒れたとは思えないくらい、とびきり元気な様子だった。
「霞。付いてきなさい。外に出よう。」
おじいちゃんは僕の横をすっと通り過ぎて、何のためらいもなく茂みの中に入っていく。
僕は慌てて後を追い、朧もそれに続いた。
「待って!おじいちゃん!!
生きてたの?お母さんは無事?どこにいるの?」
おじいちゃんは答えず、雪の中をどんどん進んでいく。
そして質問の答えの代わりなのか、悲しそうな声で謝った。
「お前には、これからたくさんの苦労をかけるね。
芙蓉さんにも、申し訳ないと思っているよ。」
「お父さんは、もう元に戻らないの?
治す方法はないの?」
「石になった人はね、もう戻らないんだ。
残念だけどね、そういう運命だったと思うしかないんだよ。」
ずくんと、胸の中に1つ重りが落とされたような気がした。
それでも僕は質問を続ける。
「何で、どうして、お父さんは死ななきゃいけないの?
どうして里は襲われてるの?おじいちゃんは何か知ってるの?」
おじいちゃんは、また何も答えなかった。
「霞。式神が出来たんだね。」
「おじいちゃん、どうして答えてくれないの?」
「霞。」
おじいちゃんは首を軽くこちらに傾けた。
「まだお前は、何かを背負う歳じゃない。
里のことは、全部私の責任だ。
お前は、巻き込まれただけだよ。」
「話すつもりはないってこと?」
「そうだね。お前がちゃんと自分で考えて、自分で決められるようになったら教えようかね。
そうじゃないと、お前は私たちのために戦おうとするだろう?」
おじいちゃんは優しい声で諭すように言った。
それが、話をはぐらかされているようでたまらなかった。
「どういうこと?僕だってちゃんと考えられるよ!」
声を荒げても、おじいちゃんは飄々として、笑みを深めるだけだった。
「お前が、お酒が飲めるようになって、タバコも吸えるようになってからかな。まだお前には早いよ。」
おじいちゃんそう言って、ふと朧に視線を移した。
「ところで、その式神、名前は何というんだい?」
「朧だよ。」
「そうかい。霞ももう立派な陰陽師だなあ。」
おじいちゃんは、天を仰ぎ、それから足を止め、くるりと僕たちを向いた。
いつのまにか、その表情に笑みはない。
目の前に立つ人が本当におじいちゃんかと疑うような、厳しく、冷酷で、暗い瞳の色をしていた。
「いいか、霞。
私の最後の教えだ。」
「……最後?」
「ああ。そうさ。よくお聞き。」
おじいちゃんは、ぼくの目をまっすぐ見つめた。
「決して、彼女に入れ込みすぎてはいけないよ。
彼女は人ではない。生き方も、考え方もまるで私たちとは違う。
彼女と真の意味で心を通わせることは永久に不可能だ。」
おじいちゃんのはっきりとした鋭い声は、まっすぐ僕の胸に入り、ストンと落ちた。
僕は一度朧を見つめ、頷いた。
「……そんなこと、僕はしないよ。」
それは確かに、僕の本心だった。
そういうと、おじいちゃんは再び温かい笑顔に戻る。
「いいこだ。絶対に忘れるんじゃないよ。
それじゃあ、出発しよう。
もうすぐ林を抜ける。」
再び僕たちは歩き出した。
林を抜けて、炎を巻き上げる家を見ながら里を歩き、あっけなく里の出口に着いた。
おじいちゃんはそこで足を止めた。
「さあ、お行き。」
「おじいちゃんは?おじいちゃんも来るよね?」
「私は、やることがある。
それに里を出ることは、もうできないんだ。」
「どうして?どういう意味?」
そう尋ねると、おじいちゃんは薄く笑って、口を閉ざした。
すると、ずっと静観していた朧がようやく口を開いた。
「霊体だからよ。この里は特別霊力が強い。
だから彼は霊体を保っていられる。でも、このトンネルの中に入ったらそれもできなくなる。」
「霊体?どういうこと?だっておじいちゃんはここに居るのに。」
僕は朧を見た。
胸に、ざらりとした何かが触れた気がした。
「居ないわ。そこに居るのはただの霊よ。」
「うそだ、嘘だ!だって、僕はお化けは見えないんだ。見えるわけがない。」
「……見えない?霊が見えない?」
朧は信じられないものを見るように言った。
「見たくないだけじゃないの?」
僕は、この時彼女が何を言っているのか理解できなかった。
だって、僕はほとんど霊を見たことがない。
これまで、ほんの1回しか……。
だからおじいちゃんが霊だなんてありえない。
僕が見えるんだから、生きているに決まってる。
僕がもう一度反論しようと口を開きかけた時、また遠くから知らない男たちの声が聞こえた。
林で聞こえた声と全く同じだ。追ってきたんだ。
おじいちゃんはくるりと僕たちに背を向けた。
「私には、もう時間稼ぎしかできない。
急いでトンネルを抜け、茂みに隠れるんだ。
恐らく3分程度しか持たないだろう。」
「……そんな!」
「さあ早く!!」
おじいちゃんは厳しく叱責した。
大きな声に怯んでいると、朧が僕の手を引き走り出した。
「おじいちゃん!おじいちゃん!!!」
朧はお父さんよりもずっと強い力で僕の腕を引っ張った。
おじいちゃんの背中はどんどん遠ざかる。
僕の目からまた涙が溢れてきた。
トンネルのオレンジ色の光がどんどん通り過ぎていく。
1つ、また1つと過ぎていく度に、おじいちゃんの存在が、消えてしまうような気がした。
本当に、本当に、おじいちゃんは霊体だったのだろうか。
もうそんな事考えたくないのに、考えずにはいられなかった。
もう、おじいちゃんの姿は見えない。
確かめる術はどこにもない。
悔しさと、悲しさで、全身の血が煮えるようだった。
僕は奥歯を噛みしめ、前を向く。
朧はちらりと僕を見て、再び前を向き直した。
僕らの間に言葉はなかった。
ただ、ただ、前を向き、見えない出口に向かって走り続けた――。




