Ⅰ
夜露に濡れた白薔薇は、その花首を重たげに垂れ、まるでうつむいているようだった。
月のない夜だからだろうか──肌にまつわる暗闇がいつもより冷たく感じられる。白絹の天蓋に守られた寝台の上、ノラは膝を抱えてうずくまっていた。
『なぜこんなにも出来が悪いのでしょう。グレイ伯爵家の人間として恥ずかしくないのですか、お嬢さま』
昼間に浴びせられた辛辣な言葉が頭から離れない。
わかっている。家庭教師は教育に熱心なだけ。悪いのは何をやってもうまくいかない、愚鈍な自分だと。
『姉君は優秀でいらっしゃいますのに……』
読み書きはできるが、裁縫や刺繍は苦手できちんとかたちになったためしがない。馬が怖くて乗馬の授業をまともに受けられない挙句、ピアノの鍵盤を憶えるのも不得意で、見ていると目が回るというありさま。ダンスなんてもってのほかだ。
愛想をつかされるのも当然だろう。
それでも失望の溜息をこぼされるたび、ノラの心は棘に刺されたかのごとく痛んだ。
(……消えてしまいたい)
視界がにじむ。涙がこぼれそうになったそのとき、壁の向こうから怒声が聞こえた。
「詐欺だったのよ、詐欺!」
姉──マルティナの声だ。
「信じられる、ルイス!? まさかこのわたくしが、低俗な罠にかけられるだなんて……!」
「だからやめておけと申しましたのに。あんな軽薄な雰囲気の男、すぐに消えると私は踏んでいましたよ」
「何よ! 何よ……っ!」
甲高い声と、苛立たしげに鳴らされる踵の音が廊下から届く。寝台を降りたノラは部屋の扉に駆け寄り、把手をそうっと押した。
細く開いた隙間から見えたのは、青年執事のルイスと、絹の手巾をぎりりと噛んだマルティナが連れ立って歩いてゆく姿。ノラは廊下を覗くように顔を出し、息巻く姉の背におずおずと声をかける。
「お、お姉さま、どうしたの……?」
「ああノラ! 聞いてちょうだい。あの男、わたくしに貢がせるだけ貢がせて、忽然と姿を消したのよ!」
あの男──とはここ数ヶ月、マルティナが骨抜きになっていた浮気相手のことだろう。
恋多き彼女は婚約者を持ちながら、夜会で出会った商人との不倫に燃えあがっていた。結婚すれば不自由になるから、それまでの火遊びだと言って。
醜聞が立っては家名に傷がつくと、ルイスもノラも口を噤んで彼女の奔放さを見守っていたのだが……。
「近頃、令嬢を狙ったロマンス詐欺が横行しているようです。貴族や商人、さまざまな身分を騙る詐欺師らが言葉巧みに女性を口説き、恋人となって金目のものを貢がせるという……ノラお嬢さまもお気をつけて」
淡々と言うルイスの隣で、マルティナがわなわなと肩を震わせる。
「そんなものに引っかかるのは所詮、馬鹿な女だけと思っていたのに……っ」
「見事に釣られましたね。自分は大丈夫、と慢心する女性ほど出し抜かれるのがこの詐欺の特徴です」
「ぐうう……」
噛みちぎられそうになっている手巾に怯えながら、ノラは姉にかける言葉を考えあぐねていた。
(もっといいひとが見つかるよ、は変かな。お姉さまには婚約者がいるのだし。ええと、ええと……)
マルティナは苛烈な性格が玉に瑕だが、妹のノラを深く愛し、気にかけてくれている。
こんなときくらい励ましてあげたい。
そう思って頭を働かせていたところに、慌ただしく駆けてくる者がいた。
「マルティナお嬢さま! 門前に怪我人が……!」
夜間の見張りをしている門番のひとりだ。
ルイスがマルティナを見た。
「いかがなさいます。奥さまを呼びますか」
「いえ、お母さまは今夜はもう寝ていらっしゃるわ。わたくしが対応しましょう」
門番から受け取った提燈を手に、彼女は迅速に外へ向かう。おろおろと立ちすくんでいたノラも、ルイスがマルティナのあとを追いかけるのを見て、つられるように駆けだした。
白薔薇の庭園を抜けた先。鉄製の門扉に、ルイスを伴ったマルティナがたどりつく。
「何事なの」
姉のうしろからノラは状況を窺った。
門扉に寄りかかるようにひとりの男が倒れている。夜闇で顔はよく見えないが、地面に投げ出された長い足の左脛部分から血がとめどなく流れていた。
男の意識はあるようだ。マルティナが冷静に問う。
「いったい何があったのです?」
「野犬に……咬まれてしまって……」
「大変! すぐに傷口を消毒しないと!」
衣服が汚れるのも厭わず膝をついたマルティナに、男は息も絶え絶えに訴えた。
「傷の手当てと……一晩で構いません。宿泊をお願いできませんでしょうか。私は旅の商人で──」
「商人ですって?」
途端、マルティナの眉が吊りあがる。
「よそへ行って頂戴。あなたに貸せる寝床はないわ。ルイス、戻るわよ」
ぴしゃりと言い放ち、マルティナはほんとうに男を見捨てて去ってしまった。彼女の言に従ってルイスもいなくなり、血痕の掃除を命じられた門番らも道具を取りに行き──ノラは男とふたり、取り残される。
「参ったな……彼女は商人がお嫌いだったようだ」
とても私的な理由があるせいなのだが、説明をして詫びている暇はない。ノラはぎゅっと指を組み、意を決して口を開いた。
「わたしの部屋にいらして」
瞠目する男にノラは続ける。
「お父さまは仕事で屋敷を空けていて、あとひと月は帰りません。きっと、匿えます……!」
「正気か、君?」
突拍子もない申し出に、男が驚くのももっともだ。
「いいのかい。素性の知れない男を勝手に……それも家族に黙って連れこむなんて。実は私は悪人で、盗みを働く魂胆かもしれないよ」
「だ……だって、怪我……っ」
出血は続いている。立ちあがれない様子の男を見る限り、しばらく介添えなしに歩けないだろう。傷口を放っておけば細菌が繁殖するおそれもある。
(見捨てるなんてできない。せめて、咬傷がふさがるまでは休んでいってほしい……!)
さまざまな思考がめぐるのに、そのいずれも言葉にならない。昔からそうだ。出来の悪い彼女は、自身の心を伝えることさえ下手だった。
つかえてしまう声の代わりに行動しようと、ノラは手巾を裂いて傷口を縛り、男を抱き起こす。細身だが上背のある彼は想定よりも筋肉質で、ずしりと重い。
小柄な少女がひとりで助けるには難儀する相手だ。それでもノラは懸命に彼を支えると、自室を目指して白薔薇の庭園を引き返す。姉やルイス、使用人たちの目を盗むため、屋敷からの死角となる道を選びつつ。
「……悪い子だね」
笑みを含んだ深い声がノラの鼓膜に響く。
ざあっと風が吹きわたり、儚く散らされた白薔薇の花びらが舞いあがる。
そのとき、瓦斯燈の灯りに照らされて、暗闇に溶けこんでいた男の容姿が浮き彫りになった。白髪混じりの無造作な髪に落ち窪んだ黒の瞳──最も印象的なのが、左目を覆う黒革の眼帯。
ひどく退廃的で、魅惑的な男だった。もう四十半ばの歳であろうにもかかわらず、どこか惹きつけられる強い引力がある。彼のまとう翳りがそうさせるのか。思わず見入ってしまっていたノラに、男は名乗った。
「オーウェンだ。助けてくれてありがとう、レディ」