この心は、あなたには分からない
ひたすら感情に振り回される霞。
朧の胸にある感情が蓄積されていく。
高く澄み渡った青い空の下、茜色のトンボが低く、目の前を通り過ぎていった。
ここは、山間部に位置する平野。
大きな街を出て林を抜け、丸3日が経ち、とうとう太陽が西に傾き始めた頃だった。
遠目にぽつんとした集落が目に入り、霞は安堵の息をついた。
「やっと見えた。」
くしゃくしゃの地図を懐にしまい、大きな歩幅で歩みを進める。
「朧、急ぐぞ。腹が減った。」
「ごはん、久しぶり。」
朧はスキップを踏むように軽やかに地面を蹴り、ふわりと体を浮かび上がらせた。
霞と視線の高さを合わせ、口元に小さく笑みを浮かべる。
「肉食べたい。」
「ずっと携帯食だったからな。
焼肉食って、酔っ払いから金巻き上げるぞ。」
霞が意地悪く笑みを浮かべると、朧は小さく鼻で笑った。
「イカサマ?」
「錬金術だよ。」
霞は人さし指を唇に添え、ウインクをした。
それから5分も経たないうちに、2人は村の入り口にたどり着いた。
赤黄色鮮やかな葉っぱに包まれた木々。
灰色の瓦屋根の一軒家がぽつぽつと並び、こじんまりとした田畑があちこちに点在している。
田畑を結ぶよう整備された小さな用水路は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
どこかで牛がのんきに間延びした鳴き声を上げ、向こうの道で元気に猫が走り抜けていくのが見えた。
村人の姿は、今のところない。
そして、古びた木でできた木製の門には、歪に黄色いテープが巻かれていた。
門の出入り口を防ぐように、バツ印を書くように、端から端までびっちりと巻き付けられている。
「なんだこれは。」
霞は眉を顰めた。
「ねえ、霞。」
少し後ろで朧の声がした。
朧は地面に打ち込まれて固定された看板を見下ろしており、霞はその隣に駆け寄って、文字を追った。
『疫病蔓延につき封鎖中。』
「なんだこれは。」
「さあ。」
霞は朧を見つめ、朧は肩を竦ませた。
「でも、すごく瘴気が濃い。
それに混じって微かに、あなたのタバコと同じ匂いがする。」
朧はちらりと霞の顔を伺った。
「へえ。爺さんがここに……ってことね。
ならこの疫病蔓延も、妖怪どもの仕業か?」
「あるいは、本当に病気かも。」
霞は腕を組み、目を閉じ、静かに唸った。
そしてすぐに顔を上げ、意気揚々バリケードをくぐり始める。
「難しいことは分かんねえし、行くぞ!」
「そうこなくちゃ。」
朧は地面に足をつけ、霞の動きを真似ていそいそとバリケードをくぐる。
バリケードを越え、膝についた土を払い、立ち上がったその瞬間、霞の肩にずしりと重たい何かがのしかかった。
霞はげんなりと表情を歪め、ホコリを落とすように左右の肩を手で払う。
「瘴気が濃すぎる。」
2人は丁寧に整備された農道を歩いた。
道端の用水路からさらさらと水が流れ、茂みからは虫が朗らかに鳴き、牛が牧草をむしゃむしゃと食べている。家畜特有の匂いがツンと漂ってきた。
人の気配はない。
見渡す限りの家々は扉も窓も完全に閉め切っていた。
不気味なほどに静寂な村だった。
風は無く、草木が揺れることもなければ、空に浮かぶ雲が動く気配もない。
見えない靄が辺りを包んでいるかのようで、それを吸い込むたび、肺の奥にゆっくりと濁りが沈んでいく気がした。
霞は首を回し、肩を回し、陰鬱な顔つきで歩みを進める。
一方朧は足を止め、あたりを見渡した。
「……私、ここ好きかも。」
「おい。」
霞が睨むと、朧は笑って首を傾げた。
「だって、力がすごく湧いてくる。喉が焼けるように熱くて、指先がじんじんしてる。気持ちいい。」
「気持ち悪いんだよ、俺は。」
霞は眉を顰め、朧の手を引いた。
しばらく歩くと、村の中心部に辿り着いたらしく、役場や郵便局、市場などが広場を中心に集まっている。
人の姿はないものの、役場にのみ明かりが灯り、薄く窓が空いている部屋が確認できた。
霞たちは真っ直ぐそこに向かい、玄関の両開き扉に手をかけた。鍵は掛かっておらず、難なく開いた。
受付には、人に代わって猫が1匹座っていた。
真っ黒で艶々とした毛並みで、猫は来訪者に一切目もくれず、ペロペロと自身の右前脚を舐めていた。
「すみません!誰かいませんか?」
霞は背筋を伸ばし、受付の奥に置かれた衝立の、さらにその向こうを覗き見ようと、体を左右に揺らした。
すると、部屋の奥からゴトゴトと物音がした。
「はい、ただいま……。」
そうして、嗄れた声と共に、男性が1人受付まで現れた。男性は2人の来訪者を見るなり目を大きく丸めた。
「すみません、俺たちは偶然この村に立ち寄っただけなんですけど、村の入り口の看板を見て……。」
霞は上手に困り顔を演出し、爽やかな好青年のような声色で話し始めた。
朧は胡散臭いものを見る目で霞を見上げる。
男性はかけた眼鏡のツルを摘み、ピントを合わせるように前後に揺らし、ジトリと目を細め霞を凝視した。
男性の瞳がみるみる縮まり、微かに震えた声を上げた。
「き、菊司さん……?まさか晴藤菊司さんかい!?」
「は?」
霞は目を丸めた。
「いや、そんなはずはない。菊司さんは私と同い年だ。なら君は、菊司さんの息子さんかい?」
「え……いや。晴藤菊司は俺の祖父ですけど。」
「ああ!そうかいそうかい!
いやあ、道理でよく似ている……いや生き写しだ!
名前は?」
「霞です。爺さんに会ったことがあるんですね。」
霞は疑問ではなく、確信したように告げた。
「ああそうさ。あの時も彼は村が大変な時に現れてね。こうして村に疫病が蔓延して――」
男性は言葉の途中、ハッとしたように息を詰まらせた。
「ということは、やはり、奴の仕業か?
そうなのかい?菊……霞くん。」
「まだ見ていないので何とも言えませんが。
よければその時のことと、現在の状況をお聞かせ願えませんか?」
「ああ、勿論だとも。
奥に来なさい。お茶を用意しよう。」
男性は、カウンターの戸を開け2人を受付の内側へ招き入れた。
目がチカチカする程に白い蛍光灯の下、足元には無数のダンボールが山積みになり、棚の上にはポットや急須、パーティーサイズのお菓子袋が並び、デスクの上にはパソコンが何台も配置され、書類がバラバラと散らばっていた。
男性はデスクのすき間を越えた先にある、村長室と書かれた扉を開けた。
「さあ、入って。」
「お邪魔します。」
「します。」
霞は軽く頭を下げながら部屋に入り、朧は無遠慮に部屋の中をキョロキョロ見渡しながらあとに続いた。
「お茶を持ってきますからどうぞ寛いでください。」
そう言って男性は、一度村長室をあとにした。
2人はひとまず、目の前にある革張りのソファーに腰を下ろし、特に会話を交わすわけでもなく部屋を見入っていた。
村長室の中は、古びた外観からは想像できないほど整然としていた。
正面奥には大きなデスクがあり、すぐ側の壁沿いには重厚な木製の書棚が据えられている。
書棚の中には背表紙が色あせた分厚い書物や、金色の文字が浮かぶ額に入った表彰状のようなものが立てかけられていた。
デスクの背後の窓からは午後の光が斜めに差し込んでいた。
レースのカーテンは脇に寄せられ、窓はわずかに開かれている。
風はないはずなのに、どこからともなく入り込む空気が、書類の端をそっとめくった。
デスクの手前には、今霞たちが座っている黒い革張りのソファーが向かい合って置かれ、間にはガラス天板の大きなテーブル。
ソファーの革はところどころひび割れていたが、深く腰をかけると重みを軽々と吸い込む柔らかさがあった。
部屋の隅には、しっかりとした造りの神棚が据えられていた。
その中央には、1枚の白い札が飾られている。
それは年季が入り、黄色く色褪せていた。
しかし札全体には、どことなく不思議な力がまだ宿っているようだった。
墨で書かれた文字はすでに読み取りづらく、装飾も簡素なものだが、逆にそれが異質な存在感を放っている。
「……あれ、まだ効いてるんだな。」
霞が小さく呟く。
「えぇ。あの札を中心に、一定範囲内に魔が入り込まないようになっている。私も、彼の許しがなければ弾き飛ばされていたでしょうね。」
「おそらくあの受付カウンターから先だな。半径15mってとこかな。」
霞はどこか心を奪われるような目で札を見つめ、しばらくして再び視線を正面に戻した。
そこで丁度、村長室の扉が開いた。
「おまたせしました〜!」
男性がお茶が入ったコップを盆に3つ乗せ、部屋に入ってきた。
「すみません。しばらく役場に客なんてないものですから、手間取ってしまいました。」
「いえ、ありがとうございます。」
霞は軽く頭を下げながらお茶を受け取った。
朧は無言で受け取ったお茶に口をつけ、グビグビと一気に飲み干した。
「さてさて、何からお話しましょうか。
ああまずは自己紹介を。私、この村の村長を務めております、大貫です。」
「大貫さん。よろしくお願いします。
俺は晴藤霞、こいつは朧です。」
霞は簡単に会釈をし、朧は霞に肘を突かれて軽く頭を下げた。
「朧……ちゃんでいいのかな?よろしくお願いしますね。」
大貫村長は眼鏡をカチャカチャと揺らしながら朧を見つめた。
「それじゃあ、何からお話しようかねえ。
今村で起きていることと、昔のこと、それから晴藤菊司さんのこと、菊司さんのことは特に知りたいんじゃないかい?」
「ええ。聞かせてください。」
「菊司さんはね、村が大変な時に突然現れた。
あの時も疫病が蔓延して、村は封鎖され、健康な人はとっくに近くの町に避難して、この村には医者と病人しか居なくなっていた。私もその1人だった。
そこに彼がやって来た。」
大貫村長はゆったりとソファーにもたれ、遠くを見つめる目で神棚を見た。
「彼が来てからはあっという間だった。
疫病の原因は細菌でもウイルスでもなく、妖怪の仕業だと言ってね。村の中からそいつを見つけ出して、香炉の中に閉じ込め封印した。
その瞬間……比喩ではなく本当にその瞬間だ。私たちは突然病から解放された。軽症のものから、死にかけていたものまで、等しくだ。」
大貫村長は口元に笑みを浮かべ、やや興奮したように顔を赤くし、声がさらに大きくなった。
「あんな人には初めて会ったよ!陰陽師だと名乗っていた。生まれた時から霊が見え、それらを払うことができるのだと。
君も、そういうのが見えるんだね?」
「ま、まあ。爺さんほどじゃないですけど。」
霞は額からたらりと汗を流しながらぎこちなく笑った。
朧は誰にも聞こえないような声で「嘘つき。」とボヤく。
「それから後は、そうだねえ。村に祠を作ってね、その中に妖怪を封じ込めた香炉を置き、菊司さんからいただいたお札を貼って、厳重に管理していたよ。
ほら、あの神棚にあるのも同じ時にいただいたんだ。
神棚のは何かを封じるための札ではなく、寄せ付けない為のものだと言っていたよ。」
霞はハッとしたように神棚を見上げた。
懐かしむように、微かに瞳を潤ませ、霞は小さく笑みを浮かべた。
「あれを、爺さんが。」
「そうだよ。あの時生きていた者たちはみんなその札を何枚も貰った。まあ、みんなが今でもこうして飾っているかは分からないがね。」
大貫村長は柔らかく目を細め、お茶に口をつけた。
「菊司さんは元気かい?」
「……5年前に亡くなりました。」
霞は視線を机に落とした。
「……そうかい。悪いことを聞いたね。
そうかい、そうかい。私もこんなに年を取った。いつ死んでもおかしくないくらいに。」
大貫村長は悲しむような眼差しで神棚を見上げた。
「もしかして、菊司さんが亡くなったことで、あの祠の封印が解けちまったのかい?」
「……そうですね。その可能性は十分にあります。
封印は結局、一時しのぎでしかありません。
術者が死ねば効力は薄まりますし、定期的に術をかけ直さないと長くは持ちません。
でも確かに一度封じ込めることによって、奴らの力が弱り、その後討伐がしやすくなったり、封じている間にその後の対策を考える時間を作る事ができたりと、良いこともあります。」
「ああ。そういやあの時、菊司さんも同じ事を言っていたよ。いずれ、同じことは繰り返されると。
そうだった、だから彼は札を残していったんだったね。
これを家や職場に張る限り、病に侵されることはないと。こんな大切なことを忘れてしまうとはね。」
大貫村長はガックリと肩を落とし、眉間を抑え、ぐりぐりと揉みほぐした。
「その時爺さんは、菊司は何歳だったんですか?」
霞が尋ねると、大貫村長は柔らかくほほ笑み答えた。
「ちょうど、君のお父さんくらいの年齢じゃないかな。
今君は何歳だい?」
「この春、15になりました。」
「ああ、そうかい。そうだね君のお父さんの歳くらいか、それよりもう少し歳を取っていたかもしれないね。」
「村長は今何歳なの?」
朧は何とはなしに尋ねた。
「85だよ。嬢ちゃんは何歳かな?」
「知らない。でも霞よりずっとお姉さんよ。」
「そうかい。嬢ちゃんの方がお姉さんなんだねえ。」
大貫村長はニコニコと笑った。朧の言葉を冗談だと受け取った反応だ。
「大貫さん、爺さんはなぜ討伐しなかったんですか?
その妖怪とやらはどんなやつだったんですか。」
霞は背筋を正し、眉間に小さなシワを刻みながら尋ねた。
「さあね。私たちにその妖怪を見ることはできなかった。奴を見ることができたのは、菊司さんただ1人。
でもね、討伐ができなかった理由は知っている。」
「どうして?」
霞は食い入るように尋ねた。ぼんやりとしていた朧も、視線が大貫村長に向いた。
「大怪我をしていたんだ。あれは酷かった。
村に来るよりずっと前に怪我をしたと言っていたよ。」
「怪我?怪我って?」
大貫村長は再びお茶に口をつけ、表情を曇らせた。
「……襲われたと言っていたよ。
それから逃げる途中、この村に立ち寄ったとも。
隠れる場所を探しているようだった。
だから私は教えたのさ、ここからずっと東北の方に、いくつもいくつも山を越えた先の山間部に忘れ里があると。
この村に、その村出身の娘が居てね。もう何年も前に亡くなったが、その村のことを知る人は本当にわずかだ。」
霞は目を大きく、大きく丸めた。
唇をわずかに震わせ、額に手を当て、瞼をぐっと閉じる。
朧は静かに霞を見つめた。
「その村……、たぶん"僕"の生まれ故郷です。」
「……例の、忘れ里出身の人の息子さんから伝え聞いたんだけどね、村が無くなったんだってね。
生き残った人達は近隣の町や村に逃げ出したと。
菊司さんは、その村にたどり着いたんだね。」
「そして殺された。」
ギリ、と霞は歯を食いしばり、宙を強く睨みつけた。
「……辛い過去を思い出させてしまったね。本当に申し訳ないと思っているよ。」
「……大貫村長。」
霞は狩衣の袖で顔をぐちゃぐちゃに拭い、彼の顔を見据えた。
「その妖怪の討伐を俺にやらせてください。
俺は、俺が、晴藤の最後の生き残りだ。爺さんができなかったことを、俺がやってやる!」
大貫村長は深々と頭を下げ、額が机につきそうなほどまでに身を折った。
霞は一言大貫村長に挨拶をすると席を立ち、朧は慌ててあとに続いた。
村長は2人の背を追いかけるようにして、役場の入り口まで見送りに出る。
「……お気をつけて」
「ええ。」
霞は簡潔に返事をした。
*
外に出ると、日はすっかり落ちていた。
昼間の鮮やかな空は影も形もなく、代わりに、ねっとりと肌にまとわりつくような蒸し暑さだけがそこに残っていた。
外灯が、霞んだ光を足元に落とし、2人の影を細く長く引き伸ばす。
朧は霞の隣に並んで歩いていた。
言葉はなく、ただ同じ歩幅で静かに足を運ぶ。
霞は前を向いたまま、唇を引き結んでいた。
拳を軽く握りしめ、眉間には深くしわが寄っている。
その目には、押し込めた怒りと、古びた悲しみが滲んでいた。
朧は横顔をちらりと見やりながらも、何も言わず、何も問わず、ただその横顔を見つめていた。
表情はいつものように読めない。だがその瞳は、霞の顔に静かに焦点を合わせたままだ。
どこかで蛙が鳴いた。
けれど、それはまるで遠い昔の記憶のように、2人の耳には届いていなかった。
やがて、朧がふと口を開く。
「……まだ怒っているの?」
霞は朧を見下ろした。
氷のように冷たく、夜の闇よりも暗い瞳で、まるで親の仇を見るように、朧の瞳を貫いた。
朧は唇をギュッと噤み、霞の冷えた手をそっと握りしめた。
霞はハッとしたように顔色を変え、朧に握られた手の反対の手で己の顔を覆った。
「悪い。」
「……うん。」
霞は大きく息を吐いて、腰をわずかにかがめ、朧の頬に手を当てた。
「もう俺は、お前を"そういう目"で見るのは辞めたんだ。でも、たまに思い出しちまう。……お前には、関係のないことなのにな。」
「私もあなたも境遇は同じよ。
私は"あの事"を何とも思っていないけど、あなたが私をそういう目で見るなら、私もそうするだけ。
でもあなたは、もう昔のあなたじゃない。
もう、昔の私たちじゃない。」
朧は、さくらんぼ色の唇を柔らかく歪めた。
「相棒なんでしょ。」
「そうだ。お前は俺の大切な相棒だよ。」
霞は朧の頭に優しく触れ、髪を梳いた。
「じゃあ、さっさと終わらせますか。
爺さんの置き土産を探しに。」
霞は気合を入れなおすように拳に力を入れ、姿勢を正した。
「うん!」
「その前に一服するからちょっと離れてろ。」
「はあい。」
霞はしっしっと、朧を手で払い、タバコを1本唇に咥えた。
朧はニコニコと、スキップをしながら牛舎の方に行った。ふと霞は、その背を目で追った。
タバコがぽろりと地に落ちる。
「アイツ、背がデカくなってないか。」
朧は聞こえたのか聞こえてないのか、霞を振り返って小さく笑った。
*
真っ黒なベールを被った空には、きらめく星が散らばっていた。
月明かりがなく、街灯から遠く離れた路地はあまりにも暗かった。
指先が微かに見える闇の中で、りんりんと虫が軽やかに鳴いた。
昼間から変わっていないのは、この重く濁った空気くらいだろうか。
暗闇の中で、1つのオレンジの光があった。
その光からは紫色の煙が立ち昇り、瞬く間に闇の中に消える。
霞は胸いっぱいにタバコの煙を吸い込んだ。
ジメジメとした空気に加わり、数年ぶりに爆発した感情によって、体のほてりがなかなか止まなかった。
袖を摘んでひらひらと煽り、首元に僅かな風を送る。
「霞。」
闇の向こうから、スズメのような小さく可憐な声が囁いた。
「おう。」と、霞は声に目を向けた。
「着替えた。」
朧はそう言って、霞の元まで歩み寄ると、その場でくるりとターンをした。
男物の紺色の着物に身を包み、彼女は照れくさそうに小さく笑った。
「帯は結べた?」
「無理。」
「背中向けて。」
霞はタバコの火を消し、朧の側に寄った。
裸足で地面に立つ彼女は、頭のてっぺんが霞の目の高さまである。150センチは軽く超えているだろうか。
だとしても、村に来てからこの数時間で15〜20センチは伸びたことになる。
霞は顔を引き攣らせながらほんの少し腰をかがめ、雑に蝶々結びされた帯をするりと解いた。
「俺も女の子の結び方は分からんねえから、男の結び方でやるぞ。」
「良いよ。」
「あとお前、裾引きずってるし。
それ結構良いやつだから気をつけろよ。」
「うん。」
霞は着物の丈を調整しながら手際よく帯を結び直す。
朧は着物の胸元を抑えながら、そわそわと視線をあちこち動かした。
「で、お前の一張羅はどうした?
そんだけ体デカくなったら、耐えきれなかっただろ。」
「服の伸縮くらいできるし、今は体の中にしまってる。」
「いつもの四次元ポケットね。はい、できた。」
霞は帯をギュッと引き締め、終いに朧の腰を叩きかけたところで、その手を止めた。
行き場を失ったその手は、迷いながらも彼女の髪に触れた。
「こっちも伸びたな。」
「うん。前髪邪魔。」
朧は顎の下まである前髪を摘み、痛みを感じない程度に引っ張った。
「……お前さん、何でそんな姿になったわけ。」
霞は懐から髪ゴムを1つ取り出し、口に咥えた。
両手の人さし指で耳にかかった髪の毛をすくい、後ろ髪とまとめて手ぐしを通す。
「前からよくあったよ。でもこんなに背が伸びたのは初めて。ここの瘴気が濃すぎるからかも。」
「まあ、お前の年齢を考えたら、あのちんちくりんな姿の方がおかしいもんな。」
「……。」
朧は小さく頬を膨らませた。
霞はそれに気づく気配もなく、朧の柔らかな髪を束ね、小さくお団子に整えた。
そして、自身の髪にピン留めしてある、菊結びの赤い髪飾りを取り、朧の前髪に留めた。
「お前さんの方が似合うな。あげるよそれ。」
「うん。」
朧はそっと霞に向き直り、じっと瞳を見つめた。
霞は自分の首をさすりながら、朧の頭の少し向こうを見つめて言った。
「前からこういう事あったって、また元の姿に戻るってことか?」
「いつもはそう。体の中から瘴気が抜けたら戻る。」
「……ふうん。」
「なんで。」
霞はくるりと向きを変え、村の奥へと足を踏み出した。
「別に、服を買い直さないといけないと思っただけだよ。」
「戻っても買って。」
朧はふわりと体を浮かび上がらせ、霞の背を追った。
「要らねえだろ。次どれくらい伸縮するか分かんねえのに。」
「霞の着物なんかやだ。可愛くない。」
「注文が多いな!ほんとにお前さんは……。」
すると、突如朧は霞の手を握った。霞はぎょっとしたように体を跳ねさせた。
「買って。」
朧は霞に顔を近づけ、じっと霞の目を見つめる。
霞は顔を引き攣らせながら、掌を朧の顔に押し付けた。
「んっ。」
「着物でいいな。服の伸縮もできるなら、ちんちくりんでも使えるだろ。」
「……約束。」
「おう。」
霞は困り果てた顔で返事をした。
「それから、あんましベタベタ引っ付くな。」
「なんで。」
朧は霞の手を握る力を少し強くした。
「……お前さんには分からんだろうけどな、俺はまだ15なんだよ。」
朧はぱちくりと瞬きをして、首を傾げた。
朧の手が緩んだのを良いことに、霞は手を振り払い、懐からタバコを出した。
「ねえ。タバコは吸っちゃ駄目なんじゃない?」
朧がむくれながら言うと、霞はしれっとした顔でライターに火をつけた。
「そうだよ。だからちんちくりんは煙が届かないところで大人しくしてな。」
*
サクっと、土を踏む音が1つ響いた。
静かに息を吐けば、その音はやけに強調され、反対に紫色の煙は溶けるように消えていった。
いつの間にか虫の声は止み、重く苦しい静寂が辺りを支配していた。
「……朧、なにか感じるか?」
霞の少し後ろをふわりと浮かぶ朧は、辺りを見渡しながら首を横に振った。
「まだ。でもさっきより瘴気が濃い。」
「そうだな。」
それからまた無言で歩みを進める。
タバコの灰を落とし、フィルターを歯で軽く噛みなおす。
道は暗く、村の形状さえよく分からないまま彼らは歩いた。
しばらくして、霞はタバコを道端に捨て靴の裏で火を消した。
それからさらに5分か10分ほど歩いた時、変化は突然現れた。
「ぐ……っ、」
霞は僅かに顔をしかめ、こめかみを手で押さえた。
「霞、どうしたの?」
「ここだ。ここから先は、人が立ち入れる場所じゃない。」
「平気よね?」
朧が尋ねると、霞は迷わずに頷いた。
「ああ。でもさっきから体は重いし、耳鳴りがし始めたし、空気が淀みすぎて気持ち悪い。
まあ、その程度で済んでいるのは体質のおかげかな。」
「そうね。正直、こんなところで普通に歩いているあなたの方が化け物だわ。」
朧は少し呆れたように言った。
それからまたさらに歩いた。
もう村の端まで来たのではないだろうか。
徐々に道は険しくなり、木は増え、林の入り口に差し掛かったことを知る。
「暗いな。」
霞は顔を顰め、懐から紙を取り出した。
それをくしゃくしゃと丸め、軽くライターの火にかざし、術を唱えると、紙はぼんやりとライターの火を閉じ込めながらふわりと浮かび上がった。
それは蛍のように、パタパタと林の中に進んでいった。
「行くぞ。」
「うん。」
朧はそっと、霞の手を握りしめた。
霞は渋い顔をしながら、もう振り払うことはしなかった。
その時突如、強い風が巻き起こった。
咄嗟に霞は目を閉じ、朧は左手を前にかざして正面に見えない壁を生み出した。
先行して走らせていた蛍は、バチバチと眩い光を放ったとともに消失した。
林は再び、目の前が見えないほど真っ暗闇に包まれる。
「いるわ。すぐそこに。」
朧は霞の体を庇うように前に躍り出た。
「どんなやつだ。」
霞はライターに火をつけ手を前に伸ばし、目を凝らして林の奥を見つめた。
視界に映る範囲に敵の姿はなかった。
夜だから見えないのか……、否。霞は生まれ持った体質的に、霊が見えないのだ。
いつぞやの大蛇のような、極稀に現れる命を脅かすような大物を視認することはできるが、その辺に漂っている霊や、霞に大した害を与えない妖怪は見ることができなかった。
おそらく今回も、霞の目には映らない妖怪なのだろう。
「場所は正面からやや左、30度くらいにいる。
形態は霧状。大きいわ。」
「霧か。やつの断片がその辺にいるかもしれない。
朧、右目を貸せ。」
霞は朧の手を離し、彼女の顔の左側に結ばれた包帯に手を伸ばした。
包帯の端をするりと引っ張れば、封じられた眼が姿を現した。
顔に巻きついた包帯を取り、それを霞は懐にしまった。
そして彼女の肩に腕を回し、右手で彼女の右目を覆う。
小さく術をつぶやけば、霞の黒い瞳に赤い光が宿り、朧の右目がほんの少し黒く濁りを帯びた。
その瞬間、背後から鋭い矢のようなものが飛んだ。
朧は霞の体を押しのけ、間一髪でかわした。
「あれが"霧"か!」
霞は、矢のように鋭い塊が、モヤとなり本体の霧に吸い込まれる様子を目にした。
朧はすぐに霞の腕を引き、走り出した。
次々と茂みからモヤが飛び出し、槍のように、鞭のように、2人に襲いかかる。
朧は霞の左腕を自分の首に巻き付け、背中と膝の裏に手を差し込み、霞を抱え上げて飛び上がった。
「うわっ、ちょ!!おまえ!!!」
顔を真っ赤に染め上げ、ジタバタと暴れる男を抑えながら、朧はひらひらと木の間をすり抜け飛んだ。
その時モヤが木の陰から飛び出し、朧の足に巻きついた。
「くそっ!」
霞は右腕を振り下ろし、ツルのように絡みついたモヤを木っ端微塵に切り落とした。
モヤはしばらく地面に転がったあと、再び本体に溶け込むように合流した。
霞は続いて人差し指と中指を揃えて剣印を結び、霧に向け、術を放った。
しかし、術は全く霧には効いていない様子だ。
「どうするの?」
朧は細かく左右に首を振りながら、霧の猛攻を避け、時折、障壁のようなもので、死角からの攻撃を防ぎながら飛び回る。
「固体じゃないから術の通りも悪そうだし、奴に目がないから石にもできない。」
霞は飛びかかる火の粉を払うように印を結び、モヤを切り続ける。
「封印すればすぐに片付く。でもそれだと、数十年後、あるいは俺が死んだあと同じ事が繰り返される。」
「今はこのまま逃げ続ける?」
「いや、まだお前の力の使い所はある。」
モヤが鞭のようにしなり、朧の胴体に絡みつきかけ、彼女は宙でくるりとターンをしてそれをかわす。
霞は空を切るようにモヤを分断した。
「朧、あれに毒を打て!」
「了解。」
朧は霞の体を肩に引っ掛け、左手の先から緑色のガスを噴射した。
分断されたモヤは毒を吸い込み、そのままモヤは本体に吸収された。
霧は微かに形を歪め、その場で暴れ狂った。
「き、効いてる。」
「まだ足りない!」
霞は身を捩って霧に視線を合わせ、剣印を結び術を唱え始める。
そして、宙を8つに切り裂くと、霧はその場で8つに分散された。
「仕留めろ!!!」
朧は霧へ突進し、左手から先ほどの何倍もの量の毒ガスを噴射した。
霧は離散した体を呼び戻すと同時に、大量の毒ガスを体内に取り込んだ。
その瞬間、霧は緑色のあぶくを出し、形状を何度も変化させながらもがき苦しみ、溶けるように消えた。
「やった?」
「ああ。完全に消失した。」
霞は右手を軽く振った。
すると林中にまき散らされた毒ガスが風に乗り、霞の手の中に凝縮され塊を作る。
「片付けも完了。」
手のひら大の石炭のような塊を粉々に砕き、霞は告げた。
「うん。」
いつの間にか、霞の右目から赤い光はなくなり、朧の瞳は元の鮮やかなさくらんぼ色の赤に戻った。
朧はふわりと林の入り口に舞い戻り、霞を地面に下ろした。そして、お行儀よく足を揃えて直立し、霞の瞳を覗き込んだ。
「ご褒美は?」
朧は期待に満ちた眼差しで、小さな唇に笑みを浮かべた。
「はいはい。」
霞は雑に朧の頭を撫でながらも、唇には小さな緩みがある。
そのまま流れ作業のように、懐にしまった包帯を取り出した。
くしゃくしゃに絡まった包帯を伸ばしている間、朧は最後にもう一度、霞の目を見つめ直す。
ささやかな星あかりにきらめく瞳が、まっすぐ、純真に、漆黒の瞳を見つめていた。
霞はほんの少し、頬に朱を入り混ぜて、包帯の端を握りしめると、朧の目を封じ始めた。
朧は霞の服を両手で握り、寂しそうに目を伏せた。
「よくやった。」
霞は包帯を結び終えると、もう一度朧の頭に手を乗せた。
朧は瞬きを繰り返し、顔を上げた。
包帯越しのモノクロな世界の中で、霞は柔らかく目を細め、慈しむような顔で笑っていた。
朧は、胸の前できゅっと手を握りしめる。
熱が、目から、喉から、胸の中から沸き上がる。
ほのかに暖かな火が、胸の中に確かに灯るのを感じていた。