表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/23

全ては熱のせいにして

少しずつ、二人の境界線が壊れていく。


霞と朧が麓の街に戻ったのは翌日の昼過ぎのことだった。

朧の足はすっかり完治し、手を前後に大きく揺らしながらニコニコと街を歩く。


空には雲が1つもなく、どこまでも澄んだきれいな青空が広がっている。

冷たく軽やかな空気は胸いっぱいに吸い込むと、まるで全身が洗われるように清々しく気持ちが良い。

小さな鳥が目の前を軽やかに飛び、近くの木の枝に止まった。

ピチピチと可憐な声で一通り歌い終わると、また別の木へ飛び立った。

住民たちは、どこか他の街よりも明るく朗らかで、果物や野菜を袋に詰めた婦人たちがのんびりと往来を歩いている。


朧は大きく伸びをして、少し後ろを歩く霞を振り向き、ぱっと花が咲くような笑顔を浮かべた。


「ねえ!私スイーツが食べたいの。果物がいっぱいのったやつ!」

「ああ、いいんじゃねえか?」


霞はどこか重たい足取りでそう言った。

顔はやや青白く、いつもしゃんと伸びた背筋がわずかに曲がっている。声にも覇気はなかった。


朧は眉をひそめ、小さく首を傾げた。


「どうしたの?」

「大丈夫。なんでもないよ。」


霞は口元に笑みを浮かべる。

しかし、目元の筋肉はぎこちなく歪み、眉間にしわが寄っていた。

額には薄っすらと汗が滲み、呼吸もいつもより浅くて短いかもしれない。


朧は大きく首を横に振った。


「おかしい。今のあなたは大丈夫に見えない。」


朧は霞に手を伸ばした。

その時、彼の体はぐらりと揺れ、朧の手をすり抜ける。


ダンッ!と大きな音を立てて、霞は道のど真ん中に倒れ込んだ。


「か、霞?」


朧は呆然と地面を見下ろした。

ざわざわと往来を歩く人々の視線が集まりだす。


霞は冷たい地面の上で虚ろに宙を見つめていた。

はふはふと浅い呼吸を繰り返すばかりで、腕も足も力がなく起き上がる気配がない。


朧は頭が真っ白になり、足の裏と地面がぴったり縫い付けられたように体が動かなくなってしまった。


足も動かず、手も動かず、声も出ない。


ただ、ただ、地面で苦痛に喘ぐ彼を見つめることしか出来なかった。


そこに、バタバタと誰かが駆け足でやってきた。


「ちょっと!あんた大丈夫かい!?」


白髪混じりの黒髪を1つに束ねた、ややふくよかな体形のおばさんが霞の体の前に膝を付いた。

彼女は霞の顔を伺い、手首を軽く握り、ぼんやりと立ち尽くす朧を向いた。


「お嬢ちゃん、この子の友達かい?」

「あ……う、うん。」


朧はふらふらと霞の側に歩み寄り、おばさんを真似るように地面に膝を付いた。


「この子どうしたんだい?何かあったの?」

「分かんない……急に、ずっと元気だったのに。」


おばさんは霞の顔にかかった髪を耳にかけ、もう一度顔色を確認しようとした。

すると突然体を跳ねさせ声を上げた。


「あ、あんた!霞ちゃんかい!?」


その声に霞が虚ろながら僅かに視線を上げた。

唇が小さく動いている。……声は聞き取れない。

顔見知りだろうか。


「ああ、そうかい。あんたたち、里に行ったんだね?」


おばさんは何もかも納得したような顔で霞の額に手を当て、頷いた。


「こりゃ酷い熱だ。疲れが出たのかもしれないね。」

「……死んじゃうの?」


朧の声は震えていた。

おばさんはきょとんと目を丸め、すぐに力強い笑顔で言い切った。


「すぐに良くなるよ。まずは私の家に行こう。

温かいベッドで休んで、栄養あるものを食べるんだ。

それからお医者さんに診てもらってね、薬を飲むだけさ。簡単だろ?」


朧はくしゃくしゃの顔で頷いた。


「よし。じゃあ移動しよう。」


おばさんは一度大きく手を叩き、近くにいた大柄の女性に声をかけた。

そして2人がかりで霞の体を抱え上げ、すぐ目の前の小さな家に入っていった。







霞は風邪と診断された。

訪問医が部屋を出ていくとおばさんは玄関まで見送りに行き、朧はベッドの脇の椅子に座ったまま、ぼんやりと霞を見つめていた。


霞は寝間着に着替えさせられ、首まで分厚い布団をすっぽり被せられ、静かに寝息を立てている。

額に乗せられたタオルに触れると、もうぬるくなっていた。

朧は立ち上がり、机の上にある氷水の入った桶にタオルを浸し、よく絞って霞の額に乗せ直した。

そして再び椅子に座り直すと、コンコンと控えめに扉がノックされ、ガチャリと開いた。おばさんが部屋に戻ってきた。


おばさんは朧の隣にもう1つ椅子を置くと、腰を据え、朧に柔らかな声で話しかけた。


「よく眠っているようだね。」

「……ええ。」

「この子、晴藤霞ちゃんだろ?」

「ええ、そうよ。でも女の子じゃないわ。」


朧が無感情に淡々と言うと、おばさんはびっくりしたような顔をして、すぐに大きく笑い出した。


「あっははは!違うのよ、そうじゃないのよ。

男の子だって分かっているわよ。

でもね、里の人はみんなこの子をわが子のように可愛がって、霞ちゃんと呼んでいたのよ。

里の子どもたちはみんなそう。みんな家族だった。

だからこの子を女の子扱いしてるわけじゃないのよ。」


朧は「ふうん。」とだけ言った。

そんなそっけない態度にもおばさんは寛容に笑って、朧の顔をじっと覗き込んだ。


「あんた、名前は?」

「朧。」

「朧ちゃんね。私は上野 (みやこ)

霞ちゃんの家のすぐ近くに住んでいたんだ。

私のことは気軽にみやことか、おばさんって呼んでおくれ。」

「……うん。」


霞の家の近所というと、あの坂道の途中にあった茶畑のある家のことだろうか……。

朧はぼんやりと思い返しながら乾いた返事を返す。

するとみやこは、すっと目を細くして静かに囁いた。


「……あんた、人間じゃないんだろ?」


みやこの問いに、朧は初めて視線を合わせた。


「分かるのね。貴方も霊が見える人なの?」


みやこはクスリと笑って、得意げな顔をした。


「里に長いこと住んでいたからね。見えなくても何となく分かるのさ。特にあんたの纏う雰囲気は独特だから分かりやすいよ。

霞ちゃんの式神だろ?いつ出会ったんだい?」

「5年前。」

「……そうかい。里を出てすぐ出会ったんだね。」


みやこは目を伏せ、しんみりとした声を出した。


「霞ちゃんには、ずっとあんたが居てくれたんだね。

私はずっと心配してたんだ。

霞ちゃんは、どんな生活をしてたんだい?」


朧は流れるように視線を霞に移し、静かに告げた。


「……人間のことは、よく分からないわ。

でも去年まで、霞の父親の実家にいた。冷たくて、つまらなくて、嫌なところよ。

霞も楽しくなかったと思うわ。

彼の15歳の誕生日に家を抜け出してきたの。

それからずっと、ふらふらと歩き回っている。

私はこっちのほうが好きよ。霞も楽しんでると思うわ。」

「……そうかい。」


みやこは声を掠れさせた。目の端に涙を浮かべ、ハンカチで拭う。

そして、まるで自分を奮い立たせるように笑顔を浮かべて立ち上がった。


「朧ちゃんも疲れただろう?

今日はここを我が家だと思って寛ぐんだよ。

お腹すいただろう?すぐにご飯を用意するからね!」


みやこは足早に部屋を出た。

多分彼女は、1人で泣きたくなったんじゃないかと朧は考えた。

あの里で生まれ、里で育ち、そして火に囲まれながら、知人たちの死を見送りながら、着の身着のまま麓の町まで逃げてきたのだとしたら……きっと霞と同じくらいの大きな悲しみを抱えているに違いない。

朧の胸にちくりと小さな針が刺さった。

瞼の裏に、昨日の霞の涙が蘇る。


朧は胸の中に湧き上がった感情から逃げるように立ち上がり、霞の額に乗ったタオルに手を伸ばした。

無感情に、無表情に、タオルを氷水に浸して、よく絞って、霞の額に乗せ直す。


また、手持ち無沙汰になってしまった。


朧は天井を見上げ、考えた。

今もし、自分の母が殺されたのだとしたら……。

あの日ではなく、今日死んだのだとしたら、霞のように、みやこのように、悲しむことができるのだろうか。


もし、今日霞が死んだら。

このまま彼の熱が上がり続けて、突然ボッと燃え始めて、灰になって消えてしまったら、私はどれくらい泣くのだろうか。


思考が止まらない。

こんなに気分が落ち込むのは、初めての経験だった。


「と……さん」


ふと、霞が息を漏らした。

朧はハッとしたように立ち上がり、霞の顔を覗き込む。


「……とうさ……」


うまく聞き取れない。

朧は唇を引き結び、霞に気取られぬよう、そっと口元に耳を寄せた。


「おとう……さん」


朧はパチリと瞬きをした。

夢を見ているのだろうか……。

彼の頬に、一筋の涙が溢れる。


朧は何を思ったのか、静かに息を吸い込み、瞼を閉じる。

深く、深く、記憶をたぐり寄せる。

深い林の中、子どもの叫び声、男の低い怒鳴り声。

目の前を歩む母の姿――。


朧は静かに目を開けた。

小さな手を伸ばし、頬を伝う涙を拭う。


「……霞。」


朧の唇から溢れたのは、耳障りの良い、低くて温かな音色だ。

霞の声とよく似た、それよりもっと低くて、慈愛に満ちた柔らかな声。


「霞、もう大丈夫だ。」


柔らかく、彼を励ますように声を紡ぐ。

その時突然、霞に触れる朧の手が強い力で掴まれた。

霞は目を大きく丸め、まるでお化けを見るような顔つきで朧を捕らえた。


「……朧」


霞は困惑した面持ちで言った。

徐々に、朧の腕を掴む手の力が抜けていく。

ぽすんと霞の腕が力なくベッドに沈んだ。


「……本当に、お父さんかと思った。」


霞はそう言って、目を閉じた。

朧は何となく分かった。きっとこれは、やってはいけないことだったのだと。


「……ごめんなさい。」


朧は消え入るような声で言った。

霞は薄く目を開け、朧の頬に手を伸ばす。


「いや。俺が、また元気になったら聞かせてくれ。」


霞の唇は、小さな笑みを浮かべていた。


「もう、声すら思い出せなくなっていた。だから――」


その先の言葉はなかった。

霞はゆっくりとしたリズムで息を吸い込み、また大きくゆっくりと吐き出した。

眠りについたのだ。


朧はふらふらと椅子に腰を下ろした。

背中を丸め、ぼんやりと床の木目を見つめる。

指が、力なく椅子の座面を握った。


「私、あなたに何もしてあげられない。」


朧の声は、薄暗く静かな天井に緩やかに吸い込まれていった。






それからしばらくして、コンコンと扉が叩かれ、みやこが顔をのぞかせた。


「朧ちゃん、ご飯できたけど食べる?

栄養たっぷりのミネストローネを作ったのよ。」

「……食べる。」


朧は返事をしながら、ちらりと霞を見つめた。


「眠っているのなら、寝かせてあげましょ。

食べるのは目が覚めてからでいいわよ。」

「……うん。」


朧はちらちらと後ろを振り返りながら、部屋を出た。

なるべく音を立てぬよう扉を閉めて、廊下の先をスタスタと歩くみやこについて行く。

廊下の突き当たりの扉を開き、さらにまた目の前の扉を開ける。

そこにはこじんまりとしたリビングとキッチンがあった。

リビングには2人用の机と椅子があり、程よく小さいテレビから軽快な笑い声が聞こえてくる。

キッチンは綺麗に整頓され、白い大理石のカウンターがピカピカと光っている。

そして、コンロの上にある鍋から湯気が立ち上り、甘酸っぱいトマトの匂いとベーコンが焼けた香ばしい匂いが混じり合い、里で携帯食しか口にしていなかった朧の空っぽのお腹を、久々に、そしてこれ以上ないほど強くくすぐった。


「さあさあ、座ってちょうだい。」


朧は促されるまま椅子に座り、なんとはなしにテレビを見つめた。

スタンドマイクの左右に立つ2人の人間が代わる代わるに喋り、笑いが起き、拍手が沸き、絶えず賑やかな声が聞こえてくる。

朧はすぐに視線をテレビから外し、天井や棚、カーテンの色をぼんやりと眺めた。


するとみやこはお盆を両手に抱えてやってきて、机の上に乗せた。

白く陶器でできた器に真っ赤なスープを盛り付け、水色の茶わんに米が山と盛られている。

それに小鉢が2つと、唐揚げが3個入った皿が付いてきた。


「さ、召し上がれ。」


みやこは真向かいの椅子に腰を下ろし、ニコニコと笑顔を向ける。


「いただきます。」 


朧は手を合わせ、箸を手に取った。

手始めにひじきの入った小鉢を掴み、まるで飢えを満たすように、躊躇なく口の中に流し込む。

そしてもう4つの小鉢の中身もペロリと平らげた。

唐揚げにマヨネーズをかけ、大きな塊をそのまま頬張り、頬をリスのように膨らませながら咀嚼する。


「あらあら、そんなにお腹空いてたんだね。」


みやこは朧の飾らない食べっぷりに、朗らかな笑みを浮かべた。


「霞ちゃんはね、昔からミネストローネが好きだったのよ。朧ちゃんも食べてみて。きっと気に入るわ。」


朧は促されるままミネストローネのお椀を手に取った。

具材を箸でつまんで口に放り、スープを喉に流し込む。

程よい塩加減に甘酸っぱいトマトの旨味、それから腹の底から全身に広がる温かさに朧の顔がふわりと緩んだ。


「ね?美味しいだろう?」

「美味しい。」


朧の小鳥のような小さな声に、みやこは得意げに頷いた。


「おかわりはあるからね!たんとお食べ。」


朧はホカホカの米を頬張りながらじっとみやこを見つめた。

もぐもぐと咀嚼し、喉を上下させて唇を開く。


「霞は他に何が好きだったの?」


みやこは、ぱちくりと瞬きをして考えるように腕を組んだ。


「そうだねえ。ミネストローネの他に、クリームシチューも好きだったね。あと甘いもの全般好きだったよ。」

「……甘いもの?」

「そうだよ。よくうちに招いてね、和菓子とかケーキをあげると、それはもう喜んでね。

うちの緑茶と一緒に美味しそうに食べてくれてねえ。」

「……。」


朧の記憶の中で、霞が甘いものを食べているところはほとんど見たことがなかった。

タルトをホールで買ってきても、それを全て朧に与え、自身は紅茶のみを味わっていたり、喫茶店に入っても2つ注文したパフェを2つとも朧に与えていた。

つい先月くらいにトルコアイスを食べた時だって、朧の分を一口かじりはしたものの、彼の分は買いすらしなかった。


「……好きだったんだ。」


朧は目を大きく丸めてポツリと呟く。


「おや、今は違うのかい?」


みやこは驚いたように言った。しかし朧はすぐに首を横に振る。


「分からない。いつも、私ばかり食べてた。」


それを聞いたみやこは机に頬杖をつき、くすくすと笑った。


「それは愛情だねえ。きっと。」

「愛……」


朧は手元に視線を移し、かあっと頬を赤らめた。


「他に、何が好きだったの?」


朧が問いかけると、みやこは楽しそうに目を細め、「そうだねえ。」と唸った。


「おじいちゃんっ子だったよ。本当によく懐いていた。

もちろん、お父さんとお母さんにもね。

でも菊司さんは彼にとって特別な存在だったね。」

「じゃあ、嫌いなものは?」


朧がいっそう前のめりになると、みやこはクスクスと笑ってすぐに答えた。


「犬だよ。霞ちゃんは犬が大の苦手さ。」

「犬に囲まれて泣いてるの見たことある。」

「うっふふふ。霞ちゃんは可哀想だけどねえ、あんなに犬に嫌われているのも珍しくて、つい私たちも面白がっちゃうんだよねえ。」

「源五郎が特別だったって聞いた。」

「あぁ、そうだねえ。あの子はそうだった。」


みやこは懐かしむように遠くを見つめ、小さく息を吐いた。


「そういえば、霞ちゃんはお化けが嫌いだった時期があるの知ってるかい?」

「……なにそれ。」


朧はきょとんと目を丸くした。


「まあ、霞ちゃんが本当に小さいときの話だから、本人も覚えていないかもしれないねえ。

あの時はね、霞ちゃんも普通にお化けが見えていたんだよ。」


ごくり、と唾を飲む音が静かに響く。


「私はお化けが見えないからさ、具体的に何があったのかは分からないのよ。

でもあの時は確かに霞ちゃんはお化けが見えていたわ。

菊司さんも芙蓉さんも薊さんも、みんな霞ちゃんは将来ものすごい陰陽師になるって喜んでいてね……。あっ、名前で言って伝わるかしら。霞ちゃんのお爺さんとご両親のことよ。

ところがある日突然、お化けを酷く嫌うようになっちゃってね。そのすぐあとだったわ。霞ちゃんはお化けが一切見えなくなったの。」


一気に喋り終えたみやこの言葉を、朧は真剣に考えていた。

ミネストローネの赤い汁を見つめ、カップを両手で持ち、音を立てることなく上品に飲み干した。

そして、ポツリと口を開いた。


「霞は多分、見えるの。命の危険があるような強い奴から、その辺に突っ立ってる弱い奴まで、等しく全部見えるはずなの。あれだけの霊力を持っていて、見えないなんてありえない。

私、前に彼に言ったことあるわ。見えないんじゃなくて、見たくないんじゃないかって。」

「それ、どういうこと?」


みやこは前のめりに尋ねた。


「さあ、私は人間の気持ちなんて分からないわ。

でも、今でも私はそう思っている。むしろどんどん確信に変わってきている。彼は死者を恐れている。死の恐怖を、死別の悲しみを、彼は真正面から受け入れられるほど強くはない。……虚勢は張ってるけどね。」

「あぁ……そう。そうなのね。

そうよ。私だって見たくないわ、お化けなんて。

人間は死を忌避するのよ。死を嫌うの。

どんなに強い陰陽師の家の子だって、変わらないはずよ。」


みやこは眉を寄せ、悲しそうに目を細めた。

朧はちらりとみやこの表情を伺い、言葉を続ける。


「霞の霊力は本当に強い。強いから見たくないものは自在に弾けるのよ。彼自身がフィルターを作り、フィルターを通して世界を見ている。

彼が視認できるのは、自分より遥かに強い存在だけ。

それこそ、彼の命を脅かす事ができるような……。」

「霞ちゃんにとっては、その方が良かったかも知れないね。

里にはきっと、見たくないもので溢れているだろうからね。」

「……ええ、そうね。今の霞に耐えられるものじゃなかったわ。」


朧が視線を机に落とすと、みやこはふっと息を吐いて朧を見据えた。

緩やかに口元に笑みを浮かべ、悲しそうに寂しそうに瞳を揺らしている。


「朧ちゃんは、霞ちゃんのいいパートナーだね。」

「……どういう意味?」


朧はじっとみやこを見つめ尋ねる。


「霞ちゃんに必要なのは、そうやって理解をして寄り添ってくれる存在だよ。」


朧は何度か瞬きを繰り返し、「うん。」と乾いた返事をした。


「ところで、ご飯のおかわりはいるかい?」


みやこが空になった器を差し尋ねると、朧は首を横に振った。


「お腹いっぱい。ごちそうさま。

霞のところに戻るわ。」

「そうかい。目が覚めたらご飯を持っていくから、教えておくれ。」


朧は「うん」と頷いて椅子から降りた。

どこかぼんやりと床を見つめながら部屋を歩き、廊下を進む。

さっきまで自分が居た部屋の扉をそっと開けると、空気に溶け込むような静かな寝息が聞こえてきた。

なるべく音を立てないように部屋の中に入り、扉を閉めた。

そろそろと忍び足でベッドまで歩み寄ると、額の上のタオルに手を伸ばす。

朧の体温以上に熱くなったそれを、再び氷水で冷やし、固く絞って霞の額に乗せ直した。

そして椅子にそっと腰を下ろして、すやすやと深い眠りについている彼の顔を見つめた。


「本当にフィルターがかかっていたら、降霊術だってできないのよ。あなたが自分の体に霊を下ろすことができるってことは、自分の意志でフィルターを外すことができるってことよ。」


朧は、そっと霞の手を取った。

いつもより少しだけ温くて大きな手を、自分の小さな手で包み込むように握る。

ふと、先ほどのみやこの言葉が頭に蘇る。

人は死を忌避する。死を恐れている。霊とは本来見たくないものだと言っていた。

それに続いて、昨日霞が初めて自分に見せた"弱さ"を思い返した。

曲がった背筋、震える体、青白い顔、不細工な泣きっ面。

これこそが彼の本当の姿。……否、心の奥底に眠る、1番脆くて弱いところだ。


朧は身を乗り出し、ベッドに手を乗せる。膝を置き、ぐっと体重をかけた。

熱く火照った霞の体の隣に身を倒し、掛け布団の中にすっぽりと潜り込んだ。

腕を霞の胴に巻き付けて、目を閉じる。


「大丈夫。だって、あなたには力がある。

過去にだって向き合えた。そうでしょ?」


小鳥よりも小さな小さな声で囁いた。

そのまますっと、深く深呼吸をするように夢の中へと落ちていった。







白い陽光に照らされていた室内は、いつの間にか薄暗く、真横から差し込むオレンジ色の光りに照らされていた。

霞は薄っすらと瞼を開き、見覚えのない天井をぼんやりと見つめた。

ふと体に絡みつく何かの気配を感じて、そっと布団をめくると、ふわふわの黒い髪が見える。

朧はすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てていて、霞はため息を吐きながら布団を戻した。


「……勘弁してくれ。」


そうぼやいた声は、酷く掠れていた。

左手で顔を覆うと、ぬるく湿ったタオルに指が触れた。

その瞬間、喉の奥に異物が張り付いたような不快感が募る。

胸の奥にザラザラとしたものが層のように積み重なっていて、乾いた空気を吸い込んだ途端、それを拒絶するように強く咳き込んだ。

上体を起こし、口を押さえながら下を向き、強く何度も咳をした。

朧はハッと目を開けて起き上がり、心配そうな眼差しで霞を見つめた。


それからしばらくして、ようやく咳の発作は治まった。

霞はげっそりとした顔で再び頭を枕にくっつける。

朧は心配そうな眼差しのまま、霞のお腹の上に落ちていたタオルを手に取り、ベッドを抜け出して再び水に浸す。

もう氷は溶け切り、水もだいぶぬるくなっていた。新しく交換したほうがいいかもしれない。

朧が部屋のドアをちらりと見つめながらタオルを霞の頭に乗せようとすると、霞はガサガサとした声を絞り出した。


「いいよ。俺は平気だから。

それより、風邪を移すとマズイから、他の部屋に行ってろ。」

「風邪を……?風邪を移す?」


朧はきょとんとした顔で霞を見つめた。

その奇妙な反応に霞は首を傾げる。

何も朧が風邪というものに無知で首を傾げたわけではないはずだ。

霞が子供の頃は何度も風邪を引いていたし、それを朧は見ている。感染という概念もあるはずだ。

なら何故、そこで首を傾げるのか。


霞はなんとなく嫌な予感がした。

この様に朧がきらきらと純真な瞳で見つめながら、黙って何かを考え込んでいる時はろくなことにならない。

すると案の定、朧はニヤリと笑みを浮かべ、ベッドに足をかけた。


「お前、いったい何――」


何をするつもりだと、尋ねようとした。

朧の体を突き返そうと伸ばした手は跳ね除けられ、彼女は霞の体に跨った。

そして引きつった霞の顔に迫り、キスをした。

朧の艷やかな唇が、霞の荒れたそれと深く重なる。


「んんーっ!!!」


霞は眉間に深くしわを寄せ、朧の体を強く押し返すが、ビクともしなかった。

霞より遥かに小さく細い体で、霞を押さえつけ、抵抗する両手を一纏めにして頭の上で固定した。


舌がぬるりと霞の口に侵入する。

まるで、子どもがソフトクリームを舐めるように、ペロペロと霞の舌をくすぐった。

拙い遊びのようなキスに抵抗するすべもなく、霞はいよいよ観念したように目を閉じた。


それからしばらくの間、甘くじゃれ合うように舌を重ねていた。

くちゅっと濡れた音がし、混ざり合った唾液が唇の端を伝う。

熱い息が鼻から漏れる。

体の奥がジンと熱を帯び始め、流石にいよいよ止めないとマズイと、霞は再び腕に力を込めた。

すると、あっさりと朧は唇を離した。

2人の間には、濡れた吐息と、僅かな唾液の甘さが残っていた。


「……お前なあ。」


霞はぐったりとしながら息を整える。

しかし、声が何の抵抗もなくスムーズに出せたことに気がついた。

ハッとしたように喉を触り、額に触れ、霞はじっと朧を見つめた。


「何をした。」

「移せばいいって気づいたの。

霞の体の中の瘴気に似たものをそっくりそのまま。

どうせ私には効かないもの。」

「……せめて先に断れよ。」 


呆れたように霞は朧の額に触れ、自分の温度と比べ始める。

それからすぐに納得いかない顔でその手を下ろした。


「先に言ったら駄目っていうじゃない。」


朧が不貞腐れたように言うと、霞は目の端をつり上げて言った。


「当たり前だ!」


朧はべーっと舌を出してそっぽを向いた。

その小さな小さな舌を見つめ、霞もまたふいっとそっぽを向く。

それからしばらく霞は天井を見つめ、ふと思いついたように上体を起こした。


「……おばさんに、挨拶に行くか。」


朧はちらりと視線のみを霞に移した。


「上野 (みやこ)と名乗っていたわ。あなたの家の近所の人だって。」

「……ああ、そうだよ。ずっと俺に優しくしてくれた、家族同然の人だったよ。」


霞は寂しそうに笑って、ベッドを降りた。

手早く服を着替え、部屋を整え、扉を開けた。

朧はちらりと部屋の中を見渡して霞のあとに続き、そっと扉を閉じた。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ