一度きりの、さよならを。
恋人と死別したという青年──。
死とは何か、愛とは何かを知らぬ朧が、
初めて人の心に触れる物語。
「……死んだ彼女に、もう一度だけ会いたいんです」
荒牧千春と名乗った青年は、目を真っ赤に腫らし、かすれた声でそう訴えた。
ここは都市部から車で南へ40分ほど下った場所に位置する町。
瓦屋根の一軒家とオフィスビルが共存するこの街は、都会の賑わいと田舎の空気が不思議に入り混じっていた。
喫茶店の窓からは、陽炎が揺れる舗道が見えた。
ぎらつく日差しに焼かれたアスファルトが、もやもやと蜃気楼のように揺らいでいる。
霞はその窓際の席で、濡れたグラスを指先で持ち上げ、アイスミルクティーにそっと口をつけた。
静かにストローを咥えながら、穏やかに尋ねる。
「……それは、霊となった彼女と、対話をしたいというご依頼でしょうか?」
荒牧は無言で深く頷いた。
そして、唇をぎゅっと結びながら、両の拳に力を込める。
爪が食い込み、手のひらに紅い痕が浮かんだ。
「俺たちは、将来を約束した仲でした。」
彼の声が、店内のざわめきの中でひときわ静かに響いた。
「物心ついた頃から、いつも隣にいて。
お互いずっと好きで、きっと、いつか結婚するんだって……そう信じてたんです。
俺はただの庶民で、向こうは名家の生まれでしたけど、そんなの関係ないって……」
一瞬だけ、荒牧は遠い目をした。過去の風景を思い出すように、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「……彼女の名前は、本条詩織といいます。優しくて、綺麗で、本当に俺にとって奇跡みたいな人でした。でも……」
荒牧は深く息を吸い、押し殺すように続けた。
「でも、あいつはずっと、俺との結婚を避けていました。
何度言っても、はぐらかされて、拒絶されて、しまいには泣かれて……どうしても答えてくれなかった。
それでも俺は、諦められなかった。諦めることなんて、できなかった。」
言葉の節々が震え始める。声の調子が少しだけ上擦り、霞の目にその苦悶が伝わった。
「そしてやっと、やっと、彼女が首を縦に振ってくれたんです。」
荒牧はそこまで言ったところで、堪えきれず、目元を手の甲で強くこすった。
「……それが、最後だった。」
店の客のざわめきの中で、荒牧の声だけがどこか異質だった。
静かに、けれど鋭く、空気に刺さるような痛みがあった。
荒牧は声を押し殺し、とめどなく涙を流した。
霞は神妙な面持ちで、黙って言葉の続きを待っていた。
その隣にちょこんと座っていた朧は、黙々と大きなパフェを頬張っている。
霞がさり気なく朧の足を叩くと、朧は一度霞に視線を送り、その後哀れむような顔で荒牧の話を聞くフリを始めた。
荒牧は鼻をすすり、どうにか声を絞り出した。
「ある日、突然、彼女はいなくなったんです。置き手紙も、連絡もなくて。
彼女のご両親も、俺も、必死で探しました。
だけど、見つかったのは遺体でした。
川に、身を投げたんです。
……俺は、彼女がそんなことをするなんて、信じられなかった。」
霞は黙ってその言葉を受け止める。グラスの氷が、カラリと控えめに鳴った。
「俺は……知りたかったんです。なぜ俺には、何も言わなかったのか。
彼女の家族から、重い病気のことを聞かされました。
結婚も出産もできない体だったって。
でも……そんなの、どうでもよかったのに。
俺は、彼女が生きてさえいてくれたら、それで……」
喉の奥が詰まり、荒牧は声を切った。
顔中をしわくちゃにしながら、とめどない涙があふれた。
霞は机の下で、レースのハンカチを朧に渡した。
朧はそれを受け取ると、荒牧に同情をするように、しおらしくレースのハンカチを手渡した。
荒牧は頭を下げながらハンカチを受け取り、目元を強く擦る。
「す、すみません。情けない姿を……」
霞は小さく首を振り、言った。
「いいえ。無理もありません。
それで、あなたが話したいという人は、本条詩織さんですね。」
「そうです。俺はどうしても彼女に会いたいんです。
何で何も言わずに行ってしまったのか……。
もう一度だけでいい。話がしたいんです。あの人に、ちゃんと伝えたいことがあるんです。それから、彼女の口から、その理由を聞きたいんです。なぜ黙っていなくなってしまったのか。」
荒牧はレースのハンカチに顔を押しつけ、顔も耳も真っ赤に染め上げ、大粒の涙を流し続けた。
霞は彼の気持ちが落ち着くまでの間、静かにアイスミルクティーに口をつけ、彼の悲痛の声に耳を傾けていた。
朧は荒牧を至極不思議そうな顔で見つめている。
なぜ涙を流すのか、なぜ死者に会いたがるのか、朧は1つとして理解できなかった。
それからまたしばらく時が経ち、大きなパフェを朧が完食しきった頃、荒牧が少しずつ涙をふき取る回数を減らしていた。
「ご依頼をお受けしましょう。」
霞は見計らったように、穏やかに告げた。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます。」
荒牧は頭を下げたまま、震える声で礼を告げる。
「ですが、いくつかお伝えすべきことがあります。」
霞は声を低くし、静かに語り始めた。
「まず、降霊術で必ず会いたい人に会えるわけではありません。魂が完全に消失している可能性もありますし、魂が変質し人格が変わっている可能性もあります。
それから、費用は決して安くはありません。死者をこの世に再び呼び戻すということは、術者の私も、同席するあなたにも危険が伴います。その危険手当が代金の中に含まれますので、ご承知おきください。
此度のご依頼には、相応の覚悟を持っていただきます。」
「はい、お金は払えます。結婚資金をずっと貯めてきたので、足りるはずです。
覚悟も……、はい。彼女ともう一度会える可能性があるなら、どんなことだって受け入れます。」
その言葉に、霞はわずかに目を細めた。
「では、お日にちを決めましょう。
降霊は明日、正午でいかがでしょう。お住まいの方へ伺います。」
「はい。それでお願いします。明日までに、ちゃんと伝える言葉を、考えておきます。
……一度きりの、さよならを伝えるために。」
「それでは明日、よろしくお願いします。」
荒牧は、レースのハンカチを握りしめ、深々と頭を下げた。
*
「霞は泣いた?」
朧は尋ねた。
黒いレースや細かな刺繍の入った、軽やかなワンピースをはためかせ、彼女は自分の短い影を踏み歩く。
霞はその数歩後ろを歩きながらタバコを咥え、吐き出す煙はゆらゆらと立ち昇る。
「いつの話?」
霞が尋ねると、朧は足を止めて振り向いた。
「あなたのお父さんたちが殺された時。」
感情が揺れたのはほんの刹那、霞の眉がわずかに動き、すぐに凪いだ。
一度、大きく煙を吸い込み、時間をかけて吐き出すと、霞は嘲笑うように言った。
「お前も見ただろ、俺の泣きっ面は。」
「あんなに泣いてなかった。」
朧は霞から目を逸らし、再び歩き始める。
「誰のせいだよ。お前に会ってからは、もうそれどころじゃなかった。」
朧は「ふうん。」とだけ言って、坂道を上る。
「じゃあ、私が死んだらあなたは悲しむの?」
霞は眉間にしわを寄せ、ジトリと目を細めた。
「死ぬ体になってから聞けよ。」
「じゃあ、あなたが死んだら私は泣くと思う?」
「お前は喜ぶ。」
「そうね。」
朧はあっさりと頷き返事をした。
霞は舌を打ち、タバコの灰を地面に落とした。
しばらくの間モヤモヤと煙を上らせ、何度か大きなため息をついた。
そして、大股で朧の隣まで歩み寄ると、その頭を力いっぱい鷲掴んだ。
「お前は、絶対に死なないだろうけどな、
お前に何かあったら、泣くからな。」
オマケにとばかりに朧の頭を一度小突き、霞はスタスタと朧の前を歩み始めた。
朧は足を止め、小突かれた頭を押さえながら、呆然とその背を見つめた。
*
空は雲に覆われ、光も影も曖昧なまま、じっと街を見下ろしていた。
昼を迎えたというのに、空気中の湿度が高すぎる為か、外の世界はどこかぼんやりと霞んで見えた。
さまざまなマンションが立ち並ぶ街の一角、築浅のマンションの6階。
静まり返った2LDKの部屋のリビングには、エアコンが冷気を吹き出す音のみが響いている。
夏の蒸し暑さは外に閉め出され、むしろ室内は少々肌寒いくらいだ。
また、部屋は生活感が残るものの、空間のどこかに"置き去りにされた時間"の匂いが漂っていた。
ソファーに積まれた読みかけの本、空いたままのペットボトル、コーヒーがこびりついたマグカップ。
そのどれもが、日常の続きを拒むように止まっている。
さて。部屋の中央に霞は正座して座っていた。
いつもの狩衣姿ではなく、細かな透かし模様の入った白1色の着物をまとい、ふわりとした大きな袖が、体の線に沿うように弛んでいる。
シャワーを浴びた直後なのか、わずかに濡れた髪が、たらりと体の前に落ちていた。
その前に置かれているのは、丁寧に並べられた供物。
陶器の小さな杯に注がれた酒と、小皿に美しく盛られた和菓子がある。
朧は、霞と向かい合うように正座していた。
昨日とは異なり、紺の羽根付き帽子と、紺のコート、それに合わせた西洋貴族のような衣服に身を包み、季節に合わず重苦しい姿をしていた。
包帯に覆われたその内側にある紅玉の瞳が、霞の顔をしっかりと見据えている。
その後ろ、小柄なその肩越しに、依頼人の荒牧が座していた。
彼は唇を噛み、息をひそめ、祈るように両手を膝の上で組んでいる。
まるで、言葉を発した瞬間、何かが壊れてしまいそうな空気だった。
重く、重く、空気が体にのしかかる。
その沈黙を破ったのは霞だ。
「それでは、はじめさせていただきます。
先ほど説明したことは、覚えていますね?」
荒牧は静かに、深く頷いた。
「はい。何があってもここを動かず、朧さんの指示に従います。」
「朧。」
霞は、朧の瞳に視線を合わせた。
朧はゆっくりと頷き、右手を前に差し出した。
霞は小さく唇を動かした、声はなく、変わって朧の喉から声は紡がれた。
小さく軽やかな声が、広い室内の隅々まで広がっていく。
重くのしかかった空気のすき間を縫い、閉じきった扉を越えて、きれいな鈴の音が鳴り響くように……。
突如、霞の体が大きく揺れた。
霞は強く顔を顰めながら、決して朧から目を離さず、術を紡ぐ唇を動かし続けた。
額や首筋から汗を流し、大きく息が上がる。
朧の唇から術が紡がれる。
紅玉の瞳が、部屋の中のある1点に止まった。
指を2本……人差し指と、中指を揃え、印を結んだ。
すると急激に、部屋の中の空気が浮き上がるような感覚を覚えた。
荒牧はビクリと体を竦ませ、マジマジと霞を凝視した。
霞は左手を床に突き、背筋を曲げ、頭を項垂れさせている。
唇はもう動いておらず、朧の声もとうに止んでいた。
朧は後ろに座る荒牧に視線を送った。
荒牧が己の顔を指差せば、彼女は無言で頷いた。
「し、詩織!!!」
荒牧は叫んだ。霞の肩がピクリと揺れる。
静かに、ゆっくりと、霞は顔を上げた。
柔らかな垂れ目が荒牧の顔を捉えた。
部屋の中に、再び沈黙が訪れた。
二人は黙って互いの顔を見つめ合う。
時間にすればほんの1分程度。
しかし、それは永遠のようにも思えた。
霞の瞳に、艷やかな膜が張られた。それはすぐに雫となって、頬を伝う。
「千春?」
霞は……否、本条詩織は掠れた声で男の名を呼んだ。
「詩織!!!」
荒牧は咄嗟に立ち上がった。
そして足を1歩、その場から踏み出したところでハッと我に返り、朧を見下ろした。
「いいよ。」
朧はあっさりと頷いた。
荒牧は詩織の元までのわずかな距離を走り、彼女の体を強く掻き抱いた。
「詩織、詩織……!」
荒牧は、彼女の濡れた髪を梳くように撫でる。
詩織は瞳を瞬かせながら、すぐに決壊したように涙を流し、荒牧の体に縋った。
「千春……っ。」
朧は足を崩し、ぼんやりと2人を眺めた。
2人はメソメソ涙を流し、力強く抱き合ったまま、どちらも互いを離そうともしない。
「何で死んだの。そんなに好きなのに。」
朧は冷たく言い放つ。
詩織は大きく肩を震わせた。
怯えるような眼差しを荒牧に向ける。
「千春……、違うの。本当に、好きだった。
あの言葉に嘘はないの……。幼稚園のお祭りで、初めてあなたと遊んだ時からずっと好きだった。
でも私、本当は……。」
「病気の話、ご両親から聞いた。
余命わずかで、もう結婚なんて間に合わない、すぐにでも入院しなきゃいけなかったと。ずっと、俺のために入院を拒否し続けていたことも。あの時まで生きていたのが奇跡だったってことも。」
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ。」
詩織は両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。荒牧はすぐにその手を取り、両手で頬を包みこんだ。
「いいよ。もういいんだ。
もう一度、あなたに会えたことが全てだ。」
荒牧はそっと、詩織の唇に口をつけた。彼女の体を抱きしめ、何度も何度も、唇を合わせた。
「はぁ。」と、朧は息を吐き、宙を仰いだ。
時計の針がどんどん時を刻んだ。
2人はあれから言葉を交わすことなく、かといって互いの体から手を離すわけでもなく、肩や胸に縋って啜り泣いていた。
朧が3回目のため息をついた時、ふと部屋の中の空気が揺らいだ。
詩織の体……もとい霞の体を見つめれば、肌は青白く、全身に汗が滲んでいることが分かった。
朧は再び姿勢を正し、投げ出していた足を綺麗に折りたたんだ。
「終わりよ。元の場所に戻って。」
荒牧に淡々と告げると、彼は大きく目を剥き、顔を真っ赤にして声を荒げた。
「嫌だ!あともう少し、あと1時間……いや、30分でいいから!!!」
「だめ。彼女の体を見て。もう限界。」
荒牧はおずおずと詩織の体に視線を落とした。
真っ白の着物には薄っすらと汗が滲み、顔面は蒼白し、唇はわずかに青い。
目は充血し、瞳から流れる涙はもう冷や汗と見分けることが難しくなっていた。
「そ、そんな……。でも、まだ、何も彼女に言えていない!」
「彼女をもう一度殺すつもり?」
冷淡に告げれば、荒牧は顔を青くし押し黙った。
「千春……。」
詩織は体を伸ばし、荒牧の体を包み込んだ。
最後に一度だけ唇を重ね、そしてぎこちなく笑みを浮かべた。
すぐに笑みは消え、苦悶の表情を浮かべながらその場に崩れ落ちた。
「し、詩織!!詩織!!!」
「どいて!!」
朧は立ち上がり、荒牧の体を突き飛ばした。
すぐに右手を詩織の体に向け、空気を切り裂くように印を結んだ。
その瞬間、部屋の中の空気が淀んだ。
その後、彼女が消えゆくとともに、少しずつ、少しずつ、空気の重みが消えていった。
「詩織、詩織は!?」
荒牧は詩織だったものに駆け寄った。
体を揺さぶり、頬を柔らかく叩く。
朧はその体の隣に立ち、ジッと刺すような目で見下ろしていた。
この騒動で、盃に注がれた酒は溢れ、和菓子は落ち、その中の1個が潰れていた。
詩織は、霞は、呼吸を浅くし、間もなく強く咳き込んだ。
何かを吐き出すように強く、強く咳をして、少し上体を起こし頭を抑えた。
荒牧は彼の体を支え、そっとその顔を覗き込んだ。
「あぁ……くそ。頭痛え……。」
霞は小さく呻き声を上げた。
荒牧は一瞬体を大きく震わせた。目を剥き、言葉を紡ぎかけた唇から力が抜け落ちた。
その後、すぐに我に返ったように頭を振り、彼は声を出した。
「は、晴藤さん。水飲みますか?」
「水と塩を、それからもう1回シャワー貸して。」
「はい!」
荒牧は大慌てでキッチンに飛び込んだ。
朧は未だ呆然と立ち尽くし、霞を見下ろしていた。
霞は袖で濡れた目元を拭いながら、朧の顔を見上げる。
「はっ、なんて顔してんだよ。」
霞は腕を伸ばし、羽根付き帽子を取っ払って頭を乱雑に撫でた。
「喜ぶんじゃなかったのか?」
霞はくしゃりと笑った。
朧は何もせず、何も言わずその場に立ち尽くしていた。
霞が水と塩を飲み込み、シャワーを浴びている間、ぼんやりと宙を見つめ、途中思い出したかのように体を動かすと、何となく帽子を拾って、それをくしゃりと握りしめ、ぽてんと床に座り込んだ。
朧は彼の、あの表情を、ずっと、ずっと、忘れる事ができないでいた。
網膜の裏まで焼かれたかのように、ジンジンと熱い熱を帯びながら、彼女の胸の中に残り続けていた。