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あなたに明日を贈る。 2


どこまでも青く、麗らかな空の下。

風が吹けば肌寒く、しかしどこか温かな空気が心を弾ませる。

ふわりと花の甘い香りが漂い、小さなミツバチが目の前を通り過ぎた。


朧は口元に笑みを浮かべ、走り出したくなる気持ちを懸命に抑えながら、小さな歩幅で歩みを進める。

しゃらりとブレスレットを揺らしながら好いた男の手を握りしめ、空いている右手をさらに彼の右腕に巻きつけベッタリと身体を寄せた。


「ねぇ霞。今からどこに行くの?」


甘えた声で尋ねると、霞はニヤリと口角を上げた。


「ま、楽しみにしてな。」


和洋様々な装いの人間が、子どもから年寄りまで広い世代の人間が、のんびりと往来を歩いている。

その人の流れに沿いながら、2人はゆっくりと古風な街並みを眺めていた。

珍しく朧は通りかかる店の光り物に目を奪われることもなく、華やかで気品に満ちた着物の展示に興味を惹かれることもなく、ただ楽しげに街を見つめる男の横顔を熱の籠もった目で見つめていた。


橋の手前に差し掛かると、霞は人の流れから外れ、薄暗い路地に足を踏み入れた。

木造でどこか厳格な雰囲気を醸し出す家をいくつか通り過ぎ、ある表札の前で足を止めた。

霞は「ここだな」と言ってピッタリと閉じられた木の引き戸を開け門をくぐる。


「……誰かのお家?」

「いや、料理屋だよ。暖簾はないけど。」

「看板もなかった。」


朧は興味深そうに、手入れの行き届いた松の木や、神経質に模様を描いた石ころの庭に視線を滑らせた。

庭は静まり返っていて、風もほとんど通らない。松の枝の1つ1つが整然としていて、石畳の上には落ち葉などが全くない。

朧には、この静けさと几帳面さが、かえって落ち着かなかった。


そして霞は、庭の奥にある玄関の戸をガラリと開けた。

中は狭く、閉鎖的で、短い1本の廊下が真っ直ぐ伸び、その奥に若草色の暖簾が1つだけかかっている。

艶を抑えたケヤキ材の柱と床、白い漆喰の壁が、空間に淡い陰影を落とし、光を吸い込むように静けさを保っていた。


すると、暖簾の向こうから1人の女性が現れた。

青磁色に椿模様をあしらった落ち着いた色の着物をまとい、背筋を真っ直ぐに伸ばして廊下の端まで音もなく進んでくる。

おそらくこの店の中居なのだろう。

彼女は朧たちの前でぴたりと止まり、すっと膝をついて深々と頭を下げた。


「ようこそおいでやす。ご予約のお名前、頂戴してもよろしゅうございますでしょうか。」


透き通るような声色と、やわらかな京言葉が心地よく耳に溶け込んだ。


「加賀宮です。」


霞がにこやかに答える傍ら、朧は大きく目を剥いて霞を見上げた。


「加賀宮さま。いつもご贔屓いただきまして、おおきにさんどす。

松の間をご用意しております。お履物を脱いで、どうぞお上がりやす。」


中居はすぐに立ち上がり、軽く会釈をしながら廊下の奥を指す。

朧はローファーをぽいと脱いで上がり、霞も続いて靴を脱ぐと、2人分の履物を丁寧に揃えた。

ケヤキの廊下は素足にひんやりと冷たく、静かな足音だけが2人のあとを追ってくる。


中居の案内のもと、若草色の暖簾をくぐると、その先も長く廊下が続いていた。

天井はやや低く、余計な音が反響しないよう意図された静けさが漂う。

廊下の角を曲がった先、左手側には白い障子がいくつも並び、その奥からはくぐもった話し声や器の音が僅かに聞こえる。

右手側はガラス張りになっていて、小さな中庭が見えた。

苔むした石の間を細い水路が緩やかに流れ、灯籠のそばには白椿が静かに咲いている。

どこからともなく三味線の音が細く響き、焼き魚の香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。


やがて廊下のいちばん奥にたどり着くと、中居は膝をついて障子を静かに開けた。

そこは6畳ほどの和室で、床の間には掛け軸と1輪挿しがしつらえてある。

窓際には渋みのある漆色の座卓と、若草色の座布団が2つ。

開け放たれた大きな窓からは鴨川が見え、その向こうには桜の木がいくつも立ち並び、花がほころぶ直前の枝が風に揺れていた。

川沿いの道には散策する人々の姿があり、春の気配がそこかしこに漂っている。


朧は小さく感嘆の声を漏らしながら部屋に入り、奥の座布団に腰を下ろす。

霞は中居に会釈をしながら朧の後を追い、向かいの座布団に座った。

それから一言二言、中居と簡単に言葉を交わすと、彼女は深々と頭を下げ、ぴたりと障子を閉めた。


「ねえ、さっきどうして加賀宮って……。」


朧が静かに尋ねると、霞はなんでもない顔で言った。


「叔母さんなら顔が利くと思って頼んだんだよ。

こういう店は紹介なしでは入れないんだ。」


朧は「へぇ」と短く声を漏らした。


「俺はさ、朧。どんなにあの家が嫌いでも、利用できるものは何でもとことん使うんだよ。」


霞はニヤリと笑みを浮かべ、朧もつられたようにクスリと笑う。


「せこい。」

「褒め言葉だよ。」


朧は口元に手を当て、ふふっと声を出して笑った。


すると、ふと廊下から軽やかな足音が近づいてきた。

間もなく障子の前で人影が膝をつき、「失礼いたします」と耳障りの良い落ち着いた声を発した。

「はい」と応じると障子は開き、深い紫色の着物をまとった女性が部屋に入ってきた。

一度畳の上で膝をつき、脇にお盆を置いて障子を閉めると、霞たちに向き直って深々と頭を下げた。


「本日はようこそ、おいでくださいました。

繁の家の女将でございます。

加賀宮さまには先々代のころからご贔屓いただいております。今後とも何卒、よろしゅうおたのもうします。」


目元に刻まれた深いシワが柔らかに歪められる。

霞は小さく頭を下げ、朧もまた見様見真似で頭を下げた。


「お先にお飲み物をお持ちいたしました。

お食事もすぐにお持ちいたします。」


女将はお盆を手に立ち上がり、朧の傍に膝をついて、紙のコースターとオレンジジュースのグラスを静かに置いた。

続いて霞の元へ移動し、お盆を脇に置いて、お猪口を卓に乗せ、徳利(とっくり)を手に取る。


「さあ、どうぞ。」

「ありがとうございます。」


霞がお猪口を手に取ると、女将が徳利から透明の液体を注ぐ。


「加賀宮さま。勘違いでしたらえらいすんまへんけど、晴藤菊司さまのご親戚の方やおまへんやろか。」


女将の言葉に霞はハッと息を呑み、朧も初めて女将に興味を示したように顔を上げた。


「え、ええ。僕の祖父です。」

「あらやっぱりそうでしたか。本人かと思うくらいに瓜2つでしたので、他人やないやろなぁと思いまして。

えらい不躾なことをお尋ねいたしまして、すんまへん。」

「いえ、祖父を知る人にはよく聞かれますから。」

「本当にお顔を拝見してびっくりいたしました。

晴藤さまからも長いことご贔屓賜っておりまして、最近お顔は見ておりませんでしたが、菊司さまには特に、私が芸子時代によくお世話していただいておりました。

もし差し支えなければ、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。」

「晴藤霞と申します。」

「霞さま、ありがとうございます。

これからはどうぞ霞さまのお名前でご連絡いただけましたら、精一杯おもてなしさせていただきます。

今後とも何卒、よろしゅうおたのもうします。」

「えぇ、ありがとうございます。」

「それでは失礼いたします。

どうぞごゆっくり、お寛ぎくださいませ。」


女将は障子の前に移り、深々と手をついて頭を下げると、障子を開き退室した。

霞は小さく息を吐きながらお猪口を手に掲げた。


「ほら、乾杯。」

「……うん。」


朧は口をつけ始めたオレンジジュースのコップをお猪口にコチンとぶつける。

霞はお猪口を口元へ運び、中の液体を一気に煽る。米の甘みと濃厚な酒の匂いが瞬く間に口の中に広がった。

酒の味に酔いしれるように目の端をとろりと下げ、お猪口を卓に置いた。


「……あの爺さん芸子遊びやってんのかよ。」


霞は天井を煽りながら大きく息を溢した。


「芸子遊びって何?」


朧が首を傾げると、霞は気まずそうに言葉にならない声で呻いた。


「……三味線弾いてもらったり、お酒注いでもらったり、手を握ってもらったり、それだけで何十万、何百万と金が飛ぶような豪快な遊びだよ。」

「……ふぅん。」


グビグビと、朧はオレンジジュースを喉に流し込んだ。

興味がまるでなさそうな返事に、霞はクスリと笑みを溢した。


「この飯代、全部叔母さんから出るから、遠慮せず食えよ。」

「霞は飲み過ぎちゃ駄目だよ。」

「平気だって。」


霞は上機嫌に徳利を手に取り、酒を注ぐ。

それからほんの数時間程度、2人は豪華な懐石料理に舌鼓を打ち、他愛もない話に笑って、飲んで、いつになく穏やかで、にぎやかな時間を楽しんだ。



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