Ⅳ
「1・2・3、1・2・3……」
閉ざされた部屋に、三拍子のリズムを刻む男の声とふたりぶんの靴の音がこだまする。
あの日以来、オーウェンはかかさずに円舞の練習をつけてくれていた。晩餐会当日である今日も。
「そう、上手だ。ノラ」
恋人をめいっぱい甘やかすような、慈しみに満ちた穏やかな声音。ダンスの練習で密着するあいだだけ、ノラはオーウェンという人間にふれられる。
体幹が鍛えられていること。落ち窪んだ右目の下に小さな黒子があること。日頃から火酒や煙草を嗜んでいる者特有の、煙のような香りがすること。
「手を取りあって踊るこのダンスは、もとは民俗舞踏だった。それが人の絆を繋ぐものとして広まり、いまを生きる私たちに受け継がれている」
心拍と重なる三拍子のリズムは心地いい。
たどたどしくもステップを踏むごとに、殻が破れていく気分になる。足取りはかろやかで、翼もないのにさながら鳥になったかのよう。
オーウェンとダンスの練習をするようになってから──驚くことに、ノラは開花した。
裁縫と刺繍に苦手意識がなくなり、簡単なものならかたちにできるようになった。ゆっくりではあるが、ピアノも。馬はまだ怖いけれど、ふれあいを増やして信頼関係を築くことからはじめるところだ。
「目覚められたようですわ」と、普段厳しい家庭教師が涙して喜ぶほどの成長ぶりだった。
「あなたって、魔法使いみたい」
貝殻の髪留めでまとめた前髪、ひらけた視界や額の涼しさにももう慣れた。長年の呪いを難なく解かれたように思って言えば、オーウェンはくしゃりと笑う。
彼は、笑うと目尻に優しい小皺が寄る。あたたかな陽のような人柄がそこにあらわれるのだ。
「魔法が使えていたらここにはいないよ」
ゆるやかに円舞が終わる。どういう意味か尋ねる前に、オーウェンが握手を求めてきた。反射的に差し出した手をすくいあげられて、口元に持っていかれる。
──手の甲への、くちづけのまねごと。
「……っ」
「そろそろ時間だよ」
白髪混じりの前髪から覗く右目がノラを見つめた。気づけば陽は沈み、残照さえ燃え尽きている。
「大丈夫だ。背筋をのばして、顔をあげて……挨拶はできるかな、レディ?」
「うん。見ていて」
右足をうしろに引きながらスカートの裾をわずかに持ちあげ、左膝を軽く曲げる。背筋はのばしたまま、しなやかに。
「ああ、完璧だ。きっとうまくいく。いまは怖いかもしれないが、一歩踏み出してみれば案外、なんの心配もいらなかったなと思えることがある」
「……がんばって、だめだったら?」
「そのときはまた考えればいいさ。だがどんな結果になっても、まずは行動した自分を誇りに思いなさい」
「……うん!」
自分を鼓舞しようと大きく頷き──これまで何度もしてきたように、長櫃にオーウェンを隠す。
「そうだ。晩餐会から戻ったらダンスの復習をしてもいい? さっきのステップ、感覚が掴めそうなの」
その言葉に彼は微笑んだ。
ノラは長櫃の蓋を丁重に閉め、自室をあとにする。
◇◆
晩餐会が開かれる食堂に赴くと、扉の前に控えていたルイスが目を丸くした。
参加を告げていたものの、まさかほんとうに来るとは思っていなかったのだろう。ノラ自身、こんな日が訪れるなんて夢にも思っていなかったのだが。
「失礼いたしました。皆様お揃いです、すぐに扉を」
ルイスが扉に手をかけた。いよいよだ、と身構えたせいか、一気に身体が緊張してしまう。
(……大丈夫だよ。ノラ)
お守りを握るように。
オーウェンがくれた言葉を胸のうちで繰り返す。
(背筋をのばして、顔をあげるの)
無意識につまさきが揺れたのは、彼と踊った円舞を思い出してのこと。1・2・3……あの三拍子のリズムをなぞれば心が、足取りが軽くなる。
うつむいてばかりだった顎を持ちあげるとともに、ルイスが食堂へ声を投げかけた。
「ノラさまが、おいでになりました」
扉が開かれていく。漏れ出てくる光を浴びながら、ノラは右足をうしろに引いてスカートをつまんだ。
完璧な挨拶。けれど反応はない。
おそるおそる様子を窺うと、席に着いていた面々は一様に言葉をなくしているようだった。当然だろう、グレイ伯爵家の次女が初めて人前に出たのだから。
「……レディ・ノラ」
しんと舞い降りた静寂のなか、玻璃水晶を思わせる魅惑的な声音が響く。視線をめぐらせると、癖のない蜂蜜色の金髪をひとつに束ねた麗しい青年が、驚いた表情で椅子から腰を浮かしていた。
グレイ家と親交のあるランドール侯爵家の三男だ。
彼は数日前、十八歳の誕生日とともに騎士叙任式を終えたと聞く。優秀な若者であり、かねてからノラの婚約者として話があがっている相手でもあった。
「お会いできて光栄です。あなたは、人が集まる場は得意でないとお聞きしていたものですから……」
「……ウィリアムさま」
遠目から眺めるばかりだった婚約者との、初めての対面。美丈夫に見つめられて思わず逃げ出したくなるが、ぎゅっとスカートを握って耐える。
「こ、こちらに来なさい、ノラ……! まあ、まあ、顔合わせができるなんて。わたくし嬉しいわ!」
マルティナをはじめとする面々に歓迎され、ノラは空いていた席に着く。ウィリアムの隣に。
今宵の招待客は主に侯爵家だったが──なかには、ひと目で武人とわかる黒詰襟の肋骨服をまとった強面の男もいた。金の肩章から察するに、王室師団所属の近衛騎士だろう。
「クロードと申します。以後、お見知りおきを」
談笑を交えながら晩餐会がはじまった。
ヴィネグレットソースのサラダの前菜、じゃが芋のポタージュ、ふわふわの焼きたてライ麦パンに、鰈のポワレ、口直しの菫の氷菓……。
どれもノラの好物で頬張るたび幸せになる。小さな口で食べ進める少女を、大人たちが見守ってくれた。和やかな空気にノラの緊張もすこしずつほぐれだす。
(オーウェンの言うとおり、心配いらなかった……)
今夜の体験をはずみにして、もっとたくさんの場に前向きに顔を出せるようになるかもしれない。談話室や令嬢たちのお茶会、お披露目だって。
一歩踏み出してよかった──オーウェンに背中を押されて飛びこんだ初めての晩餐会が、このまま無事に終わると信じて疑っていなかったが。
食事が終盤に差しかかったとき、クロードがふいに緊張した面持ちになった。
「皆さん、ロマンス詐欺師をご存じでしょうか?」
唐突な話題に一同の手がとまる。
彼は果実水を飲んでいたノラを一瞥し、迷うようなそぶりのあとで続けた。
「実は、国の命令でとある詐欺師を追っているのですが、なかなか行方が掴めずにいて」
「ロマンス詐欺師ならわたくし、よく知っておりますわよ。彼らが使う手口や行動パターンなども」
拗ねたように葡萄酒の洋杯を回すマルティナ。
しかしクロードは首を横に振る。
「この件は少々事情が異なりまして。……探している詐欺師とは、我が師団の一員だった男なのです」
「まあ。騎士だった御方が、賊に?」
「ええ。聞いていただけますでしょうか」
彼は目を伏せ、苦悶のにじむ声で話しはじめた。
「憐れな男でしてね。彼が道をはずれたきっかけは、妻子の命を奪われたことでした」
王室師団のなかでも一目置かれていたというその男は、家族を溺愛していることでも知られていた。
最愛の妻に可愛い娘。幸福だった男の人生は、ある日を境に一変する。買い物に出かけた妻娘を、貴族が乗った馬車に轢き殺されて。
目撃証言から犯人は突きとめられたが、男がどんなに手を尽くしても捕まえることは叶わなかった。
なぜなら、公爵家の馬車だったから。
法は悪を裁いてくれない。
何も守ってくれない。
自らの手で復讐すると決めた男は、騎士団を抜け、公爵家に近づいた。正確には──公爵夫人に。
「奴は公爵夫妻の仲が冷めきっていることを利用し、手はじめに夫人を籠絡しました。商人を騙り、真実の愛を見つけたと嘘をついて」
最初は公爵の不在時だけ逢瀬を重ねていた夫人も、底なし沼のように男に溺れ、やがては公爵がいるときも贔屓の商人として屋敷に泊まらせるまでになった。
……そうして男は、目的を果たした。
クロードが現場に駆けつけたとき、公爵家には銃で争った痕跡と、夫妻の遺体があったと彼は言う。
「犯人はいまだ逃亡しています。どれほど落ちぶれたとて、ともに剣を握った戦友を見誤りはしないだろうと、私がこの捕物の指揮を取ることになったのです。よろしければご協力願いたい」
「その男の特徴は?」
「年齢は四十半ば。白髪混じりの髪で、左目に眼帯をしています。じきに手配書がばら撒かれますが、名はオーウェン・マクレイド──」
ノラの心臓が大きく跳ねた。
マルティナが手で口を覆う。
「なんてこと。先日、屋敷の門で会った男性と特徴が一致しておりますわ。おそらくは同一人物かと……」
動揺のあまりノラの手から洋杯が落ちた。
床にぶつかった硝子の割れる音が響く。
「失礼! 手が滑ってしまいました」
ウィリアムがノラの失態をかばい、すかさず給仕に片付けを頼んでくれる。
散らばった硝子片を慌てて拾おうとしたノラだが、彼はその手を制して気遣わしげにささやいた。
「大丈夫ですか。顔色が悪い」
「も、申しわけありません、すこし具合が……」
「それはいけない。名残惜しくはありますが、今夜はもうお休みになったほうがいい。レディ、おひとりで帰れますか? お部屋の前までお連れしましょうか」
「いいえっ、ひとりで平気です!」
ガタンと音を立てて席を立つ。
マルティナの呼び声を背に受けながら、ノラはろくに挨拶もせず部屋を飛び出した。
(オーウェン……!)
驚いた顔のルイスの横を駆け抜けて、自室に急ぐ。
(ほんとうなの? だとしたら、どうしてわたしに、何も教えてくれなかったの!)
理由はきっとひとつだ。教える必要がなかったから──たとえ事情を聞かされたとしても、お披露目すら迎えていない子どもに何ができるだろう。
それでもオーウェンの支えになりたかった。
抱えているものを打ち明けてほしかった。
苦しみや悲しみをわずかでも癒したかった。
この感情の数々が、詐欺師お得意の人心掌握によるものであってもかまわない。
「っ、オーウェン……」
息を切らせてたどりついた部屋、ノラは長櫃に駆け寄る。しかし、蓋を持ちあげてもそこに見出せたのは彼女の宝物ばかり。棺で眠る吸血鬼のような男の姿はどこにもない。
さあ、と夜風に頬を撫でられて、開け放たれた窓に気づいた。はためく窓掛の向こうに輝くのは満月。
そのまばゆい光が、窓辺の小卓の上──花瓶の底に差しこまれたものを照らしている。
「…………?」
一見、白薔薇の花びらにも思えたが、つまんだ指に伝わる瑞々しさがない。降りそそぐ月光にかざすと、それは羊皮紙の切れ端だとわかった。
記されていたのはただ一言。
〝さようなら。この恩は忘れない〟
流れるように優美な筆跡だった。
彼と過ごした短くも幸せな時間が眼裏によみがえり──同時に、息苦しさを覚える。ぽっかりと胸に穴が空いた喪失感。オーウェンはもう、いない。
がらくたと呼びながら薬指にはめられたままだった指輪を想う。彼は何を考えていたのか。どんな気持ちで、愛するものの失われた日々を生きたのか。
ノラには知るすべがないけれど。
ただ、彼の無事を。苦痛に苛まれているだろう心がいつの日か救われることを、祈っている。
「あなたが何者でも、わたしは……」
虚の生まれた胸を押さえ、そうしてノラは知る。
自覚できなかったほどひそやかな初恋が、いま──散ったことを。