春の兆し、溶ける雪。 5
――夢を見ていた気がする。
重たい瞼を開けると、目の前は真っ暗で何も見えない。
太陽はとうの昔に沈んだらしく、明かりと呼べるものは何もなかった。
目を凝らすと、どうにか机や花瓶のシルエットをみることができた。
今は何時だろうか。
どれくらい眠っていたのだろうか……。
もぞりと身体を動かすと腕の中に柔らかな塊があることに気がついた。
猫のように柔らかな髪が唇に当たって、ふわりと花のような甘い匂いが香る。
彼女の腕が自分の胴体にガッチリと絡まり、滑らかでほっそりとした素足が着崩れた着物のすき間から入り込み、自分の足の間に挟まっている。
くらりと目の前が揺れた気がした。
身体の奥にじんわりとした熱が灯り、全身の細胞が過敏に彼女の体温を、柔らかさを追いかけている。
寝起き特有の生理現象がビクリと震え、女のふっくらとした腹に当たった。
霞はぎょっとして自分の身体に絡みついた腕を解こうとするが、彼女の腕の締め付けは強まるばかりで、身体同士が一層ぺたりと密着する。
「……はぁ。」
霞はため息混じりに身体の力を抜き、諦めたように朧の髪の中に鼻を埋めた。
シャンプーの臭いと頭皮の匂いが混じり合い、それは毒のように全身に染み渡り、頭の中がとろりと溶けていくのを感じる。
なるべく意識を彼女に向けないように、ぼんやりと花瓶のシルエットを視線でなぞっていると、唐突に朧はむにゃむにゃと声を漏らし、身動ぎした。
頬を霞の胸に擦り寄せ、身体は蛇のように滑らかにくねくねと揺れる。
足をピンと伸ばしたかと思えば、再び霞の足を絡め取った。
足の締め付けと共に、彼女の腹が霞の腰にピタリと密着した。
朧は寝心地の良い姿勢を探るように、身体の角度を変え、何度も何度もふっくらと肉付きの良い腹を男へ擦り寄せた。
霞はギリギリと奥歯を噛み、目を固く閉じた。
どんなに気を逸らそうとしても、腰から駆け上がる甘い痺れが、背筋を伝って頭を焼いた。
「……ダメだ、こんなの無理だ。」
いよいよ霞は顔をグシャッっと歪め、朧の肩を掴み強く揺さぶった。
「おい起きろ、くっつき過ぎだって。」
「ん……んん〜っ!」
朧は瞼を閉じる力をギュッと強めると、頭を霞の胸に擦り付けた。
霞はこみ上げる熱を逃がすように深呼吸し、どうにか平静を装い彼女の髪に触れた。
「朧さぁん。起きてくださ〜い。」
くしゃくしゃの寝癖を梳かすように頭を撫でると、朧は再び夢の中に落ちたらしく、クスクスと笑い、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「本当に寝起き悪いなお前……。」
朧の顔にハラリと落ちた髪をすくい、耳にそっとかける。
指先が僅かに彼女の耳に触れた瞬間、ピクリと肩が震えた。
霞はその反応を肌で感じ取り、ゴクリと唾を飲み込んだ。
小さな耳にそっと触れ、愛らしいその形を念入りに確かめるように摘んで、骨の凹凸を優しくなぞる。
「なぁ……朧。」
霞は低い声で囁きかけた。
腹に溜まるような甘い熱と毒を入り混ぜ、彼女の耳に唇を寄せる。
「早く起きないと、キスしちゃうけど……いいの?」
ピクリと朧の身体が再び震えた。
霞は唇に弧を描き、彼女の背を優しく抱きしめた。
「起きた……?」
そう尋ねても、朧からの返答はない。
まるで小動物のようにふるふると身体を震わせ、必死に目を固く瞑り、動こうとしない。
しかし、先程までの深くゆっくりとした寝息が消えてなくなり、彼女の唇から浅く小さな吐息が微かに溢れている。
「起きたんだろ?なぁ、朧さん。」
「……起きてない。」
小鳥のように小さな声が、霞の腕の中で囁いた。
「起きてないから、キスして。」
その瞬間、霞は朧の身体を強く布団に押しつけた。
朧からの拘束は全て解け、代わりに霞は彼女の身体に覆い被さり、頭の横に片手を付き布団をグシャリと握った。
もう反対の手は朧のマシュマロのようにまろやかな頬を撫で、ぷるんと艶めく唇にそっと触れる。
そして、子兎のように小さく震える彼女の顔に、ゆっくりと唇を寄せた。
熱い吐息が朧の小さな耳をくすぐった。
「起きてるみたいだから、お預けな。」
そう言うと、朧は霞の服を指で摘み、首を小さく横に振った。
「……いやよ。だって私、こんなにドキドキしてるのよ。
霞の声が甘くて、頭の中が溶けちゃいそうなの。
ねぇ、ちょっとだけでいいの。」
「だぁめ。」
霞はどうにか平静を装い、首を横に振った。
朧はそんな彼の首に腕を回し、必死に、のぼせ上がった甘い声音で囁いた。
「私のこと、口説いてくれるんでしょ?
私に恋を教えてくれるんでしょ?」
「……あぁ、そう言ったな。」
霞の布団を握りしめる腕にさらに力が籠もった。
甘い熱に焼かれ、目の前がクラクラと歪む。
「霞の気持ちを教えて。
霞が、どんな恋をしてるか、私に直接教えて……」
小さな手のひらが、霞の頬に触れた。
その瞬間、霞の頭の中で何かが切れた音がした。
女の小さな顎を掴み、ほんの少し上を向かせて固定をし、瑞々しい甘い色香を放つ唇に食らいつくように、口を開き、赤く熟れた舌を覗かせた。
その時だ。
障子の向こうで大きな影が揺らめいた。
女の澄んだ声が、部屋の中にまっすぐ響く。
「霞さま、天音でございます。
お食事のご用意が整いました。」
霞は声に射抜かれたように動きを止め、視線のみを障子の向こうに投げた。
吐息が触れ合う――。
浅く短い、2つの呼吸がやけに大きく聞こえた。
身動ぎすると布団のシーツが擦れ、それを合図に少しずつ周囲の音が耳に入り始めた。
徐々に頭が冷え、全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
「ねぇ……やめないで。」
朧の細い声が頭の中に反響し、じわりと染みた。
もう少し、頭を傾けるだけで唇は触れ合う。
しかし霞は、少女の額に軽い口付けを残して、ゆっくりと身体を起こし、低い声で障子の外へ返事を返した。
「……少しそこで待ってろ。」
「かしこまりました。」
天音は短く返事を返した。
霞は小さく息を吐くと、布団を出て、容赦なく部屋の照明をパチリと付けた。
「嫌……っ」
朧はLEDに目を焼かれ、パッと掛け布団を握って頭まですっぽりと被った。
霞はその小さな塊を見下ろし、寂しそうに、しかしどこかホッとした様子で唇の端を小さく持ち上げた。
「続きは、また今度な。」
「……っ、さいあく。」
布団の膨らみから飛び出す悪態に、霞はケラケラと笑いながら着崩れた着物を整え、障子を薄く開いた。
部屋の外で正座をしていた天音は、一度床板に手をついて頭を下げ、そっと霞を見上げた。
「お楽しみの所、申し訳ございません。」
その声は氷のように冷たく、霞をじろりと睨みつける眼差しはまるで彼を蔑むような薄暗い色を宿していた。
「……聞いてたのかよ。」
霞はバツが悪そうに目を逸らし、するりと部屋を抜け出すと、後ろ手にそっと障子を閉じた。
「朧の見た目の幼さのことを言うつもりなら、俺だって重々分かってるよ。」
「いいえ、そうではございません。」
霞の言葉を天音はすぐに否定した。
「朧が少女の見た目をしているとはいえ、本質は違います。それに霞さまこそ、歳は幼いではありませんか。
少なくとも私には、あまり離れていないように見えます。
ですが――」
そう言って天音は着物の袖で口元を覆い、眉間から鼻筋にかけて深くシワを寄せ、透き通ったグレーの瞳に嫌悪の色を濃く滲ませた。
「頭を地に這わせる穢らわしき生き物と、あなたのような方が媾うなど、想像するだけでゾッといたしました。」
「あぁそう。その想像はなるべく早くやめてくれ。俺が悪いんだけどさ……。
というより、頭を地に這わせるって何の話だ。」
そう尋ねると、天音は瞳を狐のように細く歪めて言った。
「見えませんか、あなたさまには。」
「まどろっこしい言い方をするな。結論を話せ。」
霞は苛立ちを隠さず、眉間にしわを寄せて言った。
天音は口元を袖で隠しながらクスクスと笑った。
「朧のあの"眼"、あれは何だと思っていますか?
口の中を見たことはありませんか?上顎に生え揃った2本の鋭利な牙と細く長い舌……。
あれはバジリスク……蛇ですよ。」
「そういや前に蒼月がそんなことを言ってたな。
……だから何だって言うんだ。朧はバジリスクの特徴を持っていても"人型"だろ。
まさかそれでも、"四つ足"より劣る存在だと言いたいのか?その思想自体、俺はまだ納得していないけどな。」
「……いいと思いますよ、私は。」
天音は眉を八の字に歪め、小首を傾げながら霞の表情を覗き込み微笑んだ。
「あんな悍ましい姿、知らないほうがあなたさまの為になります。
主人もきっと、同じ事をおっしゃるでしょう。」
「あんな……?お前たちは普段から、あいつを違う姿として認識しているのか?」
「そういうわけではありません。
ちゃんと、人型として認識していますよ。
でも、分かるのです。"道"を切り開く時のように、ほんの少し世界の裏側を覗けば、彼女の真の姿が見えます。」
「……真の姿ねぇ。」
霞は口元に手を置き、視線を宙に浮かべ、すぐに肩をすくませた。
「まぁ、俺は何でもいいよ。
あいつが蛇だろうがムカデだろうが、何だっていい。
朧であることに変わりないだろ。」
霞はそう言って、柔らかく目を細めた。
天音は一瞬表情を落とし、鋭く霞を睨み付けた。
しかし、すぐにパッと笑顔の画面に張り替え、不気味なほど明るい声で言った。
「まぁ、霞さまのご趣味を私は否定するつもりはございません。
それより、お食事が冷めてしまいます。
このままお部屋にお運びしてよろしいでしょうか?」
天音が傍らに置いた2つの御膳を指すと、霞は薄っすらと笑みを浮かべ、彼女を見下ろした。
「俺は叔母さんの部屋で食べると伝えたはずだけど、なにか手違いでも?」
「いいえ。椿さまが霞さまの食事は離れのお部屋にお持ちするようにと、直接指示がございました。」
「あぁそう。それは残念だよ。」
霞はにこにこと満面の笑顔を振りまき、僅かに障子を開け、部屋を覗き込んだ。
「朧、布団を畳んで端に避けてくれ。」
そう言うと、朧は低くうめき声をあげながら、のそのそと布団から頭を出した。
はだけていたワンピースの裾を直し、布団を畳み始めたところで霞は障子を開け放ち、天音に合図を送った。
「待たせて悪かったな。運んでくれ。」
「かしこまりました。」
天音が御膳を1つ持ち上げ部屋に運び入れると、霞ももう1つの御膳を手に取りあとに続いた。
「お食事が済みましたら廊下に置いておいてください。
後ほど下げに参ります。」
「分かった。それから叔母さんに、あとで部屋に行くと伝えてくれ。お見合い写真の返事をするから。」
天音は御膳を置き、座布団を2つ向かい合わせに並べると、霞に向き直り小さく頭を下げた。
「かしこまりました。
しかし……霞さま。お見合いの相手を、本当にちゃんと選ぶ気はあるんですか?
つい今しがた、あの子にあんな事をしておいて……?」
天音がちらりと視線を朧に向けると、霞は僅かに頬を引きつらせた。
「うるさいな。お前には関係のない話だろ。」
「えぇ。ですが、椿さまにとっては関係のある話ですわ。」
「告げ口したいなら勝手にしてくれ。
叔母さんはショックを受けて寝込んじまうだろうけど。」
「いいえ。先ほど私が聞いてしまった事は全て、誰にも話すつもりはございません。」
天音は表情を落とし、まっすぐ霞の瞳を射抜き言った。
「そんなことをすれば、椿さまは必ず、朧を殺すように私に命じるでしょう。」
天音の言葉に朧はビクリと肩を震わせ、一方で霞は対照的に、ニヤリと口角をつり上げた。
「……そうだろうな。
そして、お前は絶対に朧には勝てない。」
「ハッキリそのように言われるのは癪ですが、仰るとおりです。
それでは、私は下がらせていただきます。
あまり長居をすると、椿さまに理由を聞かれてしまいますから。」
天音はそう言うと、一度畳に手をついて頭を下げ、静かに部屋を出ていった。
ピシャリと障子が閉じられたことを合図に、霞はふうっと息を吐き、座布団に腰を落とした。
「さ、食べようか。」
「うん。」
朧は霞の向かいに置かれた座布団に正座をし、両手を合わせて言った。
「いただきます。」
「いただきます。」
右手で箸を持ち、左手で茶碗を手に取り、白い湯気が浮かぶ米をすくい上げて、そっと口元へ運ぶ。
霞はそれを見つめ、緩やかに口元に笑みを描き言った。
「昔の夢を見たよ。」
「いつの夢?」
「この家に来た最初の日。」
朧は一瞬視線を左上に投げ、頷いた。
「そう。」
「お前にはたくさん苦労をかけたな。」
「霞が何もかも変えてくれたわ。
こうして家に上がることも許されて、ご飯も与えられるようになった。」
朧はとんかつに箸を伸ばし、ソースに浸して、サクサクの衣に齧りついた。
霞はそれを見つめ、クスクスと笑いながら言った。
「俺は当たり前のことをしただけだよ。
叔母さんは全然自分の意見を曲げようとしないし、常に俺の言葉をうまく躱して、はぐらかして……。」
「それで、ある日霞がブチギレた。」
「もっと早くそうすべきだったって、後悔してる。
でも俺、この家の人間じゃねえし、命を助けてもらった側だし、強く言えなかった。
こんなにあっさり変わるなら、さっさとキレとけばよかった。お前には悪いことをしたよ。」
「……あなたがもっと弱い陰陽師だったら、あなたを殺して逃げ出してたと思うわ。物置小屋に入れられたその時に。
でも、そうしなくてよかった。できなくてよかった。」
朧はキラキラと照明を反射する味噌汁のお椀に視線を落とし、柔らかな笑みを浮かべた。
お椀にそっと口をつけ、音もなく静かに味噌汁を口に含ませる。
「でもさ、俺は今でも考える時があるんだ。
もっとうまいやり方があったんじゃないかって。
そもそもこの家に頼らず、生きていく術はなかったのかって。
俺はお前を守ることに必死だった。俺や周りがどうなったって構わないと思った。
俺は自分のわがままを貫いて、反抗して、たくさん迷惑をかけて……。」
霞は奥歯をギリギリと噛みしめ、膝の上で拳を強く握った。
その拳が小さな手に包まれる。
そのまま力強く引っ張られ、霞の身体は小さな胸に包まれた。
柔らかな手のひらが頭を撫でる。
何度も、何度も、優しく……。
だが霞は目を固く閉じ、堪えるように唇を噛んだ。
こみ上げてくるものを絶対に見せたくなくて、必死に息を押し殺した。
「――泣かないよ。」
肩に頬を寄せて呟く声は、震えていた。
「泣いていいのよ。
それに、こうすべきだって言われた気がしたの。」
「誰に?」
そう尋ねられると、朧は視線を何もないところで止めた。
無表情に、しかし僅かに声を柔らかく砕き、静かに応えた。
「霊よ……。」
霞は一度小さな肩に顔を埋め、唾をゴクリと飲み込む。
そして、意を決して尋ねた。
「楠木さんだろ。」
朧は2度、3度、瞬きをして頷いた。
「えぇ、そう。彼が居るわ。」
霞はそっと崩れた姿勢を正し、朧の視線の方向に顔を傾けた。
震える両手は、朧の手が優しく包みこんでいる。
霞は見た。
部屋の中に浮かぶ、微かな空気の揺らめきを。
しかし、霊体としてあるという彼の身体はどこにも見当たらない。
「……やっぱり、見えないか。」
「私の目、使う?」
「いいや。俺はまだ、その覚悟は持てない。
楠木さんには、どんなに謝っても足りない。
この家が……叔母さんが彼にしてきた事は絶対に許されないし、あの人の毒牙を一度たりとも俺に向けさせることなく、守り抜いてくれた。
俺の身体が潔白なのは、彼のおかげだ。
楠木さんがいなかったら、何をされていたか分からない。
なのに俺は、楠木さんを困らせることばかりして――。」
ぽろりと、目の端から涙が溢れた。
朧はポケットからレースのハンカチを取り、霞の目元にそっと当てた。
霞は朧を見つめ、くしゃりと顔を歪めながら首を横に振った。
「大丈夫だ。もうこれ以上泣かないから。」
「泣きたい時に泣いたらいいのよ。」
「好きな女の子に涙を拭いてもらうなんて、かっこ悪いだろ?」
霞が無理やり笑ってみせると、朧は眉を八の字にしながら小さく微笑み返した。
「私は好きよ。霞の弱さも、涙も、全部。
それを私に見せてくれるのが、嬉しいの。
泣きたくないならそれでいいわ。
次に泣きたいときは、また胸を貸してあげる。」
霞は小さく頷いて、そっと朧の身体を抱きしめた。
大きな背中を丸めて、彼女の丸っこい頬に、僅かに濡れた頬をピタリとくっつける。
それから暫くの間、2人は動かなかった。
会話もなく、身動ぎもせず、ただただ身体を抱き合っていた。
御膳にほんの少し残った食事から湯気が消え、しっとりと冷え切るまで、2人は黙って互いの熱を分け合っていた。
続きは明後日更新です。




