3、見知らぬひと
「......んの、まおおおおおお!!」
噴煙の向こうからヌッと大きな影。
それはずんずんと無遠慮に距離を詰めて、数秒もしないうちにエマの前へと姿を現した。
男だ。鴉色の髪を肩まで垂らした細身の男。髪と揃いのコートを揺らしながら、溢れんばかりの笑顔で小走りでやってくる。
「お、おおおま、おまえおまえ!」
見覚えのある、いやあり過ぎる男にエマは吠えた。土煙で咳き込む。目など砂で涙目だったが、それでも叫ばずにはいられなかった。
「なんてことしてくれたのよ!お馬鹿!大馬鹿!シ.....誰だか、知らないけどお馬鹿!」
「罵倒の語彙力が乏しいな。さすがだ」
「余計なお世話よ!」
だって男はそれほどまでのことをしでかしたのだ。怒らずにはいられない。だというのに、再会を喜ぶ彼氏のように笑顔全開花丸満点で両手を広げて向かってくるのだ。拳を握って。
いやー!とエマは叫ぶ。
「なんで拳握ってんのよー!」
「余と聖女を阻む壁を破壊するためよ」
「わたしが張ってるのに!?」
防御壁を張ることすら許されないのか。横暴だ。理不尽な。だがその理不尽を飲み込まねば、更なる不幸が己を襲うことをエマは理解していた。
くそぉぅ、と呟いて泣く泣く防御壁を解除した。
瞬間だった。
真紅の瞳が目の前にあった。
驚きで息を呑む。反射的に構えた杖は手首ごと掴まれ引き寄せられる。鼻先が今にも触れ合いそうな距離に持ち込まれた。
「なぜ詠唱を切り替えぬ。爆発させ距離を取るようにと、教えたはずだが?」
「うっさい!そんなこと覚えて.....覚えるどころかあなたになんか教わってないわよ!」
防御壁を破壊されると反動で動きが制限される。もし追撃があった場合は、速やかに魔法を解除し未完成でも魔法を使用し距離を取る。染みついた戦闘術だ。ゆえに、エマは男が防衛壁を拳で破壊すると宣言するやいなや魔法を解除したのだ。
だが、とエマは唇を尖らせる。
「今は、それをすると面倒だから.....ああもう!今はそんなことはいいのよ。さっさとこっちに来なさい!」
「手を繋ぎたいのか?よいぞよいぞ」
「手を、絡めて、くるな!」
無骨な指がエマの指を捉えて絡まる。
ゆっくりと指の間を指の腹で擦る。感触を楽しむような手つきに背筋がぞわりと逆立つ。
「細いな。それに柔わい」
「あんたのは太くて硬い」
「もう一回頼めるか?」
「は?」
「余の手は?」
「太くて硬い?」
「うむ、実に卑猥だ」
「イカレてんのか」
ちょっぴり痛い、と眉間に皺を寄せながら発した言葉がなぜ卑猥なのか。眠っている間に残念になってしまった、いや昔から残念だった頭に同情する。
ポンポンとブランクを感じさせない軽快なやり取りを続けながらも、ふたりの足は目的地に向かって止まらず進み続けた。
エマの足が止まる。
前には煉瓦造りの小さな一軒家。小作りなドアノブを捻ると、勢いよく開く。
「ママ!」
「あらエマちゃん、そんなに急いでどうしての?お夕飯の時間にはまだ早いわよ」
生クリーム色の髪から覗く双眼に変わりはない。おっとりふわふわ、いつもと変わらない母親の姿がそこにはあった。
爆音。それも地震速報が入りそうな揺れ方をしたはずだが、それでは母の平常心は崩せないという事なのか。さすが専業主婦、並のことでは動じない。ガーデニングが趣味のゆるふわ母が、百戦錬磨の騎士に見えた。
首を振って幻覚を振り払う。
今は母に関心している時ではない。
「母君か。では挨拶をせねば」
「空気読んで、時間無いの!」
「あらまぁ」
「大変なの、魔法よ!魔法を使っちゃったの。それもとびきり目立つやつ。足がつくからすぐに逃げなきゃ」
「あらあら、マドラちゃんは?」
「いい子だから食べてるけど、中型使ったから役人が来ると思う」
「そうねぇ」
困ったわと呟く母だが手は止まらない。
焼きたてのクッキーを手早く数個ほどラッピングすると、ハンガーラックから手提げ鞄を取りそれに詰めてエマに手渡した。
「ここはお母さんに任せて、しばらく街に避難なさい。適当に追い払っておくわ」
「うん!ありがとうママ」
「ついでにお使いも頼める?」
「薬ね。りょうかーい!」
財布とハンカチとチリガミ、それからクッキーが4つ。鞄の中身を確かめると、エマは男の手を引いて扉へと向かう。
「いってきまーす」
「はい、いってらっしゃい」
ゆるく手を振る母に肩の力が抜ける。
はにかみながら振り返って手を振った。
「エマちゃんのことよろしくね」
パタンッ。
扉が閉まる。
一息ついて、エマは歩き出した。
「どこへ行くのだ?」
「街よ」
「愛の逃避行か」
「避難だって言ってんでしょ?!」
難聴か!
読んで下さりありがとうございます!
次回は来週の金曜日になります!