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春の兆し、溶ける雪。 1


白い大理石のタイルが張り巡らされたホテルのロビー。

顔を上げれば豪華絢爛なシャンデリアに圧倒され、カウンターには大きな花瓶の花が生けられている。

霞と朧はニコニコと満足そうな顔で受付のスタッフに声をかけた。


「チェックアウトでお願いします。」


霞はルームキーを2枚カウンターに置いた。

スタッフはにこやかにパソコンを叩くと、大人の腕の長さに匹敵する伝票を発行し、金額を提示した。


「お支払い方法はいかがなさいますか?」

「クレジットカードでお願いします。」


スタッフがレジ端末を操作する間、朧はそっと伝票を覗き込んだ。

最上階のレストラン利用が5回、バーの利用が3回、朝食・昼食のルームサービスと、ワインのボトル2本、シャンパン2本、エステの利用を3回、クリーニングの利用を2回、ベッドのシーツ交換7回……その他読むのも億劫になるような項目がずらりと連なっている。

一番下に太い字で書かれた金額には、さすがの朧も目を疑った。

しかもここには部屋の代金が含まれていない。

チェックイン時に支払ったそれも含めると、到底ホテルの宿泊で見ることのない、とんでもない金額だった。


「あんまり行かなかったな。」


霞がポツリと呟くと、朧は白い目を向けた。


「だいぶ使ってる。」

「まだ1割しか使ってない。」


霞が言うのは、例の“秘密の仕事”で得た報酬だ。


触れるのも嫌だった。

できることなら、どこか遠くへ投げ捨てたかった。

だが、“諸事情”によりそれは叶わない。

かといって、貯めておく気には到底なれなかった。

あまりにも、手触りの悪い金だった。


せめてこの1週間で、できる限り使い切ってしまおうと決めた。

高級ホテルに滞在し、やたら高いシーツを毎日取り替え、1番高い酒を浴びるように飲んだ。


何も考えず、ひたすら金を吐き出すように。

それでも、まだ大量に残っていた……。


「もうあきらめたら?」


朧が淡々と告げると、霞は唇を小さく結んだ。

それから手早くチェックアウトの手続きを済ませ、朧の肩にさりげなく手を置きカウンターに背を向ける。

だだっ広いロビーを縦断し、玄関に差し掛かったところで大きく天井を仰いだ。


「着物、新調しようかな。」

「いいじゃない。同じ色合いの2着だけだったし。」

「裾も袖も何回も縫い直してるし、だいぶ擦り切れてきたし。」


朧は霞の着ている狩衣の袖をつまみ、白く細い糸で不器用ながらに縫い直した跡を見つめ頷いた。


「これも新しくしたら?」

「一応これ、父さんが加賀宮の家に置いていった仕事着なんだけどなぁ。」


霞がぼやくように言うと、朧は「へぇ」と生返事を返し、自動ドアの前に立った二人の会話は徐々に途切れていった。


ホテルのドアが音もなく開く。

眩しい朝の光と共に、爽やかな風が吹き込んだ。

湿気の少ない、過ごしやすい気温だ。

遠くで鳥が軽やかに鳴いている。


そして、玄関の脇……日陰に立つ1人の人物がぬらりと2人の前に立ちはだかり、声をかけた。


「お待ちしておりました。」


長い銀髪を丁寧に結い上げ、濃い藍色の着物に身を包んだ女が、深々と頭を下げる。


「天音……。」

「最悪。」


霞がうんざりとしたような声を漏らし、その傍らで朧はあからさまに顔中をしわくちゃにして嘆いた。


「要件は?」


霞が尋ねると天音は瞳を狐のように細めにっこりと笑う。


「そう身構えないでください。本日は仕事とは何の関係もございませんのよ。

椿さまがお呼びです。本邸にお戻りください。」

「……仕事のほうがマシだったよ。」


ボソリと霞は言った。

朧は霞の着物の袂を掴み不安そうに身体を寄せる。


「なんで急に……何の用なの?」

「まぁ、どうして私があなたの質問に答えなきゃいけないの?」


天音は笑みを貼り付けたまま小さく首を傾げた。

霞は不愉快そうに眉を寄せ、低い声で言った。


「天音、質問に答えろ。」

「……霞さま、明日は霞さまのお誕生日でございます。

加賀宮本邸で、親戚一同集め、お誕生日会をいたします。

昨年は霞さまが欠席なさった為、椿さまもご分家さまも大変悲しんでおりました。

ですので、何が何でも連れ帰るように命じられておりますの。」

「今年も欠席だって叔母さんに言っといてくれ。」


霞が小さくベロを出して見せると、朧も全く同じタイミングで長い舌をべーっと突き出した。

そのまま朧の肩に腕を回し、天音に背を向けようと足を踏み出したところで、天音は霞の背に縋り付いた。


「困ります!命令に従わなければ、私の首が飛んでしまいます!

椿さまのお人柄は霞さまがよくご存じのはずですわ!」

「そうだな、俺の知る限りお前は5人目だ。

前任者たちはみんな叔母さんの逆鱗に触れ、首を切られていったよ。」


霞は足を止め、おいおいと涙を流す天音の声を聞き、天を仰いだ。

朧は白けた目で天音を見つめ口を閉ざしている。


「どうか御慈悲を。お願いします。」


天音は細く震える声を溢し、目を伏せた。

すると霞は大きく息を吐いて言った。


「分かったから!帰ればいいんだろ……。」


頭をガシガシと掻きながら後ろを振り向くと、天音は素早く仮面を付け替え、にっこりと涼しい顔で微笑んだ。


「ありがとうございます!

霞さまならそう言ってくださると思っておりました!」


霞はゲンナリと眉間にしわを寄せた。


「嘘泣きよ。口はずっと笑ってた。」


朧が無感情に呟くと、霞はこめかみを抑え頷いた。


「分かってるよ。でも、叔母さんは本当にやるからな。」

「やってもらったら良いのに。」

「解雇って意味なら大賛成だったよ。

……って、それよりも。」


霞は天音に向き直り、彼女の瞳をじろりと睨んだ。


「ここから本邸までどれだけかかると思ってんだ。

明日の誕生日会ってのは何時だ?呼びつけるならもう少し早く来てくれ。」

「お迎えが遅くなった件については申し訳ございません。霞さまの周りを彷徨く胡散臭い輩がおりましたので、なかなかお声掛けのタイミングもなく、この時間までかかってしまいました。

お誕生日会は明日の19時から、ご分家さまがたはお昼過ぎの到着と伺っております。」

「胡散臭い輩……?」


霞と朧は同時に顔を見合わせた。

天音は2人の反応を気に留めることもなく言葉を続けた。


「本邸までは、私たちの"道"を使います。

人が使う道とは違って、幾分距離を縮められますから、お誕生日会まで十分な休息を取れるかと思います。」

「お前たちの"道"?」


首を傾げる霞に、天音はわさとらしく両手で口元を覆い目を大きく丸めた。


「まさか、知らないんですか!?

朧、あなた"道"に入れないの?」

「おい、それを続けるつもりなら俺は帰らねぇからな。」


霞は目を剥き鋭く天音を睨み付けた。

天音は一切動じることなくにっこりと笑みを浮かべる。


「失礼いたしました。"道"というのは私たちの本来の住処のこと。まるで布を1枚めくるように、世界を開いた先にあるもう一つの世界。

人間である霞さまは、1人で立ち入ることは出来ません。」


霞は「ふぅん」と相槌を打ちながらも、天音の言葉に強く興味を引かれていた。


「……それで、その“道”ってのはどこにあるんだ?」


天音は怪しく目を細めると、霞たちに背を向け腕を伸ばす。

そして、目に見えない布をそっと払うように、空気を撫でた。


その瞬間、空間の一部が変質した。


どこにもなかったはずの“それ”が、視界に突然現れる。

まるで最初からそこに存在し、目が認識していなかっただけのように。

大きな四角い闇。黒一色で、奥行きも、終わりも見えない。

ただ、確かに"向こう側"だとわかる何かがそこに開いていた。


霞はごくりと息を呑んだ。


「これが、そうなのか?」

「はい。これが"道"です。

私たちの世界へ繋がる入り口ですわ。」


天音は振り返り、霞と朧に右手と左手を差し出す。


「さあ、お手をどうぞ。霞さまおひとりでは、この"道"を歩くことはできません。

もちろん、"道"を歩いたことのないあなたも。」


朧はわずかに眉をひそめたが、何も言わずに天音の手を取った。

霞も躊躇しながら手を伸ばし、白雪のように白い手を握った。


「けっして、その手を離さぬよう――。」


そう告げた天音が、一歩踏み出す。

境界を越えたその瞬間、身体が地面からふっと浮いたような感覚に包まれる。


光が消えた――。

しかし、不思議と視界は良い。

外の世界と変わらず足元は明るく、見渡す限りどこにも闇と呼べるものはない。

ただ、真っ黒で虚ろな空間が果てしなく広がっている。


目の前には1本の道があった。

それは一般的な道路と変わりなく、しかし建物などの障害物はない。

時折あちこちに枝分かれしながら、どこまでもどこまでも続いている。


「ここには何もないのか?」


霞は前を歩く天音の背を見つめ尋ねた。


「いいえ。ちゃんと存在しています。

この地に生きるものたちの居住スペースがあり、水や食べ物もあります。

ただそれは、人の目にはほとんど映りません。

どんなに霞さまが素晴らしい陰陽師であったとしても、この世界ではほとんど通用しません。」


澄んだ天音の声は静かにこの虚ろな世界に響き渡る。

会話が止むと、当たり前のように音が消えた。

ただひたすら、3つの足音が乾いた地面に規則正しく落ちていく。

耳が痛いほどの静寂に、簡単に心が押し潰されそうだと霞は思った。


しばらく歩み続けると、ふと道の向こうから別の音が近づいてきた。


重い、重い、足音のようだった。

地面を踏みしめるたび、わずかに揺れるような感覚が足裏に伝わる。

音は4つ……それは2つずつに分かれ、交互に規則正しく地面を踏んでいる。

四つ足だ。それも、大型の――。


霞は身体を強張らせ、視線を音の方へ向けた。

姿は見えない。だが確かに、こちらに向かって来ている。

天音が、足を止める気配はない。

どんどん近づいてくる。

音が目の前に差し迫り、呼吸が一瞬浅くなった。


ふと、天音が歩みを止めた。

前方の空間へ、ごく小さく、しかし丁寧に会釈する。

朧も真似をして、同じように頭を下げる。

霞には何も見えない。ただ、そこにいる何かは確かに霞たちの脇をゆっくり通り過ぎていった。


そしてまた天音は歩き始める。

枝分かれした道を、右へ、左へと曲がって進む。


「本邸までどれくらいで着くんだ?」


霞が尋ねると天音は前を向いたまま答えた。


「30分ほどでございます。」


続いて朧が霞の顔を覗き込んで尋ねた。


「前はどれくらいかかったっけ。」

「電車を何本も乗り継いで、そこから山をいくつも越えた。

3日かかったよ。人に道を聞きながら、買い込んだ飯は早々に尽きて、川の水を飲んで、夜になると明かりは1つもなくて、真っ暗な山で寒さに震えながら夜を明かした。

……もうあんな思いはたくさんだ。」


霞が遠い目をしながら答えると、朧は「そうね。」と短く返事した。


足音がまた、虚ろな空間に細く響き渡った。


やがて、枝分かれした道をいくつも抜けたところで、天音がふいに足を止めた。

何の前触れもなく、静かに小首を傾げ、淡々と告げた。


「着きましたわ。」


そう言うなり、天音はためらいもなく道の外へ足を踏み出した。

霞は思わず息を呑む。

そこにあるのは、地面でも何でもない、ただの"無"だ。

光も、影も、形も、境界すらもなく、世界から切り取られたかのような空白が、目に映るかぎり広がっている。

それは色でいえば黒だが、闇とも違う。

何もないからこそ黒く見えるだけの、底の知れない穴。

もし踏み抜けば、音もなくどこまでも落ちていく――そんな感覚が、背骨を氷のように固めた。


霞は天音に強く腕を引っ張られ、目を固く閉じて道の外側へ足を踏み出した……その瞬間肌に触れる空気が何もかも一変した。


耳を包んでいた圧迫感がほどけ、代わりに風のざわめきが押し寄せる。

眩しい光が瞼の表面を強く焼き、霞は反射的に閉じた瞼に更に力を込めた。


肌に、耳に、鼻に、数多の情報がとめどなく押し寄せてきた。

葉が擦れ合う音が、遠くの小川のせせらぎと混ざり、鼻腔に湿った土と緑の匂いが満ちる。

頬を撫でる風は、涼しく清らかで、大地をしっとりと湿らせる土は、僅かに弾むような柔らかさがあった。


霞は深く息を吸い込み、そっと瞼を開けた。

肺の奥まで、新鮮な空気が流れ込み、美しい竹林と木々の隙間から差し込む陽光がキラキラと網膜に映る。


さっきまでの虚ろが、まるで夢か何かに思えるほど、この世界は活発な生命の匂いに溢れていた。


「さぁ、加賀宮本邸は目の前でございます。」


天音は霞と朧の手を離すと、再び歩き始めた。

霞は呆然としたまま後ろを振り向く。

そこにはもう、あの虚ろな"道"はなく、どことなく見覚えのある山道が果てしなく続いているだけだった。


「霞、どうしたの?」


朧の声はまるで届いていなかった。

何かに魅せられたように、取り憑かれたように、霞は手を伸ばした。

天音が"道"を切り開いた時と同じように手を振る……すると一瞬空気が捩れ、見えない何かに指先が触れた。


「……っ!」


咄嗟に手を引っ込めると、背後でクスクスと笑う天音の声が響いた。


「まさか、たった一度見ただけで触れることができるなんて……流石ですわ。」

「人間は1人で入れないんじゃないの?」


朧がぼそりと尋ねると、天音は小さく首を振った。


「たまにありますよ。無垢な子どもが私たちの世界に迷い込み、出られなくなってしまうことが。

人間たちはこれを、神隠しと呼ぶそうですよ。」

「そいつらはどうなった……?」

「さぁ、私は見たことがないので……。

でも霞さまもご覧になったでしょう?

私どもと人間では、見えるものが違います。

何もないんです。人間には決して見えない。

だから迷う。出口も見つけられないまま、一生あの世界を彷徨うことになる。

音もない、何の手がかりもないあの空間で、いつかあなたの心は壊れます。

くれぐれも、霞さま1人で立ち入られませんよう、お気をつけください。」


霞は、思わず顔を引き攣らせた。

さっき見た虚ろな黒い景色が、脳裏に鮮やかに蘇る。

道の外に広がっていた、あの底なしの闇。

何もなかった……いや、何も"見えなかった"。


あの世界に一歩踏み込めば、二度と戻れない。

天音の言葉が、現実味を帯びて胸に重く沈んだ。


「……わかったよ。」


小さく呟いた声が、自分でも頼りなく聞こえた。

すると天音は目を細め、にっこりと微笑んだ。


「まぁ、こういう事のために式神がいるのですから、彼女に覚えさせるのが一番でしょう!

もっとも……"道"の概念すら知らなかった彼女にそれができるかは、分かりませんけど。」


着物の袖で口元を隠しクスクスと笑う天音に、朧は分かりやすく顔を顰めた。

そして、天音は再び歩き始めた。


足音が、石畳に乾いた音を落としていく。

くねくねと曲がる傾斜を登っているはずなのに、足元は安定感があり、やすやすと登ることができる。

あの"忘れ里"へ続く山道のような、岩の出っ張りも、木の根の段差も、ここにはない。


大きく息を吸い込むと、竹の匂いがふっと鼻先をくすぐり、胸の奥まで涼しさが降りてくる。

遠くで軽やかに鳴くウグイスの声が重なった。

しかし、その澄んだ音色とは裏腹に、霞の心は鉛のように重かった。


しばらくすると、門が見えた。

瓦屋根のついた厳粛な数奇屋門が、地面に濃い影を落としている。

その手前には、部外者の侵入を阻む厚い結界が張り巡らされている。

天音はまるでそんなものは存在しないというように、平然と結界をくぐり、門を開けた。


一方で朧が結界の手前まで足を踏み出すと、皮膚がピリピリと焼け付くような痛みが走った。

全身をめぐる血液が、細胞の1つ1つが、熱く燃えるように悲鳴を上げている。

腹の奥深くから喉に向かって、何かがこみ上げてきた。

あまりの気持ち悪さに口元を押さえたその瞬間、霞のごつごつとした大きな手が朧の背に触れた。

熱を持った手が、じんわりと朧の体温を奪い、代わりに彼の霊力が胸の中に流れ込んでくる。

全身が痺れ、指先の感覚が鈍ると同時に、朧の身体はふわりと浮き上がるような感覚に包まれた。

皮膚を焼くような痛みはすっかり消え、吐き気も落ち着いた。

そのまま背中を押されると、あっさり結界を通り抜けることができた。

朧はほっと小さく息を吐き、早鐘のように鳴り響く心臓を宥めるように、そっと胸元を押さえた。


3人は門をくぐり、豪華絢爛な庭を抜ける。

松の木が生え、真っ白の小石が水の波紋を描いている。

手入れが行き届いた美しい庭だ。


……1年前と何一つ変わらない。


霞の胸にモヤモヤとした不快感が募った。

胃がキリキリと締め付けられ、足が重くなる。


そして、天音が玄関に手を掛けた。

ガラガラと走るレールの音が、やけに近くに響く。


――もう、引き返すことはできない。


霞は頭の端々に浮かぶ記憶を振り払い、意を決して玄関の敷居をまたいだ。


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