水よりも大切な物つづき
発災二十四日目
~街の悪臭~
燃えるゴミの収集日には、街全体が酷い臭いに悩まされる。トイレットペーパーがない以上、トイレに流せない物でお尻を拭いたら、それは当然ゴミになって捨てられるからである。カラスですらこの臭いには耐えられないのか、燃えるゴミの収集日に食料を漁っていたカラスを見かけることがなくなった。それぞれの市町村は、ゴミを出す際はなるべく収集時間直前に出してほしい旨を通知しているが、万が一収集に遅れたらそのゴミを次の収集日まで自宅で保管しなければならないから、そんなリスクを冒したくない人は早々と収集場所に出してしまう。
マンションでもトラブルが多いようだ。マンションのゴミ集積場所は、曜日を限らずにおいてしまうことができるところも多いので、集積場所に近い低層階の住民のところには、風向きが悪いとどうしても溜まっているゴミの臭いが風に乗って漂ってくる。また収集日を守っているために、集積場所に持っていけないゴミはベランダに置かれることになるから、隣のベランダから臭ってくることも多くなっている。マンションの管理人はトラブル処理で、右に左に上に下に飛び回って大忙しだ。
スーパーの袋やゴミ袋といった物は、だいたい素材がポリエチレンという物質で作られている物なので気体を通してしまう。だからどうしても袋の中身の臭いが外に漏れやすい。従って集積場に集まっているゴミの中に、お尻を拭いた紙や布が混ざっていると、どうしてもその臭いが、周辺に飛散してしまうのだ。
ゴミ袋と違ってスナック菓子の袋なんかは、アルミ蒸着フィルムといった様々な素材の多層構造になっているから、臭いは外に出ない。ポテトチップの袋から中身の匂いがしないのは当然のことだ。もし中身の匂いが外に漏れてしまったら、コンビニの中はポテトチップの匂いで充満するはずである。まあそれはそれで、ポテトチップの売上が物凄く増えそうな気もする。うなぎ屋は蒲焼の匂いをあえて拡散させることで集客しているが、同じ論理だ。
そういった袋を有効活用してゴミ袋に使って臭いの出る物を、そこに入れてくれれば街中のクサい臭いも解消されるのだが。と思っていたら、今日見たニュースで、大きな袋の食品が相次いで売り切れになっていると報道されていた。その理由を探ったら、その食品袋を流用して汚物の臭いを出さないように、そういった商品を買い求めているのだそうだ。特にチャック付きの大きい袋の製品が売れている。SNSにはこんな商品の袋が大きかった、こんな物も利用できるといった臭いをなるべく出さない工夫の書き込みのオンパレードだ。
地方のかつお節製造の会社は、突然大袋の商品ばかりがネットで売れてしまい、在庫がなくなってびっくりしていた。フワフワのかつお節が潰れて粉々にならないよう、多少空気を充てんした小袋をまとめて入れているから、結構大きな袋を使っている。商品の金額に比べて袋が大きいのが人気だったようだ。他の会社では、コスト削減のために商品の袋をチャックなしに変更したのだが、ネット上では前のチャック付きの商品写真を変更し忘れていたために、購入した客からチャックが付いていないとクレームが来たそうだ。商品の内容でのクレームつくことは過去に幾つもあったが、外袋にクレームがついたのは初めてだったそうで、袋目的ではなく商品の魅力で買ってほしいと担当者がインタビューに答えていた。
街中の悪臭の原因はごみだけではない。公園の公衆トイレやコンビニのトイレが使用できないことによって、街中のあちらこちらで用を足す人が増えている。公園ではトイレに行こうとした人が、使用禁止で中に入れないために、我慢できずに近くの木陰で用を足してしまう。コンビニでは使用禁止になっているトイレに腹を立て、周りから見えにくい店の裏側で仕返しに用を足す。街中では目立たない歩道橋の階段の下、ビルとビルの間や、守衛のいないビルの敷地内の植え込み、店が閉まった後の店頭まで、街中がトイレ化してしまっている。昭和の時代には街中にペットが散歩中にしてしまった物をあちらこちらで見かける日本だったが、時代とともに飼い主のマナーが良くなりほぼそれを見ることはない。しかしペットの物ではなく人の物を見かけてしまうような日が来ることになるとは思ってもみなかった。
悪臭と言えば電車の中でもトラブルが多いらしい。私はほぼすべての仕事を自宅で済ませてしまっているので、最近の電車の中の状況を知らないのだけれど、外で働いている人達は、トイレに行った後にキチンときれいにすることができない状況であるから、どうしてもちゃんと拭いていない人が多くなっているようだ。電車内でそんな人が近くに立っていると、どうしても臭いが漂ってくる。どちらかと言えば身体の後ろ側で臭うから、本人はあまり気が付いていないのだろう。そんな人が近くにいたら、臭いのしない方に遠ざかってしまえば済むことなのだが、混雑している車内では逃げようもないので、文句を言う人が出てきてしまう。文句を言われた側は、自分が臭っていることに気づいていないから、トラブルも大きくなるのだろう。
発災二十五日目
~コインランドリーのトラブル~
ここのところのニュースは毎日臭いのトラブルを取り上げることが多い。今日のニュースはコインランドリーでのトラブルを取り上げていた。
ここ数年コインランドリーは進化を遂げていて、布団が洗えるとか、アプリで空き状況がわかるとか、洗濯が完了するまで隣のカフェで時間が潰せるとかいった、利便性の追求や家庭ではできないことができるようになったりとかいった工夫がなされたことによって、利用が右肩上がりで増えている。マスコミに取り上げられるような最新の店舗は、コインランドリーとして設計施工されているから、柔軟剤の匂いだったり乾燥機の熱なんかを、しっかりと店外に排気できるようになっている。だから店内に関しては、前の人が利用したときになんか変な臭いが残ったとしても、次の人が利用するまでには充分に店内は換気されていて、快適な空間を実現している。しかし昔から営業をやっている古い店舗だったり、小さな事務所が退去した後をほぼ居抜きでやっているような店舗などについては、残念ながら排気設備が充分ではないから、様々な臭いが店内に残ってしまう。
トイレットペーパーが不足してからは、温水洗浄便座で洗った後に、キチンと拭かないことが増えているようだ。それは特に男性に多いとのこと。おそらく男性の方が女性よりも自分の臭いに関して鈍感だ。自分の臭いに鈍感なのは、オヤジ臭の低減をアピールするシャンプーやボディソープのコマーシャルが多いことから明らかだ。
日本の柔らかな感触のトイレットペーパーに慣れてしまったお尻にとっては、硬い紙や布で拭く行為は相当なストレスで、なるべく拭きたくないというのが原因なのだろう。最近は若い女性にも多いらしいが、痔持ちは男性に多いから、そういう人たちにとって硬い物でお尻を拭くことには相当の抵抗があるだろう。
また男性が使用する小便器は、使用時に相当周りに飛び散っており、おそらくその飛散物は、ズボンに付着する。昔夏に短パンを履いているときに、外出先の小便器で用を足していたら、しぶきが足に飛散しているのを実感したことがある。この尿はねの解決策として、アメリカの物理学者が流体力学を用いて、壁面に対して十二センチよりも近い距離で放尿を行うと、尿はねをなくすことが出来ることを発見したとの記事を見つけて、それ以降なるべく便器に近づいて実行している。きちっとした論文なので、全部をちゃんと読む気にはならないが、ざっとこんな感じかなという説明は記憶がある。尿は最初ひも状に進んでいるが、粘性があるので表面張力かなにかで、徐々に球状にまとまっていく。その球状になった状態が、平面にぶつかった時に、大きく飛び散るというのだ。
確かに節水型の洗浄用のノズルを紹介する動画で、水の球が連続してまるでマシンガンのように汚れに当たり、汚れを押し流すというという映像を見たことがあった。球状になった水は、ぶつかると大きく飛び散る。子供の時、縁日で買った水ヨーヨーを掌でバンバンしていると、力を入れすぎてゴムが切れ、地面でバンと割れて飛び散り足元がジャブジャブになった記憶があるが、そんなイメージが浮かぶ。
トイレの芳香剤のコマーシャルが、臭いの原因は尿が便器の外に飛び散っていることをアピールするわけだから、男性のいわゆる座りションはどんどん増え、あるアンケートでは三人に二人は座ってするそうだ。若い人では八割近くが座っているとのことだ。それでも外出先でトイレに行けば、立ったままするだろう。
そんな実情があるから、世の中の奥さん達は、洗濯する際に、自分や娘の洗濯物と旦那の物を、一緒に洗いたくないのだと思う。臭いの強い旦那の下着やズボンと自分や娘の洗濯物を一緒に洗いたくない人が増えているから、旦那の分だけコインランドリーに洗いに来る様だ。自宅で洗濯機を二回まわすより、自宅の洗濯機で自分と子供の分を洗いながら、旦那の分を近所のコインランドリーに持っていけば、洗濯時間も短縮できる。コインランドリーで洗濯される物は、旦那の物中心だ。だから持ってきた袋から洗濯機に移すときに、臭いが店内に漏れる。充分な排気が取れていないから室内に臭いが残る。結果クレームとなっている。
発災二十六日目
~東海道新幹線の全線復旧~
一部で復旧工事に時間が掛かり、折り返し運転だった東海道新幹線が、漸く全線復旧した。
新幹線は地震を感知して緊急停止をしようとしても停止までは二分近くかかる。
阪神淡路大震災の時に、新幹線は発災時刻が始発列車の出発前だったため、乗客が巻き込まれることはなかったが高架橋が崩落した。このため橋脚を補強するなど地震対策が行われた。新潟県中越地震が発生した際に上越新幹線が脱線した。新幹線は地震検知システムで激しい揺れが起こる前に列車を停止するが、当然停車させることは難しい。そこで中越地震を教訓として、脱線したときにレールから大きく逸脱していかないようにガイドを取り付けるようになった。
東海道新幹線は、逸脱防止ストッパと合わせて、脱線防止ガードの設置により、二重に脱線防止対策をおこなっていたため、今回の地震で脱線車両はあったものの大きな事故にはならなかった。大きく脱線したところに対向車両が来れば、衝突して大惨事になりかねないが、今回脱線した車両は、衝突事故を起こすほどの脱線はしなかった。実際数件あった脱線事故の中で一件は、上下線が脱線した状態ですれ違ったというもので、どちらかの車両が大きくレールから逸脱していれば正面衝突の可能性もあった事故だ。大事故を防げたという点で事前の防止策に大きく予算を掛けていたことに意義があった。
東海道新幹線はドル箱路線だから、このような二重の脱線防止対策を実施するだけの費用を賄うことができたが、他の路線にはついていない。ぜひ全国的に広めてほしいものだ。
宅配ボックスに荷物があったので、手に取ってみると、珍しく母親からの宅急便だった。一体いつぶりだろう。前回送ってきた記憶が全くない。それ程大きくはなく、見た目の感じよりも軽い荷物だった。
早速電話してみる。
「荷物届いたよ、中身何?」
「この間久しぶりにデパートに行ったら、地下に行列があったんで、並んでいる人に聞いたら、人気の焼き菓子に並んでるっていうから、そこに並んで買ったのよ」
「自分で食えばいいじゃん」
「一人二箱までっていうから、二箱買っちゃたのよ。焼き菓子だから少しずつ食べようと思ったんだけど、期限が短いのよ」
箱の裏を見る。
「本当だ、賞味期限おとといまでじゃん」
「そうなのよ、一箱目の半分位まで食べたところで気づいたのよ。こっちじゃ食べきれないから、あんた食べなさい」
「食い終わるまでに、どんだけ賞味期限過ぎちゃうと思ってんだよ」
「トイレットペーパー送ってもらったお返しなんだから、ちゃんと食べなさいよ。宅急便代だってこっちで出したんだから。ドラマ始まっちゃたから切るわよ」
いつも通り自分の言いたいことをバーっと言って切られた。
ドラマの時間に束縛されないように、ハードディスクレコーダーを買って送ってやったのに、未だに今放送している番組しか録画できないでいる。いつになったら見たい番組を予約録画することができるのだろう。
菓子の箱を開け、三つだけ取り出して、後は冷凍することにした。見たところ自然解凍すれば、そんなに風味を損なわずに食べられそうな商品だった。SDGsとかいうのではなく、昔から食品を食べずに廃棄することが嫌いなので、この菓子もなんとかして食べきらねばならない。
発災二十七日目
~想定外の断水~
外がいつもよりざわざわしているので、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。どうやら区役所の車が近所を巡回していて、私の住んでいるエリアが断水していることをアナウンスしている。すぐ近くの幹線道路の下を通っている大きな水道管が破裂したようだ。おそらく最初の地震で微妙に破損した箇所が、昨晩の余震で大きく破損したのだろう。テレビを付けたらちょうどそのニュースを放送しており、十数メートルの水柱が上がっていて、警察や消防の面々がその周りを囲んでいる映像が放送されていた。
大きな地震が発生した後、二週間程度は、同程度の余震が発生する可能性がある。非常用にいつもは風呂桶半分位しか溜めていない水を、今回の発災後は自分が入っても溢れない程度に多めに溜めて、断水時の生活用水のために確保していたのだが、余震もだいぶ減ってきていたので、そろそろ問題なかろうと、発災以前の通りに半分位に戻したところだった。残念。
本震では都内で三百箇所近くも漏水があって、断水がすべて解消されるまで三、四日かかっていた。まあ今回は一ヶ所だけの単発な工事だから、半日もあれば修理も完了するだろう。風呂桶に溜めてある水は、半分程度とはいえ百リットル程度はあるから、トイレを流すのに七、八回程度は使うことができる量だ。バケツで汲んでトイレまで持っていくのが面倒くさいだけで、困ったことになることはない。飲料水用のミネラルウォーターは充分にあるし、今ならネットでオーダーしても翌日には配送されるから、飲料水のストックが減ってきても全く問題はない。
ただし、しばらくの間は温水洗浄便座が使えなくなるから、トイレの回数が増えることは避けておきたい。だから念のため、なるべく過熱した物を少なめに食べようと思い、メニューを何にするか冷蔵庫を開ける。
キノコや海藻類は、腸の調子を良くしてはくれるが、便のかさまし効果があるからトイレの回数が増えそうだ。今日使うのは止めておくか。まあ今日食べた物は、明日のトイレに影響があるだけで、明日には断水は解消しているだろうから、別に何を食べようと問題はなることはないのだが。
冷蔵庫の卵に目が行く。
『急に卵かけご飯が食いたくなったな』
国内で販売されている卵は洗浄がしっかりされているから、生卵のまま食しても食中毒になることは、ほぼないと言って良いだろう。たまに生卵で食中毒になったというニュースが流れることもあるが、大抵そういう場合は、近所から生みたて卵をもらって、常温で置いておいた物に付着していた菌が増殖して食中毒になるのであって、スーパーとかで売っている卵で食中毒になることはないと聞いたことがある。でもまあ今日は念のためやめておこう。こんな時に万が一にもお腹を壊したくはない。
まあこういう時は、なるべく洗い物を少なくしておきたいから、最近出番が多いホットサンドメーカーで何かを作ろう。これで作れば、料理した後皿を使わずにそのまま食べることができるから、洗い物が少なくて済む。洗い物が少ないから置きっぱなしにして断水が終えてから洗っても何の問題もない。先日購入したホットサンドメーカーで作るメニューをまとめた本の中から何を作ろうか考える。このような本が複数売られているということは、ホットサンドメーカー信者が増えてきているだという証拠に他ならない。
発災二十八日目
~混み合う肛門科~
肛門科が混んでいるようだ。理由は二つ。一つはトイレットペーパーがないために、代用品の硬い紙や布などで拭いていることによるかぶれ、もう一つは温水洗浄便座の使い過ぎによるかぶれだそうだ。
トイレットペーパーがない以上、何かで拭くとしたら、程度の差こそあれ、何かしら硬めの物で拭くしかない。代用品として使っている物で一番多いのは、布だったり新聞紙・雑誌などの紙だろう。その中で多分布が一番柔らかいのだろうが、それでもトイレットペーパーよりはお尻にだいぶ負担がかかる。使用する回数が多くなってくれば、お尻への負担も大きくなるから、我慢できなくなるほどの痛みを伴う人が増えてくるのも当然だ。
逆に硬い物で拭くのが嫌な人は、温水洗浄便座を使って、普段よりも時間を掛けてお尻をきれいに洗おうとする。この当然のような行為が、実は意外にもお尻には良くないらしい。
拭く物が無ければ、当然自然乾燥を待つしかないだろう。しかし、手を洗った後拭かずにそのまま自然乾燥させたら、指の先なんかはガサガサになるし、乾燥した唇を潤そうと舐めてしまうと、その後風にあたってまた乾燥してしまうから、唇がガビガビになってしまう。そんなことから考えれば、確かにお尻を拭かないままは、あまり良くはなさそうだ。
トイレットペーパーが世の中からなくなってからだいぶ経ったが、今頃ニュースになるということは、皆お尻の痛みを我慢していたのだろう。痛みが限界になるまで、できれば肛門科には行きたくはない。自分がもしそんな痛みを感じたとしても、恥ずかしくてなかなか行きにくい診療科ではある。
温水洗浄便座を使いすぎると、トイレットペーパーを使用していたとしても、問題はあるようだ。何でもそうだが、過ぎたるは及ばざるがごとしだ。便は酸性の強い物質で、そんな物からお尻を守るためにお尻には常在菌がいて、弱アルカリ性に保っている。温水洗浄便座を長時間使うと、汚れと共に常在菌を流してしまうので、アルカリ性を保つことができず、酸性の物が肌に触れることによって被れたり、最悪痔になったりするようだ。
日本では相当に普及している温水洗浄便座だが、海外での普及率がなかなか高くならない。テレビ番組で日本に住んでいる外国人が、両親に日本から温水洗浄便座を買って設置してあげて、皆が喜ぶシーンを何度もみていたから、普及率も上がっているのだろうと思い込んでいたが、調べてみたらどうも違うようだ。
海外の人の多くは温水洗浄便座のデメリットを不安視しているから普及していないらしい。デメリットというのは、直接あたる水流が常在菌や皮脂を流してしまって、お尻が無防備になるだけでなく、洗浄する水に菌が繁殖するなど、良くない部分を指摘している医者が多いからだそうだ。
確かに説明されていることに関して理解はできるが、では拭き残した便がお尻に影響をもたらすことはないのだろうか。そのことについての説明は探してみたけれどヒットしなかった。温水洗浄便座が初めて日本で発売された時のコマーシャルは、今でも鮮明に覚えている刺激的なことだった。女性が掌に絵の具を付けて紙で拭き、真っ赤になった拭き残しを見せながら、お尻だって洗って欲しいと言うものだった。セリフに説得力があった。
混み合っているのは肛門科だけではないようだ。内科や泌尿器科も受診している人が増えている。多くの人がなるべくトイレにいかないように我慢をしてしまうから、便秘に悩む人が増加したり、尿道炎や膀胱炎になってしまう人が増えているらしい。
大震災が起きた時なども、トイレの数が必要量に対して少なかったり、多くの人の使用によって汚れてしまったトイレを使うのをためらったりするために、トイレに行くことを我慢してしまう。そのために泌尿器科の疾患が増えるというのを聞いたことがある。原始的な生物でもエネルギー源を摂取する、不要物を排出することを行っている。不要な物を体外に排出することは非常に大事なことだということを肝に銘じておかなければならない。
発災二十九日目
~インバウンド需要の復調~
発災直後からキャンセルが続いていた外国人の旅行客数が復活してきた。
発災当初は、高速道路や東海道新幹線が不通になっていることもあり、かなりのツアーが中止されてしまった。個人での旅行も東京から近い地震だし、津波によって死者も出たということもあったので、旅行をキャンセルしてしまう人も多かったようだ。北海道、東北、九州といった、今回の災害に全く関係のないエリアを中心とした旅行も、キャンセルが多かったそうだ。大陸に住んでいる人達にとっては、島国が津波を受けたというニュースを見れば、そこに旅行に行くことについて不安になるのは当然のことだろう。日本人は日本列島がど真ん中にある世界地図しか見ていないが、世界から見る日本列島は世界地図の端、巨大なユーラシア大陸の先の海に浮かぶ、ファーイーストの小さな島国だ。自分が行ったことのない島国に、大きな地震が起こって津波によって被害があったというニュースを見たら、実際よりもオーバーに不安を感じてしまうのは当然のことだ。日本人だって例えばスリランカに行こうと思っていたのが、地震によって津波の被害があったと言われれば、それが一部の地域だったとしても、スリランカへの旅行を控えようと思うはずだ。そんなものだ。
自分が行こうと思っている旅行先のエリアと災害のあったエリアとの距離感というものは、いまひとつきちんとしていない人も多い。実体験が伴っていないと、地図だけで見た感覚では二つの距離はかなり近くに感じてしまう。災害のことではないが、前にテレビでインタビューが流れていて笑ってしまったことがあった。もし北海道に一泊二日の旅行に行くとしたら、どこに行きたいかを街頭で聞いてみるというものであった。聞かれた人は皆、函館でおいしい物を食べて、札幌で買い物をして、釧路湿原で自然にも触れたいなどと非常に欲張りな旅行日程を言っていた。函館から札幌までは特急で片道二時間半だ。釧路なんかは丸一日掛けなければ観光なんかできない場所だ。そんなスケジュールでの旅行はありえないのに、平気でそんなこと思っている人たちが山のようにいる。静岡で被害が出たからと北海道旅行をキャンセルする外国人を笑うことはできない。
外国からの旅行者たちが困っているのは、やはりトイレットペーパーが不足していることに関連している。日本は外国と異なり、無料で利用出来るトイレが物凄くキレイで、しかも数も多い。そのトイレのほとんどが現状では使用できない状態になっている。無料で使えるところが多いものだから、逆に海外に比べて有料で使えるところが少ない。お金で解決することもできない。外出するのが苦痛な状況だ。
ホテルチェーンでは客室のトイレットペーパーを確保すべく、全国で買い付けて何とかやりくりしている。それでも不足してしまっているところは、販売室数を減らしてトイレットペーパーを切らすことのないように、運営を行っている。販売室数が減ってしまっているから、以前に比較して室料が安く販売されることが少なくなってしまった。外国からの旅行者は、日本人と異なり最低でも一週間、長い人は一ヶ月以上の旅行をする人が多い。一日の宿泊料が千円上がったとしても、数万円余計なコストが掛かってしまう。
日本に乗り入れしている海外のエアラインでは発災当初、機内のトイレでのトイレットペーパーの消費量が異常に多くて、キャビンアテンダントが理由もわからず困惑していたらしい。津波によってトイレットペーパーの流通量が減っていることなんて海外の人には知る由もない。日本に帰国する日本人が、トイレから相当量を巻き取って持ち帰ったなんて理由を想像できるわけがない。
日本の状況が分かってきた格安航空では、機内販売でトイレットペーパーを売りはじめたそうだ。格安航空だと機内販売の売り上げの一部はキャビンアテンダントの収入にもなるため、にこやかにではあるが、結構脅すような内容で売り付けているらしい。
発災三十日目
~東名高速道路の開通~
東名高速道路の最後の不通箇所が、漸く復旧した。まだ部分的には一車線の場所もあるようだが、漸く西側からの物流がスムーズになる。
東名高速道路にはトンネル部分も非常に多く、打音検査することに時間が掛かったらしい。大きな橋梁も検査が必要だった。トンネルではない部分ならば、路面の応急処置さえすれば、速度制限や車線制限を設けて車を通すことが出来るが、トンネル部分や橋梁が万が一崩落してしまうと、通行している車が被害を受けるだけではなく、復旧に大幅な時間が掛かってしまうことになる。管理会社としても慎重にならざるを得なかったのだろう。
新東名高速道路は、当初計画では既に全線開通しているはずだったが、一部のトンネル工事で想定外の出水があって工期が大幅に遅れていた。最後の区間の開通日がようやく確定した直後の発災だったため、緊急車両などはすぐに通行できる状態だった。新しい道路だから補修個所も少なく、すぐに全線開通した。だから西からの支援物資などが静岡に到着することに関しては何も問題ない状態だった。
しかし、新東名高速道路は東端が海老名までなので、それより東は東名高速道路だけになってしまう。東名高速道路は神奈川のトンネル内部での補修に時間がかかっていたため、東京への流通が滞っていたのだ。
東名高速道路には五十年近く経過しているトンネルが多く、矢板工法によって施工された箇所が多数存在している。矢板工法とは重機のない時代から用いられているような、穴を掘り壁面を板で土を支え、その板を棒で支え板の表面をコンクリートで固める方法だ。もちろん高速道路のトンネルだから重機を使用し当時の最新技術を使っての工事だったのだろうが、現在使用されている工法で作られたトンネルに比較すれば、ひび割れや漏水の多い工法なので、点検にも時間がかかり補修にも時間を費やしたようだ。
静岡でのトイレットペーパー製造が再開されても、東京への搬入経路が確保されなければ、東京がトイレットペーパー争奪戦から解放されることはない。取りあえず高速道路が全面開通したことは、喜ばしいことだ。ただ全面開通したということは、東京から静岡に行くことも簡単になったということだ。静岡に行けばトイレットペーパーが買えるのではないかと勘違いしている人たちが自家用車で静岡に向かい、被災地域の活動に支障が出なければ良いのだが。
発災四十日目
~シングルがない~
地震から一ヶ月強が経過し、東京のトイレットペーパー事情は少しずつ改善してきている。近所のドラッグストアには、未だオープン前に多少の行列ができてはいるが、午後になって人が外まで並んでいることはほとんど見かけることはなってきた。SNSを見てもトイレットペーパーが買えないというような書き込みは、ほとんど見かけることはなくなってきた。
ただ品揃えについては、発災前と比較して大きく変化している。販売している商品のほとんどは、いわゆるロング巻きと言われる商品ばかりである。昔からある普通のサイズ、シングルだと五十メートルとか六十メートル、ダブルだと二十五メートルとか三十メートルという商品は極端に少ない。特にシングルはほぼ在庫がないといってよい状態だ。理由は意外なことだ。トイレットペーパーの製造コストが、シングルよりダブルの方が安いからだ。ダブルは薄い紙を二枚重ねて製造しており、シングルはダブルより厚い紙を使っているので、シングルの方が乾燥に時間がかかってしまう。また、単純なことだがダブルの方はシングルより巻き取り時間が半分で済む。まあ実際は製造コストが安いということよりも、トイレットペーパー不足の解消のために、時間が短くてすむダブルに製造を集中することで、生産個数を上げようということなのだろう。私のようなシングル派にはきびしい状況だ。
前にも計算してみたが、トイレットペーパーという単価の高くない商品には、想像以上の輸送費が掛かっているから、製造ラインはなるべく単価の高い商品に特化していくはずだ。少なくとも静岡よりは距離の遠いエリアからの輸送になるのだから、販売金額に含まれる輸送料は発災前より高くなっている。当面は単価の高いロング巻きの商品が中心に販売されていくのだろう。
シングルが良いかダブルが良いかは、昔から色々議論がある。シングルは使用量が少なくて済む。ダブルは、使用感が柔らかい。ダブルはシングルよりも薄い紙を二枚重ねにして紙と紙の間に空気層を作っているから、ふんわりとした肌ざわりになっているし、ダブルはなめらかな面がどちらも外側になるように重ねられているからだ。
間違いないのは関西ではシングルが、関東ではダブルが多い。正確な理由はわからないが、コストにシビアな関西はシングルが多いというのが一般的である。また明確な理由はないそうだが、男性はダブル、女性はシングル支持が多いそうだ。
統計数字というのは、AとBを単純に比較するとAの方が多い、理由はこれこれで終わってしまうが、実際はその裏に隠された別のことが理由であることも多い。相対関係は確実にあるが、因果関係ははっきりしていないというのは、世の中でよくあることだ。
例えば、仮に、関東に工場勤務の独身男性が多く、関西にサービス業勤務の独身女性が多いとしたら、独身男性が多い関東はダブル、独身女性が多い関西はシングルということになるだろう。また仮に、関西の旦那さんは奥さんに買い物を頼まれても、トイレットペーパーみたいな大きな物は絶対に拒否するが、関東の旦那さんは特に気にせず買ってくる。ただしダブルを。奥さんも本当はシングルを買ってきてほしいけれど、まあダブルでも良いかと文句を言わない。こんなことでダブルとシングルの地域差ができているとすれば、男女の好みの差が地域差に結びついているということになる。まあ人間の行動は単純ではないということで、単純な統計では真実は見えてこないのだ。
発災五十日目
~製紙工場の再開~
静岡の製紙工場では、エリア全体で発災前のほぼ七割ぐらいの生産量を回復した。全焼してしまった工場もあるし、制御盤などの半導体が揃わないために生産ができないラインなどもあるようで、生産拠点がすべて元通りになった訳ではないが、生産を再開できる工場での生産量を限界まで増産して不足分を補っている。原材料不足も心配されていたが、競合同士であっても今は全体効率を最大限にして、不足している供給量をどうにか増やしたいと考えている。各企業は垣根を取り払って、業界全体でスクラムを組んで増産に取り組み、トイレットペーパーがなくて困っている消費者に、少しでも多くの製品を届けるために頑張っているようだ。港付近にあった完成品の倉庫は、液状化によって復旧に時間がかかっており、余震による津波の可能性も否定できないため、現状は使用できていない。そこで全焼した工場の一ヶ所を更地にして、エリア全体の完成品を集め、配送センターとして活用を始めたそうだ。
経済産業省のホームページでは、静岡が地震に遭ったときにトイレットペーパーの供給再開までは一ヶ月程度掛かるとの記載があったが、現実はその倍近くの期間が掛かっている。理由として考えられるのは、想定外の津波被害だ。
東海地震が発生したときに起こる津波は、プレート境界が南北に伸びているため、津波は東西方向に大きく起こり、プレート境界と平行に位置している海岸では大きくなるが、垂直方向にある富士市の海岸は比較的高くならないとされてきた。ところが今回割れた方向は、原因は不明だが予想より斜めに崩れたようで、南北というよりは北西から南東に伸びるような割れ方をしたようだ。その結果、津波が相模湾の左右にぶつかりながら、奥へ奥へと進み、複雑になりながら富士市へと到着したため、高さこそ想定の六メートル程度だったようだが、長時間に亘って海水面が高い状態が続いた。海岸線には高い防潮堤が築かれているから、津波の侵入経路は田子の浦港だけだ。普通の津波であれば一定量流れ込んだ後、今度は波が引いていく。第二波は第一波より低くなっていくから想定の範囲の港近辺での若干の浸水で済むはずだった。ところが今回は相模湾を複雑にぶつかって到達した津波が、一波、二波、三波と立て続けに押し寄せ、通常の津波のサイクルの数倍の時間潮位が高いままだったため、田子の浦港から海水が侵入し続けてしまった。更に被害を大きくしたのは、前日に降った集中豪雨だ。各河川が通常より二メートル程度高い状態で水が流れていたため、津波の逆流によって港まで流れない水が内部越水を起こし、広範囲の浸水となったために、予想外の被害になったようだ。
大きな地震が発生して建造物に被害が及ぶと、必ず出てくるのは建設時に設計通りの建設がされていないという強度不足の問題だ。いくつかの工場では建屋が傾いたり床に大きな段差ができたりした。
工場のような大きな建造物を建設する際には、杭を支持層と言われる強固な岩盤まで打ち込むことで、柔らかい地盤の上でも地震に強く倒壊しにくくさせるのだが、今回被害を受けた工場では杭が支持層まで届いていない状態があり、今後補償の問題が起きるだろう。
昔ゼネコンの営業から聞いたのだが、営業積算見積もりを原価で提出し、利益は現場監督が工夫を凝らして出すことだと。例えば見積もりの工程を一日削ることができれば、一日分の人件費や建築機械のリース料が削減できる。現場で効率の良いことを検討して削減できた部分が利益となる。ほとんどの現場では良心的に頭を使って削減していくが、一部では手抜きで利益を上げることが行われていた。
高度成長期の建設工事は、本来使うべき川砂が不足したため、海砂を洗浄して、塩分を取り除いた後使用することがあったが、洗浄回数を減らして使用した例があった。洗浄回数を減らせばコストが削減できるからだ。当然塩分が残存している砂だから鉄筋が錆びやすいという問題が起こる。ただ外側から見る分には、仕上がりは全く普通であり、内部の鉄筋の錆が発見されるのは、時間が経って錆で膨らんだところからクラックが入り、やがて爆裂するまでは見つからない。こういった砂の使用が横行した。また。水分の多いいわゆるシャブコンと呼ばれるコンクリートの使用も多かった。コンクリートの量を減らすことができるし、コンクリートの粘度が下がるため、現場作業がスピーディーになり工期の短縮というコスト削減に結びついた。神戸の震災で倒壊した高速道路の橋脚には空き缶が入っていた。コンクリートのかぶせを薄くしたり、鉄筋の本数を減らしたり、モラルのないコスト削減が一部の現場で発生していたのだ。
トイレットペーパー製造は、抄造した原料をドライヤーで乾燥させながら大きなロール紙として巻き取るが、そのサイズは、幅も数メートル、直径も数メートルあるとても大きな物だ。工場の床に少しでも傾斜がついてしまえば、高速での巻き取りがずれるようなトラブルが発生してしまう。今回建屋が傾いた工場は、沈んだ部分をジャッキアップして傾きを解消するのにだいぶ時間がかかったそうだ。
発災二ヶ月後
~消費行動~
静岡の製紙工場での生産が概ね再開したことにより、日本全体でのトイレットペーパーの生産量は、完全に元に戻った。高速道路もすべて復旧したことにより、物流も元通りとなった。
たまに大きな余震が起こるから、不安感が全くなくなったわけではないが、ごくごく普通の日常が戻ったといっても差支えはない。
ただトイレットペーパーに関して、買いたい時にいつでもどこでも買える状態にはなっているが、発災前のような価格まで安くはなっていない。生産品の多くが法人向けだったり、発災から減らし続けた在庫を行政機関が元に戻すために、製紙会社に大量発注を掛けているから、個人向けの販売量が元に戻っていないようだ。
生活費に余裕のある人たちは、ストックは減らしたくないから少々高いままでも買うのをためらわないが、昔のような一億総中流時代の日本とは異なり、半数以上の家庭では生活費の余裕がないから、高い金額で買ってストックを維持するのか、ストックがギリギリになるまで、値段が下がるのを待つのか、悩ましい選択をしなければならない。皆が買い控えをして在庫がダブついてくれば、店だって倉庫の在庫を減らすために安くせざるを得ない。個々人がリスクマネジメントを考えなければならない状況だ。
母親からのいつものワンギリ電話だ。折り返す。
「なんでしょう」
「なんか送ってもらったトイレットペーパーがもう残り少ないのよ。そっちにまだあるんでしょ」
「うちの近所はどこに行っても売ってるけど、そっちだって近くで売ってるんじゃないの?」
「売ってはいるんだけど、物凄く高いのよ。前の倍はするのよ」
「売ってんなら買えよ」
「だから、すごく高いのよ。ちょっとでいいから送ってよ」
「大体、あんなに送ったのに、何でそんなに少なくなってんだよ」
「昨日気が付いたんだけど、便器とか床とか掃除するときに使ってたのよね」
「は?」
「だから、トイレットペーパーにスプレー吹きかけて掃除に使ってたのよ。年を取ると、今までやってたこと、無意識にやっちゃうからさ」
「そんなんでなくなったからってもう送れないよ」
「ケセラセラよ、なるようにしかならないのよ。少し送って」
返事をするのも嫌になり、無言で電話を切った。ケセラセラは、自分のミスを他人にかぶってもらう呪文ではない。こんな言葉を流行らせたヒッチコックとドリスデイに文句が言いたい。
しばらくして、精神状態も落ち着いてきたので、スマホを手に取って電話する。
「一パックは無理だから四ロールだけ送る」
こっちから掛けた電話で一言だけ言ってすぐに電話を切る。最初に母親にトイレットペーパーを送ったときは、両親の分としてストックしておいた物を一気に送ったわけではないから、もう一回送ったところでこっちのストックには特段問題のないことではある。問題はないことなのだが、少しはこっちが腹を立てていることをわかってもらわねば。まあこんなことしても、次に向こうから電話を掛けてくるときは、何事もなかったかのように自分の用事だけを言ってくるのだが。
発災三ヶ月後
~元通りの日常~
あれだけ世の中から姿を消したトイレットペーパーだったが、最近は在庫過剰になっているのか、セール品として販売されていることもたまに見かけるようになってきた。
よくよく冷静に考えてみれば、静岡周辺でのトイレットペーパーの生産量は、日本全体の生産量の四割程度だ。正確な状況はわからないが、被災した場所以外の稼働可能なエリアで、日本全体の生産量の少なくとも六割以上は生産されて続けていたわけだ。さらに稼働可能のエリアでは、増産体制も出来ていたはずだし、海外からの輸入や代替品の利用などもあったのだ。だからきっと必要量の八割程度までは、供給されていたはずなのだ。ただ需要が急に二倍から三倍程度に跳ね上がったわけだから、一時的に市場からなくなっただけなのであって、落ち着けばどの家にも過剰な在庫がある状態になってしまっている。
業界のデータを見ると、一ヶ月の平均使用量は、一家族で一パック程度の量で済んでいる。家庭にあるストックは、平均で大体一・五パックだ。思っていたよりも多いストックだが、こういうデータは質問の方法でいかようにでも誘導できるからあまり信用できない。
業界のデータで興味深かったのは、若い人たち程トイレットペーパーのストックが、わずか一個という割合が多くなっている。まあ当然といえば当然か。家にいる時間も少ないし、給料は年功序列でまだまだ安いままだけれど、買いたい物と買わなければならない出費は山のようにあるのが若年層だ。直ぐに使わない物にお金をかける余裕などないのだろう。ペーパーホルダーのトイレットペーパーが無くなりそうになったら、一個だけ買いに行くのだろう。人によっては、買うのを忘れてトイレに入って用を足した後、買い忘れに気が付き、あきらめてそのまま拭かずに近くのコンビニに買いに行くのかもしれない。
だから今回トイレットペーパーが世の中から消えたことで、一番困った人たちは若者たちだ。自宅にストックがない人が多いのだから。困っていることをSNSに書き込んだのも若者たちが中心だ。トイレットペーパーが無くなる危機感を増幅させた要因の一つといってもよいだろう。
トイレットペーパーがなくなる事態が起こってしまった後だから、家庭に在庫があったとしても、また無くなるかもしれない不安感は皆が持っている。どこかで売っているのを見つけたら、取りあえず一回は余分に購入したはずだ。特に腐る物でもないし。トイレットペーパーがどこでも購入できるようになった今、品切れになる不安がなくなった状況になったわけだから、家に残っている在庫は、元々の平均ストック量になるまでは買わないことになるのだ。一ヶ月の平均使用量が一パック程度だから、次の購入までが一ヶ月伸びてしまったわけだ。多分こんな理由で売れなくなってしまっている。あんなに高いトイレットペーパーを、何時間も並んで買っていたわけだから、セールに遭遇したら買いたいと思う衝動はきっとあるだろう。しかし、ここでまた買ってしまうと、置くところもなく邪魔になるので、もう少し在庫が減ってから買おうと思うのは、どこの家庭でも当然のことだ。在庫がダブついてどこもかしこもセール品になるのももうすぐだ。
転バイヤー達は大変だ。最初から転売を行っているような人たちは、いちばん最初に大儲けしているから、最後に在庫処分で赤字になっても、トータルは大きくプラスになるはずだ。こういう人たちは、最後に赤字が出ることを前提に最初に大きく稼ぐ。しかし、にわか転バイヤー達は、価格が上がってから参入しているわけで、高値で買ってそれより少し高く売っただけだ。きっと大した儲けもなかっただろうに、今は大量在庫を抱えて悩んでいるだろう。想定よりも早く売れなくなったと思っているはずだ。
今回私がストックしたトイレットペーパーの量が正しかったのかは、きっちり検証しておくことが必要だ。会社経営でも生きていく上でも、大事なのはPDCAサイクルだ。計画(PLAN)して実践(DO)して評価(CHECK)して対策(ACTION)することが大事なのだ。しかし、大体の人がPとDで終えてしまう。しっかり評価して改善することが大事なのである。
自宅周辺が断水して、温水洗浄便座が使えない場合を考慮したストックは、結果的には無駄だった。次に起こるであろう災害の準備として、携帯用おしり洗浄器を購入しておけば良い。それさえあれば断水を想定したストックは必要なくなるわけである。今回トイレットペーパーがないために、携帯用の洗浄器がずっと売り切れになっていたようだが、今は在庫がダブついてきているようなので、もう少し安くなったところで購入しておこう。
「ピンポーン」
呼び鈴が鳴った。頼んでいた宅急便が来たようだ。
発災から約三ヶ月、部屋にあったトイレットペーパーの在庫もあと一パックだけになっていた。補充のためにネットで購入した物が届いた。早速段ボールを開け、ペーパー用に設えた棚の空きスペースに一つずつ並べていく。全部の棚が埋まったところで、何とも言えない充実感が漂ってくる。
今回は南海トラフの東端の歪が解放されただけであったが、過去の地震では、東南海や南海で連動したこともある。また首都直下地震も三十年以内に七十パーセントの確率で起こると発表されており、いつ起きてもおかしくない状態だ。東京は関東ローム層に覆われていて、どこに断層があるかも分からないから、明日自宅の前が地割れして、数mの段差ができても全く不思議ではない。
次の地震に備えて、常にこうやって在庫を抱える人生が、今後もずっと続いていくんだろうな。死んだ時にこの部屋の片づけは、おそらく妹が業者を呼んでするのだろう。そして部屋を見た業者が目を丸くしているところに、妹はこんなことをつぶやくのだ。
「変な兄だったのよ。こんなに色々買っておいて。お金の無駄よね」
しかし、良く考えて欲しい。マンションや一戸建てを保有している人は、火災保険に入っているだろうが、払い込んだ保険料は掛け捨てである。火災に遭わなければ帰ってこないお金だ。自家用車を持っている人の中で、自分が払い込んだ保険料より多くの金額を得た人は、世の中にどれだけいるのだろうか。皆が何かのリスクを回避するためには、それなりの費用を掛けているのである。
災害に備えて、水や食料やトイレットペーパーを十万円位在庫しているのは、物凄く常識的なことなのだ。しかも保険と違って、使ったお金は、そのお金で買った物を食べる、使う、無駄にはしていない。きちんと考えれば、妹のようにそれを可笑しいと思っていることの方が、よっぽど非常識であり、変わっていることなのである。
半年後
以前に比べて部屋の中の風景が様変わりした。
大量にあったトイレットペーパーは、六倍巻というシングルで長さが百五十mもあるトイレットペーパーに切り替え、ストックしておくスペースが少なくなった。この製品はミシン目もなくエンボス加工もないが、使用感に問題はない。
携帯用おしり洗浄器を購入したから、停電や断水時にトイレットペーパーの使用量が増えることもない。
よくよく考えてみれば、家にあるストックは、災害があっても自宅にいることができることを前提にしているのである。しかし自宅にいることができない状況になった時には、非常に脆弱な準備しかしていないなと思う。考え出せばキリがないが、現状可能性が高いのは、今回の地震が呼び水となってもっと巨大な南海トラフ地震が起きることと、東京湾や相模湾での地震で東京に大きな被害があることの二択だろう。
自宅にいることができなくなったらどの様な状況になるのだろう。
避難所に行くのは嫌である。家族からいい加減な扱いをされるのは、慣れているし決してつらいことではないのだが、知らない人から色々指示されたり周りの人に気を使って生活するのは、はっきり言ってキツイ。
取りあえず避難所の外でテント生活することになるか。寝袋とか色々買っておいたとしても持ち運べるのだろうか。スーツケースじゃガタボコの道を運ぶのは大変だ。大き目なタイヤのついたカートが必要だな。椅子やテーブルも必要だ。一回必要な物を一覧にしてサイズや重量をエクセルで管理してみよう。それによって入れ物のサイズが確定できる。ソロキャンプってのが流行っていて、バイクで行く人も多いだろう。キャンプ道具をバイクに積めるのだから、うまく計算すれば十日間ぐらい屋外で生活するのに必要な物を人力で持ち運ぶことも可能なはずだ。十日間もあれば東京のどこかか、もしくは東京を離れて新しい場所で生活を始めることができるはずだ。そもそも家を買わずにずっと賃貸に住み続けたのは、いざというときにどこにでも逃げることができるためだ。いよいよフェーズフリーを実践していくことにしよう。
フェーズフリーという概念を改めて調べてみると、非常用の製品を日常も我慢して使うというよりも、日常に使っている物をそのまま非常時も使うといった方が近いのかもしれない。取っ手のついた鍋は非常時に持っていくのは邪魔だが、キャンプ用の鍋は持ちづらいしガタガタするから平常時には使いづらい。和食の料理人が使っているやっとこ鍋という雪平鍋の取っ手がないような鍋を持っていれば日常も非常時もストレスフリーで使える。そんなことがフェーズフリーなのだと思う。
家の冷蔵庫に中途半端に野菜が残っていると、もやしだけ買ってきて野菜炒めを作ることが良くある。大きな中華鍋で強火で作っていたのだが、強火でおいしい野菜炒めができるのは、中華屋さんのような物凄い火力があるコンロだからであり、自宅のコンロでは強火で作ってもおいしくはできない。おいしい野菜炒めは弱火でじっくり炒めるのがコツだとテレビでいっていた。実際弱火でシャキシャキの野菜炒めができた。鍋で炒めようとすると焦げつくが、弱火であれば鍋で十分だ。中華鍋はいらなくなる。
フライパンもいらなくなった。ホットサンドメーカーがフライパンの代用品どころか、それ以上の高機能であったりする。
コンセプトはコンパクトだな。多少コストが掛かっても、自宅にある物を軽くて小さい物に買い換えていこう。こういうチマチマした作業は昔から好きだから、明日からはパズルを解くように寸法との戦いをするのが楽しみだ。
布団に入って寝ようとしたが、こういう日はキャンプ用品って最低限何が必要なのだろうかとか、テントって畳むとどのくらいのサイズなのだろうかとか、頭の中を羊の代わりにクエスチョンマークがグルグルと回り続けることになって眠ることができない。仕方がないので布団から出て、もう少しだけウェブで調べてみることにする。最初に何から調べたらよいか考えて、まず実際のキャンパーが書き込んでいる物を探すことにした。
キャンプに必要な物の一覧を検索すると、キャンプ用品のメーカーや販売店が作成したページが頭のほうに出てくる。そんなページを見ると、販売戦略もあるだろうから、最低限というよりは快適なキャンプを過ごすための物になってしまう。やはり実際のキャンパーのページが良かろうとスクロールしていく。
ようやくソロキャンプ歴が長い人のページを見つけたので、内容を見ていくことにする。
リュックにはオーバーロードシステムという、収納する袋と背中に背負う部分との間に寝袋とかテント、チェアといった大きな物を挟むことができる物を紹介していた。
『これは便利なリュックだな』
こういう色々な用途に形が変わる、トランスフォーマーみたいな商品が昔から好きだ。このリュックの構造を考えてみると、重い物や小さな物を中に入れて、がさばる物は外側に括り付けるというのが、一番うまい方法なのだとわかる。ロールペーパーホルダーという商品も見つけた。トイレットペーパーのような軽くてがさばる物は、カラビナで外にぶら下げて運べばよいのだ。デリバリーバッグに詰めようとしていた自分は考えが間違っていたことに気づく。
『やっぱり、実際に経験している人の意見は参考になるな』
テントも非常にコンパクトな物が良いと思っていたが、前室という家の玄関みたいな物が付いているテントが、使い勝手が良さそうだと感じた。家にいるときに、汚れた靴をリビングに置く人はいないし、玄関の外に出しておくこともしない。家を考えたら、テントに前室があるのは、非常にまともなことだ。物凄くコンパクトで物凄く軽いが、物凄く高い商品を推薦していた。一生に一度しか使わないかもしれない物にお金をかけるかどうかは、じっくりと熟考せねばならない。
寝袋は夏用と冬用で当然厚みが異なるのは当然のことだが、薄めの物二枚を重ねるのはどうなのだろうか。自宅で使っている羽毛布団は二枚セットの物で、夏用の薄手の物と春秋用の少し厚い物、冬は二枚重ねて使う物だ。寝袋の二枚重ねはどうなのか、明日ネットで調べてみよう。
寝るときは寝袋だけでなくマットも必要になるみたいだ。なんとなくテントの底の部分は厚みがあって、その上に寝ればよいと思い込んでいた。そんな形状だったら折りたたんでもコンパクトにならないから、こんなことを想像していた時点でアウトな考えだったが、自分には関係ないと思っていた商品のことをあまり深く考えたことなどないから仕方ない。
『圧縮袋に着る物を詰めてマットの代わりにならないかな』ふと浮かんだ。誰か実践している人がいないか、これも明日検索してみよう。
最低限必要な物を一セットまとめて、それ以外に夏用の物と冬用の物をそれぞれまとめることとしよう。夏に必要な物は、虫よけスプレーとか扇風機とか。蚊取り線香も欲しいな。あの匂いは昔から大好きだ。夏を感じる。冬用はホッカイロとか湯たんぽとか、暖気を取る物が必須だ。
同じサイズの収納ケースを買って幾つもの収納にまとめておけば、必要な物をさっと詰めてしまえば良い。サンダーバード四号が必要なコンテナを装備して発進するように、同じ形のケースにまとめて入れ替えが簡単にできるようすればよい。キャリーバッグにぴったり合う物を探してみよう。
クーラーボックスも必須な携行品だ。手で引っ張っていく大きな物が良いのか、五百ミリリットルのペットボトルが何本か入る小さな物が良いのかも調べなければならない。キャリーバッグをやめて大き目なクーラーボックスに物を詰めるのもよい方法なのかもしれない。
最近は百円ショップがキャンプ用品に力を入れているらしい。百円ショップは百円以外の商品も多いから、すべて百円で揃うわけではないが、それでもキャンプ用品専門メーカーの物よりは抜群に安い。長期に亘ってキャンプ生活をするわけではないから、こういった商品中心にストックしておくこともお金の使い方としては適切だろう。
電源はどうなのだろう。最近のキャンプはポータブル電源を持っていき、家にいるのと同じようにキャンプを楽しむ人が増えているようだ。もっとも容量が大きければそれだけ重量も重い物になるのだから、自家用車で移動する人たちが中心なのだろう。車で動かない私のような人間は、中くらいの電源と太陽光パネルを持っていたほうが良いのかもしれない。調べなきゃいけないことがてんこ盛りだ。明日からが楽しみだ。
急に眠気を感じたので時計を見たら、寝ようと思ってから三時間も経っていた。
『眠いわけだ、やり過ぎた』
寝る直前にパソコンやスマホを見るとブルーライトの影響でなかなか寝付けないから、安眠をキープするためには、寝る前の数時間はブルーライトを浴びない生活をしたほうが良いとテレビで医者が説明していたが、パソコンの画面にはブルーライトカットフィルムを貼ってあるし、眼鏡にはブルーライトカットのオーバーレンズを装着しているから、全く問題ない。
缶の底に少しだけ残っていた生ぬるい酎ハイを飲み干し、部屋の電気を消して布団を被った。直ぐに眠れると思ったが、大きめなポータブル電源と太陽光パネルを買って自宅で使ったら電気代はどうなるのだろう。エアコンは使えないな。電力会社と半年毎に契約したり、解約したりしたら元は取れるのだろうか。都市ガスの契約をやめてカセットガスだけで暮らせることはできないのか。風呂はどうする。東京の銭湯は今幾らだ。急に思ってもいなかったことが、突然噴き出してきて寝れなくなってしまった。相当疲れているはずなのに。
寝る時間がどんなに遅くなっても、朝は八時までに起きて朝ドラを見るようにしている。朝ドラを見ておけば今売れている人、これから売れるだろう人を知ることができる。昔からの習慣だ。明日は寝不足だな。寝不足の時に細かな作業をするのはミスも多くていやだな。早く眠りにつきたい。
その後
風呂上がりの濡れた髪に、インドのターバンのようにバスタオルを巻いたまま、ほぼ中身がすっからかんになった冷蔵庫から冷えた缶酎ハイを取り出して、プシュッと開け、グイっと一口飲む。部屋には、開けっ放しで中身が七割ぐらい詰まったスーツケースが一つと、パンパンになったリュックが一つだけ。がらんとした部屋をボーっと眺める。
今月で契約満了する部屋は、少しずつ物が減っていき、週末に業者がきて家電製品や家具を下取ってくれると、残るのは自力で持ち運べる物だけだ。当初の予定では昨日の下取りだったが、業者の都合で週末に変更したいとの連絡があり、特段困ることもないので了承した。
今回の地震のあとに様々なことを検討し、ノマドというライフスタイルにシフトすることにした。
トイレットペーパーがなくなるかもしれないといわれていた、南海トラフでの大地震の発災確率は、七十パーセント程度だった。その七十パーセントのリスクに対して、トイレットペ―パーを多くストックしてこれに備えた。首都直下型の発災確率は今後三十年で七十パーセントだ。七十パーセント確率の南海トラフ地震に備えていた以上、七十パーセント確率の首都直下型地震にも備えなければならない。
首都直下型地震の一番のリスクは火災だ。関東大震災の時は、東京市、多分今の東京二十三区の半分位のエリアだろうが、全体の半分近くが焼失したという。こんな大火災になってしまっては、かなり遠くの発火点であっても、どんどん延焼が広がるだろう。自分も被災してしまう可能性は十分にある。神戸の震災でも、住宅の倒壊によって道が通れずに、消防車が消火に向かえない箇所が多々あったと聞く。また火災旋風といわれる炎の渦が起きると、燃えている物が相当遠くまで飛んでいくため、一気に広範囲に火災が広がってしまう。消火器を買っておくことも検討してみたが、個人住宅用のサイズ一個持っていたところでまったく意味がない可能性の方が高い。
火災のリスクがあるということは、災害時用のストックを自宅に蓄えておくことに意味がなくなる。東京に居ないことが一番の対策だ。東京隣接の都市に引っ越すことも検討したが、震源の位置によっては神奈川も危険、千葉も危険の可能性があると考えられ、相当に離れた場所を選定しなければならない。
物心がついてから現在までに起こった大きな地震を、県単位の人口で考えてみると、一九九五年に起こった阪神淡路大震災の兵庫県は約五百五十万人、二〇〇四年の中越地震の新潟県が約二百二十万人、二〇一一年の東日本大震災の福島県、岩手県が三百五十万人、二〇一六年の熊本地震の熊本県民約百七十万人、他にも北海道、大阪、島根、鳥取、長野、石川など住居が全半壊した地震は、記憶から忘れ去られる前に次の地震が発生するほど頻繁にある。震度五強になると歩くことが難しくなるほどの揺れであり、かなりの恐怖感を感じるものだ。阪神大震災時の大阪や東日本大震災時の関東などまで含めると、恐らく日本に暮らす人々の半数以上が、一度ぐらいは大きな地震の恐怖を味わっているはずだ。安全なところを選定するといっても、大地震の心配が全くないエリアなんてものは、日本列島の中には存在していない。少しでもリスクの少ないところを選ぶぐらいしかない。
また地方に行けば行ったで、今度は洪水とか竜巻とか、別の災害の危険性も検討しておかなければならなくなる。最近のデータだが、千年に一度の豪雨による浸水想定区域に居住している人口は、日本全体の実に四割近くにもなっている。
猛暑ももはや災害と言ってよい時代だ。以前は四十度を記録すると大々的にニュースが取り上げ、四十度を記録した地点に各テレビ局のクルーが皆そこから中継したものだが、もはや四十度超えは当たり前になってしまった。気象庁は四十度を超えた場合の呼称を近々酷暑日ということにするそうだ。盆地やフェーン現象の起こるところや、日射量が日本一の静岡なんかは夏の間には近づきたくないエリアだ。
このような地震以外の災害までを考えると、死ぬまでずっと安全なところなど、どこにもないのだと思うしかない。その時々で危険なエリアを回避して、少しでも安全そうな場所に移動していかなければならない。だから定住の地などは持たず、台風の時期は西日本を避け、冬は豪雪の可能性がある北日本や日本海側を避ける必要がある。ゼロリスクは無理でも、リスクを極力減らしていく努力は必要だ。ゴジラが上陸して放射線濃度があがったら影響のないエリアに逃げ、田所教授が関東にスロースリップが起こっているといったら、北海道に移動していくしかないのだ。
ノマドというライフスタイルについては、金銭的なことが不安だったが、生活コストを細かく計算してみると、意外にも今の生活よりもコスト減になることも分かった。
現在の賃貸料が七万五千円、二年に一回更新料で一ヶ月分取られるから、月割りにしてみると三千円ほど。水道光熱費やケーブルTV、インターネット回線にNHKの受信料などなど、全部の合計で計算してみると、月に十一万円程度掛かっていた出費がなくなる。
一方ノマドに必要な費用は、定額制の全国どこでも住み放題のサービスが八万円だ。もっと安いサブスクもあるのだが、その場合は四人部屋などを使うことになる。他人と一緒に過ごすのは苦手なので、一人で部屋を使えるプランだとこれぐらいは掛かってしまう。ただし、この金額には当然ながら水道光熱費から何からすべてが入っている。場所によってはWiFi環境がなくて、有線でつながなければならないのがちょっとだけ面倒ではあるが、プラスの費用が発生するわけでもないので我慢すれば済むことだ。別個にトランクルームも契約して、宅配型のプランが月額千円程度で済んだ。暮らす場所の備品状況によって必要な物を出し入れすることができる。
電気をどれだけ使用しても金額は変わらないので、移動手段として電動キックボードを購入することにした。最初に暫く暮らす場所の近所にあるコンビニでの受け取りを手配済みだ。地方に住むと、ちょっと歩くだけでコンビニやスーパーがある都心のような暮らしはできない。電気代を自分で払わなくて済むならと買って持ち運ぶことにした。道路交通法改正によりヘルメットや保安部品が必要なくなったのも大きい。
あちらこちらに住み歩く人たちをアドレスホッパーと呼ぶが、アドレスホッパーの問題は、郵便物の受け取りと住所登録だ。実家に住民票を置く人も多いようだが、私の場合あの母親に郵便物を見られたりするのは、物凄く嫌だし面倒くさいことも起きそうなので、他のことを考えなければならない。本部の住所で住民登録ができるオプションがあり、月額二千円程度で済んだ。申し込んだサブスクの本部が、大宮駅に近い場所なのが決め手のポイントだ。埼玉北部や群馬方面に暮らしていても、何かあれば大宮に電車一本で行けるし、栃木方面からも一本で行ける。取りあえず北関東にいれば、本部に郵便物を取りに行ったり、手続きに行くのも楽な場所だ。免許の更新や選挙、市の健康診断など大宮に行かなければならない用事ができたときは、大宮近辺にホテルも多いので問題ない。何かしら東京に用事があったとしても、埼京線で新宿や渋谷など東京西部に行けるし、京浜東北線で、秋葉原や品川など東京東部、南部にも行ける。ハザードマップを見ても大宮は浸水エリアからは外れている。ただし、近年は埼玉北部や群馬南部は、ゲリラ豪雨が頻発するエリアでもある。このエリアは鹿島灘からの風と相模湾からの風がぶつかって上昇気流が生まれ、積乱雲が発達することによってゲリラ豪雨となる。ずいぶん前に、東京の練馬あたりにゲリラ豪雨が多いのは、鹿島灘と相模湾からの風がぶつかるのが原因だと聞いたことがあったが、二つの風のバランスが変化したのか、ゲリラ豪雨の位置が北に移動した。積乱雲が発達すれば、落雷の可能性も高くなり、停電になることも考えておかなければならない。ゲリラ豪雨の可能性が高い季節は、このエリアを避けて暮らすことになるだろう。
暮らす場所をあちらこちらに移動するためには、物をなるべく持たず身軽な暮らしをしなければならない。考えてみれば物にあふれた人生だった。音楽と映像が好きな私にとっては、特に自分で給料を稼ぐようになってからは、常に物との戦いだった。レコードは七、八百枚ぐらいに増加していったが、相当なスペースを塞ぐことになった。録音する機材も、オープンリール、カセットテープ、Lカセット、MD、CD、ブルーレイと、新しい物が出るたびに部屋が狭くなり、ハードとソフトが溜まってゆく。映像もベータの方がプロユースで画質が良いといわれて買ったが、結局VHSが優位になり、レンタルビデオもVHSしかなくなって、家では併用することになった。レーザーディスクもソフトを相当買った。
やがて音楽や映像の機材は、ハードディスクレコーダーに変わり、ソフトを保存するスペースが格段に少なくなった。レコードやCDは音声データとしてパソコンに取り込んだ。今や有料チャンネルに加入すれば、膨大な数の番組を見ることに時間を取られ、保存しておいた番組を見ることはほとんどない。音楽もウェブ上でお気に入りのファイルを作っておけば、パソコンに保存しているデータを聞く気にもならない。
そのうちパソコンも三Dグラスを掛けて、音声入力するようになれば、キーボードもディスプレイも必要なくなる。スマホの処理能力が更に上がれば、ノートパソコンもいらなくなる。小型の水素発電機ができればバッテリーも必要なくなる。水素発電機で排出された水を飲む時代が来るかもしれない。
キャンプ場も何回かテスト的に行ってみた。旅館も当日だと物凄く安く泊まれることがある。地方の一軒家やアパートでの暮らしに滅入った時は、何かの刺激を求めに行くことも簡単にできる。
ノマドというライフスタイルのリスクは、高齢になってからノマドが辛くなり、どこかで賃貸を借りようと思っても契約を結びにくいことにある。契約しようと思っても、妹は連帯保証をしてくれないだろう。たぶん賃貸物件に入るのは無理だ。ただこれだけ人口が減ってきている日本だから、地方で安い中古物件を買えば何とかなる。考えているのはトレーラーハウスだ。地方の空き家なら庭が大きいので、庭を整備してトレーラーハウスを設置してそこに暮らす。母屋の方は利用せず、少しずつ改修するか、解体するかを考えればよい。
関東大震災というと、東京が大火災によって多くの死者を出したため、東京直下型地震のイメージを持っている人が多くいると思うが、震源は相模湾である。推定値ではマグニチュード七.九、小田原や相模湾岸の地区で震度七、東京でも震度六だった。同じような地震があれば、静岡の工場が大きく被災することはないだろうが、流通経路が寸断され、再びトイレットペーパーが東京からなくなってしまうこともあり得る。
そもそもマグニチュード六以上の地震は、日本付近で全世界の二十パーセント以上が起きている地震大国である。日本列島は、北米プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートという四つのプレートが重なるところにある。こんな複雑にプレートが重なっているところは世界的にも珍しいし、ましてやそこに一億人以上が暮らしているというある意味異常な場所である。
日本列島が現在に近い形になったのは、約二万年前位らしい。ということは千年に一度ぐらい超巨大地震が起こっていたとして、地層からその地震全てが見つかったとしても、せいぜい十数回分しか見つからないわけで、その程度のサンプルで地震予知をすること自体が難しいといってよいのだろう。
今回の東海地震は最大マグニチュード九.〇が想定されていたものが八.〇だった。マグニチュードは二つ違うと千倍になるので、今回は想定されていた地震の三十分の一程度だったことになる。想定されていた歪みが思ったより少なくて今回すべて解放されたのか、解放されきれずに数倍の地震が直ぐに発生するのかは、神のみぞ知るである。
そもそも東海地震は、単独での発生することはなくて、東南海・南海地震との連動でしか起こらないという人と、安政の地震以降東海だけは大地震が発生していないので、一番歪みが溜まっているという人がいて、今回は東海単独で発生した。東海地震は日本の地震の中で一番観測網が整備され、予測できる可能性が一番高い地震だとも言われていた。マグニチュード八.〇の地震を巨大地震と呼ぶのか、素人にはわからない。想定では最大一万人近い死者が出ると言われていた予測が、わずか数十人で済んだわけだから。大き目の地震だったと言われればそんなことだと言わざるを得ない。
取りあえず東海エリアの危険性が、仮に今回で少し減ったとしても、北海道だって四国だってトイレットペーパーの生産量はそこそこある。今回わかったのは、トイレットペーパーのような軽くて単価の安い製品は、物流費をあまりかけられないので、なるべく生産拠点から近いところでの消費を行っているはずだ。だから仮に北海道で地震が起こり、津波で製紙工場が被害を受けると、道内でトイレットペーパーが不足する。今回のトイレットペーパー不足の辛さがDNAに残った人たちは急いで買い占める。日本中の転バイヤーが買い占める。日本中からトイレットペーパーがなくなるという、期間は短いだろうが今回と同じようなことが起こるのは間違いない。それ程トイレットペーパーがない世界というものは、皆にとってつらいものだった。マスクがなくなっても、外に出なければよかったし、家にある布でマスクを作れば、外出することも可能だった。しかし、トイレットペーパーがなくなってしまうと、外に出られないのは当然として、家の中にいてもお尻を拭くことができない。代用品で拭くことができても、トイレに流すことができない。流せない物が溜まると、家の中に臭いが立ち込めるという、ストレスだらけの生活を強いられた。生活の中で一番なくなってはいけない商品なのかもしれない。
だからこれからどんな生活になろうが、トイレットペーパーを多めに保有しておくことは大事で、持ち歩き用以外にもトランクルームにも預けてある。ロング巻きという製品ができて、持ち歩きやストックは楽になった。契約したトランクルームの倉庫は狭山の方にある。狭山という場所は地盤が堅いため、昔から企業のデータを保管するような倉庫に活用されている。何か災害が起きても、預けている倉庫が使用不能になることはないだろう。
人間生きていくためには食事をしなければならない。食事をすればトイレに行かなければならない。トイレに行けばトイレットペーパーが必要になる。温水洗浄便座も、昔はドライヤーのようなお尻を乾かす機能があったが、時間も掛かるし価格も上がるから、今はほとんどない。やはり紙で拭く以上の物は出てくることがない。便という物は七十パーセントから八十パーセントが水分で、残りのうち三分の一が食べ物のカス、三分の一が腸内細菌、三分の一がはがれた腸の細胞だ。水分が六十パーセント程度になるだけでカチカチになってしまう。
やがて食事は宇宙食みたいな食事とか錠剤のような物に変わっていき、必要な物を必要な分だけ摂取するようになっていくのかもしれない。しかしどんな食事になろうと、水分が少なくなってしまえば、便は排出しづらい硬い物となってしまう。腸内細菌の死骸と腸から脱落した古い細胞の量は、食事が変わったとしても変わることはない。便秘の人の改善方法として、不溶性の食物繊維を取りカサを増して便意を催しやすくすることがあるが、その逆に食物繊維を減らしてしまえば、便を排出しづらい環境をつくってしまう。つまり無理のない排便をしていくために、便の量は結局大して変わることなく、トイレに行く回数が多少は減るのかもしれないが、何日かに一回で済むように大きく変わることはなく、結果トイレットペーパーの必要量もずっと変わらないのだ。
受精卵が成長する際にまず発生するのは腸だそうだ。脳はそのあとから形成される。腸の機能から『腸は第二の脳』と言われることがあるが、学者によっては形成される順番から『脳は第二の腸』という人もいる。腸の表面積は、大腸で百平米、小腸が二百平米ぐらいある。自分の暮らしている家の面積と比較したらどれだけ広いことか。表面積だけならダントツの臓器だ。肌の手入れに時間とお金を費やす人は多い。しかし表皮の面積はせいぜい畳一畳程度だ。その百倍以上の面積の腸を大事にするためには便を出し続けなければならない。
トイレットペーパーが誰でも何時でも何処でも手に入る時代が続くのかについては、不安要素が沢山ある。完全ペーパーレス時代が到来すれば、再生紙はなくなる。災害が多くなれば、森林も減って原材料のパルプも少なくなる。南米の大規模な森林は、開発によって年々面積が縮小している。東南アジアでも森林を燃やして畑を拡大している。クロス・ラミネーテッド・ティンバーという繊維方向が直交するように積層接着した集成板は、世界的に利用が増大しており、木造の高層化も進んでいる。建築資材としての需要は拡大の一途だ。木材を紙の材料に使える量はどんどん減っているのが現状だ。トイレットペーパーの生産に必要なパルプが不足する将来が絶対来ないとは言い切ることはできない。
もっとも今は想像できないような、トイレットペーパー不要という未来がどこかにあるのかもしれない。あの手塚治虫先生が、鉄腕アトムの中で描いた未来に想像できなかった携帯電話が出現したように。
腸内を無菌状態にする薬が開発されれば、その分の便は量が減る。無菌状態のところに病原性大腸菌とかが入ってしまえば、あっという間に増殖してしまうが、悪玉菌が増殖しないようなサプリが開発されれば、食物繊維を摂取する必要もなくなる。排便の回数が減って硬くなった便を柔らかくする薬があれば、必要な時に一ヶ月に一回体外に排出すれば良くなるようになる。
ここのところ、何か忘れたことはないかと頭の中で情報がぐるぐるぐるぐると回っていて、寝ようとしてもなかなか寝付くことができずにいる。荷物に入れた物を端から羊を数えるかのように、ひとつひとつ確認し、また同じことを繰り返す。
何度目かのループの途中でようやく眠りについた途端、スマホが、テレビが、緊急地震速報をけたたましく鳴らした。直ぐにドーンという揺れが。
『近い』カタカタと短い周期の縦揺れに続いて、いきなり身体が真横に吹っ飛ぶような、経験したことのない横揺れが。
『まずい』
枕元のヘルメットに手を伸ばして頭に被ろうとしたその瞬間・・・。
その後のその後
揺れが収まったので、起き上がってみようとしたが、埃っぽくてせきこんでしまう。天井パネルの一部が落ちたようだ。
ギリギリで被ることのできたヘルメットには、パネルの角が当たったのか小さな凹みができていた。重量がある物ではないから大けがになることはなかっただろうが、ヘルメットが間に合わなかったら、出血するような裂傷にはなっただろう。危なかった。
ベッドの下に置いておいたスニーカーを履き、窓の方へと向かってみる。見渡す限りの闇、広範囲に停電しているようだ。近隣で火災は起きていない。
スマホを開いてみる。開けるとすぐに地震の速報が立ち上がる。災害時のトラフィックでサイトが見にくい状況を避けるために、各サイトは被災エリアからアクセスした場合、災害の情報が文字ベースで表示されるようになっている。他のページを見に行っても動画や静止画がカットされていて割とサクサク動いている。災害情報を見る限り、東京と千葉の境界線あたりの陸地が震源のようだ。江戸川・墨田・葛飾あたりは相当な被害が出ているだろう。
各地の震度はまだ表示されていないが、私が住んでいるエリアは東日本大震災の時に震度五強だったから、今回は最低でも震度六弱はあったと想像できる。東東京はおそらく震度七だ。
早速避難の準備を始める。準備と言っても業者が予定通り来ていれば、今日は既に東京には居なかったから、持ち運ぶ荷物はまとめてある。業者が予定通り来ていれば、こんな目に遭うことはなかったのに残念だ。
とにかく火災が心配だ。深夜の地震で寒い時期でもないから、キッチンやストーブからの火災は少なそうに考えている人も多いだろうが、私が前から心配していることが一つある。リチウム電池による火災だ。今や家の中には、パソコン・スマートフォン・モバイルバッテリー・ハンディファン・電動歯ブラシ・電子タバコといった小物から、電動アシスト自転車・コードレス掃除機といった家電まで多くのリチウム電池が存在している。リチウム電池は大きな衝撃によって火が出る。一人が平均五個持っているとしても、東京二十三区内に五千万個あることになる。万に一つの出火としても五千箇所から発火することになる。東京都の災害予測にはおそらく入っていない原因の火災だ。
ヘルメットを被り、ヘッドライトを装着する。まとめておいた荷物には天井パネルの破片が被っている。破片を掃って着替えを取り出す。玄関に行き、踏み抜き防止のインソールを靴の中に敷いて履く。これから向かう道路上にはガラスの破片が散在しているだろう。今けがをすることだけは絶対に避けたい。数針縫う程度のキズでは、病院に行っても放っておかれるに決まっている。痛みで動けなくなれば、危険地帯からの脱出も不可能になる。
取りあえず大宮を目指す。契約したサブスク賃貸の本部に行って、物件のカギを貰いに行く。マップでは最短距離でだいたい二十キロメートル、徒歩で五時間の距離だ。実際は荷物もあるし迂回もするから、休憩を入れて十時間程度かかることを想定した方が良いだろう。
幹線道路はなるべく避けるつもりだ。幹線道路沿いには古い耐震基準で建築されたマンションも多い。停電で上層階の状態も把握できないから、余震があった時に上から何が落ちてくるかわからない。
出ようとしたときに忘れ物に気づき、中へと戻る。トイレのホルダーにあるトイレットペーパーを外して、芯を抜き潰す。警視庁のホームページにあった携行方法だ。半分位使ったトイレットペーパーだから、潰すと厚めの本一冊程度のスペースしか必要ない。
被災した時に用意しておく物は、最低限飲料水と食料だと考えていた。当然のことだ。まずは生命維持に必要な物を確保しておくことが大事である。水分の補給ができないと人間は七十二時間程度で脱水により命を失う可能性が高まる。一日に必要な飲料水は二リットル前後だ。必要な食料は、体重にもよるし活動状況によっても異なるが、成人男性ならば最低でも一日千五百キロカロリー位は消費していく分の補給が必要になる。
しかし日本では、あるエリアが断水した時に、いち早くそのエリアに水を供給する体制が整っている。断水イコール死だから、行政・消防・自衛隊すべてが最優先で給水を行う。山登り中や一本道しかない村とかに居れば別だが、都会にいる限りは、飲み水なんかわずかに持ってさえいれば、半日もあればどこかでもらうことが可能だ。飲料水は公助なのだ。
エネルギー補給ができなくても数週間は死に至ることはない。アスリート体形以外の人で体脂肪が標準程度ある限り、腹が減ったという精神的苦痛はあるかもしれないが、直ぐに大事になる可能性は低い。また二、三日あれば行政から少しは支給されることになる。近隣住民も自宅にある物を集めて炊き出しを行ったりする。だから食料品の携行も大量に必要というわけではない。自分でも飴や災害用の羊羹など最低限のカロリーを持ち歩く。どれも十分とは言えないが、三つを足せばある程度のエネルギー摂取は可能だ。食料は公助プラス共助プラス自助なのだ。ただし、エネルギー摂取の大半が炭水化物になるので、ビタミンやミネラルのサプリは準備してある。
それとは反対にトイレットペーパーは完全に自助なのだ。
トイレットペーパーは一番に確保しておかなければならないのだ。少なくとも日本では。行政から配給されることはまずない。近所の人がおすそ分けしてくれる在庫を持っていることもほぼない。自分で確保さえしておけば、トイレに入ってフワフワとした肌触りの物でお尻を拭き、しかも使った後にトイレに流すことができるのである。被災した時に必要なのは、飲料水でも食料でもなく、トイレットペーパーなのだ。
部屋のドアのカギを施錠してから、郵便受けの裏側にガムテープでカギを固定する。業者に家電家具を引き取ってもらう際に、本人不在のままでできるようにしておきたい。大家にもメールした。最低限の家電は置いてあるので、被災者用に活用して構わないと。何時メールを開けてくれるかはわからないが。
避難経路での怪我や火災に巻き込まれる危険性など不安要素も多いが、何となく高揚感もある。災害時に無料になる自動販売機を見てみたいし、噂の安マンションが被害を受けている程度も確認したい。緊急車両専用になる幹線道路はどんなふうに一般車両を排除するのかも見てみたい。平常時には見ることにできない光景がこれから色々見ることができることは貴重な体験だ。
「不謹慎だな」
思わず呟く。
情報は全く出てこないが、この規模の地震だと数千人、最大なら数万人の死者が出ている状況で、そんなことを考えること自体が宜しくない不謹慎な感情だ。そんな不謹慎な感情をこれからの不安要素でかき消し、埃臭い外へ出る。東の方はさっき見た時よりも空の赤さが増している。火災の発火箇所が増えているようだ。
空を見上げてみると、星が帰ろうとしている。明るくなってくれば、道の障害物につまずく危険も減ってくる。周辺の状況も目視しやすくなる。かと言って真昼になってしまえば体力の低下を招く。避難にはちょうど良いタイミングだ。何となく物が燃える臭いを感じる。いよいよリチウムイオン電池が燃えだしたか。のんびりはしていられない。時間に猶予はない、急ごう。
早く新天地に向かうこととしよう。