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蒼く揺らぐ心 1


それは、朝日が昇るよりも早く……今日という一日を始める鐘のように、何の前触れもなしに突然現れた。


「霞さま。」


穏やかな女の声だ。

霞は夢心地のまま寝返りを打ち、掛け布団を頭まで引っ張った。


「起きてください、霞さま。」


白く細長い手が霞の身体を揺さぶる。

霞は眉間に深くしわを寄せ、ベッドの脇に立つ女を睨んだ。

淡い紫色の生地に銀の刺しゅうが入った華やかな着物をまとい、一つに結い上げた銀色の髪がゆらりと揺れる。

彼女の名は天音。霞の父の実家……加賀宮家の現在の当主である椿の式神だ。


「今何時だ。」

「4時55分でございます。」


霞は舌打ちをしながら上体を起こし、ちらりと隣のベッドを見つめた。

大きな布団の塊が、一定のリズムで緩やかに上下している。

すーっと漏れ聞こえる寝息は小さく、時折もぞりと動いては「ふふふ」と笑い声を上げている。いつもの寝言だ。


天音はまるで汚らわしいものを見るかのように冷然と朧を見つめ、そして霞に向き直った。


「仕事をお持ちしました。至急の要件でございます。」

「外で話そう。朧に聞かれるのはまずそうだ。」

「まあ。分かりますのね。」


天音がわざとらしく感嘆の声を漏らすと、霞は目を伏せ重苦しい声で言った。


「お前の懐にある手紙から酷い臭いがする。

強い殺意だ。もはや呪いとさえ呼べるほどの……人の域を越えている。」


天音は着物の上から手紙をさすり、うっとりと目を細めて笑う。


「主人もこの依頼書を読み、同じ事をおっしゃっていました。

そして、これほどのモノを扱えるのは、霞さましかいないと……。」


霞は大きく息を吐き、ベッドから降りた。

ちらりと隣のベッドを横目に着崩れた浴衣を直し、部屋の出口へ足を運ぶ。


「ついて来い。」

「かしこまりました。」


天音は深く頭を下げ、霞のあとに続いた。

2人は足音一つ立てず、ひっそりと部屋を抜け出し、鉄の扉をそっと閉じた。


パタン……という微かな音と振動で、朧はぱちりと目を覚ました。

分厚い布団を剥ぎ、隣の空っぽのベッドを見つめる。

それから、部屋の中に微かに漂う甘ったるい花の香りとその中に潜む重苦しい"何か"を嗅ぎ取って、くしゃっと顔を歪めた。


「嫌いなヤツの匂い。……それに瘴気の匂い。」


朧はベッドからひらりと降りて、閉じきった部屋の扉をじっと見つめた。


「……内緒の仕事だ。」


朧は視線を床に落とし、足の爪で絨毯の毛を引っ掻いた。




それから30分程経って、霞は1人で部屋に戻ってきた。

窓の向こう、遥か彼方から薄っすらとした朝日が差し込み部屋を照らし出す。


「おかえり。」


朧が言うと、霞は小さく笑みを浮かべた。


「起こしたか?悪いな。」

「……いいの。天音が来たんでしょ。」

「あぁ。仕事の依頼だ。」


霞はどこか暗い面持ちで言うと、朧の艶々とした黒髪をそっと撫でる。


「今すぐ取り掛からないといけないんだ。

申し訳ないけど、ちょっと集中しないといけないからさ、街で適当に時間を潰していてくれ。」


天音が仕事を持ち込むとき、たまに霞はこんな事を言う。

今日も例外なく朧はお小遣いを渡され、身支度が終わり次第、部屋から追い出されてしまった。


彼がいったい何をしているのか、どんな仕事の依頼だったのか。答えてくれたことは、一度もない。

ただ、いつも仕事に取り掛かる彼の目は暗く淀み、得た報酬は泡銭としてパッと豪快に使い切ってしまう。

そしてまた元の日常に戻り、"そんな事"はなかったと言わんばかりに明るく陽気な笑顔を振りまくのだ。


朧はこれを、「内緒の仕事」と呼んでいた。








太陽が目覚めたばかりの京の都は、まだ人の気配がない。

雀がピチピチと鳴いて地面に散らばったゴミくずを漁り、橋の手前を歩めば川のせせらぎが微かに耳に入ってくる。


朧は橋の下に降り、川沿いを歩いた。

先日はあんなにカップルが等間隔に座り込んでいたのに、今は一切ない。

時折どこかの料理屋から三味線の音が聞こえるものの、人の話し声なんかはどこにもなかった。


そして、適当な場所に腰を下ろしてぼんやりと川面を見つめた。

澄んだ水と丸っこい石を見つめ、遠くでポチャンと何かが跳ねたような音を聞いた。


それからしばらく、朧は微動だに動かなかった。

なんとなく川底の石の数を数え、30を超えたところで飽きてやめた。

しかし、視線を動かすこともなくただじっと何かを待つように石を見つめ続ける。


太陽は徐々に天高く上り始め、人の声が溢れ始めた。

橋の上は人が忙しなく行き交い、この川岸も散歩を楽しむ人や、朝食を買い込み地べたに座る若いカップルが増えてきた。


するとどこかで「キャア!」と悲鳴が上がった。

朧はハッと声のもとを振り向いた。

それは川岸に座っていた一組の男女。

女は大きく身体を仰け反らせ、男は空高く飛ぶトンビを呆然と見つめていた。

……どうやら食べ物を取られたらしい。


朧は、再び視線を川面に戻した。

その時ふと「ぐうう」とお腹が鳴った。

朧は思い出したように立ち上がり、来た道を引き返し始めた。

これだけ人が増えているということは、店が開き始めたということ。

朧はポケットにねじ込んだお札を確認し、小走りで階段を駆け上がる。


もう、お腹と背中がくっつきそうなくらいに空腹だった。

朧は現在地から一番近いカフェに飛び込んだ。

食欲のままサンドイッチを1つとケーキを3つ、アイスココアを購入して席に座る。


店員は目を覆い隠す包帯を怪訝な顔で見つめ、ヒソヒソと同僚に耳打ちをして、クスクスと笑い声を上げた。

朧はそんな事など気にもとめず、小さな口でサンドイッチにかぶりついた。

プリプリのエビの食感やクリーミーなアボガドに頬を緩ませ、あっという間に平らげると、クリームの乗ったココアをストローでかき混ぜ口に入れる。

冷たくて、甘くて、とってもおいしい。

それから、チョコレートケーキと、ベリーのケーキ、モンブランを順に食べ終えると、少し物足りなさそうな顔で天井を見上げた。

味は、全体的にちょっとパサパサして、イマイチだった。

食欲こそ満たされたものの、胸の中がモワモワとする。

不完全燃焼だった。


それから朧はしばらくの間動かなかった。

ぼんやりと店内に飾られた観葉植物に目を留め、濃い緑色の葉に走った黄色い筋を意味もなくじっと観察した。

店員が開いた皿を下げに来ると思い出したように頭を下げて、ココアを喉に流し入れた。

そしてまた観葉植物を見つめ始めた。


30分か、1時間くらい経っただろうか。

朧はふと店内の時計を見上げた。針は11時15分を指していた。

結露が張ったグラスを掴み、ココアを一気に煽った。

口の周りについた茶色い液体をペーパーナプキンで拭い、グラスを返却口に持って行く。


店の外に出ると、もうすっかり街は人の賑わいを取り戻していた。

歩道を行き交う人は早足で、すれ違うのも苦労するほどの過密状態。

ふと目の前で幼い少女が人の波にのまれて転びかけた。

朧が咄嗟に手を差し出そうとするが、それより早く少女の腕を引っ張る人がいた。


「大丈夫か?」


それは、少女より少し背の高い少年だった。

少女は恐らく5〜6歳。かつての朧よりずっと背が小さく、腕がぷにぷにと丸っこい。

少年は今の朧と同じくらいの背丈をしている。

150センチには届かない……145センチかそのくらいだろう。年は恐らく中学生くらい。

しかし、朧よりずっと落ち着きがあり、大人びた印象があった。


それから少女はニコニコと笑いながら彼の手をぎゅっと握りしめた。

「大丈夫!」と、元気な声を上げ、その瞳はまるで一点の曇りもない宝石のようにキラキラと輝いていた。


「気をつけろよ。」


男の子は慈しむような眼差しで妹を見つめていた。

妹への愛、家族への愛、少年の顔にはそれが強く表れていた。


あの目の色は、よく見覚えがある。

あれは、霞が朧に向けるそれと同じだ。

春の日差しのように暖かくて、あの瞳を見つめていると熱がじんわりと染み込んでポカポカしてくる。


あぁ、だからきっと、霞にとって自分は、あの純粋無垢な少女と同じなんだ――。


そう思った瞬間、胸の中にザラリとしたものが触れた気がした。


朧はその兄妹から視線を外し、彼らとは真逆の方へ足を踏み出す。



その時、朧の腕を何者かが強く鷲掴んだ。



2部に分けます。後半は夕方更新です。

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