10、異変
「じゃあ次はデザートを」
食事があらかた片付いた頃だった。
甘い物に飢えたエマが店員を呼び止めた時に、それはやって来た。
カンカンカン、カンカンカン。
「魔物がでたぞおおお!」
「逃げろ!魔物だ!!」
「遠くに逃げろおおお!」
鐘を叩く音が街に響く。
魔物の襲来を知らせる警鐘だ。
「デザートクラブの大群だ!」
「逃げろ!かなりの数だぞ!」
デザートクラブは青いカニ型の魔物だ。サイズは中型犬くらいだが、一体ずつの攻撃力は低い。せいぜいHPが2削れるくらいで、街に張られた結界を突破できないはずだ。
エマは首を傾げた。
慌てすぎではないだろうか。
コーヒーに口を付ける。
「慌て過ぎじゃない?それともみんなすごーくお腹が空いてるのかしら?」
「………食べるのか?」
「珍味よ」
「あれを食べようと思うのはキミくらいならものだろう」
「人を悪食見たいに言わないで。中身のゼリーは絶品なんだから」
「ほう?」
「桃、林檎、蜜柑、洋梨の甘さを感じる贅沢な甘さ。鼻腔をくすぐる蜂蜜。飲み込んだはずなのに、お腹の中からまだ果実の旨味が香り立つ。一口食べれば病みつきになること間違いなし!な極上の一品よ」
ガンガンガンッ。
呑気な会話に衝突音が混じる。
結界にデザートクラブが衝突しているのだろう。恐怖に慄いた人々が、ふたりの横を悲鳴を上げて走っていく。高い建物に逃げ込めと声を張り上げるなかで、悠々とカップを傾ける少女たちの姿は異質に映った。恐怖が理不尽な怒りへと変化し、不謹慎な背中に怒鳴り散らそうと男が口を開いた瞬間だった。
ポテトサラダを口に含もうとしたエマが「あっ」と声を漏らした。
ガラスの割れるような音がした。
「結界が突破されたぞ!」
「逃げろ!」
「流れ込んでくるぞおおおお!」
「走れええええ!」
ガシャガシャと破片を踏み荒らし、デザートクラブの大群が街中に流れ込んできた。看板や屋台を破壊し、ただ前に向かって侵撃してくる。この速度なら数分も経たないうちにエマの元まで来るだろう。
最後の一口をポテトサラダを放り込んだ。
皿は空だ。だが、まだ満たされない。
エマは椅子から降りると、人々とは反対方向に足を向けた。
「行くのか?」
「うん。元聖女としては困ってる人々を見放すなんて、そんな薄情な真似できないもの」
「涎をしまえば完璧だったな」
「おっと」
涎を拭いて、唾を飲み込む。
満たされないのなら、満たすまで食べるしかない。お金はあまり無いが、幸いなことに野良の食料がこれからやってくるのだという。それを見逃すわけがない。
きらりと空色が輝く。
食いしん坊になって、と呆れるシオンに舌を出す。
食べられる時に食べてなにが悪い。この身体は燃費が鬼のように悪いのだ。こうでもしないと腹は満たされない。
「なにやってんだい!逃げな!」
「女将さん」
店から女将さんが旦那と転がり出てくる。いままでお客さんの避難を誘導していたらしい。その顔は砂で汚れていた。
「ぼさっとしてないで走るんだよ!死にたいのかい!」
「心配してくれるの?嬉しい。わたしは大丈夫だから、女将さんは先に逃げて」
「なに言って」
「来たぞ!!」
建物の影から姿を現したのはカニだ。中型犬程の大きさの青いカニ。1体、10体、いや100体はいるだろうか。それが波のように押し寄せて来ていた。
「水よ集え、剣となりて星の敵を打ち滅ぼす力を我に『水星の剣』」
詠唱に合わせて大気中の水分がエマの手に集まっていく。反った幅の広い刃にエマの身長程もある長い柄、水の薙刀がエマの手に収まった。
感触を確かめるようにクルリと手の中で回す。使うのは久方ぶりだが、しっくりと手に馴染む。
「愛刀はどうした」
「あんなの使ったら出ちゃうでしょう!」
会話も早々にエマが走り出す。
素早い動きで一体に近づくが、いち早く気づいたデザートクラブのハサミがエマを襲う。それを長刀の柄で弾くと、手早く足元を払った。デザートクラブの身体が大きく後ろに傾く。
その隙を、エマは見逃さなかった。真上に跳躍する。
「なにがだ」
「おいしーところっ!」
小さな肢体をめいいっぱい逸らす。相手が防御姿勢を取る前に、エマが身体を丸めた。振りかぶられた薙刀が、勢いよくデザートクラブの脳天を直撃する。
カーン。
乾いた音が響く。一呼吸置いて、ぐらりと傾いた青い甲殻が地面に倒れた。
「次ッ!」
身体を低く保ち向かってくるカニの足を払う。浮いた青い身体に一撃。撃ち漏らしたカニの頭部に、シオンが打撃を加えていく。
ガン、ガン、ガン。
その手にあるのは酒瓶だ。落ちていた瓶でぶん殴っていた。
ヤンキーか?とエマは思った。だがシオンの行動は逃げ惑う人々に熱を与えた。
日常の道具でも魔物が倒せる。
その事実は湧き立つには十分過ぎた。
歓声が上がる。
「みんな武器を持て!」
「お、俺たちもやるぞ!」
「弱点は頭で良いんだよな?」
「え、う、うん」
「酒瓶なら大量にあるぞ!兄ちゃん!」
「.......手伝ってくれるの?」
「おうとも!たらふくちゃんたちにばかり任せてられねぇや!」
「よく分からないけど、ありがとう。それじゃあ、じゃんじゃん狩るわよ!」
『おおおおおおおお』
ーーそれからはあっという間だった。
無双するエマ、酒瓶を両手に持ったシオンに続く人々。形勢は一気に逆転した。
ガンガンガンガンガンガンガンガン。
デザートクラブは瞬きの間に地に伏していった。
「こいつで、さいご!」
絶妙な力加減で脳天をぶっ叩いたエマの一撃で、最後の1匹が倒れた。転がる甲殻類、割れた酒瓶、肩で息をする人々。彼らはその光景に自分たちの勝利を確信した。
雄叫びが地面を揺らす。
「勝ったのか?」
「俺たちが、勝った……」
「やった……やったぞ!」
「街を守ったんだ!」
『…………うおおおおおおおおおおおおお!!』
悲鳴も嘆きも無い。あるのは歓声と勝利に泣く声だけ。街人たちは抱き合い、勝利に歓喜して笑い会う。
エマとシオンに謝意が飛び交う。次々に手を取られては、感謝と喜びを伝えられる。泣いて笑って忙しい。
口元が緩む。感謝を告げる彼らに笑いかける。こちらこそ、とお礼を言おうと口を開いて、すぐに閉じた。
きゅーくるるるるる……。
エマが腹をさする。もっと聞いていたかったが、残念ながら時間切れのようだ。切なく鳴く腹の虫の声に従い、人波を抜けてデザートクラブの元へと向かう。
早く、早く食べなくては。
「ありがとう!ありがとう!」
「どういたしまして」
笑顔が引き攣る。握られた手を握り返す力が入らない。空腹が頭を満たしていく。向けられる笑顔が鬱陶しい。ああ、邪魔をしないで。
「ふたりのおかげで勇気を持てたよ!」
「ありがとう!」
「うん」
視界がぼやけてきた。まずい、早くなにか食べないと。ふらつく足で青へと足を進める。お腹がスイタ。あともう少しでデザートクラブに手が届く。オナカ、スイタ。あと少し、もう少し。
「ーーっエマ!」
肩に衝撃、足がもつれて身体が浮くような感覚。女将さんが斜めになって、伸ばした手が宙を掻いた。地面が近い。
「エマッ」
「……シオン?」
焦った声で名前を呼ばれた。
甘い匂い。慣れ親しんだ体温に、シオンに抱き締められているのだと理解する。肩をぶつけられて倒れかけたらしい。
息が詰まる。早く、早く早く。
「おねがい、早く」
「エマ」
「連れてって、じゃないと」
「分かった。どこへ行けばいい」
「わたしーーこんどはーーちゃうから」
「腹が減っておるのか。待っていろ」
「ん...?」
膝裏に腕が回る。シオンに抱え上げられたが、そこが限界だった。ぷつんと糸が切れるようにエマの意識は途切れた。
「...エマ?」
先程よりも重さの増した身体に気がつく。呼びかけに返事はない。デザートクラブの前に腰を下ろすと、膝の上にエマを乗せて顔を確認した。
ぼんやりとしていて、何処を見ているのか分からない。再び呼びかけるが、桜色の唇が吐き出したのは返答ではなかった。
「オナカスイタ」
エマの頬を両の手で包む。
頬、首、額順に熱を測って最後に瞳を覗き込む。
「顔を見せよ。熱は無いな。怠さはあるか?」
「......お腹が空いた。食べなくちゃ、食べるの、しなきゃだめなの」
「魔力不足か」
意識はおそらく無い。
最も魔力を消費する感情を落とすことで、省エネモードで活動し、その間に食事から魔力を補おうとしているのだろう。
デザートクラブの殻を足で蹴って開いた。中のゼリーを掬ってエマの口元に運んだ。
「エマ」
名前を呼べばエマは齧り付いた。小さな口をめいいっぱいに広げて、貪り食う。
まるで1週間ぶりに水を手に入れたようだ。
異常だ、シオンは思った。
燃費が悪いどころの話ではない。初級魔法を一回、それを手に走り回っただけでこの消費は致命的な欠陥だ。幼児、いや穴の空いた風船に近い。
「もっと、」
「ああ」
次のデザートクラブの頭部をこじ開ける。
再びゼリーを掬いあげ口元に運んだ。手首を強い力で掴まれ、エマの口元へと運ばれる。まるで逃がさない、と言われているようだ。
顔を突っ込むように、ゼリーに齧り付く。
人並外れた食欲の意味を理解し、シオンが深く息を吐いた。
「………今度は、なにをされた」
返事はない。
最愛のきみは、赤い瞳に僅かに影が差しても、ただ赤子のように魔物を貪るだけだった。
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