Ⅲ
一夜明け、オーウェンの朝食を調達するべく厨房に忍びこんだ帰りのこと。
「──運がよかった、ですって?」
パンとチーズを詰めた籐籠を抱いて急いでいたノラは、ふと話し声を耳にして足をとめた。
「愛した男に裏切られたのよ。わたくしは」
「金づるにされただけで済んだのですから幸運だったと言えましょう。……詐欺師のなかには過激な手段を取る者もいるとか。つまり、武器を持っていると」
マルティナの部屋から、彼女とルイスの声がする。扉が細く開いているようだ。
「運命の恋に憧れる乙女心や、純粋な優しさにつけこむのは同じでも、その手口は多岐にわたるようです。信頼させてから脅しに出たり、なかには、標的とした女性に近づくためにわざと怪我をする者も」
詐欺師の素質がある人間とは、総じて社交的だ。
頭の回転が早く、弁が立ち、けれどそれを感じさせない人当たりのよさがある。彼らは麗しい見目で魅了すること、人心掌握に長けた者が多く、関われば必ず好ましく思ってしまう──ゆえに見抜けない。
「昨晩の男も、やはり追い返して正解だったのでは。旅の商人にしては身軽なのが不審でしたし、疑わしい者を屋敷に入れるべきではありません」
ああ、とマルティナが溜息をこぼした。
「それはわたくしも引っかかっていたの。……他人を信用するには、むずかしくなってきてしまったわね」
ノラは足音を立てないようにその場を離れた。廊下を駆けながら籐籠をぎゅっと抱きしめる。
ルイスも、マルティナも、きっと正しい。
差しのべた手が仇となる可能性がある以上、あのように出会ったオーウェンを簡単に受け入れるわけにいかないとは、ノラも理解しているつもりだ。
(でも、ほんとうに困っていたひとだったら?)
春先とはいえ夜はまだ冷える。あのまま締め出していれば凍えていたかもしれない。長い苦痛を味わったすえに命を落としていたかもしれない。
差しのべなかった手が誰かを殺めてしまう、そんなおそろしさを思うとノラは耐えられなかった。
「大貴族のご令嬢に盗人のような真似を……私のためにすまない」
自室に戻るとオーウェンが出迎えてくれた。
無意識のうちに、ノラの顔にぱっと笑みが咲く。
父と同じくらい年が離れているからか、彼のそばは不思議と居心地がいい。出会ったばかりの相手に気を許せるなんて、内気なノラには初めての経験だ。
「こちらこそごめんなさい。もっと食べさせてあげたかったけど、これだけしか持ってこられなくて……」
「充分な施しだよ。チーズもあるとは贅沢だ」
苦しげだった昨夜の様子とは打って変わり、朗らかに笑う彼を前にすると、ノラは「助けてよかった」と思わずにいられなかった。
(大丈夫。このひとは悪人には見えない。嘘をついたのにはきっと、何か理由があるんだ)
◇◆
一週間が過ぎた。
ノラの甲斐甲斐しい世話でオーウェンの傷は順調に治り、介添えなしで歩けるまでになった。
「じきに包帯も取れるだろう。もう大丈夫だ。君には迷惑をかけてしまったが……すぐにでも出ていくよ」
「迷惑だなんて。わたしはこの一週間楽しかったし、会えてよかったよ。ずっといてほしいくらい」
「ふふ。光栄だな」
「だから包帯が取れるまで、休んでいって?」
彼は招かれざる客。一刻も早く帰すべきだと頭ではわかっていても、寂しさが胸を締めつける。このまま時間がとまればいいのにとさえ、思いはじめていた。
「ありがたい言葉だが──私よりノラ、君のことだ」
ふいに、オーウェンに顔を覗きこまれた。
白髪混じりの髪が散る彼の目元、眼帯をしていない右の瞳に真剣な色が宿っている。
「何かあったね? 浮かない表情だ」
オーウェンは穏やかだが、ときおり鋭い。
そしてすぐれた聞き手だった。人見知りであるはずのノラが気後れせずに話せるのも、彼が持つ包容力のおかげ。だから、どんなことだって相談できる。
「来週の晩餐会に出るようにって、お母さまが」
グレイ家は定期的に晩餐会を開く。付き合いのある相手や親睦を深めたい相手を招待するのは、ノラの母──伯爵夫人の役目だ。
しかし伯爵夫人は体調を崩して臥せっているため、今度の会はマルティナが代理で主催することになっている。妹に甘い彼女は「無理しなくて大丈夫よ」と、ノラの内向的な性格を慮ってくれるのだが……。
「わたしの、その……婚約者がいらっしゃるみたいなの。グレイ家と親交のある侯爵家のご子息で、何度かお姿を見たことはあるのだけれど」
「実際に会って話したことはないのかい?」
「ん……いつも、ここから眺めるだけ。晩餐会に出席したこともなくて。でも次こそ、挨拶しなさいって」
窓の外に目を向ける。
安全な室内から見つめる白薔薇の群は、降りそそぐ陽を受けて輝いている。まばゆいほどに。
「ノラ。君はいま、いくつかな」
「十五歳……」
そうか、とオーウェンが頷いた。
「母君は巣立ちの支度をしたいのだろうね。あと二、三年もすれば君はお披露目を迎え、晴れて大人の仲間入りとなるから」
「わかってる。わかってる、けれど」
ノラはきゅっとくちびるを噛む。
「人の目が怖いの。わたしが顔を見てお話しできるのは、家族とあなただけ。……できそこないの伯爵令嬢なんて、うとましい存在に決まってる」
「なるほど。君の瞳を覆い隠す、この長い前髪のわけがわかったよ」
オーウェンの指がすくったノラの前髪は、鼻の頭に及ぶほど長い。髪留めを使わず、あえて両目にかかるようにおろしているのだ。
「絹糸のようにうつくしい亜麻色の髪だが、これでは君の表情がよく見えない」
「……そのために、のばしているんだもの」
そう言ってうつむく。
筋金入りの自信のなさからくる、彼女の癖だ。
「──レディ・ノラ。顔をあげなさい」
優しさはそのままに、諭すような重みを伴った声が頭上から降った。
「このままでいいのかい」
わずかな沈黙のあとで、ふるふると首を横に振る。目をすっぽりと覆い隠す長い前髪が揺れる。
「変わりたい?」
こくんと頷く。
けれども無理だろう。裁縫、刺繍、乗馬、ピアノ、ダンス──どれをやってもいままで何ひとつ、うまくいかなかった。真剣に取り組んでだめだったから希望を持てなくなってしまったのだ。
内気なこの性格だって、変えたいと願って変えられるものではない。
うつむいたままの少女を、オーウェンが化粧台へと導いた。ノラを椅子に座らせると、彼は台上にあった何かを手に取る。
それは、小さな貝殻を連ねた髪留め。
海沿いの街へ出かけたときに、マルティナと砂浜で拾った貝を装身具に仕立ててもらったものだ。ノラの宝物のひとつだが、使ったことは一度もない。
「君は、できそこないなんかじゃない。自分で自分に呪いをかけているだけだ」
長い前髪をすくわれて、視界がひらく。
ぱちりと、枷がはずれるような音がはじけた。
「知らなかっただろう──きらめく海の色が、ここにあることを」
オーウェンの指が窘めるようにそっと、少女の顎を持ちあげた。化粧台の鏡と向かいあったノラは瞬く。
貝殻の髪留めで前髪がとめられ、白い額があらわになっている。窓から差しこむ陽を浴びて輝く双眸は、澄んだ青。あの日の海と同じ、透きとおる海碧色。
こんなうつくしい色彩が自分にあったことを初めて知った。あるいは、オーウェンの言葉の魔法で輝いて見えるのか。
化粧台の鏡のなか、黒づくめの男が微笑む。
「すこしでも自信を持てるように手伝わせてほしい。私にできるのはダンスしかないが」
「えっ、踊れるの?」
「ああ。君と同じくらいの年齢の少女に、ステップを教えたこともある。安心して身を任せてくれ」
──あなたは何者?
戸惑うノラに、大きな手が差しのべられた。
「さあ、お手をどうぞ。レディ」
優美な所作で差し出された手と、オーウェンの顔を交互に見つめる。まっすぐに向けられる黒いまなざし──彼は、本気だ。
ダンスなら何度も教わった。貴族の子にとって舞踏は必須科目だからだ。踊れないなど恥。笑い者になるし、家族にはもちろん婚約者にも迷惑がかかる。
お披露目では、婚約者と踊ることになるから。
「それとも嫌かな。私のようなおじさんと踊るのは」
「そ、そうじゃなくて……! わたし、踊れないの。何度も教わって、だめだったのっ」
「うん。だが今日、できるようになるかもしれない。一緒にがんばってみよう」
「…………」
おずおずと、遠慮がちにオーウェンの手を取る。
胼胝がいくつもある硬い手だった。
「わ……っ!」
ふわり、足先が浮いたかと思った次の瞬間、ノラはオーウェンの胸におさまっていた。大人の男からすれば彼女など羽のように軽いのだろう、あっというまに身体の主導権を握られる。
「ノラ。賢い君は、幼くして理解したんだ。この家を継ぐのは姉だと──だから心の奥底で、自分はいてもいなくても変わらない存在だと考えている。君は自分自身に抑圧されているんだ」
そうなのだろうか。
そうかもしれない。
けれどいま、そんなことはどうでもよかった。
オーウェンのよどみない先導に従い、踏み出す足が軽快に床を叩く。背に添えられた彼の右手、繋がれた左手……どうしてかノラの胸は甘く満たされた。
つまずいても、思いきり靴を踏んでしまっても彼はとまらない。ふたりきりの部屋。無音の円舞。心まで躍って、抑えられない笑みが咲く。
「君の笑顔は白薔薇めいて可愛らしい。私が独占してしまうなど、もったいないことだ」
ああ、また、そんな言葉を。
頬を染めてはにかんだノラだったが、その瞳がふと驚きに瞠られた。
目にしてしまったのだ。
彼の左薬指できらりと光った、銀の指輪を。
──急に、夢から覚めたような心地になる。
(わたし、考えてなかった。こうしているあいだにもオーウェンの帰りを待っているひとがいるって)
顔を曇らせたノラに気づいたらしく、オーウェンがゆるやかに足をとめた。
ノラはすぐ視線を逸らしたが、彼は悟ったようだ。指輪のはまった左手を握って苦笑する。
「気にしないでいい。いまとなってはもう、がらくた同然のものだから」