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あなたに明日を贈る。 3

あなたに明日を贈る。終わりです。


「はぁ〜美味かった。」


太陽が随分と西に傾き出した頃、2人は料理屋の門を出た。

霞はカーキ色の上着を左腕に引っ掛け、煙草を咥えて火を付ける。

紫色の煙が緩やかに立ち上り、朧は少し離れたところでぼんやりとその背中を見つめていた。


「朧は?どうだった?」

「もう一生懐石料理しか食べたくない。」


ニヤリと笑みを浮かべると、霞は小さく吹き出した。


「流石にそのお願いは聞けないなぁ。」


いつになく、陽気に笑う霞に朧はたちまち白い目を向けた。


「お酒、結局どれくらい飲んだの。」


そう尋ねると、霞は煙を吐き出しながら視線を泳がせた。


「5合くらいかなぁ。」

「日本酒を。」

「そうそう。」


霞は悪びれることなく、にっこりと微笑んだ。

顔に赤みが出ることもなければ、酒の毒にやられ白むこともなく、健全な顔でけろっとしている。

しかし、僅かながらに高いテンションや、重たく垂れた瞼から、相当酔っ払っていることは確実だ。


「バレたら怒られるんじゃないの?」

「叔母さんに?あの人は怒らねえよ。」


霞が軽い口調でそう言うと、朧は小さく呟いた。


「晴藤菊司も怒らなかったね、煙草。」


霞は深く煙を吸い込むと、それをゆっくりと吐き出した。

煙草の灰を落とし、地面で赤く燻るそれを見つめ、僅かに口角をつり上げる。


「爺さんと叔母さんは違うよ。

爺さんは、自分には叱る資格がないと言っていた。

叔母さんは、たぶん俺が何をやっても肯定する。

酒を飲もうが、煙草を吸おうが、女遊びしようが……それこそ人を殺しても、死んだやつが悪いとヒステリックに叫び出すさ。」

「……霞、それ全部やってる。」

「言うなよ。特に最後は気にしてんだから。」


霞が静かに言葉を刺すと、朧は「ふぅん」と短く返した。

霞は小さく息を零して煙草を捨て、靴の裏で火を消す。

朧の元まで歩み寄ると、頭にポンと大きな手を乗せた。


「お前は、どれもやるなよ。

酒も、煙草も、男遊びも、殺人も。」

「お酒はもう破っちゃった。」

「……ははっ、知ってる。」


霞は歯を剥き出して笑い、朧の頭をくしゃくしゃに撫でた。


「ほら、次行くぞ。」

「どこ行くの?」


足を踏み出した霞の腕に、朧は身体を寄せ腕を絡めた。


「好きなもん買ってやる。何が欲しい?」


霞が尋ねると、朧は一瞬考え込むように視線を漂わせる。


「……霞に選んで欲しい。」


霞は少し驚いたような顔で言った。


「珍しいな。本当に何でもいいのか?」

「うん。誕生日だから、選んで欲しい……。

大好きな霞が選んでくれたものが、私は欲しいの。」


朧は恐る恐る霞の顔を見上げた。

霞は何度か瞬きをしたあと、柔らかく目を細めて言った。


「可愛いな、お前。」

「はぇ?」


ぼんっと爆発したように顔を赤らめる朧に、霞はさらに追い打ちのように言葉を重ねた。


「可愛いよ。」

「ひ……へ……、??」


朧は完全にパニックに陥ったように目を回し、言葉にならない声を漏らす。

絡めていた腕を離し、両手で顔を覆い、特に意味もなく頭を横に振った。

それからもう一度霞の瞳を見つめ、細く消え入りそうな声で尋ねた。


「わ、私のこと……好きになってくれる?」


霞はうっとりと目を細め、朧の猫のように柔らかい髪を撫で言った。


「ずっと好きだよ。

お前はたった1人の家族で、唯一無二のパートナーで、どうしようもなく可愛いと思っている。」


そして、霞は視線をそっと足元に下げる。

緩く眉尻を下げ、どこか悲しそうに、大切な宝物を失ってしまったかのような淋しい顔をしていた。


朧は何となく理解した。

きっと、霞の言う「好き」は、自分が求めている言葉ではないのだと。

でも、分からなかった。

どうして霞はこんなに悲しい顔をしているのか……。

朧はほんの少し肩を落としながら、何でもない顔でにこりと微笑んで見せた。


霞は朧の瞳を見つめ返し、彼女の丸い頬をそっと撫でて言った。


「変わらなきゃいけないのは、俺のほうかもな。」


朧は心の中で首を傾げた。

でも、直接その意味を尋ねることは、出来なかった。






それからふたりは観光客をかき分けながら通り沿いの店をいくつか冷やかすように見て回った。

雑貨屋、アンティークショップ、アクセサリーショップ……朧は何を見ても「可愛い」と口にするけれど、自分からは「これが欲しい」と言い出すことはなかった。


霞はそんな彼女をちらちらと横目で見つめながら眉間にしわを寄せ、何かを考え込んでいるようだった。


「……難しいな。」


ぽつりと溢した声に、朧はちらりと彼の横顔を見上げた。


「悪い、なんでもないよ。」


霞は曖昧に笑って、店のショーウィンドウに視線を滑らせた。


しばらく大通りを歩いて、ふと足を止めた。

目線の先には、ひときわ賑わいを見せるビル……百貨店の入り口があった。


「ちょっと見ていこうか。」


朧が頷くと、ふたりは自動ドアを抜けて館内へ入った。

温かな空調の中、照明が柔らかく照り返し、外の喧騒が嘘のように遠くなる。


インフォメーションの脇を通り抜け、煌びやかなブランドショップの並ぶ廊下を歩み、特に意味もなくエスカレーターに乗って2階に上がる。


そこで霞はハッと瞳を瞬かせ、朧の腕を引いた。

眩しいほどに白い照明の下、売り場全体がガラスのようにキラキラと艶めいている。

柱には艶やかな唇と切れ長の目をしたモデルのポスターが大きく掲げられ、見上げるだけで少し気後れするほどの迫力がある。


視線を横に滑らせると、見渡す限りに豪華絢爛なブランドのブースがひしめき合うように連なっていた。


金と白のディスプレイ、淡いピンクに包まれたガーリーなコーナー、モードでクールな黒基調のショーケース。

それぞれがブランドを象徴する唯一無二の世界観を持ち、美しく磨かれた台の上にはリップ、チーク、アイシャドウ、香水などが整然と並べられ、そのひとつひとつが宝石のように光を放っていた。


「化粧品?」


朧はどこかぼんやりとした様子で呟いた。

その視線の先には、黒く高級感あふれるケースに包まれたリップが並び、香水の瓶がキラキラと輝いている。


霞は朧の肩に手を置き、ツンと尖った小さな顎をすくった。

怖いくらいに無言で、熱の籠もった瞳である一点をじっと見つめている。


「か、かすみ……?」


朧は茹で上がったように顔を赤くし、震える声を絞り出した。

すると霞はうっとりと目を細め、緩やかに口元に笑みを描いた。


「リップにしようか、プレゼント。」


お腹の底に溜まるような、どろどろの甘い声に朧は声が出なかった。

朧が必死に頷くと、霞は彼女の背に腕を回して歩き出した。


「決まりだな。」


朧はバクバクと脈打つ胸を押さえ、ひたすら地面を凝視していた。


なんでリップをプレゼントしてくれるの?

どうして唇をじっと見つめていたの?

あの熱くて溶けてしまいそうな甘い声は何?

次から次に疑問が頭の中を駆け巡る。

耳まで赤く染め、瞳に薄っすらと涙を浮かべ、朧は霞をちらりと見上げた。


「き、キス……しちゃうの?」


霞は朧を見つめ返し、僅かに瞳を揺らした。

左の手で自身の口元を覆い、ふいと顔を逸らした。

それから大きく息を吐き、眉間に深くしわを寄せ、再び朧を見下ろした。

もう、彼の目に砂糖を煮詰めたような甘さはない。

苦しそうに、悲しそうに、彼はポツリと言った。


「どうしても重なるんだよ……あの時のお前と。」

「あの時……?」

「前に、大人の身体になった日があったろ。」


理解が追いつかず首を傾げた朧に、霞は表情をわずかに緩めながら喋りだした。

いつになく饒舌に、こんなにも彼が胸の内を語るのは珍しいと思った。


「あの時は、はっきり言って動揺した。

お前が大人になるなんて考えたこともなかったし、お前が女の子だって頭では分かっていたけど、実際目の前にすると俺は普通じゃいられなかった。」

「……霞が変とは思わなかったけど。」

 

少し考えながら朧が返すと、霞はすぐに首を横に振った。


「変だよ。今だって変だ。」

「霞、今酔っ払いだから。」

「……そのせいならよかったのになぁ。」


霞は頭を掻いた。

頬に朱を混ぜ、ちらりと朧の瞳を見つめる。


「……想像してたんだ、お前とのキス。」

「へ?」

「大人になったお前の腰を抱いて、頭を固定して、せっかく塗ったリップが取れるくらい激しく……全身がぐちゃぐちゃに溶けるような甘いキスをするって、想像してた。」


それだけ言って彼は何でもない顔を装いながら陳列された化粧品に視線を移した。


朧は目の前がくらりとした。今にも身体の力が抜けてしまいそうだった。

全身が、火が付いたみたいに熱くて、頭の中がとろとろになって、何も考えられなくなった。


霞はそんな彼女に一瞬視線を向けた。

完全にキャパオーバーになったその姿にほんの少し内省しながら、朧の背を押しフロアを歩き回る。


ガラスのショーケースには、凛とした美しさを醸し出すラグジュアリーなパッケージ。

濃密な香りの香水、宝石みたいに煌びやかなリップ、キラキラとしたラメが散るアイシャドウ……どれもこれも特別な大人の女性を想起させるようなものばかりだが、霞はそれらに目を滑らせるだけで通り過ぎていった。


そして、何個目かの角を曲がったところでふと足を止めた。

そこは、白と淡いピンクを基調とした華やかでガーリーな雰囲気の店だった。


ショーケースには、花のモチーフをあしらったシルバーのパッケージ。表面には小さなきらめく石が埋め込まれていて、繊細な輝きが閉じ込められていた。


霞は惹かれるまま、1本のリップを手に取った。

それは香水の瓶のようなフォルムで、シルバーのパッケージに持ち手の部分が透明なプラスチックに覆われ、さながらクリスタルのように特別な光をまとっていた。

スティックの中央には透明の石が埋め込まれていて、まるで可憐な少女がほんの少し背伸びをしたような、あやふやで危うく、かけがえのない輝きが潜んでいた。


「朧、色はどれがいい?」


霞が尋ねると、朧は胸の前で両手の指を合わせ、もじもじと恥ずかしそうな顔で視線を上げた。


「か、霞が……キスしたくなっちゃう色。」


すると、霞の瞳の中に一瞬ドロリとした溶岩のような熱が過った。

霞は即座に視線を商品棚に移し、表情を硬く強張らせながらリップに手を伸ばした。

それから売り場の店員に声をかけ、いくつか会話を重ねながら色を選び、朧の手の甲に色を乗せていく。

その中で、最も朧の肌に映えた1つを選び、店員に差し出した。


そしてレジで会計を済ませると、リップは淡いピンクのリボンがかけられた小さな紙袋に丁寧に梱包された。

霞はそれを受け取り、朧に手渡した。


「誕生日おめでとう。」


短く簡潔な言葉でありながら、慈愛に満ちたその声に朧の胸は高鳴った。

朧は無言のまま紙袋を受け取り、ぎゅっと胸元で抱きしめた。


2人は売り場を後にし、静かに百貨店のエントランスを抜ける。

館内の暖かな空気から外に出ると、空は夕焼けに染まりはじめ、通りには橙色の光が柔らかく伸びていた。


「少し風にあたるか。」


霞の言葉に、朧は小さく頷く。

通りを抜け、夕方の風に吹かれながら、2人は並んで川沿いの道へと歩き出した。






川沿いには、ぽつり、ぽつりと並んだ人影が、地面に腰を下ろして水面を眺めていた。

言葉を交わすでもなく、ただその背中が、暮れゆく空と川の音を受け止めている。


トンビが低く滑空しながら、川面をなぞるように飛び、鋭い目で餌を探している。

川のせせらぎは静かで、どこか遠くの時間を連れてくるようだった。


霞と朧は並んで歩く。

風が吹き、ふたりの髪をすくい上げては、また何もなかったかのように通り過ぎる。


朧がわずかに手を動かすと、霞の指先がそれに応えるように触れた。

指が手のひらの表面を滑り、小さな手をゆるく握った。それでもまだ足りないというように今度は指を絡めて繋ぎ直す。

朧がそっと視線を上げると、霞は温かい眼差しで、大切な宝物を見るように柔らかく目を細めた。


「プレゼント、ありがとう。

ご飯もおいしかった。お花も綺麗だった。」


朧が鈴を鳴らしたような可憐な声で囁くと、霞は親指で朧の手をそっとなぞった。


「……つけてみるか?リップ。」

「いいの?」


霞は手を引いて、土手に腰を下ろし、抱えていた上着を敷いてそこに朧を座らせた。

身体をピッタリとくっつけ、プレゼントの袋を取り、丁寧に梱包された小さな箱を取り出した。

箱を開け、小さなスティックを手に取り、蓋を開ける。


「こっち向いて。」


霞は朧の顎をすくい上げた。

そしてリップを繰り出し、艷やかな唇にそっと色を乗せた。

下唇の内側をなぞり、次に外側を……。上唇の山を描いて縁を丁寧に塗り、内側をより濃く発色させる。

それは、りんご飴のように赤く、瑞々しく、薄っすらとパールのような光沢を持ち、艷やかに大人の女の色香を漂わせている。


霞はリップに蓋をして、そのまま朧の手に握らせた。


「……どう?」


朧はどこか不安に満ちた声を発した。

リップを握りしめ、真っすぐ霞の瞳を見つめ、コクリと唾を飲み込んだ。


霞は、何も言わなかった。

うっとりと目を細め、艶めく唇を見つめたまま朧の両頬を包み込む。

そして、強く彼女の身体を抱きしめた。

小さな頭に頬を擦り寄せ、ふわりとした手触りの髪をそっと撫でる。

彼の心臓の鼓動が、直接朧の胸に届く。


朧は今にも泣いてしまいそうだった。

嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいになって、弾けてしまいそうだった。

朧は霞の背に腕を回して、肩にすっぽりと顔を埋めた。


そのまま2人は、長い間互いの体温を分け合っていた。

身体の境界が分からなくなるくらい抱き合い、静かに相手の胸の鼓動に耳を傾けていた。

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