慟哭の彼方 2
トンネルを抜けた瞬間、空気が変わった。
吹雪手前の荒れた空の下を歩んでいたはずなのに、目の前に広がっていたのは、まるで別の世界だった。
風は凪ぎ、空には一片の雲もない。
星がこぼれ落ちそうなほど明るく瞬き、淡い光が山の稜線をかすかに照らしていた。
けれど周囲を見渡せば、山の上には黒く重たい雲が輪を描くように取り巻いている。
この里の上空だけが、不自然なまでにぽっかりと空いていた。
そして視線を地上に移すと、そこにもまた、奇妙な静けさが広がっていた。
里は、全体的に薄っすらとモヤに包まれていた。
白く霧のようでいて、霧よりもっと霞がかったモヤだ。
それを思い切り吸い込むと、思いの外透き通っていて、肺の中に気持ちよく広がる。
そして、モヤはどこか懐かしい匂いがしていた。
霞は1つ頷き、足を前に進める。
「大丈夫だ。強い霊力に満ちているが、お前に害はない。」
モヤの中に入ると、一気に視界が白く霞んだ。
それは不思議と不快感はなく、水のようにしっとりとしているのに、体も服もぬれることはなかった。
霞は見えない道をひたすら真っすぐ進んだ。
このモヤがどこまで続くのか、ここは本当に里の中なのか、何もわからない。
まるでこの世ではないどこかに誘い込まれるようで、幻想的であり、少し恐ろしさも滲んでいた。
「どこまで続くの?」
朧は少し不安そうな声を出した。
霞は答えなかった。
答えが分からないからだ。しかし不安はなかった。
何かに導かれるような、目の前に誰かが歩いているような、不思議な感覚に見舞われながら、ただひたすら歩いた。
距離にしてみればほんの50メートルほどだっただろう。
しかし、途方もなく長い50メートルだった。
ある時突然、視界は開けた。
モヤが消え、体にまとわりついたしっとりと濡れた感触もない。
そして目の前に広がる、懐かしい故郷。
煤けて黒い壁、むき出しの柱……家の形をした建物は、どこにもない。
道端には見知った顔の人が倒れている。
血は赤く、破れた服の内側には弾痕。目を大きく見開き、彼は動かなくなっていた。
別の場所では、真っ黒焦げになった人が建物の中で転がり、また別の場所では頭に穴を開けて倒れている人。
その誰も彼もが、かつて霞を我が子のように可愛がってくれた、優しい里の住人たちだ。
家も、人も、あの日のまま……世界から取り残されたように現存している。
霞は胸が張り裂けそうだった。
見たくもないものが、あちこちに転がっている。
恋しくてやまない故郷の風景はどこにも存在しない。
瓦礫の山を越え、煤けた家の脇を通り、道に倒れる人を踏んでしまわないように大きく迂回する。
汗が滲み、呼吸が浅くなる。
目の端に薄っすらと涙が滲んだ。
それでも奥歯を噛み締め、前に進む。
しばらく進むと川に差し掛かる。
橋の長さは大きな足で3歩ほど歩めば渡りきれるような、小さな小さな川だ。
そこを越えると、すぐに茶畑が見える。
いつも霞を家に招き、お茶やお菓子をご馳走してくれた、優しいおじさんとおばさんが暮らす家がある。
その畑の間を通り抜け、林道を突っ切り、その先に霞が生まれた時から10年間暮らしていた家がある。
霞はちくちくとした胸の痛みを堪えながら、茶畑のある坂道を上る。
畑の土は黒く、たっぷりとした雪に覆われている。作物はない。
頭の中に、たくさんの映像がよみがえる。
1歩、また1歩と進むたび、たくさんの感情が溢れ出す。
霞はふと、後ろを振り向いた。
ほんの少し里より高い場所に位置するこの畑は、里を広く見渡すことができる。
黄昏時の、ぼやけた紫色に染まる空……ちょうど今と同じ空だ。
外灯は点き、あちこちの家が徐々に明かりを灯しだし、里は温かな光りに包まれる。
霞は、その景色が大好きだった。
今眼前に広がるのは、真っ黒に焦げた建物の柱と外壁、そして崩れた家屋。
美しく、温かいあの景色は、もうどこにもない。
その時、畑の向こうから何かが動く気配がした。
霞は咄嗟に振り向き、朧を背負う手に力を込めた。
しかし、道へ飛び込んできたのは小さな獣だ。
「ワンワン!ワン!!」
真っ黒の、ボサボサの毛並みの獣はそう鳴いた。
尻尾はくるんと巻き、耳はピンと立っており、柴犬のような特徴をしている。
霞は全身を竦み上がらせ、足元でしっぽを振る犬を凝視した。
犬は前足を霞の足に引っ掛け、ぷらぷらと揺れる朧の靴の匂いを嗅いでいる。
尻尾は激しく揺れ、2人に強い興味を示しているらしい。
そして畑の向こうから続々と犬がやってきた。
数は合計8頭くらいだろうか。
吠えたり、匂いを嗅いだり、手を舐めたり、2人を囲って好き放題している。
霞は変わらずその場で直立したままだ。
悲鳴も上げず、身動きもせず、青い顔でびっしょり汗を流し、足元に群がる犬を見つめ続ける。
朧はニンマリと笑みを浮かべた。
「良かったじゃん、懐かれてる。」
「よくない……。」
霞は細い声で言った。
霞は幼い頃から犬という生き物が大嫌いだった。
霞がまだ里に暮らしていた頃、ここには源五郎という黒い柴犬が住んでいた。
その犬は家の前を通るものを誰彼構わず吠えまくる立派な番犬で、主である林さんに大層可愛がられていた。
特に霞には当たりの強い犬で、霞が家の近くや、散歩中の源五郎とすれ違うと、顔をしわくちゃにして、しっぽを緩く振りながらギャンギャンと吠えまくっていた。
まるで霞が自分に危害を与える存在であるかのように。
さすがに林さんも手を焼き、霞も犬は怖い存在として心にしっかり焼き付けられてしまった。
霞の祖父、菊司は源五郎のことを、利口で感受性の高い素晴らしい犬だと称していた。
恐らく源五郎が霞を敵視するのは、霞が保有する霊力が原因であり、だから決して霞が悪いわけではないと言っていた。
実際に霞の父である芙蓉や、菊司も源五郎にはよく吠えられたという。
だからといって、霞が彼のことを好きになる日は来なかった。
霞はふと、恐怖など忘れたように身をかがめ、犬たちの顔をじっと見つめた。
「お前たち、まさか源五郎の子どもか?」
犬は霞の関心が向いたことを大いに喜び、霞に飛びかかり、顔中をベロベロ舐め始めた。
霞は悲鳴をあげ、畑の柵まで飛び退いた。
朧がゲラゲラと大きく笑う。
「ああくそ、本当にお前らが嫌いだ。」
霞は全身を粟立たせ、逃げ出した。
決して走らず、犬たちを刺激しないように、ゆっくり慎重に坂道を歩む。
時折犬が足元にじゃれついて行く手を阻み、霞は蹴らないように踏まないように、探り探り足を進めた。
しばらくすると、犬たちは足を止めた。
林に入る手前で彼らは一箇所に集まり、霞をじっと見上げる。
まるでそこに見えない壁があるかのように、1歩たりともこちらに足を踏み入れようとしない。
霞はほっと息を吐き、足早に林道へ進んだ。
遠くで聞こえる犬の鳴き声に、振り返ることはしない。
ただほんの少し、胸の奥の小さな隙間が疼くような感覚を覚えていた。
*
林道は酷く静かで、虚ろな空気に満たされていた。
澄んだ空気は冷たく、簡単に喉を凍らせる。息を吐けば白い息が立ち上り、ちらほらと降り始めた雪の中に溶けていく。
いつの間にか、犬の声が聞こえなくなっていた。
今ここにあるのは、2人の小さな息づかいと、雪を踏みしめる1つの足音のみ。静寂が1つの層となって、この林一帯に重くのしかかっているようだった。
もうすぐ家に着く。
その前に、霞には向き合わなければならない現実があった。
心臓の鼓動が速くなる。強く激しく胸を打つ。
息が荒くなる。息を吸うのがうまく出来ない。
息が詰まり、何度か激しく咳き込んだ。
そうこうしているうちに、霞はいよいよ辿り着いた。
無慈悲に、残酷に、今もその現実がそこに残されている。
あの日から、時が止まったかのように、彼はそこに居た。
霞の足はなぜか止まらなかった。
見たくないのに行きたくないのに、強い引力で引き寄せられるように、足は止まらない。
霞は目の前に佇む石像を見つめた。
1人の若い青年の石像だ。
自分より目の位置や肩の位置が高い。
頭の天辺を見上げ、霞はそっと目を細くした。
「……こんなに、背が高かったんだな。」
声が、空虚な林の中に溶けて消えた。
それから、改めて石像を観察するように見つめた。
彼の目は林の中を強く睨みつけ、頬を引きつらせ、何かを叫んでいる。
左手は懐に入り、右手は何かを守るように、下り道の方に伸びている。
霞は彼の目を見つめ、煮えるように熱い涙をこぼした。
嗚咽をこぼし、頭を垂れさせ、顔をしわくちゃにして、涙も鼻水も雪の上にぼたぼたと溢す。
朧は背中にしがみつき、そっと茂みの中を見つめた。
そこには不思議と雪がなく、代わりに真っ白の灰が、今も変わらずそこに積もっていた。
朧は、彼のように涙を流すことができなかった。
なぜ霞はこんなに涙を流すことができるのだろうと、疑問にさえ思う。
それでも何故か、どうしてか……霞の背中を通して、小さなナイフが何回も刺すような鋭い痛みが、真っすぐ朧の胸に染み込んでくる気がした。
霞はついに、地面に膝を付いた。
素手で雪をつかみ、指先を真っ赤に染め上げ、小さく肩を震わせる。
朧はもぞもぞと背中から降りて、彼と背中合わせになるように座り込み、薄灰色の空を見上げた。
薄い雲に包まれた月が、星が、見守るように2人を照らしている。
朧はポツリとつぶやいた。
「聞かせて、あなたの話。」
霞はダウンコートの内側のスエットで顔を拭い、首を横に振った。
「俺は……っ、耐えられない。」
「耐えられるわ。今日は私がいるもの。
それに、ここには誰もいないわ。
だから聞かせて……。」
霞は小さく首を傾け、朧の顔を見つめる。
顔は醜く歪み、頬はべしょべしょに濡れ、とても他人が見れた顔ではない。
それでも朧は、ポケットからレースのハンカチを出し、顔をそっと拭う。
「お前、歳はいくつだっけ。」
霞は目を伏せ、身を任せながら尋ねると、朧は視線を宙に浮かべる。
「分からない。あなたと会うまで、時間の感覚なんて無かったもの。
前もあなたとこの話をしたわ。」
「覚えてねえや。」
霞は小さく笑った。
「私は覚えてる。私の過去の記憶をいくつか伝えたら、あなたが教えてくれたわ。私の年齢。」
「いくつ?」
「今はおそらく、25歳くらいよ。」
そう言うと、霞は酷く驚いたような顔をして、くしゃりと歯を見せ、子どもっぽく笑った。
「全然歳上じゃん。」
霞は朧の腕を引き、膝の上に小さな体を乗せ、力強く抱きしめた。
朧は火が付いたように顔を赤くし、恐る恐る霞の背に手を伸ばす。
「慰めてよ、お姉さん。」
霞は濡れた瞼を朧の肩に擦り付け、囁いた。
「……聞かせてくれるの?」
朧の声に、霞は小さく頷き、ぽつりぽつりと語り始めた。




