春の兆し、溶ける雪。 2
「ただいま戻りました。」
天音が誰もいない空間に静かにそう告げると、霞と朧は言葉を連ねた。
「おじゃまします。」
天音は靴を土間の端に揃えて置き、廊下に上がると、くるりと2人の方を向いた。
「霞さま、ここはあなたの家でございます。
"ただいま"と申してくださいませ。」
にっこりと狐のように目を細めて笑うと、霞は無感情に言った。
「ここは加賀宮の家だろ。俺はそうじゃない。」
「まあ。椿さまが、どんなに悲しい顔をなさるか……。」
眉を八の字に寄せる天音を横目に、霞と朧は表情ひとつ変えず、靴を脱ぎ廊下へ上がった。
霞が2人分の靴を揃えて土間の脇に置く。
磨き込まれた床板は足袋越しにもひんやりと冷たく、踏みしめるたびに微かなきしみが足裏に伝わる。
天音の先導で歩みを進め、扉を1つ通り抜けると、再び鼻腔に青々とした清らかな自然の匂いがくすぐった。
廊下の片側には白く透ける障子がいくつも並び、反対側は縁側越しに美しき日本庭園が広がる。
外壁の向こうで風が竹を揺らし、葉擦れの音が廊下の静けさに溶け込んでいく。
3人は無言のまま廊下を進んだ。
踏み出すたびに床が小さく鳴り、その音は屋敷の奥へと吸い込まれていった。
やがて廊下は緩やかに曲がり、縁側沿いの先、突き当りの所で天音は足を止めた。
そして流れる動作のまま廊下に膝をつき、霞と朧も天音の隣に正座をした。
「――椿さま。天音でございます。
ただいま戻りました。」
障子の向こうで人が動く気配がした。
「開けなさい。」
続いて聞こえてきた声は、穏やかで気品に満ちた女性の声だった。
しかし天音はいつになく硬い表情で「はい。」と短く返事をした。
そして膝をついたまま障子を開け、廊下に手をついて深々と頭を下げる。
霞と朧も息を揃え、頭を下げた。
指先で触れた廊下の板はヒヤリと冷たく、不規則に描かれた木目をじっと見つめたまま、この場に敷き詰められた緊張感のみが徐々に膨らんでいく。
誰も、何も言葉を発しなかった。
この無言に耐えきれず、とうとう霞が口内に溜まった唾を飲み込み、口を開いた。
「ご無沙汰いたしております。
何度も仕事を回していただいたにも関わらず、直接お礼に伺えず、申し訳ございません。」
「えぇ、そうですね。何度か手紙でのやりとりはありましたが、本当に久しぶりですわね。
さぁ、霞さん。部屋にお入りなさい。」
「……はい。」
霞は軽く会釈をしながら立ち上がり、1人部屋の中に入る。
そして、加賀宮椿は座布団の上に正座したまま、視線のみをチラリと廊下にやり、冷たく言い放った。
「天音、"それ"を離れに連れて行って。」
「かしこまりました。」
霞はほんの一瞬足を止め、部屋の奥の何もない所を密かに睨み付けた。
そして再び足を踏み出し、椿の正面に用意された座布団に腰を下ろす。
廊下では天音が「失礼いたします。」と硬い声で告げ、音もなく静かに障子が閉められた。
「……叔母さん。あの少女は僕の式神の朧です。
"それ"呼ばわりは辞めていただけませんか。」
霞は開口一番、膝の上で拳を強く握りしめはっきりと言った。
すると椿は口元に手を添え、妖艶に微笑んだ。
若草色の着物が腕の動きに沿って、柔らかく揺れた。
「霞さん、あなたって本当に優しい子ね。
どんな物にも愛情を注いであげられるのは、あなたの良いところよ。お母さま譲りに違いありませんわ。」
霞は僅かに頬を引きつらせた。
しかし、すぐに気持ちを切り替え畳に両手を付き頭を下げた。
「この1年間、未熟者である僕にいくつも仕事を紹介していただき、ありがとうございました。
昨年の誕生日会当日に家出をしただけでなく、盆も正月も帰省をせず、拾っていただいた恩を仇で返すような真似をどうかお許しください。」
「そんな!頭を上げてください。
恩を仇でだなんてとんでもありません。
あなたにとってこの家は少し狭すぎただけのこと。
旅先でのあなたの活躍は耳に入っております。
あなたはとても素晴らしい選択をしたと、私は喜んでおりますのよ。」
椿は慌てて霞の手を取り、そっと頭を上げさせた。
ささくれひとつない白い手が霞の左手を柔らかく握りしめたまま、もう反対の手が肩を滑らかに滑る。
霞は一瞬顔を強張らせ、すぐに取り繕ったように笑みを浮かべ、椿を見つめた。
「ところで叔母さん。本日僕を呼んだのは、まさか本当に誕生日会のためですか?
もっと他に、要件でもあったんじゃないですか?」
すると椿は眉を寄せ、悲しげに目を細めた。
霞は怪訝に思いながら返事を待つと、彼女は重い口を開いた。
「あなたは、あと2つで18歳……成人になりますね。」
「……はい、そうですね。」
「あなたは晴藤の最後の生き残りとして、そして加賀宮本家の血を引くたった1人の男の子として、果たさなければならない務めがあります。」
そう言って椿は立ち上がり、机の片隅に置かれた真っ白の冊子の束を手に取り、霞の前に置いた。
「これは?」
「お見合い写真です。
今週中に必ず、この中の1人と会っていただきます。
どの娘にするのかを、明日までに決めてください。」
霞は口元に必死に笑みを張り付け言った。
「お見合い!?さ、さすがに早くないですか?
まだ成人まで2年もあります。
晴藤の血を残さなければならないことは承知しておりますが、しかし――」
「いいえ。2年しかないのですよ。
我々の仕事は常に死と隣り合わせにあるのです。
どうか、分かってください。」
霞はお見合い写真の真っ白な表紙にそっと視線を落とした。
そして唇を固く引き結び、酷く冷え切った指先を畳に付き頭を深々と下げる。
「……承知いたしました。」
霞の声が静まり返った部屋の中に低く響き渡った。
椿は桃色の唇に小さく笑みを浮かべ、うっとりと目を細める。
「きっと、素晴らしい娘に出会えるわ。
今回のお見合いがうまく行かなくても、次があります。
2年かけて、あなたにピッタリの娘を探しましょう。」
「えぇ、そうですね。」
霞は頭を上げ、椿の顔を静かに見つめ返した。
すると彼女の手が霞の頬をそっと撫でる。
身体が触れ合うほど距離を詰め、彼女は目を伏せ言った。
「あなたは本当に、菊司さまにそっくりね。
容姿も、声も、妖艶な雰囲気も、何もかも。」
「近頃よく言われます。若い頃の祖父の生き写しだと。」
「どうして、芙蓉は晴藤家に婿入りなんてしたのかしら。
あなたはこんなに菊司さまの血を濃く継いでいるのに、あんな出来損ないの血が入り混じっているなんて……。
そうでなければ、芙蓉があなたの父親でなければ、私がきっと晴藤家の立派な跡継ぎを産んで差し上げたのに……。」
椿の手が、霞の背筋をそっと撫で上げた。
霞は奥歯を強く噛み、膝の上で拳を固く握りしめる。
ゾワゾワと悪寒が走り、全身はびっしりと鳥肌に包まれた。
それでもどうにか、沸き上がる感情を押さえつけ、冷静に口を開いた。
「……僕は、加賀宮芙蓉が父親で良かったと、心から思っていますよ。
陰陽師としてなら祖父の方が優れていたかもしれませんが、それ以外の事は何もかも全て父の方が優れていました。
厳格で我慢強く、それから温かくて優しい、僕の大切な父親です。」
椿は目を細め、温かな眼差しを向け、感極まったように口元を抑え言った。
「本当に、あなたは立派に育ちましたね。
芙蓉とは違って、賢くて優しい、素晴らしい人ね。」
「お見合いの件ですが、今日の夕食後にお返事いたします。」
霞は間髪入れずに強い口調で言った。
もう苛立ちを隠すことなく、椿を睨むように見つめ言葉を続ける。
「客間をお借りして、休ませていただいてもよろしいでしょうか。」
すると、椿は目元に柔らかなシワを刻み微笑むと、静かに立ち上がった。
「えぇ、もちろん。隣の部屋が空いていますから、そちらを使いなさい。
横になりますか?すぐにお布団を敷いて差し上げますわね。」
「いいえ、結構です。僕は朧と一緒に離れに泊まりますから。
その方が修行もはかどりますので、そうさせてください。」
「霞さんがそうおっしゃるのなら、好きな部屋をお使いなさい。夕飯はぜひとも私の部屋で食べてちょうだい。」
「えぇ。朧と一緒に伺います。
それでは失礼します。」
霞はにっこりと微笑みながら軽く頭を下げると、お見合い写真の束を引っ掴み、足早に障子を開け部屋を飛び出した。
背後でどうにか彼を引き留めようと必死な椿の声が聞こえるが、全て無視し、急ぎ足で離れに向かう。
中庭沿いに廊下をぐるりと歩み、2階へ続く階段を駆け上がり、一番奥にある障子に手をかけた。
そして素早く部屋の中に身体を滑り込ませ、後ろ手に障子をピッタリ閉じると、霞はようやく全身から力を抜き、畳の上に崩れ落ちた。
そんな彼を、一足先に部屋で休んでいた朧は不思議そうに見つめて言った。
「おかえり。」
朧は上体をだらりと机の上に投げたまま、急須を掴み新しい湯呑に煎茶を注ぎ入れる。
「お茶、飲むでしょ?」
「……飲む。」
霞はお見合い写真を雑に放り出し、朧の隣に移動すると差し出された湯呑を手に取り、そっと口をつけた。
舌先がひりつくような熱さと、お茶とは思えない苦味と酸味が一気に広がり、霞は強く顔を顰めた。
「まっず!なんだこれ!!」
「煎茶だって。天音が淹れたの。」
「ほんっっとに、この家の人間はどいつもこいつも……」
霞が急須を引っ掴み、蓋を開けて中を覗くと、そこは山盛りの茶葉と毒沼のように濃い緑色のお茶が大量にあった。
まさかと思い、朧の手元にある湯呑を見ると、その中は空っぽで水滴1つ付いていない。
「……お前、飲んでないのかよ。」
「うん。天音が淹れるお茶、いつもマズいもん。
霞が淹れたのじゃなきゃヤダ。」
ツンと唇をとがらせる朧に、霞は頬を引き攣らせながら飲みかけの湯呑を押しつける。
「……お前も飲めよ。」
「嫌よ。マズそうな顔してたじゃない。」
「だから飲めって。なんで俺だけなんだよ。」
「霞だからよ。私は飲まない。」
「あのなぁ。」
霞は大きく息を吐きながら天井を仰いだ。
そのうち自然と表情が和らぎ、穏やかな瞳で隣に座る少女を見下ろした。
「何?」
朧が首を傾げると、霞は小さく首を振った。
「いや、なんでもない。」
「そう。」
朧は小さく返事をすると、ポケットの中からペットボトルの水を1本取り出し、新しい湯呑に注いだ。
先に注いだ分を霞に渡すと、霞はそれを受け取り一気に喉に流し込んだ。
それからぼんやりと客間を見渡した。
壁に掛けられているのは、美しい水墨山水の掛け軸。
部屋の隅にはライラックの花が花瓶に挿されており、柔らかな花の香りが微かに漂っている。
それから古びた桐箪笥や傷が所々に刻まれた襖に視線を滑らせ、再び朧のふわふわとした頭に目を留めた、
「……朧ってさ、父親は存在するの?」
ふと霞が尋ねると、朧はほんの少し目を丸めながら首を振った。
「分からない。会ったことないし聞いたこともない。
ママだって、あなたたちの言う母親とは全然違う存在だったわ。
育てられた覚えも、愛情を注がれた覚えもない。
ただ私が生まれたときからずっと、一緒にいただけの人よ。」
「血の繋がりがあるってだけ?」
朧は視線を宙に浮かべ、小さく首を傾げながら答えた。
「そうじゃないの?私と同じ種族の人に会ったことないから分からないけど。
でも……この世界のほとんどの生き物に雌雄があって、番になることで子どもが生まれるのなら、私のパパは存在するかもしれない。」
霞は小さく「ふぅん。」と頷き、湯呑の水に口をつけた。
そして、視線を天井の隅に滑らせながらぽつりと尋ねた。
「朧も、子どもが欲しいと望めば産めるのか?」
「えっ。考えたこともなかったけど……どうだろう。」
朧は何度か瞬きを繰り返し、手の中の湯呑にそっと視線を落とした。
「もし、私があなたたち人間と同じように、ママのお腹から生まれてきたんだとしたら、可能性はあるかもしれないけど……もう確かめようがないし、分からないわ。
どうしてそんなこと聞くの?」
「あぁ、それはさっき叔母さんが――」
霞はそこで突然言葉を切った。
口をポッカリと開けたまま、みるみる顔が真っ赤に染まり、頬の筋肉が小刻みに震え始めた。
「霞?」
朧がずいっと顔を近づけると、霞は全身を跳ねさせ大きく仰け反った。
「ち、ちがう!!!本当に、ただの興味本位で……きっかけは叔母さんだっけど、他意は無いし、ほんと……全然そういうつもりじゃなくて……。」
「えっ?」
朧は首を傾げた。
本当に霞の質問の意味を理解できていない様子で、純真な瞳で真っ直ぐ霞の顔を覗き込む。
霞は身体中にびっしょり汗をかきながら、右手で顔を隠すよう抑え、必死に首を横に振る。
「叔母さんからさっき、い、言われたんだ。
あと2年で成人だから、そろそろ跡取りのことを考えろって。だから、今週中にお見合いして、将来の結婚相手を探せってさ。」
「跡取り……結婚……」
「俺はもう、朧以外の女の子に興味ないし、結婚とか考えてない。
でも俺が子どもを作らなかったら晴藤の血は完全に途絶えるわけで、だから本当に興味本位で聞いただけで……」
最後の方をごにょごにょと言葉をぼかし、そしてとうとう口を噤んだ。
耳まで真っ赤に染め上げ、朧の瞳をそっと覗き込むと、彼女の顔も突然火が付いたように赤くなった。
「わ、わたしが、霞の赤ちゃん産むの?」
「だあああ!!言うなって!!!
そんなつもりはなかったんだよ!!!
本当に、俺の立場として、何となく聞いただけで、だから朧にそうして欲しいとか、そんなつもりは全くなくて……」
「でも、そうしないなら……霞は人間の女の子と結婚しちゃうの?」
朧の声が小さく沈み込んでいく。
霞は暗い表情の彼女を真っ直ぐ見つめ、細い手首を力強く掴んだ。
「……だから、聞いたんだけど。朧は人間の男と、子どもを作れるのかどうか。」
朧の肩が小さく震えた。
大きな瞳を目一杯開き、包帯越しに熱い視線を向ける。
震える手で自分の心臓を掴むように服を握りしめ、鈴の鳴るような可憐な声で囁いた。
「た、試してみる……?」
「試しませんっ!!!」
霞は間髪入れずに強く叫んだ。
すると朧はほんの少しホッとしたように身体の力を抜き、視線を床に落として笑った。
霞はガシガシと自分の頭を掻き、苦い顔で朧を見つめた。
「そもそもお前、俺のこと好きかどうか分かんねえって言ってたろ。
身体だってまだ全然幼いし、さすがにそういう気にはなれない。
だから、今は本当に俺の子どもを産ませたいとかないし、男の欲を向ける気も全くないよ。
だから……変なこと聞いて悪かったよ。」
朧はそっと視線を上げ、小さく微笑みながら返した。
「う……うん。ビックリしちゃって、ごめんなさい。」
「それからなぁ、"試してみる?"とか簡単に言うなよ。
そういう気がなくても、頭がバグるから。」
そこまで言い切って、霞はようやく身体の力を抜いた。
両腕を畳に投げ出して、部屋の天井付近を仰ぎ見る。
一度大きくあくびをすると、朧は口を開いた。
「眠そう。お昼寝しちゃう?」
「……そうだな。」
霞は壁掛け時計を一瞥すると、重い腰を上げ、部屋の奥にある襖をそっと開けた。
押し入れの中に布団が二組、清潔な真っ白なシーツに包まれ、ふわりと柔軟剤の匂いが鼻腔をくすぐる。
霞はなんでもない顔をして、そっと朧を振り向き尋ねた。
「一緒の布団で寝ようか。」
朧は少し唇を小さく開き、霞の顔を見上げた。
そして眉をほんの少し寄せ、困った顔で笑いながら小さく頷いた。
「眠るだけよ。」
「もちろん、眠るだけな。」
霞は妖艶に目を細めて笑い、機嫌よく押し入れから一組の布団を取り出した。




