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春の兆し、溶ける雪。 4


楠木さんは、石の敷かれた小道を歩み、椿の花に彩られた花畑をずんずん進んだ。

その先にこじんまりとしたボロボロの小屋が現れると、彼は「あちらです。」とか細い声で言った。


「まるで物置みたいだ。」

「紛れもなく、物置でございます。」


僕の胸がまたムカムカと軋んだ。


「この家の式神は物置で暮らしてるの?」


苛立ちのまま尋ねると、楠木さんは小さく首を縦に振った。


「はい。……いえ。

玄夜(げんや)さんは屋根裏で寝泊まりをしています。

朧さんの部屋よりは幾分かマシな場所ですが、霞さまから見れば劣悪な環境に映るでしょう。」

「楠木さんはどんなところで寝ているの?」


そう尋ねると、楠木さんは足を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。

無表情に、無感情に、月明かりに浮かぶ青白い顔がジッと僕を見つめていた。

その瞳に生気はなく、まるで屍のようだった……。

そして、彼は口を開いた。

静かに、淡々と、たった一言だけ口にした。


「あなたには、とても申せないような場所です。」

「……分かった。」


僕が頷くと、楠木さんは少し安堵したような顔をして、再び物置小屋へと歩き始めた。


僕はこの時、楠木さんは心から信用できる人物だと思った。

加賀宮家に従いながら、心の奥深くまでは染まりきっていない。

そして口も固く、世間の常識から大きく外れてもいない。

何より彼は、子供の僕から見ても可哀想な男だった。


僕は手を伸ばし、楠木さんの手をそっと握った。

おじいちゃんのように温かくて、お父さんのように大きい手だった。

彼の顔を見上げると、柔らかく垂れた瞳を大きく見開いて、僕の目をまっすぐ見つめていた。

やはり、彼はどこか僕のおじいちゃんに似ていると感じた。


「ありがとう、楠木さん。」


ニコリと微笑みかけると、彼は初めて口元に小さく笑みを浮かべ言った。


「あなたは、優しい子だ。」


楠木さんは前を向き、僕の手を引いて物置小屋の前に立った。

そして3度扉をノックし、ガラリと引き戸を開けた。

小屋の中をそっと覗くと、そこは照明もなく、だいぶ埃っぽくて、所狭しと荷物やガラクタが詰め込まれた狭っ苦しい場所だった。

その右奥の隅っこ、大きな段ボール箱の影に小さな塊が見える。


「……朧。」


そう呼びかけると、塊は小さく動いた。


「何か用?」


その声は、僕が聞いたことないくらい低く、背筋が凍りつくほどに冷たい声だった。


怒っている――。


そんなの当たり前だ。

こんな場所に押し込められ、指示があるまで動くななんて言われたら、僕だって怒りたくなるし、誰彼構わず殴りたくなるだろう。

でも彼女はそれをせず、僕の命令でもないのにここまで大人しく、施錠もしてない小屋の中でじっとしているなんて……らしくない。

そこまで考えたところで、僕は慌てて首を振った。

今僕がやるべき事はそんな事ではないのだと言い聞かせ、手にしていた御膳を彼女に見せた。


「ご飯を持ってきた。それから、お前の部屋を別の場所に移す。

もっと明るくて、埃なんかなくて、広くていいところだ。」

「か、霞さま!それは困ります!!

椿さまの許しなしに屋敷なんかに上げたら……。」


震え上がる楠木さんに、僕は強い声で返した。


「僕と同じ部屋でいい。

楠木さんは何も知らないってことにして。

僕が勝手に招き入れたことにしてほしい。」

「で、ですが……。」

「楠木さん。僕の部屋を教えて。

それから、楠木さんはどっかに行って、別のお仕事をしててよ。

叔母さんにバレないように、うまくやるから。」

「無理です。不可能です。」


楠木さんは、眉間に深くしわを寄せ、ピシャリと言い切った。


「霞さまもご覧になったでしょう。

屋敷には侵入者避けの結界が張られています。

それは、椿さまの許しのないもの全てに適応される。

……朧さんは椿さまの許しなしに、一歩たりとも屋敷に入ることは叶いません。」

「……ふぅん。」


僕は屋敷にちらりと視線を向け、一瞬思考をめぐらせた。

この家であの結界に触れたのは3回。

この家のインターフォンを鳴らして敷地内に招かれた時。

楠木さんに連れられ、屋敷内に立ち入ったとき。

そして、風呂上がりに縁側を歩きながら、いたずらに触れたとき。

あの結界の術式は、構成も、強度も、何もかも理解しているつもりだ。

そしてなにより、この術は僕の家に張ってあったものと全く同じだし、お父さんに教わって僕自身何度も使ったことがある。


僕の胸の中に、ムクムクとイタズラごころが湧き上がってくる。

知らず知らずのうちに口角が上がっていて、慌てて僕は心を落ち着かせ、なんでもないように顔の筋肉に籠もった力を抜いた。


楠木さんは眉を八の字にして困惑した様子で僕をじっと見つめていた。

そこに朧が僕の着物の袖を握りしめ、冷たく鋭い視線を向けた。


「どうするの?」


朧の問いかけに僕は笑顔でごまかすと、そのまま朧から楠木さんに視線を移した。


「楠木さん、僕の部屋を教えて。」

「……本当に、私の首が飛ぶ前に止めに入ってくださいよ。」


楠木さんはぶつぶつとぼやきながら、今歩いてきた道とは逆の方向を指差した。


「このまま真っ直ぐ、道なりに進むと離れが見えます。

2階に上がっていただいて、突きあたりの部屋が霞さまのお部屋でございます。

もっとも霊力が集まりやすく、運気を呼び込みやすいと、椿さまが占いで決めたお部屋でございます。」

「分かった、ありがとう。

僕はこの物置小屋で朧に食事を与えたら、1人で部屋に戻って、1人で寝るよ。」

「くれぐれも、そうしていただけると幸いでございます。」


楠木さんはそう言って、僕らに深々と頭を下げると、屋敷へ戻っていった。

僕はその背を静かに見守り、暗闇の中に完全に消えて居なくなるのを確認して、朧に向き直った。


「行くよ、朧。」

「……結界は?」

「うまく誤魔化すよ。」


僕は御膳を片手に、朧の手を引いて離れに向かう。

薄暗い小道を忍び足で歩み、木の枝をうっかり踏むとパキリと大きな音が響く。

その度に心臓は跳ね上がって、キョロキョロあたりを見渡しては、またそっと足を前に進める。

ふと背中から、朧の細い声が飛んできた。


「私、あの人が嫌い。」

「あの人って叔母さんのこと?」


なるべく声を低くして聞き返すと、朧が頷く気配を感じた。


「君の叔母さんも嫌い。あの真っ黒な狼のような男も嫌い。」

「真っ黒……叔母さんの式神か。

玄夜って名前らしいよ。」

「そう。」


朧は一言だけ返事を返すと、口を閉ざした。

僕はちらりと彼女を振り返り、質問を投げる。


「そういえば、なんで物置小屋なんかにいたんだよ。

鍵もかかってなかったし、簡単に逃げられただろ?」

「この家の式神、命令に背いたらどうなると思う?」


朧の問いかけに、僕は足を止めた。


「何?何か言われたの?」


そう尋ねると、朧は真っ直ぐ僕の瞳を見つめ、消え入るほどの小さな声で言った。


「見たの。見せられたの。

君がお風呂へ連れて行かれたあと、私は屋根裏部屋に連れて行かれた。

そこには何があったと思う?

式神の首よ。過去に、この家に仕えていた式神の首が、ずらりと並べられていた。」

「屋根裏部屋って……」


ゾクリと背筋に冷たい何かが駆け抜けたようだった。

楠木さんがさっき言っていた。

玄夜って式神は屋根裏部屋に住んでいると……。

その部屋に、歴代の式神の首が並べられている……?


くらりと目眩がした。

いろんな感情がぐちゃぐちゃになって頭の中を渦巻いて、何がなんだか分からなくなってきた。

玄夜は、どんな気持ちでその部屋で過ごしているのだろうか。

叔母さんは、それを見せつけるために、玄夜をその部屋に住まわせているのだろうか……。


ひとつだけ、はっきり分かることがあるとすれば、僕らは急ぎ自分の部屋に閉じこもって、空っぽの胃袋に食べ物をねじ込む必要があるということ。

それ以外は、もうとても考えられない。無理だった。

僕は何もかも思考を放棄して、再び朧の手を取り歩き出した。


離れはすぐに見えた。

先程まで僕がいた屋敷とは廊下1つで繋がった建物で、外観を見る限り、離れだけで一家族が住めそうなくらい広かった。


僕はそっと、離れの前に立ち塞がる結果に触れた。

決して傷つけないように、叔母さんに気づかれないように、慎重に結界の一部分を僕の術で塗り替える。


「おいで。」


朧の手を取り、そこから僕の霊力を流し込むと、彼女は不快そうに眉を寄せた。

そして、恐る恐る足を伸ばし、結界につま先をちょんと付けた。

そのままゆっくりと身体を滑り込ませ、朧は離れに足を踏み入れた。

結界は壊れることもなく、傷つくこともなく、先程までと何も変わらぬ姿でそこにある……うまくいった。


僕はほっと胸を撫で下ろし、急ぎ草履を脱いで離れに上がった。

階段を駆け上がり、楠木さんに言われた通り、突き当たりの部屋の扉を開ける。

天井にぶら下がった照明の紐を引っ張ると、パチリと明かりが点いた。

真っ白のLEDが畳張りの室内を明るく照らし出した。


朧はキョロキョロと部屋を見渡し、ぽつりと呟いた。


「広い。物置小屋と全然違う。」

「こっちが普通だよ。」


そう返しながら、僕も内心驚いていた。

部屋はおよそ12畳。

壁は白い漆喰で、柱や鴨居は深くツヤのある飴色で、木の香りがどことなく香っている。

窓は障子張りで、夜の闇が淡く透け、紙の白さが心細げに浮かんでいた。


広さに比べ、置かれている物は驚くほど少ない。

隅に小ぶりのタンスと机。

押し入れの襖は開け放たれ、その中に折り畳まれた布団が1組あり、余計な飾り気は一切ない。

その余白がかえって静けさを際立たせ、どこか虚ろで淋しい空気が漂っていた。


僕は大きく深呼吸をして、ようやく御膳を床に置き、部屋の隅から座布団を2枚引っ張ってきて腰を下ろした。


「さぁ、朧。ご飯だよ。」

「うん。」


朧は僕の正面に腰を下ろし、キラキラと輝く瞳で御膳を見下ろした。

唇はよだれでテラテラと光り、彼女の喉が大きく上下した。

僕は空っぽのお腹をそっと撫で、彼女から御膳に視線を落とした。


明日もこうして、朧のもとにご飯を届けることができるのだろうか……。


表情を明るく煌めかせる彼女を見ていると、僕はとても1人前のご飯を2人で分けようなんて言い出せないと思った。

きっと僕は明日も明後日もご飯を食べられる。

でも、朧は違うかもしれない……。


僕は奥歯を強く噛み締め、御膳をぐいっと彼女の方に寄せた。


「僕は叔母さんの部屋で食べたから、お前が全部食べな。」

「……え?」


朧はキョトンと目を丸め、僕をじっと見つめた。


「なんで、嘘を付くの?

君だって、お腹がすいてるって言ってたじゃない。

私がお腹すいたって言うだけで怒ってたのに。」

「嘘じゃない。もうお腹いっぱい食べたんだよ。」

「嘘よ。匂いでわかるわ。」


僕はぐっと言葉を詰まらせた。

すると朧は唇の端を僅かにつり上げて笑った。


「ほら、嘘つき。」

「なんで嘘だなんて言うんだよ。

知らない顔をしていれば、ご飯を全部食べられたのに。」


そう言うと彼女はすぐに表情を曇らせる。


「君だって、黙って1人で食べたらよかったじゃない……君に出された食事なんだから、

私のことなんて、気にする必要ないじゃない。」


その瞬間、なぜか僕はムカッとして、激情のまま声を荒らげて言った。


「あるよ!お前は僕の式神なんだ!

お前を殺さないと決めたあの日から、僕はお前の主人なんだ。

お腹が空いているならご飯を食べさせるのは当たり前だし、命の危険がある時は僕が全力で守り抜く。

たとえお前が、お父さんの仇の娘だとしても、契約を結んだ以上、それが僕の務めなんだ。」


朧は目を大きく丸め、しばらくの間黙り込んだ。

風が窓をカタカタと叩く音が、やけに大きく耳についた。

重く伸し掛かる空気は張り詰め、じわりじわりと冷たさが増していく。

そして、彼女は再び口を開いた。


「……理解できない。」


朧は目を伏せ、御膳に乗った箸をまとめて握りしめ、米が山と盛られた茶碗を手に取った。

それから米に箸を刺して、口を大きく開けて喉に流し始める。


「朧、挨拶は?」


そう尋ねると、朧は一度茶碗を置いて手を合わせ、口の中一杯に米を詰め込んだまま言った。


「いただきます。」

「どうぞ召し上がれ。」


箸の持ち方は赤ちゃんみたいで汚いし、口の中に食べ物を詰めたまま喋るし、お母さんだったら絶対に許さないけど、僕は一旦見ぬふりをして頷いた。

急ぐ必要はない。まずは挨拶を覚えさせて、箸の持ち方なんかはその後でいい。


朧が漬物を頬張り、味噌汁を音を立てながら飲むのを横目に、僕は小さく息を吐く。

彼女に教えるべきことは山積みだ。

今日までは自分が生き抜くことで精一杯だったけど、明日から再び日常が始まるんだ。

家族はいないし、この家の人たちは嫌な人ばっかりで、僕の式神はこんなやつだけど、それでもやっていかなければならない。


「……ねぇ。」


ふと朧が箸を置き、言った。


「これあげる。」


朧が差し出したのは大きなとんかつが乗った1枚の皿だ。

一切れたりとも欠けていない、きれいな楕円を描くそれを見つめ、僕は朧に視線を移した。


「どうして?全部お前が食べなよ。

僕は明日も明後日もご飯が食べられる。

でもお前は違うかもしれない。

食べられる時にちゃんと食べろ。」

「嫌いなの、油ギトギトのお肉。」


朧は突き刺すような口調で言うと、お皿をぐいっと僕に押しつけた。

思わず口の中がよだれで一杯になり、慌ててそれをゴクリと飲み込んだ。


「……ありがとう。」


分かっていた……朧の嘘だって。

僕が嘘をついて彼女にご飯を与えようとしたのと同じで、彼女もこいつを譲るために嫌いだなんて嘘をついたんだ。


僕は「いただきます。」と手を合わせて、カツを一切れ指でつまみ、ソースに浸して口の中に入れた。

すっかり冷めきっていて、油がベチャッとして、肉が固くなっていて美味しくない。

それでも、僕は無心で食べた。

指をベトベトに汚しながら、はしたなく、大きく口を開けて、頬を膨らませながらかき込んだ。


なぜだか僕は、無性に泣きたくなった。

でもそんな所を朧に見られるわけにはいかないから、眉間に力を入れ、なるべく彼女から視線を逸らしながらカツを全部食べきった。

その間に朧も御膳に乗った食事をすべて平らげ、口の周りに米をいくつもくっつけながらぼんやりと天井を仰いでいた。

僕は御膳を部屋の端に避け、ティッシュを1枚取って朧の口を拭った。


「お前、女の子なんだからちゃんと綺麗にしなよ。」

「……私、人間じゃない。

女の子だからなんて言われても、分からない。」

「人間と同じように生きるんだよ。

僕と寝食を共にする以上、そうしてもらう。

これは命令だからな。」


朧は不満げに唇を尖らせながらも、間を置かずに小さく頷いた。


「分かった。」

「じゃあ、寝るぞ。もうクタクタだ……。」


そう言って、僕は押し入れの中の布団を引っ張り出し、床にそっと敷いた。

枕を置いて、分厚いかけ布団を広げると、朧がすぐにその中に潜り込んだ。


「おい、1つしかないんだからもっと詰めろよ。」


照明をぱちりと消して、朧の身体を押し退けながら僕も布団の中に潜り込む。

布団はヒヤリと冷たいものの、どこか太陽のような暖かな匂いがしている気がする。


天井を見つめていると、腕に朧の身体がくっつき、頬が僕の肩に乗った。

彼女の人間と変わらぬ体温が、じわりと僕の中に溶け込んでくる。


僕は彼女の方を向いて、その小さな身体をそっと抱きしめた。

胸周りが薄く、軽く触れただけなのに、指に肋骨の感触が乗った。

細すぎる。見た目以上に、あまりにも彼女は細すぎる。

ズキリと胸が痛んだ。

それから、何がなんでも彼女をこの家から守らないといけないと、強く感じた。


「明日も、必ずご飯を持ってくるから。

玄夜に何を言われても、絶対に……。」


腕の中で、朧は無言で小さく頷いた。


「僕はお前が好きじゃない。

でもお前は僕の式神だ。

叔母さんに手出しはさせないし、お前はあいつらの命令に従う必要はない。

たとえ何を言われようと、僕は戦う。

必ずお前を守ると約束する。」

「……そう。」


朧は小さく身動ぎし、顔を上げて僕の瞳を真っ直ぐ射抜き言った。


「私は嫌いよ。君が嫌い。

でも……この家の人間よりはずっと好き。」


決して好意的な言葉ではないのに、思わず笑ってしまった。

クスクスと笑う僕を、朧は怪訝な瞳で見つめている。

僕はそれでも、彼女の頭にそっと触れて精一杯の笑顔を向けた。


「それでいいよ。」


朧はもう何も言わなかった。

僕の胸元をぎゅっと握り、頭をぐりぐりと押しつけ、わざとらしく寝息を立て始める。


「……おやすみ、朧。」


僕は最後にそれだけを伝え、そっと瞼を閉じた。




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