どんなにうまくいかないことがあっても、きっといいことがあるから
今の私はやけになっていた。仕事での上司からの叱責、家族からの過保護を受けていたり、SNSで交流ある人々からの幸せな投稿が流れて自分と比較してしまったりで、今までにないくらい荒れていた。
仕事はノルマノルマうるさくて、通常業務も大切にしたい私との衝突、そんな中で監視し管理しようとしてくる両親に血管ブチ切れそうになっていた。落ち込む私に追い討ちをかけるように周りのキラキラした生活が眩しかったのだ。
私はもう、どうでもよくなっていた。全てのことが。今まで大切にしていたものを捨ててしまいたくなるくらいに。例えば、健康とか。退職や縁切りとか。
「マスター、おかわり!」
「やけにペースが早いけど、大丈夫?」
「大丈夫です! 全然まだいけますから!」
ここは行きつけのバーだ。穏やかなマスターが経営する隠れ家として知る人ぞ知るバーである。
私はここのカウンターでカクテルを嗜むのが好きだった。カクテルは美味しいし、マスターはにこにこと適度に話しかけてくれて共感をしてくれる。邪魔をしないBGMに肌に優しい室温。それに、周りのお客の空気。とても居心地が良かった。
私はタイトなスカートを広げて脚を組んだ。ヒールを鳴らすとカツンという音が響いた。
「だいたいねー! 上は数字しか見ないのよ。だけどね、現場は数字だけの問題じゃないの。それが分かってないのよ。ねぇ、マスター? マスターもこのお店やってるから上の人の意見に賛成?」
「希ちゃんの意見に賛成するよ」
「本当!?」
「本当さ。数字だけじゃないよね。お客様の意見を聞いたり、サービスしたり。お金に直接繋がらないこともしなきゃいけない時もある」
「マスターも私の接客で苦労してるだろうしね」
「そんなことないよ。例えばさ、隠れ家なんて儲からないという人もいる。そういう意見もある。ただ、隠れ家を欲している人もいる。僕もそういう人一人ひとりを大切にしていきたい。そういう対立が生まれる時があるという話だよ」
「私もここを探し出せてよかった」
「見つけて下さり、ありがとうございます」
出されたカルーアミルクを胃に流し、また次の注文をする。今日は限界まで飲むと決めたんだ。
「マスター、ビール」
カタっと音を立てて、誰かが隣の席に座った。視線を上げると、私と同じようにスーツ姿の男だった。低く、胸にスッと馴染む声。かなりタイプの声だ。顔は塩顔でえくぼが印象的だった。
「隣、失礼します」
「ど……どうぞ」
組んでいた脚を整えて、胸元を触る。無意識に身だしなみを気にしていた。
「はい、どうぞ。ビールです」
マスターがカウンターに置くと、男は口に含んだ。ゴクゴクと喉仏が動く。ASMR的な音も素敵だけど、私はもっとあなたの声が聴きたい。そう思って、ちらちらと様子を伺いつつ話しかけた。
「あのっ……どうですか?」
「はい?」
「美味しそうですか? 私……」
何言ってんだーー! ビールが美味しいか聞こうとしたのに頭がこんがらがって変なことを口走っちゃった!
「えっと……」
困ってるじゃん! 初対面の人だから気を遣って言葉を選んでくれてるじゃん!
「美味しそうです、かなり」
「あっ……ありがとうございます」
気まずい空気が流れる。そりゃそうだ。私が悪い。美味しそうですかってなんだよ。私は食べ物じゃないし。エロい意味で言った感じになったじゃん。
まずいな。間が持たないな。隣同士だもんな。というか、なんで隣に座ったんだ? そんなにお店混んでたっけ?
そう思い、周りを見渡すと想像以上にお客が入っていて、大声でマスターに愚痴を言っていたことが恥ずかしくなってきた。
「食べてもいいんですか?」
「へ……!?」
内緒話をするかのように耳元で話す男。かかる吐息。甘い誘惑。
「あなたが本気なら食べちゃいますよ?」
「えっと……」
ボンと爆発するように熱くなる顔。いや、惚れたのではない。お酒のせいだ。
マスターに助けを求めると、マスターはにこにこと見守っているだけだった。
「俺、ここの常連なんです。実は何度かあなたのこと見かけてて。綺麗な人だなって思ってたんです」
私の顔が赤いのはお酒のせい。でも、この男はまだ酔っていない。酔うほどお酒を飲んでいない。ということは、本気にしていいの? その言葉。
「そのうるうるした瞳に赤い顔は、オッケーということですか?」
どうしよう。私、この人に食べられちゃうの!?
今日なら、大切にしていた処女もあげてもいいかも。そんな風に思える恋。
「私、希です」
「俺は真二です」
これから、二人の物語が始まる。
おわり