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20/23

春の兆し、溶ける雪。 3


これは、俺たちが初めて加賀宮本邸を訪ねた日のこと。

里を襲撃され、雪の激しい山を下り、何時間も電車に揺られやってきた。

途中で電車はなくなり、バスもなく、タクシーに乗るほどの金もなく、リュックサックに入るだけの水と食い物を買い込んで山を登った。

複雑に入り組んだ道を何度も間違えながら、通りかかる集落で道を尋ねながら、真っ暗な山の中で2度野宿をした。


水は2日目の朝に、食料は同じ日の夜に底を尽きた。

幸いなことに川を流れる水は清らかで、空のペットボトルに汲み取り、大切にちまちまと飲みながら、細い獣道を突き進んだ。

あとあとこの日を振り返ると、感染症に一切かからなかったのは奇跡だった。


ようやく加賀宮本邸にたどり着く頃には俺たちはすっかりボロボロで、そこから追い打ちをかけるように、ベルを押して出てきた家の使用人からだいぶ酷い扱いを受けた。

山に捨てられた哀れな子供だとでも思ったのだろう。

晴藤の名を出してもまるで信用されず、追い返されそうになったところで彼女は現れた。


一部の隙もなくきっちりと結い上げた黒い髪。

薄柳色の絹の着物には、鮮やかな藤の花が刺繍され、決して派手ではないのに妙に目を引いた。

切れ長の細い瞳は何もかも見透かすように鋭く、彼女がそこに立つだけで、周りの空気がなにもかも変わった気がした。


そんな彼女……加賀宮椿は俺の顔を見るなり血相を変えて駆け寄り、使用人の男を突き飛ばした。


俺はこの瞬間から薄々感じていた。

きっと、俺はこの家に馴染む日は、永久に来ないのだろうと……。





「さっきの女の人、誰?」


僕たちは中庭の石の上に腰を下ろし、池の中をぼんやりと見つめていた。

赤と白のまだら模様の鯉が長い尾びれをゆったりと揺らし、優雅に泳ぎ回っている。


「僕の叔母さんだよ。

名前は加賀宮椿。僕のお父さんのお姉さんにあたる人。」

「君の顔を見てビックリしてた。」

「子ども2人で、こんな薄汚い格好で突然訪ねてきたら誰だってビックリするよ。」

「あの人、どこ行ったの?」


朧は家の玄関に視線を投げて言った。

叔母さんは、僕らに庭で待つよう言い残したきり、使用人を連れてどこかに行ってしまった。

この家の周りは人の気配が全くなく、ゾッとするほどに静かだ。

風は冷たく、竹林をザワザワと揺らす。

だんだんと薄暗くなってきて、心細さだけが増していく。


「……お腹すいた。」


朧はそう言うと唇を引き結び、背中を小さく丸めた。


「もう少し我慢してくれ。僕よりたくさん食ってただろ。」


溜息を吐きながら言うと、朧はツンと尖った声で言った。


「君が譲ったのよ。」

「当たり前だろ。お前の腕、骨と皮しかないじゃん。」

「それでも足りない。」


ムカッとした、腹の奥底から。

反射的に手が出た。出る寸前までいった。

衝動に任せて彼女の腕を引っ掴み、その手に力を込める寸前でようやく理性の鎖が僕の身体を締め上げた。


「何?」


朧は僕の目をじろりと睨み付けた。

包帯越しで見えているわけじゃないが、なぜだかハッキリと分かる。

彼女の真っ赤な瞳が、僕を射殺すように睨みつけている。


「僕だってお腹すいたさ。それでもお前に食べ物を譲ったんだ。

足りないってなんだよ。僕にはどうすることだってできない。ワガママを言うな。」


どうにか怒鳴り上げることはせず、言いたいことを全部静かに早口でまくし立てた。


「いつ私が譲れと言ったの?君が勝手にやったことなのに、どうして怒るの?

今だってそうよ。食べ物を持ってこいなんて、一言も言ってない。」

「お前が四六時中お腹すいたと喚くからだろ!」

「そもそも君が道を間違えなければこんな目に遭ってない。」

「それを言い出したら、お前らが僕の里を襲って、家族を皆殺しにしたんじゃないか!!!」


声を荒げると朧は鋭い牙を剥き出し、シューっと喉の奥から唸り声を上げ、彼女の腕を掴む僕の腕を強く鷲掴んだ。

骨が軋み、爪がプツッと皮膚に食い込んで赤い血が細く垂れた。


「痛いな!離せ!!!」


反射的に叫ぶと、朧の首に契約の印が浮かび上がった。

それは赤く鈍く光り、彼女の首をギリギリと締め上げた。


「っぐ、ううああああああああ!!!」


朧は印を掴むように首を抑え、仰け反り、地面に転がった。

彼女の首が強く締まり、ジリジリと皮膚を焼く。

爪が、首に深く刺さった。ガリガリと印を削るように掻きむしり、血が滲む。

僕は焦った。すぐに術を解こうと手を振るが、うまく行かない。


「まて、まてまて、違うって!止まれ止まれ、止まれったら!!」


何度か印を結び、術を唱え、ようやく彼女の拘束が解かれた。

契約の印は再び皮膚の色と同化し、彼女の首に痛々しい焦げ跡と引っかき傷を残した。

朧は酷く憔悴し、口元からダラリとヨダレを出して横たわっていた。


「ご、ごめん……こんな事するつもりじゃ――」


震える足で彼女に歩み寄ろうとしたその時、背後から叔母さんの声がした。


「素晴らしい!!見事な術ですわ!

幼いながらに、そこまで完璧に式神を使役するなんて、さすが菊司さまのお孫さんですわね。」


叔母さんは力強い拍手をしながらこちらにやってきた。

その後ろに真っ黒な着物を着た、真っ黒な髪の男が背筋を猫のように丸め立っている。

感情の籠もらない、深い闇のような瞳と目が合った。

彼は、目を逸らすわけでも、ニコリと笑うわけでもなく、ジッとこちらを見つめるだけだった。


「待たせてしまってごめんなさいね。

お風呂の準備をさせていたのよ。

ちゃんと身体を綺麗にして、そうしたらご飯を食べましょう。

お腹すいたでしょう?」


ご飯という言葉を耳にしたその瞬間、ぎゅうっとお腹が鳴った。

口の中がよだれで溢れ、それを飲み込むと、お腹の音に負けない大きな音が喉から放たれた。

叔母さんは切れ長の瞳を細めてクスクスと笑う。


「まぁまぁ。今日はごちそうを用意させていますから、お風呂へ急ぎましょう。

さ、この子を連れて行って。」


パンパンと手を叩くと、庭の向こうから先ほど叔母さんに突き飛ばされていた使用人の男が駆け足でやってくる。

僕はひとまず地面にうずくまる朧の背を擦り、声をかけようとした。

しかし叔母さんが朧の首根っこを掴み、僕から引き剥がしてしまった。


朧は眉間に深くシワを刻み、叔母さんを鋭く睨んだ。

喉の奥からシュルシュルと音を鳴らして威嚇をしているが、先程のように手を出すことはなかった。


「朧をどうするの?」


僕が尋ねると叔母さんは笑みを浮かべたまま静かに答えた。


「何も酷いことはしませんよ。

風呂に入れて汚れを全部擦り落とし、清潔な服に着替えさせ、専用の部屋を与えましょう。

霞さんの式神なんでしょう?」

「……ありがとうございます。」


精一杯僕は叔母さんに頭を下げた。

でも、どうしてか分からないけど、素直に笑うことはできなかった。

もう安全なはずだった。飢えることもないし、暖かい布団で眠れる。

失ったものは二度と帰って来ないけれど、僕はもう一度人間らしいまともな生活を取り戻したはずだった。

なのに、何かが胸の中に引っかかって、笑顔を作ることができなかった。


僕は使用人の男に腕を引かれ、屋敷の中に入った。

迷路のような廊下を歩み、脱衣所で服を剥ぎ取られ、それらは全部ビニール袋の中に押し込まれた。

そして僕の家よりずっと広い浴室に放り込まれて、シャワーを頭から浴びせらる。

数日ぶりの湯はビックリするほど熱かった。

全身が跳ね上がって、情けなく悲鳴を上げた。

それでも使用人の男は僕の頭をゴシゴシ擦りながらシャワーをかけ続ける。


頭の天辺から爪先までがジンとした。

凍りついた身体が、じわじわと溶け始めるのが分かる。

たまらなく、心地よかった……。

細胞という細胞に熱いお湯が染み込んで、ポカポカと温まってくる。


それから使用人の男は、シャワーを止め、シャンプーを大量に頭に乗せた。

もこもこに泡立て、指先で強く頭皮を擦った。

痛いくらいに隅から隅まで掻きむしられて、一度シャワーで泡を全部落とし、もう一度シャンプーを大量に乗せられる。

少しずつ、頭が軽く、さっぱりし始めた。

自分が少しずつ、まともな人間に近づいていくのが分かる。

楽しくて、幸せだったあの日々に近づいていくような気もした。


またしばらく頭を掻きむしられて、シャワーで綺麗に泡を落とすと、今度は甘い花の匂いがするトリートメントを塗りつけられた。

それからタオルに石鹸をこすりつけ、背中をゴシゴシと擦られる。

あっという間に全身のアカを落とされて泡まみれになって、それらもまたシャワーで綺麗に流される。


そして、使用人の男は浴室から出ていった。

僕は湯船に浸かり、ぼんやりと天井を見上げた。

真っ白な、味気ない天井だ……。

開いた窓の向こうから、ふと鳥の鳴き声がした。

初めて聞く声だ。口笛を吹いたような、軽やかな鳴き声。

僕の生まれ育った里に、この鳥はいない。


「……っ、」


急に、目の奥がツンと痺れた。

喉が震え、嗚咽が溢れる。

目から、湯船よりほんの少しだけ低い温度の水がとめどなく流れ落ちた。

両手で顔を覆い、身体の中から溢れ出るものを全部、このだだっ広い浴室に吐き出した。

涙も、声も、何もかも全部、始めから存在しなかったかのようにそっと消えていった……。







しばらくの間、僕は湯船の中に居た。

天井をぼんやりと見つめ、頭の中を空っぽにして、ただただ身体を包み込むお湯の感触に浸っていた。


すると、すりガラスの向こうから男の声がした。


「霞さま、お加減はいかがでございますか?」


さっきの使用人の男だろうか。

僕はもう一度湯船で顔を洗い、少し大きな声で返事をした。


「今出るよ。」

「恐縮でございます。

お食事の用意が整っております。」


僕は湯船を出て、脱衣所に戻った。

その後も僕は甲斐甲斐しくお世話をされた。

全身をふかふかのタオルで拭かれ、用意してくれた着替えに身を包み、竹でできた風通しの良い椅子に座らされてドライヤーの風を当てられた。

それから顔と手足に化粧水とかいう変な液体を塗りたくられて、仕上げに手足の爪まで切ってもらった。


「この家の人って、みんなこんなことされてるの?」


何となく尋ねると、使用人の男はクスリと笑みを浮かべた。

目尻が柔らかく垂れ、深いシワが刻まれる。

ほんの少し、おじいちゃんに似ているような気がした……。


「そんなことはございません。

椿さまの指示により、このようにさせていただいております。」

「じゃあ、次はしなくていいよ。

お風呂は1人で入れるし、爪だって切れる。」


そう言うと、使用人の男は笑みを浮かべながらも、ぴったりと口を閉ざしてしまった。

彼の顔は薄っすらと強張っていて、僕がなにか良くないことを言ったのだと悟った。


「ダメだった?」


恐る恐る尋ねると、使用人の男は慌てて表情を明るくして、首を横に振った。


「いいえ、とんでもございません。

明日からそのようにさせていただきます。」

「そういえば、名前聞いてもいい?」


ふと彼の名前を知らないことに気がついて尋ねると、彼は深く頭を下げ、穏やかに答えた。


楠木(くすのき)栄治(えいじ)と申します。」

「よろしくね。」


僕が手を差し出すと、楠木さんは僅かに眉を寄せ、悲しげな瞳で僕を見下ろした。


「……はい。よろしくお願いいたします。」


彼は控えめに僕の手を握ってぎこちなく笑みを浮かべると、いそいそと脱衣所の扉に手をかけた。


「椿さまがお待ちでいらっしゃいます。

お部屋へご案内いたします。」


叔母さんの名前を聞いた瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。

以前叔母さんが里に来てくれた時は、こんなことはなかったのに、なぜだか今は叔母さんに会うのが怖かった。

あの人の、腹の中に眠る血の凍るような冷気と、瞳から滲み出る溶岩のような熱が、まるで毒のように僕の身体を蝕む……そんな気がしてならなかった。





脱衣所を出て、シンと静まり返った廊下を進むと、やがて縁側に出た。

いつの間にか日が落ち、雲の隙間から覗く月が朧気な輝きで、そっと中庭を照らし出している。

びゅうびゅうと風が吹き、庭に生える松の木を激しく揺らすが、不思議と寒さはない。

まるで目の前に見えないガラスが張られているかのように、外の冷気が家の中に侵入する気配がないのだ。


「これも、結界……?」


そっと手を伸ばすと、指先がベールのようなものに触れる。

すると楠木さんは足を止め、わずかに身体をこちらに傾けて言葉を刺した。


「なりません。それは椿さまが張った侵入者を弾き返すためのもの。傷をつければ、タダではすみません。」

「ふぅん。」


そして楠木さんは再び歩き始めた。

縁側をまっすぐ歩いて突き当りまで来ると、部屋の明かりで真っ白に輝く障子の前に膝を付き、小さく頭を下げた。


「椿さま、霞さまをお連れいたしました。」

「通しなさい。」

「失礼いたします。」


楠木さんは障子を開け、僕に目配せをした。

僕は彼に軽く会釈をして叔母さんの部屋に踏み入った。


「失礼します。」


叔母さんは僕に向けて視線を上げると、真っ赤な唇に柔らかな弧を描いた。


「身体は十分温まったかしら?」

「は、はい。ありがとうございました。

楠木さんが何もかも手伝ってくれて……。」

「いいのよ、当然のことだわ。

さあさあ、座りなさいな。」


叔母さんはにこにこと、正面に位置する座布団を指した。

僕はその通りに座布団の上に正座をし、ぐるりと部屋の中を見渡した。

入り口の障子はいつの間にか閉め切られ、楠木さんの姿はなくなっている。

部屋の奥には椿と菊の絵をあしらった屏風があり、桐箪笥や大きな鏡のついた鏡台がどっしりと並んでいる。

隅には大きな花瓶と、大輪の菊の花が生けてあった。


それらを見つめるうちに、ふと障子の向こうから小さな足音が2つ聞こえてきた。

朧が来たのかと思って振り向くが、すぐにその予想が外れたことを知った。


「椿さま。お食事をお持ちしました。」


楠木さんの声だった。

叔母さんの返事を合図に障子は開かれ、楠木さんと先ほど玄関で見た全身真っ黒の猫背の男が御膳を手に部屋に入ってきた。

2人分の食事が、それぞれ叔母さんと僕の前に並べられる。

ツヤツヤとした白米に、白い湯気が立ち上るお味噌汁。

漬物と、トマトとキャベツのサラダが並び、大きい皿にはカリカリに揚げられたとんかつが乗っている。


――何かがおかしい。


急激に僕の中で違和感が膨れ上がった。

そのまま僕は身体を乗り出し、叔母さんに尋ねた。


「叔母さん。朧はどうしたの?

まだお風呂にいるの?」


それに返事をしたのは、全身真っ黒の男だった。


「彼女はすでに入浴を済ませ、部屋に待機させております。

ご用命の際は術をお使いください。

すぐに霞さまの元へ駆けつけるでしょう。」

「ご飯は?朧はもうご飯も済んだの?」


この質問もまた、全身真っ黒の男が答えた。


「いいえ、霞さま。

我々に食事は不要でございます。

ゆえに、この家では式神に食事を用意してはおりません。」


僕は絶句した。

必死に首を横に振って反論した。


「食事が不要だなんて、ありえない。

あんなにお腹をすかせているのに、どうして不要だなんて決めつけるの?」

「いいえ。不要でございます。

我々は妖力をエネルギーとし活動しております。

食事は直接活動エネルギーに繋がりますが、それも微々たるもの。そして、食事は妖力を蓄えることには繋がりません。

妖力こそが我々の力の全て。よって、妖力の元にならない食事は不要なのです。」

「でも、お腹は減るんだろ?」

「そんな感覚、とうの昔に忘れました。」


まるで話が通じない。

あまりにも、住む世界が違いすぎると思った。

僕は口を閉ざし、目の前に並べられた御膳と向き合う。

腹の底がじわじわと熱くなって、身体が震える。

丸一日ご飯を食べていないのに、胃の中は空っぽなのに、これは食べられないと率直に思った。


すっかり黙り込んでしまった僕に、叔母さんは困ったような顔をして和やかに語りかけた。


「霞さん、ご飯にしましょう?

お腹が空いたでしょう?寒空の中何日もかけて歩いてきたのよね?

さあさあ、お腹いっぱい食べてちょうだいね。」


僕の耳に叔母さんの言葉は全く入ってこなかった。


ずっと、全身真っ黒の男が言っていたことを考えていた。

『そんな感覚、とうの昔に忘れました。』

……そう言っていた。


忘れたってなんだ?

昔は空腹を感じていたということだ。

空腹を知っているということは、食事を取っていたということだ。

ならなぜ、忘れてしまったのか。

なぜ彼は、食事を取らなくなったのか。


僕は考えて、考えて、とある可能性に気がついて、まっすぐ叔母さんを見つめた。


「式神に食事を与えないって、叔母さんが決めたルールなの?」


叔母さんはすっと目を細め、首を横に振った。


「いいえ。加賀宮家ではね、ずっとそうしてきたのよ。

人間と妖怪、陰陽師と式神、常に私たちが彼らを支配する立場にある。それを分からせるために定めたと、昔お父さまに聞いたことがあるわ。

だから霞さん、あなたも理解してくれるわよね?」


僕は再び目を伏せた。

とても、頷くことなんてできない。

僕は、朧と出会ってほんの数日しか経っていない。

朧は僕の父親を殺した女の娘だ。

でも、それでも、彼女がどれだけ空腹に苦しんでいたのか知っている。

温かいパンを頬張るときの煌びやかな笑顔を知っている。

僕は朧のことなんて好きじゃない。

好きになりようがない。

むしろ嫌いに近い感情を抱いている。

なのにどうしても、頷くことができなかった。

あの棒切れのように細い手足を知っているのに、どうしてそんな酷いことができるのか、僕には分からなかった。


「できません……。

僕は理解できません、叔母さん。」

「霞さん?」


叔母さんは大きく目を見開き、僕を呆然と見つめた。


……怒られるのだろうか。


身体が反射的に縮こまってしまった。

しかし、叔母さんは一向に何も言ってこなかった。

パチパチと瞬きを繰り返し、小さく口を開けてただ僕を見つめている。

僕は、ぐっと奥歯を噛み締め、御膳を手に立ち上がった。


「楠木さん。朧の部屋に案内して。

僕は朧と一緒に食事を取ります。」


僕は強い声で言い切って、スタスタとまっすぐ部屋を抜け出した。

叔母さんも、全身真っ黒の男も、引き留めることはしなかった。

楠木さんは顔中びっしょりと汗をかいて、慌てて叔母さんに頭を下げ、縁側を歩む僕を追いかけた。


「こ、困ります……霞さま。

あとで我々が叱られてしまいます。」


楠木さんは震える声で言った。


「怒られるべきは僕だ。

あなたが怒られそう時は、僕が止めに入る。

自分が言ったことには、ちゃんと責任を持つよ。」

「で、ですが……。」

「それで、朧の部屋はどこ?」


足を止めて楠木さんに向き合うと、彼は眉を八の字にして目を伏せた。


「ご、ご案内します。」


彼はビクビクと身体を震わせ、縁側の下から草履を2つ取り出して、中庭に降りた。

僕も彼のあとに続き、草履を履いて薄暗い中庭を進んだ。



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