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晴藤霞は最強の式神使い

式神の少女・おぼろは、

主である陰陽師・かすみに思いを寄せていた。


出会った時、2人の境遇は同じだった。

見た目の年齢も近く、親を失い、孤独であった。

紆余曲折ありながらも、二人はペアを組む。


今や霞は十五歳の青年となり、朧だけが時を止めたように少女の姿のまま。

霞にとって朧は、家族であり、大切な相棒。

少女を異性として認識したことは、今日まで一切なかったし、朧が少女の姿である限り、そんな日は永久に来ないはずだった……。


人に恋をした人外の少女と、少女を家族と呼ぶ青年。

少女の心は決して届かないと知りながら、それでも、想いは止められない。


これは、2人の異なる愛情がすれ違いながら歩む、果てしない旅の物語。


今夜の空は雲が1つもない。

まるで黒いペンキとローラーで、端から端まで均一に塗りつぶされたような空だった。

そんなのっぺらぼうのような空に浮かぶのは、細い細い三日月だ。

月は夜空にほんの少しだけ明るさのグラデーションを作り、ひんやりとした風が吹く港町を静かに見下ろしている。


ここは、海岸に沿って造られたそれなりに大きな港町。

坂道に並ぶ家々は古く、木と土壁の質感がどこか懐かしい。

町の中心部へ行くと、軒先には提灯(ちょうちん)が吊るされた店が立ち並び、通りには人の笑い声と軽快な音楽があふれていた。

その1番の大通りから外れ、3つほど西にある道になるだろうか。

その一角にある小さな店にもギラギラとした明かりが灯っていた。

木製の引き戸を開ければ、暖かな空気とともに、焼いた魚の香りや湯気を立てる鍋の匂いが鼻をくすぐった。


店内は狭いが賑やかだった。

ビールジョッキを握りしめ、男たちが声を張り上げ、どんちゃん騒ぎ。

若い女の店員がにこにこと愛想を振りまき、鼻の下を伸ばした品のない男たちから、料理の注文を山のように奪ってくる。

ジョッキに酒が注がれる音、誰かが箸で机をたたく音、ゲラゲラと喧しい笑い声が続く。


そんな中、奥のテーブルから怒鳴り声が聞こえた。


「イカサマだ!!!」


一瞬店は静まり返り、客たちは奥のテーブルを見つめる。

座敷で男は仁王立ちし、ぶるぶると震える手で1人の青年を指さしていた。


「イカサマだって?どこにそんな証拠がある。」


青年はニタリと笑みを浮かべ、タバコをくゆらせる。


「10回だぞ、10回!こんな事は絶対にありえない!!」


男は机に積み上げられていたトランプを引っ掴み、青年に投げつけた。


「おいおい喧嘩か?」

「おい兄ちゃん!何やったんだ!!」


近隣のテーブルからはヤジが飛んだ。


「ただのハイ&ローさ。イカサマなんかやりようがないだろ。」


青年はなんてことない様子で言った。店の客たちにどよめきが走る。


「ハイ&ローで10連勝だって!?」

「そのトランプカードは兄ちゃんの私物か?」

「店のものだよ。そうだよなぁ、お姉さん。」


青年が店員の女性に声をかけると、女性は戸惑いながらも頷いた。


「店のものに細工なんかあるはずがない。

調べたきゃ調べろよ。」


青年は自分の周りに散らばったカードをかき集め、近くのテーブルに座る客に手渡した。

客は受け取ったカードを、表と裏にひっくり返しながらじっくり睨みつける。


「確かに、何もないようだが。」


青年は当然だという顔で頷いた。咥えていたタバコを人差し指と中指で摘み、灰を灰皿に落とす。


「嘘だ。そんなはずない!!」


イカサマだと叫んだ男は顔を青くし、カードを調べた客を睨みつけた。

青年は、タバコの煙を深く吸い込み、ゆっくり時間をかけて吐き出した。


「ならもう一勝負だ。

俺がイカサマじゃないなら、次は確実に外れる。

そうすれば、俺が最初の賭け金をお前に支払い、お前は上機嫌で店を出られる。それでいいだろう。」

「賭け金って今いくらになってんだ。」


別のテーブルから声が飛んできた。


「最初に俺は千円をベットした。賞金は連勝するごとに2倍ずつ膨れ上がり、負ければ最初の千円のみをコイツに渡すって約束だ。」

「それが10連勝ってことは、」


指折り数える客の隣で女性の店員は電卓を叩く。


「51万2千円。」


店中に静かにどよめきが走った。

青年は平然とした顔でハイボールを煽った。


「どうする?俺にそんな大金を払っちまうか、もう一勝負やってみるか。確率って言葉は分かるだろ?」

「やる。ああ、やってやるさ!」


男は叫んだ。ほんの数分前もこうして青年に煽られ賭けに乗ってしまった事など、とうに忘れてしまっている。


「それで、兄ちゃんが買ったら金はどうなるんだ。」


そう尋ねた客は、預かっていたトランプカードを男に返した。

男はカードの向きをそろえ、念入りにシャッフルし始めた。

店員の女性は再び電卓を叩く。


「えー、お兄さんが勝ったら賞金は102万4千円ね。」

「おいおい、これで基準のカードが3とか、低い数字だったらどうする。102万も払えるのか?」


カウンター席に座る客はゲラゲラ笑った。


「うるさい!!!絶対に次は勝つんだ。」


男は目を真っ赤にしてカードを机に叩きつけた。


「じゃあ、まずは基準のカードを引くぞ。」


男は、一番上のカードに指を伸ばす。

店内はシンと静まり返った。全員が固唾を呑み、めくられようとしているカードを凝視している。

青年はぼんやりと宙を見つめながら、タバコの煙を吐いた。


「基準となるカードは、6だ。」


男がカードをめくったその瞬間、店中にどよめきが走る。

男は額に脂汗をかき、強張った顔で青年を見つめた。


「さ、さぁ、選べよ。ハイか、あるいはローか。」


青年は基準のカードと、隣のカードの山を睨みつけ、咥えていたタバコを灰皿に押しつけた。


「ドローだ。」

「は!?」


男は悲鳴を上げた。なぜ悲鳴を上げたのか男本人も分かってはいない。

正解か不正解か、確率のみを考えれば不正解に違いないのだ。

だから男は何も心配をする必要はない。

青年は、恐らくきっと男に同情して、わざと不正解に近い選択肢を選んでくれたに違いない。

絶対そうに決まっている。


しかし、この青年があえてドローをコールするということは、それが本当に正解なのではないか。

男はじわじわと体の奥底から沸き上がる不安に支配されつつあった。


「おい、早くカードをめくれ!」


どこかのテーブルからヤジが飛ぶ。

男は我に返って慌ててカードの山に手を突っ込んだ。

カードをめくった。


「あ、ああああ。ああああああああ!!!!!」


男は白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。

正解は6。つまりドローだった。

青年は11連勝を決め、賞金額が102万4千円となったのだ。


「まさか、うっそだぁ。」


女性店員はケラケラ笑いながら靴を脱ぎ、座敷に上がる。


「もう1回行くよ?賭けは無しね。」


女性店員は青年の隣に腰を下ろし、カードに手を伸ばす。


「賭けはなし?いいよ。」


青年は女性店員の顔をまじまじと見つめ、にこやかに頷いた。


「今出たカードの次はハイかローか、どっちですか。」

「ハイで。」

「絶対に?」


女性店員は青年の顔を覗き込む。


「じゃあローにする。絶対にロー。」


青年はチラリと山札のカードを見た。


「答えは、……嘘!?やだあ!!

本当にローだった!!」


女性店員はめくったカードを周りの客に見せた。


「はえー、兄ちゃんはもの凄い豪運だなぁ。」

「本当にやってないのか?イカサマ。」


カウンターの客はニヤニヤ笑いながら聞いた。


「どうやってやるんだよ。俺は一切カードに触っていない。」


青年は上機嫌に返した。


「運が良かっただけさ。それに、騒ぎになる前はこのおっさんに散々搾り取られていたんだぜ。」

「へぇ、そうかい。

まぁ兄ちゃん、こっちに来て飲めよ。」


隣のテーブルの客が青年を手招きした。

青年は肩をすくめ、机に置いていた酒のグラスとタバコとライターを掴み席を立つ。

そのテーブルで向かい合わせに座っていた男たちは、青年を気前よく招き、1人は席を立って反対の席に座り直す。

青年はその丁度空いた席に座った。


「おい、姉ちゃん!このお兄さんに同じ酒もう1杯!!」


青年を招いた客は大きいガラガラ声で注文をした。


「これは俺のおごりだ。

あのおっさんには1度痛い目に合わせてやりたかったんだ。

ところで兄ちゃん、名前は?」

晴藤 霞(はるふじ かすみ)です。」


青年は、晴藤霞は答えた。


「へえ、変わった名前だな。

俺は大吾ってんだ。よろしく頼む。」

「俺は弟の将吾だ。」


大吾と名乗った男は、浅黒い肌に水色のつなぎを着た30代くらいの大男で、隣に座る将吾は、髪を派手な金髪に染め上げ、黒いジャージを着た若くヤンチャそうな男だ。


「それで、どんな手を使ったんだ。」


大吾はニヤニヤと笑みを浮かべながら尋ねた。

霞は一度、きょとんと目を丸め、すぐに笑い出した。


「あっははははは!

それを聞き出すために俺に酒を?」


霞は空になったグラスを振って、カラカラと氷の音をさせた。


「そりゃあそうだろう!

12連勝なんて奇跡、タネがあるなら聞きてぇよ。」

「あはははは!タネなんか無いよ!

本当にまぐれさ。

強いて言うなら、基準の数字になったのが、3とかQとか、難易度の低い数字ばかりだったってぐらいだよ。」


霞は景気よく笑いながら答えた。

そこに女性店員がグラスを片手に現れる。


「はい、ハイボールです。」

「あぁ、どうも。」


女性店員は霞にグラスを手渡しし、思わせぶりにじっと瞳を見つめ、すぐに仕事に戻っていった。

霞はグラスを置いて、手の中を一瞥(いちべつ)すると、それを懐に大事にしまいこんだ。


「それにしちゃあ、晴藤さんよ。

ずいぶんと妙ちくりんな格好じゃねえか。

神社の神主さんかい?」

「兄貴、この町に神社は無いじゃねえか。

よその町の神主さんが来るのも変だし、マジシャンか何かだろ。」


大吾と将吾が指差しながらやいやい言っていると、薄っすらとこのテーブルの会話に聞き耳を立てていた周りの客の視線が集まる。

じろじろと不躾な視線が、霞の頭から足元まで向けられた。


金の刺繍が施された白色の狩衣に、襟や肩から覗く青の(ひとえ)

袴は黒く、丈は少々短くて裾をきゅっと結んでいる。黒色で、底が真っ平らなブーツを履いている。

髪は全体的に無造作に右側に流し、胸元まである長い襟足を白い紐で束ね前に流している。

愛嬌のあるタレ目をにっこり細めて彼は笑った。


「陰陽師なんだ。まだ修行中だけどね。」

「陰陽師!超能力者ってことか!?」

「超能力とは違うよ。別に無条件に人の心が読めたり、透視をしたり、空を飛べたりはしない。」


霞はクスクスと笑って酒のグラスを煽り、タバコを1本取り出して火を点ける。


「じゃあ、この町に何しに来たんだ。」

「何も。霊力の集まる土地を探して、ふらふらと放浪の旅をしている。」

「さっきのカードは霊力とやらで見抜いたのか?」


近くのテーブルの客が酒を煽りながら尋ねた。


「言っただろ?まぐれだよ。」

「霊力がツキを生んだんだ!」


すぐに別の客が声を上げる。カウンターに座る客の1人だ。


「あっ、それはあるかも。」


霞がカウンター席の男を指差して言うと、男はゲラゲラと笑い、満足そうに椅子を回して酒とつまみに向き直る。


「金はどうすんだ?あの男がそんな大金を持ってるとは思えんが。」

「まぁ、可哀想だからね。少しはオマケしてあげるよ。」


大吾はニンマリと笑みを浮かべる。


「それじゃあ、俺とも一勝負しない

か?」

「勝負?俺、結構賭け事は強いよ。」


霞はふうっと煙を立ち昇らせた。


「いいや、霊能力者と名乗るお前への依頼だ。

俺からしてみりゃ、賭け事に違いねえ。」

「陰陽師ね。依頼って何?」


霞は咥えていたタバコを一度灰皿に置いた。


「町の北に古びた教会があるのは分かるか?」

「あぁ、あるね。」

「あそこには、お化けが出るって噂がある。」


霞は腕を組み、ぼんやりと天井を見上げた。


「お化けね。」

「おうよ。その教会に出入りするやつは誰も居ない。

何十年も前に、あの教会に何か化け物を封じ込めたとかで、町の人間は誰も立ち寄らなくなった。

だがここ数年、あそこから妙な気配がする。中から音が聞こえたり、火の玉が見えたりしてな。」


大吾は鼻で笑った。


「ガキどもはずっとお化け屋敷として周りをうろちょろしてるけどな。」


将吾がケラケラと茶化すように言うと、大吾は体を前のめりにし声を潜めた。


「ついこの間、教会の近くに住む婆さんが、お化けなんか居るはずがないって叫びながら教会に入っていったんだ。

だがその婆さんが戻ってきた時、酷く衰弱していてな、1週間も経たずにぽっくり死んじまったんだ。」

「まっ、元から体はガタガタだったらしいがな。

何回も入退院を繰り返して、迎えは近かった。」

「なあ。陰陽師ってのは、そういうのが仕事なんだろ?

あんたの力が本物なのかどうか、見せてくれよ。」

「別に良いけど、金はあるのか?」


霞は灰皿に置いたタバコを摘み、軽く灰を落として口に咥える。


「なんだ、高いのか?」

「命の危険が伴うのならそれなりに貰う。

調査で1 万、祈祷で3万、お祓いで5万、その他必要経費や追加報酬は天井なしに請求する。」

「そうかい。ならその調査とやらをやってくれ。」


大吾は渋い顔で告げた。


「ほかに費用がかかるときは先に知らせろ。

金ってのは無限に湧き出るモンじゃねえ。」

「本当に霊能とやらを信じるんか?」


将吾はほんの少し声を潜めた。


「あんたら、役場の人間か?」


霞はハイボールに口をつける。

グラスの中身を飲み干し、氷を1粒口に入れ、奥歯で噛み砕いた。


「うん?いいや。強いて言うなら市場の組合に所属してる。」

「ふうん、いいよ。調査を引き受ける。

必要ならその場で討伐するから、大吾さんも立ち会ってくれ。」

「あ、危なくねえよな。あの婆さんみたいにおっ死んじまうのは……。」


大吾は顔を青くした。


「さあね。お前の命の保証はしない。だが俺の腕は保証してやる。」


霞はタバコを灰皿に押し付けて火を消し、その手を大吾へ差し出した。


「調査費は前払いだ、どうする?」


将吾は大吾を見つめる。

大吾は、唸りながらポケットから財布を出した。


「持ち逃げはしねえだろうな。」

「宿を教えてやる。心配なら1晩中見張れば良い。」


大吾は顔をしかめながら財布から一万円を取り出し、恐る恐る差し出した。

そこに、カランカランとベルの音が店中に響き渡った。


「いらっしゃい!!」


店主は景気よく挨拶をしたのち、怪訝な顔で来客を見つめた。

店主の視線が客の動きに合わせて動く。

視線は徐々に店の奥に移る。


「宿は前払いだって。」


客は霞の隣で足を止めた。

鈴の鳴るような軽やかな声がする。

大吾と将吾は目を剥いて客を見つめた。


その客の背は140センチも無い。

それよりはるかに低く、さらに靴は5センチ以上ありそうな厚底の白いブーツを履いている。

涼しげなノースリーブの白いワンピースを着ていて、首元にはフリルたっぷりのチョーカーが巻かれており、髪はサラサラで黒く、ボブカットで綺麗に整えられている。

何より最も目を引くのは、両目を覆う白い包帯。

隙間なくぴったりと巻かれたそれは、耳の横で可愛らしく蝶々結びしている。


「そ、その子は?」


大吾は尋ねた。

将吾は声を出せないらしく、あんぐり口を開けたまま首を縦に振っている。


(おぼろ)だ。俺の仕事のパートナーだよ。」


朧は小さな口を閉じたまま、大吾と将吾を順に見つめる。

いや、実際には目は包帯で隠れているため、そんな気配がしたに過ぎないのだが……。

朧はすぐに霞に向き直り、手を差し出した。


「お金。」

「あぁ、まずはコイツと――」


霞は大吾の手にある1万円札を掴み、朧に渡す。


「あっ、おい。」

「調査してほしいんだろ?

それから朧、座敷で放心しているオッサンから金を取ってこい。10万でいい。」


霞が指差すのは、先程賭けで霞に大負けしたあの男だ。


「何?またイカサマしたの?」


朧はジロリとした目を向け、小さな歩幅で座敷に向かった。


「は?イカサマ!?」


大吾と将吾は揃って声を上げた。

霞はニヤリと笑いながら、タバコに再び火を点けた。





一夜が明けた。

夜明けの空は、まだ少しだけ青さを残していたが、風に流された雲が次々とその色を覆い隠し、レースを敷き詰めたような薄灰色の空が広がっていた。

陽はすでに高く昇っているものの、雲に柔らかく拡散された光はどこか淡く、輪郭のぼやけた影を町の石畳に落としていた。


霞は空を見上げ、しばしばと眩しそうに瞬きを繰り返す。

海鳥は強い風を受けながら低く低く滑空し、通りを吹き抜ける冷たい風には雨の匂いが入り混じっている。また、遥か向こうの空には光を通さない真っ黒な雲が浮かんでいて、少しずつこちらに近づいているようにも見える。

一雨来るかもしれない。


霞は懐からタバコの箱を取り出した。

1本口に咥え、ライターを親指で弾きかけたところで、チラリと視線を朧に移す。

そのままライターは使用することなく懐にしまって、急ぐように足を前に進める。


だんだんと、賑やかな人々の喧騒が聞こえてきた。

市場だ。

昨夜、大吾と将吾と約束を交わした、待ち合わせ場所である。

若い人たちが行き交い、子どもがおもちゃを握って走り回り、店員は景気よく通行人に呼び込みをしている。


「兄ちゃん!蛸が安いよ!!」


浅黒い肌の筋肉質な男が手招きをする。

軽く手を上げ、呼び込みに応じない意思を見せると、男はすぐに別の通行人に声を掛けた。

あちらこちらで、通りの果てまで届くようなエネルギッシュな声が飛び交う。

人々は声に誘われるように店から店へ移ろい歩き、霞と朧は人々をかき分けるように歩みを進める。


「朧、逸れるなよ。」


霞は、自分の少し後ろをついて歩く少女を振り向き声を掛ける。

朧は返事もせず、言うことを聞くわけでもなく、ふらふらと思うがまま様々な店の前で足を止めた。


2人の脇を通りかかる人は皆、ぎょっとした顔で彼女を2

度見した。

朧はそれに気分を害するわけでもなく、あちこちをチラチラと興味深そうに眺めていた。


いつの間にか朧は姿を消し、霞は慌てて来た道を引き返す。

そうすればすぐに彼女は見つかった。


「朧、なにか欲しいのか?」


霞は、やれやれと頭をかきながら尋ねる。

朧が見ていたのは服だった。

それも、一見すると薄汚いが、かといって安物にも見えない、ヴィンテージのような服だ。

襟がひらひらした白いシャツや、革地に細かく刺繍が施された青いコートや、舞踊会で踊る時に着るような布が何枚も折り重なったド派手なドレスなど、大昔の西洋で好まれていたような服がびっしりと並んでいる。


霞は恐る恐る、目の前にあった青いコートの値札をちらりと捲る。

目が飛び出るほどのゼロの数に、値札をそっと表面に戻した。


「朧、さすがにここは高すぎる。勘弁してくれ。」


霞は申し訳ないと思いながらも、きっぱりと告げた。


「これがいい。」


朧は店の棚から帽子を1つ持ってきた。

深い紺の生地で、形は丸みを帯びたベレー帽に近い。

片側には、光沢のある黒い羽飾りが添えられていた。

まるでカラスの羽のように艶やかで、しかもそれは孔雀の尾を思わせるほど大ぶりだった。


霞は帽子を受け取り、値札を見る。

まだ先程のコートよりはマシだが、めまいのする金額に霞は目を閉じた。


「駄目だ。あとで大吾さんにおねだりしろ。」


霞は朧の腕を引き、ヴィンテージ服の店からいそいそと退散した。




その後、朧が興味を惹かれるような物も特に無く、スムーズに待ち合わせ場所にたどり着くことができた。

既に、大吾と将吾は待ち合わせ場所に立っていて、霞たちの姿を見るなり大急ぎで駆け寄ってきた。


「晴藤さん!待ってました!!」


大吾はホッとした顔をして、大きなガラガラ声で挨拶をした。


「来ないんじゃないかとヒヤヒヤしたぜ。」


将吾は額や首筋に汗を滲ませ、手拭いで拭いながら小さく頭を下げる。


「宿の前で待っていればよかったのに。なあ、朧。」


霞は隣に立つ朧を見下ろした。


「帽子買って。」


朧はスズメのような小さな声で言った。

大吾は「は?」と言って首を傾げた。


「今回、討伐が必要となった場合の成功報酬だ。

800メートルぐらい向こうにヴィンテージの店があるだろ?そこの帽子が欲しいらしい。」

「ヴィンテージって、あの猫婆の店か!?

あのボッタクリ店の帽子が!?」


大吾はデカい口を、さらに大きく開けて絶句した。


「あくまで成功報酬だ。丁度いいだろ?

現金はもういいから、現物支給で頼むぜ。」

「その帽子っていくらしたんだ。丁度いいって本当だろうな……。」


霞は背伸びをし、大吾に耳打ちした。


「ぐ……ううう。」


大吾は苦しそうな唸り声をあげ、大きな手で両目を押さえた。


「まずは調査だ。なあ、兄貴!」


慌てて将吾がフォローを入れた。


「……まずは調査だ。

金の話はその後にしよう。ついて来てくれ。」


大吾は巨大な背中を丸め、とぼとぼと歩き始めた。

霞はニタリと笑い、朧を見下ろした。


「あとは任せな。」

「約束、絶対。」


朧は力強く、霞の袖を握りしめた。





教会までは大吾と将吾が先導した。

そのすぐ後ろを朧がベッタリとついて歩き、霞は数メートル後ろを、タバコの煙を立ち上らせながら歩く。

だんだんと村の中心から外れ、人気はなくなり、建物も空き家が増えていく。

そんな道すがら、霞は煙をくゆらせ、空を仰いだ。


雲は低く重く垂れこめ、昼であるにもかかわらず、景色全体が薄暗く沈んでいた。

潮を含んだ強い海風が、狩衣の袖をはためかせ、髪を逆立たせる。

ひとときとして静まる気配はなかった。


やがて、ポツリ、ポツリと雨が降り始めた。

最初は頬に水の感触が混じる程度だったが、次第に地面に斑模様を描くようになり、霞の肩先をしっとりと濡らしていく。

朧は何も言わず、ただ前を歩く大吾と将吾の背をじっと見つめていた。


そして、ついに教会が姿を現した。


賑わいのあった村の外壁を抜けた先、風に晒された小高い丘の上に、それは建っていた。

長年使われていないと聞いていたにもかかわらず、その教会は異様なほど整っていた。

崩れ落ちた瓦もなければ、ひび割れた壁もない。

木製の窓枠は雨に濡れて艶めき、屋根の尖塔には小さな鐘が据えられていた。

まるでつい昨日、誰かが磨いたかのような光沢すらあった。


「綺麗すぎる……」


霞がぽつりとつぶやき、タバコを地面に捨てブーツの底で火を消した。

誰にともなく言ったその言葉に、大吾は振り返り、眉をひそめた。


「気持ち悪いだろ。俺も嫌いなんだ、この教会。」


大吾は扉の前に立ち、重々しい鉄の取っ手に手をかける。

そして、ギィ……と鈍く軋む音を立てて、教会の扉を開いた。


空気が変わった。


外とは別の空気が、霞たちの足元を舐めるように流れ出してくる。

微かな湿気と、古びた木の香り。それに混じって、なにやら甘く、香ばしく、どこか懐かしい香りがした。


扉の先は薄暗い礼拝堂だった。

両脇に並ぶ木製の椅子は整然と並び、奥には布をかけられた長い祭壇が据えられている。

窓には色とりどりのステンドグラスがはめ込まれ、雨粒がその表面を叩くたびに、内壁に歪んだ光を落としていた。


誰もいない。人の姿はどこにも見えなかった。

しかし、空間のどこかに、空虚とは別の「何か」が潜んでいる。


「朧。」


霞は相棒の名を呼んだ。朧は静かに頷いた。


「あんたら中には入らず、ここで待っていてくれ。扉は開けたままで。」

「お、おう。」


2人が頷くのを確認し、霞と朧は礼拝堂の奥に進む。

赤く柔らかなカーペットを踏み、木製の椅子を順に触りながら、真っ直ぐ奥へ。

匂いは、徐々に強くなる。

甘く香ばしい香りを胸いっぱいに吸い込むと、不思議と体の内側に溶け出して馴染むような感覚があった。


あれは、あの匂いは、昔に嗅いだことのある匂いだ。


霞と朧は祭壇の前にたどり着いた。

朧は霞を無言のまま見つめた。

祭壇の上には、白い箱が1つ置かれていた。

全体的に四角く、角が丸みを帯びており、上蓋は緩やかなドーム状になっている。

材質は陶器だろうか……。ツルリと滑らかで、艷やかに光を跳ね返している。

だが、よく見ると、ところどころに小さな亀裂が走っているのが見えた。

霞は眉間にしわを寄せ、思い切りよくドーム状の箱の蓋を手に取った。


「やっぱり、中身は空だ。」


霞は鋭い視線を四方へ向けた。

天井を左から右へ、壁を伝い下へ降ろし、素早く左へ。

口の中いっぱいに溜まったツバを飲み込むと、ゴクリと大きな音が静まり返った礼拝堂に響き渡る。

静かだ。いつの間にか雨の音がしなくなっている。

背後のステンドグラスを見上げるが、雨の雫が絶えず涙のように流れ落ちていた。

おかしい、静かすぎる。あまりにも異様だ。

緊張の為か、じわじわと体が熱を帯び、背や首筋に汗が噴き出し始める。


朧はスタスタと礼拝堂を歩いて回り、忙しなく頭を上下左右に動かしていた。

何かがおかしい。霞は顎に手を添え首を傾げる。


「どうですか、晴藤さん。」


入口で、大吾が声を上げる。


「大吾さん、将吾さん、先に報酬の話でもしましょうか。」


霞は顔に汗を滲ませながらニヤリと笑みを作り、2人へ顔を向けた。


「はい!?」


大吾は酷く驚いたように声を上げる。


「何十年も前に、封印されたという何かは、もうあの箱の中にはいない。

恐らく封印を施した術者が死に、日増しに封印が薄れ、ついに封印を破ったんだ。

あの中に居た何かは、今もこの辺りに潜んでいる。

それが町に侵入すれば、町の人間はただでは済まないだろう。」

「待て待て、待ってくれ!アンタは何を言っているんだ!」

「何をって、お前が依頼したんだろう!

この教会を調べろと。そして必要があれば封印した何かとやらを俺が討伐するって……。」

「そうじゃねえよ!アンタ、いったい誰と話しているんだ!!」


大吾は何かに怯えるように叫んだ。

「は?」と、霞は抜けた声を発する。


「将吾って、誰のことだ。」


大吾の声は、静かに、重く、礼拝堂の中を反響した。

ぞわりと、体の中に氷のような冷気が吹き抜けていった。

霞は、全身が硬直し、すぐに動くことは叶わなかった。

隣に立つ朧のみが、体を猫のようにしならせ、走り出した。


「ハルフジ……」


しゃがれた声が、地鳴りのように響く。


「ハルフジ キクジ」


大吾の隣りに立つ、将吾と名乗った男は牙を剥き出し、礼拝堂に足を踏み入れた。

その瞬間、体がぐにゃりと曲がり、大蛇の姿となって朧に襲いかかった。


「うわあああああああああ!!!!!」


突如目の前に現れた大蛇に、大吾は腰を抜かし、ドロドロに濡れた地面に倒れ込む。

大蛇の頭部が矢のように突き出され、空気を裂く勢いで朧を目がけ襲いかかった。

ドシンッと大きな地響きとともに、大理石の床が無数の破片を撒き散らした。

朧はひらりと宙を舞い、長椅子の背もたれに着地する。


大蛇は舌を震わせ、低く地を這うような唸り声を上げる。

10メートルをゆうに超える巨体は、黒曜石のような鱗をびっしりと生やし、瞳は鋭く黄金色の光を宿している。

そして、上顎と下顎に2本ずつ生えた、人の腕のように太く鋭利な牙を剥き出し、全身をぶるぶると小刻みに震わせた。

大蛇の筋肉で出来た胴体が収縮し、一気に解放される。

大蛇の口が、朧を丸呑みにすべく大きく開かれた。

その瞬間、朧は長椅子を強く蹴り、体を捻りながら飛び上がった。

そして、大蛇の頭の横で細く棒切れのような足を振り上げ、その細い体から考えられない重い一撃を浴びせた。

大蛇の体は弾丸のように宙を飛び、頭から礼拝堂の壁に突っ込んだ。

ドンッ!と強い衝撃音は骨の髄にまで響き渡り、教会全体が地震に遭ったかのように大きく揺れた。

壁には深い亀裂が走り、石の破片がハラハラと落ちた。

大蛇は、木製の長椅子を下敷きに、ピクリとも動かなくなった。


「よくやった、朧。」


霞は満足げに目を細め、目の前の祭壇にひらりと飛び乗った。


「それじゃあ、交渉の続きといこうか。」


先程の戦いですっかりほこりを被った小箱を拾い上げ、その手をゆっくりと差し伸べ、入り口に立つ大吾を見下ろした。


「こいつの封印に、町はいくら払ったか知らねえが、その術者は、結局封印までしかできなかった。

その大物を、俺たちが、消してやる。」

「晴藤さん、そんな…… そんな金、俺にはっ――」


大吾は、這いつくばったまま、懇願するような声をあげる。


「なあに、あんたが町長に証言してくれるだけでいいんだ。この晴藤霞さまが、爺さんに代わって化け物を退治したってな!」


霞は歯を剥き出し、勝ち気な笑みを浮かべ、人差し指と中指を揃えて大蛇に向けた。

その時、わずかに大蛇の体が震えた。

薄く開いた瞳は鮮烈に輝き、黒目がゆっくりと霞をとらえた。


「キシャアアアアアアア!!」


大蛇の尾が、ムチを打つように大きくしなり、霞に襲いかかった。

すんでのところで霞は飛び退き、大理石の上を転がるように受け身を取る。

大蛇の尾は大きな地鳴りを生み出しながら祭壇を粉々に破壊し、細かな破片が四方に飛んだ。

その煙に紛れ、再び大蛇の尾が矢のように飛ぶ。

霞はその場から飛び上がって避けたが、尾はムチのごとく体をしならせながら空を切り、空中で霞の体を鷲掴みにした。


「くっ……!」


霞の両腕と胴は大蛇の尾に絡め取られ、ぐるぐると巻き付けられたまま、頭を下にして吊るし上げられた。

冷たくざらついた鱗が肌に食い込み、チクチクと刺すような痛みを与えてくる。

全身が強く締め付けられ、肺が押し潰されている。

息を吸おうにも、満足に空気が入らず、浅い呼吸しかできない。

逆さ吊りの姿勢に、血液が重力のままどんどん頭に集まり停滞していくのを感じる。

血管が脈打ち、激しく熱を持ち始めた。

視界はじわじわと滲み、こめかみの奥で何かが破れそうに疼いている。

霞は呻き声を上げようとしたが、それすらも空気と一緒に喉に引っかかった。


「ダッサ。」


朧は霞を見上げ、小さく笑った。


「お、おい!捕まっちまったぞ!!

どうするんだ!!!」


大吾は、地面に転がったまま、大蛇を指さした。

朧は薄笑いを浮かべたまま、ゆっくりと入口へ歩き、大吾を見下ろした。


「おいアンタ、朧とか言ったか!?

早く晴藤さんを助けてやってくれ!」


大吾は、まるで凍えているかのように、ぶるぶると体を震わせながら訴えた。

朧は、まるで霞に見向きもせず、単調に告げた。


「決めるのは、あなたよ。」

「は、はあ!?」

「あなたの言う"猫婆"の、ヴィンテージの帽子と服を一式。それが成功報酬よ。」

「お前!仲間がやられそうになっているのに、助けないのか!?」


大吾は悲痛の声で叫んだ。

霞は今もなお、大蛇の尾に逆さ吊りにされている。

骨がミシミシと軋み、胸腔は膨らむ事ができず、呼吸をすることがままならない。

全身の骨がいまだ折れずにいるのは、霞の術が成せる技なのか、それとも――。


「決めるなら早くして。さもないと、次に死ぬのはあなたよ。」


朧は冷徹に、淡々と言葉を並べる。

大吾は奥歯をぎりぎりと噛み締め、霞を見上げる。

彼の顔は青白く、唇からこぼれる息は小さく荒い。

意識を保つことが精一杯という様子だ。


突如、大蛇の目に鋭い閃光が走り、鼓膜がビリビリと震えるほどの雄たけびを上げた。

大蛇の纏うオーラが一層濃くなった。

空気が淀み、息が詰まる。

霞を締め上げる尾に、さらなる力が籠もる……その寸前、大吾は叫んだ。


「やってくれ!!!早く、倒してくれ!!!

お前たちの要求を飲んでやる!!!」


朧は、三日月のように唇を歪め、唇の隙間から、蛇のように鋭い牙を僅かに覗かせた。

そして、朧はくるりと体の向きを変え、叫んだ。


「霞!!!」


霞は、声に応えるように、閉じかけた瞳を薄っすらと開けた。

視界はぼやけ、視線は宙に泳いでいる。

酸欠で朦朧とした意識の中、霞は手を伸ばした。

巻き付いた尾に阻まれながら、小さく伸ばした右手は、空中で確かに何かを掴んだ。

そして、掴んだそれを、手首を返すように勢いよく引っ張った。


はらりと朧の目に巻き付いた包帯が解ける。


スルスルと重力に従い緩んだ包帯を、朧はうざったそうに掴んで床に投げ捨て、閉じていた両目を開いた。

包帯越しにモノクロだった世界に、一気に色がつく。

白い石造りの壁。雨水で艷やかに濡れた、色鮮やかなステンドグラス。大理石に敷かれた真っ赤で毛足の短いカーペット。

その上にカラスのような、艶めく黒い鱗に覆われた巨大な大蛇と、大蛇に縛り上げられた青年の姿。

赤い瞳が、彼らをしかと捕らえた。


その瞬間、空気が爆ぜる。

朧は地面を割るように強く蹴り出し、大蛇のとぐろに飛び乗った。

とぐろを足場に、風を裂き、霞のもとまでどんどん駆け上がる。

瞬きの間に、朧は霞の体を締め上げる尾までたどり着いた。

大蛇は全身を震わせ、劈く(つんざ)ような声を上げる。

大きな口を開けて牙を剥き、獲物を射殺す勢いで朧を睨みつけた。

朧は、怯む気配など一切なく、大蛇の瞳を睨み返した。

さくらんぼのような甘い赤色の瞳が、鮮烈な輝きを帯びる。

ドクン、と一瞬、大蛇の心臓は強く脈打ち、体中の血液が沸き上がる。

その直後、パキパキと氷が割れるような音を立てながら、大蛇は硬直し、艶々とした鱗に覆われた黒い体は、無機質な薄灰色へ一変した。


朧は小さく肩をすくめ、トントンと足で大蛇の尾をノックした。

すると、アッサリと、大蛇の体はヒビ割れ、砂ぼこりを放ちながら木っ端微塵に砕け散った。

霞は真っ逆さまに落下し、礼拝堂の大理石に強く体を打ちつけた。 


「いっ……たたたたた。」


霞は頭と腰を庇いながら、もぞもぞと起きあがる。

肩で大きく息をし、途中噎せたように咳き込みながら、霞は顔を上げた。

朧は先ほどまで大蛇の尾があったところと、寸分変わらぬ位置に浮いていた。

鮮やかな赤色の瞳が霞を捉え、彼女はひらりと舞うように地面に降り立った。

霞と朧は無言のまま見つめ合い、霞が右手を差し出すと、朧は緩く唇に笑みを浮かべ、右手で霞の手を勢いよく叩いた。


「は、晴藤さん!!大丈夫ですか!!」


大吾は突然、我に返ったように声を上げた。

ドロドロの地面からようやく立ち上がり、パタパタと急ぎ足で礼拝堂の中に足を踏み入れた。

すると霞は咄嗟に声を大きく荒げた。


「入るなッ!!!」


大吾はビクリと体をすくみ上がらせながら静止した。


「朧の目を再度封印する。それまであなたは目を閉じて、絶対に何も見ないように。」


霞は大吾が両目をしかと閉じたことを確認し、よろよろと立ち上がり、礼拝堂の入り口付近に投げ捨てられた包帯を手に取った。

朧はクスクスと笑いながら、その後ろをぴったりとついて歩く。

そして、チラリと入り口に立つ大吾の瞳を覗き込んだ。


「コラ」


霞は呆れたようにため息をつき、朧の額にデコピンをした。

朧は額を擦りながら、目を糸のように細めて笑う。


「大吾さんが死んだら報酬が消える。やめてくれ。」


霞は朧の前で膝をつき、再び朧の目を覆うようにくるくると包帯を巻き始めた。

大吾は霞の言葉を聞き、躊躇いながらも尋ねた。


「お、朧さんの目を見たら、どうなるんで?」

「死ぬよ。普通に。目を逸らす間も与えられず、あなたは彼女の瞳の色を認識するか、しないかのうちに、石になって絶命する。」


霞は淡々と答えた。

だがその声は暗く、低く、そしてどこか憎しみが籠もっているような……大吾はそんな印象を抱きながら、強く瞼に力を入れなおした。


「はい、もう大丈夫ですよ。目を開けてください。」


しばらくした後、霞は告げた。

大吾が恐る恐る目を開けると、朧は先ほどと同じように、目を包帯で寸分たりとも隙間なく覆われ、耳の横で可愛らしく蝶々結びされていた。


「では、報酬のお支払いをして頂きましょうか。」

霞はにっこりと、朗らかな笑顔でそう言った。







数日後。

カーテン越しに差し込む光が、ゆるやかに色づき始め、窓辺のテーブルには長く淡い影が落ちている。

あたたかな午後の光が宿の部屋を静かに満たしている中、紅茶の湯気がぼんやりと揺れていた。


テーブルの中央には、大きなフルーツタルトがひとつ、すでに半分ほどが削られている。

取り皿はなく、フォークは1つだけ。

そのフォークを握る朧は、何のためらいもなくタルトを口へ運ぶ。

霞は紅茶をひと口飲んで、湯気の向こうで黙々と食べ続ける朧をじっと見つめる。

小さな刺すような日差しが、タルトのガラス皿を照らし、色とりどりのフルーツが瑞々しく、きらりと光っていた。


「結局、あいつは何だったんだろうな。俺も、お前も、あいつが人間じゃないと気づかなかった。」


窓の外の景色に目を向けてぼやいていると、朧はタルトで両頬を膨らませながら答える。


「タバコ。」

「うん?」

「あの蛇からあなたと同じ、タバコの匂いがしていた。」

「……食いながら喋るな。」


もごもごと籠った声に、霞は厳しい声で指摘した。

朧は口の中のものをゴクリと飲み込み、言葉を続ける。


「晴藤菊司も、同じ匂いをさせていた。」

「あぁ。俺は爺さんと同じの吸ってるからな。」

「あの蛇にはまだ、晴藤菊司の匂いが残っていた。きっと、封印のせいね。

だから、本来の力は出せなくて、教会の外では何もできなかった。あれだけ弱っていたら、あなたは勿論、私だって気づけない。」


そう言って朧は、再び大きく口を開けてタルトを頬張った。

霞は頬杖をつき、何か考え事をするように、人差し指で自分の頬をトントンと叩く。


「まあつまり、爺さんが死んだことによって、ああして世界のあちこちに、封印が解けたり弱まったりして出てきた化け物が大量にいるわけだ。」

「願ったりじゃない。あなたのお爺さんが生きた証を、その目で確かめられるのよ。」

「勘弁してくれ。そもそもあの爺さん、どんだけ恨み買ってんだよ。」


霞は大きく息をつきながら、紅茶のカップを傾けた。

すると、コンコンと部屋の扉を叩く音がした。

霞はノックの音に返事をしながら、カップをソーサーに置き、部屋の入り口まで急ぎ足で向かう。

扉を開けると、宿の従業員が大きなダンボール箱を台車に載せ、立っていた。


「配達です。」


「ああ、はい。どうも。」


霞は荷物を受け取り、部屋の中に持って戻った。


「ほら、届いたぞ。」


霞がダンボール箱を開けると、そこには今回の報酬としておねだりをした、羽のついた帽子と、同じ店の洋服一式が詰まっていた。

朧は中の衣服を取り出し、それらを丁寧に広げた。

柔らかな光沢のある生地に指を滑らせ、ほんのりと頬を紅潮させた。


「着てみろよ。俺は外でタバコ吸ってくるから。」


霞は懐に手を入れ、ゴソゴソとタバコの箱を探す。

すると指先に、小さくクシャクシャになった紙切れのようなものが触れた。


「なんだ?これ。」


取り出し紙を広げると、そこには鉛筆で、可愛らしく丸っこい字で、名前と電話番号が小さく書かれていた。


「やべ、忘れてた。」


霞は数日前、居酒屋で男と賭けをした際に、女性の店員からさり気なくこのメモを受け取っていたことを思い出した。

霞は顔をしかめ、落胆したようにベッドに腰を落とした。


「あー、もう!今さら連絡したって遅いよなぁ。

マジで、本当にやらかした!あの子可愛かったんだけどなぁ。」


頭を抱える霞に、朧は冷ややかな視線を向ける。


「スマホ、壊したばっかじゃない。」

「お前がな。」

「その3ヶ月前はあなたが霊力で壊したわ。」


朧は洋服についたタグをハサミで切りながら、ニヤリと笑みを浮かべる。

霞はムッとしたように口を尖らせる。


「あの時はお前の身が危なかったんじゃないか。というか、俺が壊したわけじゃない。事故だった。」

「それで、連絡するの?女の子に。」

「また今度、スマホ買いなおしたタイミングで連絡する。でもまぁ、その時にはまた別の可愛い子に出会ってるかもしれないね。」


霞は不貞腐れながらも、どこか浮ついた調子で電話番号のメモをテーブルに置き、タバコの箱とライターを手に取る。


「それじゃ、15分で戻る。」


霞はそう言い残し、部屋を出ていった。

朧はその背中を見届け、いそいそと服を着替えはじめる。


襟や袖にたっぷりとフリルのついた白いシャツに袖を通し、上から下までボタンを留め、シャツの上から細やかな刺繍が施された黒のベストを着る。

棒切れのように細い脚は真白のタイツをまとい、ふんわりと丸みを帯びた黒のかぼちゃパンツを履いた。

靴はヒールの高い、黒のショートブーツ。

そして、服の上からジュストコールと呼ばれる大きな紺のコートを羽織る。

腰がキュッとくびれ、裾にかけて緩やかな膨らみがある。

朧はその場でくるりとターンをし、体の動きに合わせてコートの裾がはためくのを確認する。

そしていよいよ、ベッドの傍らに置いていた羽根つき帽子を手に取った。

柔らかな手触りのそれを、そっと頭に乗せる。

朧は胸を高鳴らせ、大急ぎで姿見まで駆け寄り、まるで今から鏡の中に飛び込むような勢いで鏡の縁を鷲掴んだ。


鏡の中に住む少女は、甘いさくらんぼ色の唇をにこやかに緩めながら、白雪のような頬をピンク色に染めて、心を弾ませながら立っていた。

柔らかな漆黒の髪の毛に乗った紺色の羽根つき帽子。

帽子と揃いの色のジュストコールは袖の長さや丈が、オートクチュールのようにぴったりだ。

少し背伸びをしながらも、少女のあどけなさを残した洗練されたスタイルに、朧は満足げに頷いた。


朧は部屋の中をパタパタと走り回りながら、再度窓際の椅子に腰を下ろした。

もう少しすれば、霞は部屋に戻ってくるだろう。

朧は、少し温度が冷えた紅茶のカップに手を伸ばした。

すると、テーブルの上に雑に置かれた紙切れがふと目に止まった。


朧は、心が急激に冷えていくのを感じた。


「……忘れてたくせに。」


朧はクシャクシャの紙切れを手に取り、ふうっと息を吹きかけた。

紙はまるで火に焼かれたかのように、みるみる真っ黒く、消し炭になっていく。

炭はハラハラと床に落ち、床の絨毯に触れた途端、じゅわりと溶けるように消えていった。


「ざまぁみろ。」


朧は大きく歯を剥き出して笑い、頬杖をつく。

窓の外に目をやると、遠い空の彼方で海鳥が風に乗り、それは自由に楽しそうに、優雅に羽ばたいていた。


さあて、部屋に帰ってきた霞が一体どのような反応を見せるのか……朧は楽しみでしょうがなかった。


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