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蒼く揺らぐ心 2


「あれぇ?」


朧は間延びした声とともに突然腕を引かれた。

その人は、朧のすぐ真後ろに立っていて、彼女の白く細い腕に男の指が強く食い込む。


「偶然だねぇ、また会えたねぇ。」


温度のない黄金色の瞳が三日月のように歪み、朧の目を見下ろした。

深い蒼の髪に、黒曜石のように美しい2本の黒い角……。

群青色の絹の着物はシワ一つなく、気品に満ちた光沢があった。


「……蒼月。」


朧はギロリと男を睨んだ。

蒼月と呼ばれた男はニッコリと貼り付けたような笑みを浮かべた。


「あははっ、名前覚えててくれたんだ。嬉しいなぁ。」


朧はその目で、表情で、全身で不快感というものを出した。


あの日のことは、忘れもしない。

どこかの薄暗い山の中、人里から離れひっそりと暮らしていた朧とその母親。

家族らしいことは何もしていなかったけど、野山に住むキツネやら鹿やらをとっ捕まえ、2人で食べて飢えをしのいでいた。


そんな日常と呼べるのかも分からない虚ろな毎日を突然破壊するかのように、彼はやって来た。

あの張り付けたような笑みを浮かべて、挨拶もそこそこに奴は攻撃を仕掛けてきた。

母親は瞬く間に腹に深い一撃を入れられ、白い雪の上に昏倒した。

拘束具をつけられ、頭に袋を被せられるところを、朧はただ黙って見ていた。

そして朧も、状況を何も理解できないうちにあっさり捕まって、そのまま人間のトラックに乗せられ、どこかに連れて行かれた。


そのあとの事は、正直よく分かっていない。

人間たちにあちこち連れ回されて、商品として値段をつけられて、それはそれは雑に振り回された。

痛かったし、屈辱的だったし、寒かったし、何より空腹が酷かった。


そして奴らは、朧と母親を"忘れ里"に連れてきた。


里の人間は、何人も死んだ。


人間たちは遊び半分で銃を打ち、母親は命じられるまま里の人を石に変えた。

その石を、人間たちは大声で笑いながら粉々に打ち砕いた。

朧は、頭に袋をかぶったまま、母親の気配をただ追っていた。


そして、林道の手前で奴らは自分たちを解放した。

この先にいる人間を皆殺しにしろと命じた。


そんなの無視してその人間たちを殺してやればいいのに、あの瞬間はまるで呪いにかけられたように、自由に物事を考えることはできなかった。


それからまもなくして、母親は霞の父を殺し、そして死んだ。


朧が霞と出会ったのも、その時だ。




今朧の目の前にいる男……蒼月は、あの事件の始まりであり、全てだと朧は考えている。


本当のところを言えば、彼女自身が受けた仕打ちなどはもうどうでも良かった。

結果としてあのつまらない雪山での生活を抜け出して、霞と出会い、夢のように楽しく美しい日々を送っている。

痛かったのも、空腹だったのも、あの一瞬でしかなかった。


だが霞はそうじゃない。

蒼月は霞の家族を殺し、故郷を奪った。

朧は何よりもそれが許せなかった。


「何の用?殺し合いなら大歓迎。

そうじゃないなら消えて。」


朧は氷のように冷たい声で言った。

すると蒼月は、それはそれは面白そうに、口元に手を添え声を上げて笑った。


「あっははははは!!まさか!

だって、君は霞さまの式神なんでしょ?

じゃあ殺せないなぁ。ごっこ遊びならできるけど、やってみる?」

「……じゃあ消えて。」


朧は小さく舌打ちをした。

しかし蒼月は朧の肩を抱き、なんてことないように歩き始めた。

朧は強く顔を顰め、その腕を振り払おうとするが、馬鹿みたいな力で掴まれていて、引き剥がすことができない。


「どうしたの?この間みたいな剥き出しの殺意はどこに行ったの?霞さまに怒られちゃった?

それとも、僕が菊司さまの式神だから手を出せなくなったのかなぁ。」

「離して!」


蒼月の指に爪を食い込ませるが、ビクともしないし、皮膚が裂ける気配もない。

半ば引きずられる形で歩道を歩むと、通りかかる人々が怪訝な顔で見つめてきた。


「式神の契約って、色々僕たちに課せられる制約が多くて、例えば主人に危害を加えることが一切出来なくなるわけじゃん。僕はよくイタズラして、何度もキツイお仕置きを受けたけど。

この制約って、主人の血縁者のその式神にまで範囲が及ぶのかな。それとも単純に主人がそう命じているからなのかな。どっちだと思う?」

「あなた、人の話を全く聞かないのね!」

「君を殺そうとしたらやっぱり術が発動するのかな。

ほら、君がこの間霞さまにされたやつ!首を絞められて地面に縫いつけられたでしょ。」


蒼月はコロコロと表情を変えながら喋り倒し、朧のツンとした小さな鼻を無遠慮に摘んだ。

「痛くない?」と心配そうな顔を見せる彼に、朧はもう反発する気力もなく、ゲンナリした顔で蒼月を睨んだ。


「もう治ったし。恐らく私はあなたを殺せる。

霞が殺すなと命じたからそうしないだけ。

あなたは、やろうと思えば私を殺せるはず。」


淡々としながらも、初めて朧はまともに返事をした。

蒼月は僅かに目を丸め、パッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。


「やっと話してくれる気になった?

そっかそっか。僕はいつでも君を殺せるわけだ。

でも安心して。もう君たち2人に危害を加える気はないよ。……今のところはね。」

「それはどうして?」


朧の問いかけに、蒼月は足を止めた。

それと同じくして目の前の信号が点滅し、赤いランプに切り替わる。


「どうしても無理なんだ。」


蒼月は静かに告げた。


「顔も、声も、匂いも、何もかもあんなに菊司さまに似ていたら、殺せるわけがない。

その式神の君にすら、手を出せなくなった。

これは、紛うことなき僕の意思だ。」


無表情に、無感情に、彼は言った。

彼の言葉が、初めて胸の中に入ってストンと着地した。

朧は僅かに表情を緩め、尋ねた。


「初めて会ったあの日、霞を襲ったのはなぜ?

蝶を放ったのはあなたでしょう?」

「言ったろ?菊司さまと見間違えたんだ。

あの日……あの時……、町中を歩むあの方とそっくりな後ろ姿に全身が震えた。

喜びと、感動と、腹の底から湧き上がる憎悪が、僕を突き動かした。

……でも違った。彼が蝶を払った時に微かに揺れ動いた霊力は、菊司さまとほんの少し、性質が違った。」

「憎い……?晴藤菊司が憎いの?」


ふと、目の前の信号が青に変わった。

蒼月は朧の肩を抱いたまま背中を押し、再び歩き始めた。


「憎いよ。憎い。何十年経っても僕の恨みは晴れない。」

「だから、"忘れ里"を襲ったの?

私とママを捕らえて、晴藤菊司を殺させるつもりだったの?」


朧の声は、もう責めるようなものではなかった。

純粋な疑問として口から溢れた声に、蒼月は緩く笑みを浮かべた。


「本当はね、僕はその件にほとんど関わりがないんだ。僕のパトロンがね、君たちがどうしても欲しいというから捕まえた。多額の金と引き換えにね。

本当に僕は、彼らの目的が山奥の誰も知らない里を滅ぼすことだなんて知らなかったし、興味もなかった。

……知っていても、協力はしただろうけどね。

でも後に、菊司さまが"忘れ里"に住み着き、結婚し、子孫を残していたという噂を聞いた。

まさかそんなこと……僕に想像できたはずがないだろう?」

「知っていたら、何もしなかった?」


朧の問いかけに、蒼月は眉を寄せて笑った。

寂しそうに悲しそうに、ほんの少し瞳を潤ませながら、笑っていた。


「……分からない。僕は分からない。

でもこの間、霞さまは、菊司さまがまだ生きているような事を言っていた。それを聞いて、ほんの少しだけど、安堵してしまったんだ。」


朧は急に胸がドキリと大きく跳ね上がった。

それは、霞が咄嗟についた嘘なのだ。

晴藤菊司はあの事件で死亡している。

この間"忘れ里"を訪れた際に、彼の霊体が「晴藤菊司の死を象徴するものは、あってはならない。」と言った。

だから霞はあのような嘘をついたのだ。


朧は、自分の胸をぎゅっと押さえた。

微かに肩が震え、蒼月が不思議そうな眼差しで朧を見下ろした。


「どうかした?」

「……なんでもない。」


朧は首を大きく横に振った。

すると蒼月は表情を明るくして言った。


「今度は君のことを聞かせてよ。僕はもっと君と霞さまのことが知りたい。」


朧は視線を地面に落とした。

分からなかった。果たして彼に心を許して良いものか。

分からなかった。彼が吐露した感情が、真実が、嘘偽り無いものなのか――。


「……それを知って、どうするの。」


朧は冷ややかに尋ねた。

すると蒼月は面白いものを見るように目を細めて言った。


「また冷たくなっちゃった。

乙女心は秋の空って言葉……いいよねぇ。

人間は本当に面白いことを言う。

君の心も晴れたり曇ったり、忙しそうだ。

何か手伝えることはある?」

「ウザい、あっち行って。」


朧の棘のある言葉に蒼月はケラケラと笑った。

それから、よしよしと犬を構うように朧の両肩を柔らかく揉みほぐし始めた。


「まぁ落ち着きなって。

お腹空いたんじゃない?ちょうどカフェがあるし入ろっかぁ。」

「空いてない。食べたばっか。」

「前に菊司さまと来たことがあるんだ。

何十年も前の話だけど、ここのタルトは絶品だよ?」


朧はピタリと足を止め、蒼月が言うカフェの看板をじっと見つめた。

黒いボードにチョークのようなものでメニューが書かれている。

コーヒーに紅茶、ケーキ、15時を過ぎるとアフタヌーンティーを注文できると書いてある。

時間は残念ながら合わないが、それでも朧の口の中はヨダレで溢れかえっていた。

それをゴクリと飲み込むと、彼女の背後で蒼月はニヤリと笑みを深めた。


「あらら?お腹空いてないんじゃなかったっけ。」

「……私帰る。」


すぐに不貞腐れたような言葉を放てば、蒼月は平然と朧の腕と腰を掴み、カフェの入り口に引っ張った。


「そう言わないで、全部僕がご馳走するからさ。」

「あなた、人間には姿が見えないんじゃないの?」

「使い分けはできるよ。

僕も長く人間界で暮らしているんだ。

君の姿だって人間に見えているだろ?同じだよ。」


朧はハッと目を丸めた。

自分の掌を見つめ、蒼月の瞳を見つめた。

いつの間にか彼の頭に角はなく、冷たい黄金の瞳が温かな茶色に変わっている。

もう、誰かに指摘されないと分からないまでに、完璧に人間に擬態していた。


「さ、これなら何も問題はないだろう?」


朗らかに笑う蒼月に、朧は冷ややかな視線を向けた。







「君さぁ。」


蒼月はゆったりと椅子に座り、コーヒーカップを手に白い目で朧を見つめた。


「お腹空いてないって言ってたよねぇ。」

「うん、言った。」


朧は大きなホールサイズのフルーツタルトにフォークを刺し、一口サイズに切り取ると口を大きく開けて頬張った。

目尻をとろんと蕩けさせ、頬はタルトに乗った艶々のイチゴみたいに赤く染まっていた。


「それで、何を聞きたいの。」


口いっぱいにタルトを詰め込み尋ねると、蒼月は眉間に深くシワを刻んで言った。


「食べ物が口に入っている時に喋らないでください。」


朧はすぐに口の中のものを全て飲み込み、水を一気に煽ると何でもない顔で同じ質問を繰り返した。


「何を聞きたいの。」

「……そうだねぇ、じゃあどうして式神になったの?」


蒼月はカップを机に置き尋ねた。

深く香ばしい匂いがふわりと舞い上がり、タルトの甘酸っぱい匂いと交錯する。

朧は一度フォークを置いて、ぼんやりと宙を見つめて言った。


「そうするしかなかったの。

私の目は霞には効かなかった。石化させることができなかった。

あの時の私は体内の毒も上手く使えないくらい幼くて、成す術がなかった。

殺されるのを待つだけだった。死ぬのは嫌だった。

それから、またあの人間たちのもとに戻るのも嫌だった。

最初に思ったのはそれだけよ。」

「君から申し出たのかい?」

「霞が言ったのよ。

殺せないから式神になれって。」

「ふぅん。」


蒼月はカップを手に取り、そっとコーヒーを口に含んだ。


「君は霞さまに恨まれる立場にあった、なのによく打ち解けることが出来たね。あのマンティコアとの戦いは見ていたよ。

君たちの間に、揺るぎない信頼関係があるのが分かった。

何かきっかけでもあったの?」


そう尋ねると、朧は目を伏せ、首を横に振った。


「知らないわ。ある時突然彼は言ったの――『もう、朧を憎むのは辞める。』って。

だから私も応えたわ。ちゃんと彼の言葉に返事をして、彼の命令にちゃんと従った。

次第に命令なんかなくなった。術で無理やり拘束されることもなくなった。

私はただ、善意で彼のお願いを聞くだけになったわ。

彼は……いつも笑って、私を褒めてくれるの。

たくさんのご褒美をくれるようになった。

いつしか彼は、私を家族と呼んでくれるようになった。」


朧は静かに、緩やかに口角を上げた。

すると蒼月は深く頷きながら穏やかに告げた。


「まるで犬と飼い主だ。いいパートナーだね。」

「犬……?」


朧は絶句したように顔を上げた。


「どうかした?僕は褒めたつもりだったんだけど、気に触った?」


何一つ悪びれる様子のない蒼月に、朧は怒ることは出来なかった。

ただ静かに、「犬じゃない」と簡潔に答えた。


「じゃあ、あれか。親子の方がいいかな。

うん。犬なんて可愛い女の子に言うことじゃなかったよねぇ。ごめんね?」

「親子でもない。違う。」


朧は強く首を横に振った。


「急に難しいことを言うねぇ。

それなら兄妹とか?親子ほど年齢も離れていなさそうだし、そっちのほうがピッタリか。

……これなら気に入ったよね?」

「霞は、そんな事思ってない。

霞は、霞は私のことを……愛してくれるわ。」


小鳥が(さえず)るように、小さく、小さく呟いた。

その声が蒼月に届いた途端、彼は口元を歪めて笑った。


「嘘でしょ?あり得ない!

君、自分の主人を異性として見てるの?種族も違うのに?

しかもまさか、霞さまがそれに応えてくれるだなんて、本気で思っているの?」

「な、何も知らないくせに、なんで否定するの!」


朧はムッとしたように眉間にしわを寄せ、強い言葉で言った。

すると蒼月は何も言わなかった。

自身の腕を擦り、目を伏せた。

そして一瞬、その瞳の中に黄金色の光が通り抜けていった。

ゾッとするほどに美しい彫刻のような容姿に、暗い影が差し込んだ。


朧はそれを見て声が出なくなった。

どうしてか分からないけど、胸の奥がズキズキと痛んだ。熱くて、悲しくて、目の端に涙が滲んだ。


そして、蒼月は言った。


「これはねぇ、君の何十倍も生きてきた僕からの忠告だけどねぇ……やめといたほうがいいよ。

所詮そういうのは、まやかしなんだから。」

「なんで、そんな酷いことを言うの?」

「じゃあ聞くけどね、霞さま以外の男と喋ったことある?逆に女の人とは?あるの?」


朧は予期せぬ質問に目を丸めた。

奥歯をぐっと噛み締め、蒼月の瞳を真っ直ぐ見つめる。

すると蒼月は口元に緩く笑みを浮かべた。


「無かったでしょ?」

「……そんな、こと。少しはある。」

「今みたいにちゃんと真面目に人と会話をしたことはある?

誰かとプライベートの話をしたことはあるかい?

聞かれたことは?尋ねたことは?」


また朧は言葉を失った。

言い返したいのに、張り倒したいのに、頭の中がぐちゃぐちゃになって、何もできなかった。

そんな朧に蒼月はどんどん言葉を畳み掛けた。


「君の世界には、1人の男しか存在しない。

だから勘違いをするんだよ。

霞さまこそが、運命の相手なんだって。

運命もなにも、君はそれ以外の人間を知らないだけなんだ。無知なんだ。」


朧は首を横に振った。

嫌なのに、駄目なのに、聞きたくないのに、それを止める術が思い浮かばない。


「僕は、間違えたとは思っていないよ。

君と霞さまは、犬と飼い主、子どもと父親、妹と兄、そのようにしか見えない。

君が霞さまに向けている感情は、本当に恋なのかい?

誰かが君に恋を教えてくれたことはあるの?

君の中の感情は、ただの家族愛と変わらないんじゃないかい?」


朧はぶるぶると身体を震わせ、自分の身体を強く掴んだ。

泣いてしまいそうなのを必死に堪え、なんとか彼に噛みつこうと、やっとの思いで顔を上げた。


「そういうあなたは、恋をしたことあるの?」

「僕は生まれてから一度も、恋なんかしていない。

そんなのは、全部偽りだったよ。」


蒼月は冷たくそう言い放った。

朧は再び視線を落とした。


頭の中に、さっきの光景がよみがえる。


人混みの中で、転びかけた少女と、彼女の腕を引いて助けた少年。

妹と兄。

兄の、家族を見つめる優しい瞳。

妹の、愛に満ち溢れた純朴で真っ直ぐな瞳。


あれが、あれが本当の私たちなんだろうか。

私の気持ちも、あの少女と同じで――。


朧は、ポロポロと涙を溢した。

包帯が涙を吸って滲み、それでも吸い取りきれなかったものがどんどん頬を伝い、手の甲に落ちた。


蒼月は眉を寄せ、哀れむような顔で朧を見つめた。

椅子から立ち上がって、机に左手を付き、大きな右手でわしわしと朧の頭を撫でた。


「気づけて良かったじゃん。

こういうのって、早ければ早いほどいいんだよ。

今からなら、普通の家族に戻れるって。ね?」

「嫌……嫌よ。嫌!絶対に嫌!!!

好きなの、本当に私、霞が好きなの!!!」

「大丈夫、ね?泣かない泣かない。」


蒼月は柔らかく微笑み、温かく囁いた。


そこに、チリンチリンと玄関に取り付けられたベルが鳴った。

ドタバタと激しい足音がどんどん近づき、大きな男の手がドンと目の前の机に突かれた。


「何やってんの。」


霞は、息をゼーゼーと切らせながら蒼月を睨んだ。

顔に、首筋にじっとりと汗を垂らし、青い着物はぐちゃぐちゃに着崩れていた。

その袖から伸びる逞しい右腕は、朧の頭を撫でる蒼月の腕を鷲掴み、ギリギリと骨を軋ませていた。


蒼月はきょとんと目を丸めた後、まるで面白いものを見るように頬を紅潮させて笑った。


「嘘でしょう!?まさか、こっちの方がマジになってんの?」


蒼月の瞳が黄金色に輝き、三日月のように歪んだ。

霞は冷酷に蒼月を見下ろし、低く地を這うような声で言った。


「失せろ。」


蒼月はクスクスと笑いながら頷いた。


「えぇ、もちろん。霞さまの御心のままに。

お代は私が払う約束でしたので、その通りにさせていただきます。」

「あっそう。」


蒼月が立ち上がる素振りを見せると、霞はその腕をあっさりと離し、机に置かれていた伝票を彼に叩きつけた。


「二度と俺たちの前に現れるな。」

「……その命令には従いません。」


蒼月がニッコリと微笑むと、霞は大きく舌打ちした。


「ところで……」


蒼月は思い出したように口を開いた。

ドクンと霞の心臓が嫌な跳ね方をした。


「霞さまは本当に、あのお方の跡を立派に引き継いでいるんですねぇ。」

「お前とこれ以上話すつもりはない。さっさと――」


霞はこめかみに血管を浮かせ、頬を引きつらせ怒鳴りかけた……その寸前。

蒼月は嘲るような笑みを浮かべて言った。


「まさかこんなお綺麗な顔して、こんな薄汚い臭いと、血のこびりついた汚い手で、愛する女に触れるおつもりですか?」


霞の顔から、表情がすっと抜け落ちた。

朧は涙を止め、薄ら笑いを浮かべる男を食い入るように見つめた。


「この臭いははっきりと覚えている。

菊司さまはこの術が得意だった。最も長けていた。

あの筆使い、練り上げられた霊力、的確に放たれる術、どれをとっても本当に美しい。

人の命が……あぁも簡単にこと切れる。

……ふふっ。そのために朧を1人で街に放り出したんですね。殺人の瞬間を、見られたくなかったんですねぇ。」


「殺人って?」


朧は、震える瞳で霞を見上げた。

その質問に答えたのは、やはり蒼月だ。


「呪殺だよ。たまぁにあるんだ、そういう依頼が。

引き受けるか、引き受けないかはその人次第。

倫理的に嫌う者が多いが、極稀にそういうのを喜んで引き受ける物好きもいてね。

大半は金に目がくらんだ愚か者、残りは、陰陽師として自分の腕を過信し、酔いしれた愚か者さ。

菊司さまは後者だった。きっと、霞さまも同じじゃないかなぁ。」

「ね、ねぇ。霞。」


霞は静かに、感情のない目で蒼月を睨んだ。

朧が霞の名を呼んでも、服の袖を引いても、応えることはない。

蒼月は満足そうに笑って、手にした伝票をひらひらと振った。


「それじゃあ、私はここで失礼します。

朧、また喋ろうね。」


蒼月は朧にニコリと微笑みかけ、くるりと背中を向けて店のレジに向かった。


霞は先ほどまで蒼月が座っていた椅子に腰を下ろし、真っ直ぐ朧を見つめた。


ほんの少しの沈黙……。

そして、ポツリと霞は口を開いた。


「ずっと、隠していた。知られたくはなかった。

俺はお前に、人殺しは駄目だと教えているのに、その俺がこれじゃ何の説得力もない。……悪かったよ。」


朧は、静かに目を伏せ頷いた。


「……霞が、この仕事を嫌ってたのは、ずっと知ってる。」


それだけを言うと、朧はフォークを握り、残ったタルトを必死に口の中に放り込んだ。

霞は、頑なに目を合わそうとしない彼女を見つめ、静かに、重く沈んだ声で言った。


「ありがとう」





蒼月と朧のカップリングにはなりません。


蒼月の声のイメージは石田彰さんです。

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