53、狐の衣は借りもの
「頭が高い」
それは、愛らしい声だった。
甘い甘い、幼い声色。
「え・・・?」
「頭が高いって言ったの。はやく母様の前に跪いて頭を垂れなさいよ」
庇護欲をそそられる舌ったらずなそれとは裏腹に、辛辣な言葉が幼い少女より放たれる。
聞き間違いか。
いいや、確かに少女からした。
いやでも。だって。
自問自答。頭の中で繰り返される答えの出ない問いかけに、獣人たちは頭が真っ白になった。
チッ、と舌が鳴る。
苛立ちから放たれた舌打ちに思考を止め、彼らはようやく現実を直視する。
恐る恐る視線を下げれば、白髪の愛らしい獣がいる。守るべき存在がだ。やはり先ほどの言葉は聞き間違いでーー
「母様と離れてお前らと暮らすことが幸せ?自分の価値を高く見積もり過ぎ。現実、見た方がいいんじゃない?」
ーーー間違いではなかった。
ありありと直視させられる現実に、彼らは狼狽える。なぜ、なぜ。会話さえまともに出来なかったはずだ。それなのに。
「なに、を」
「母様が優しくしてるの分かんない?お前らなんて1分で殺せるのに、超絶優しい母様は3日も野放しにしてあげてるの。優しすぎて理解できない感じ?」
「なんて、口の悪い!」
「わ、わかった!人間に言わされて」
「そうやって、現実逃避するの止めろって言ってんだろ」
笑顔のまま白狐はため息をついた。
聴覚を封じられたエマに、本性を明かさぬために白狐は笑顔を崩さない。
そのせいだろうか。外敵へと放たれる言葉は、何倍も辛辣に聞こえた。
「お前らの行動の全てが人間と同じ。差別、搾取、嫌がらせ、暴言、その全てが人間と瓜二つ。本当に反吐が出る」
ねぇ、シオン。
最愛の声が聞こえる。
おそらく自分を心配しているであろう声色に、白狐はますます獣人に対する憎悪が増していくのがわかった。
本当に、本当に、ぶっ殺してやりたい。
「ねぇ、シオン。いい加減に、おい!目まで塞ぐな!本当になにがしたいの?!」
「はははっ!良いではないか」
「なにもよくないんですけど!?」
魔王様からのアシストに、白狐は口角が上がるのがわかった。
もう、取り繕う必要はない。
赤い瞳がいびつに歪む。それはまるで、後ろで控えている魔王のようであった。
「母様が許しても、星はお前たちを許さないから」
沸々と腹の底で怒りが煮えたぎる。
マグマのようなそれは、ぐるぐると身体を巡って温度を増していく。以前であれば、感情に任せて魔力が溢れ出していただろうが、そんなヘマはもうしない。
守りたいものが出来た。
それは、白狐を成長させた。
大人顔負けの魔力を完璧に制御し、己が敵に向かって笑顔さえ振り撒いて見せる。
全ては母様のために。
ゆっくりと小さな指が獣人を指差す。
「お前もお前もお前もお前も、この村の連中は人間だよ。獣の血が流れているだけの醜く汚い人間だ」
僕には違いがわからない。
吐き捨てるような言葉に、動揺が加速していく。戸惑う彼らの言葉を遮るように、白狐は攻撃を続ける。
「母様の結界に守られてぬくぬく生きてきたくせに、理解もしないで本当に嫌になる。全員まとめて地獄に落ちろ。いや落とす。僕がぶっ殺してやる」
「ひっ!?」
「なんでそんな顔するの?ほら、来なよ。お望み通り仲良くしてあげるからさ」
「わたしたちそんなつもりじゃ!」
「あんたらといると幸せなんでしょ?なら殺されてよ。そうしたら僕は幸せ。ほら、早く、幸せにしてよ」
「し、白狐!」
「口を開くな。怠惰に過ごしたお前に意見する権利なんて無い」
「ーーっ!」
これはいけない。
嗜めたデイビッドを白狐が睨み付け、その言葉を跳ね除けた。すくみ上がる彼らを鼻で笑って、やれやれと首を竦める。
「な、なんでこんな.....あなたがこんな子だなんて思わなかった」
「言葉も分からない畜生だったのに、ってか?はっ、笑えないんだけど」
そんなんだから巫女に見捨てられんのよ。
呟いた言葉が地面に落ちる。
意味を理解している者はどれくらいいるのか。理解したところで遅いけど。先に捨てたのは獣人なのだから。
「子どもの方がよく理解していた。自分たちが誰の恩恵で生きているかって、ちゃんとーー」
「テオ」
「ーーー知って、だから巫女とも・・・・てお?」
辛辣な言葉が途切れる。
テオ、テオと言ったか。
ゆるりとエマの方を振り返る。彼女はしっかりとこちらを見ていた。赤い瞳が驚きで見開かれる。
母様が白狐を見ている。もう一度口が動く。聞き間違いではない。
確かにテオと呼んでいた。
「か、母様....?」
彼女はしっかりと魔王の腕の中にいる。きっと約束が破られていない。未だ耳が聞こえていないはずだ。なのに、僕を真っ直ぐに見て真名を呼んだ。
「.......てお.....?ねぇいまテオって」
「テオ、ねえ、テオちゃん。そろそろ行こう。わたしお腹空いちゃった」
「ぼ、僕?僕のこと、真名で呼んで.......っ、なんで知って、てお、テオって!」
どうして僕の真名を知ってるの?
そんな些細な疑問は、戯けた彼女の本音を前に塵のように霧散していく。
顔に熱が集まってくる。目だけが燃えそうに熱くなって、呼吸が心拍数が速くなる。
堪らなくなって白狐ーーテオは走り出す。
憎悪?嫌悪?そんなものは頭に無かった。ただ一心不乱にエマの元へ。
魔法が切れる気配がする。
音の世界へと戻った彼女は、魔王の腕の中からするりと地面に降り立つ。同時に長い脚へとローキックをお見舞いしていた。ふわりと金糸が羽根のように舞い上がって美しい。いつまでも見ていたいけれど、だけど、いまは、いまだけは。
「本当になんなの!もう、もうもう!お腹空いてるんだから、意味わかんない悪戯しないでちょうだい!」
「そう怒るでない。愛らしい尊顔がより一層、余の好みになってゆくぞ」
「悪趣味!この馬鹿!おたんこなす!だいたい早く出たいって言ったのは、しお」
「.....あっ、」
小さな手をテオは取った。
自分よりも柔くて軽いその手を。
驚きで見開かれたサファイアいっぱいに、高揚した己が映し出される。
心臓がうるさい。
饒舌だったはずの舌は回らなくて、頭は真っ白で、心臓の鼓動だけがやけに耳について。大好きなあの人の顔すら、涙で滲んでよく見えない。
「ぁ.....ぁぅ、てっ....て、」
「て?」
「てお....って、ぼ、ぼくの....ぼくの、おなまえ....?」
お名前ってなんだ。可愛い子ぶるな。
頭でそんな声が聞こえる。
言い返す余裕はない。舌どころか手まで震えて、みっともないたらない。
だって仕方がないではないか。思ってしまったのだ。もし、もしも自分じゃなかったらって。
「あ、ぁぅ、」
エマの手を握り締める。
絹のような肌に傷が付いたらどうしよう。顔が見られない。緊張で時間が遅く感じる。胃がひっくり返って吐きそうで、気が付いたら視界は地面と茶色いブーツだけになっていた。
早く、早く早く早く、返事が欲しい。
待って、待って待って、言わないで。
テオって僕のことだよね。
YESかNO。
たった一言を聴くのがこんなにも怖い。
彼女の息遣いが聴こえて、勢いよく顔を上げた。怖いのに、見たくないのに、口元から目が離せない。貴方の声が聴きたいのに、聴いたら死んでしまいそうだ。
口が動いた。
耳がピンッとそば立つ。
一瞬一瞬がまるでスローモーションに思える世界で、白狐はその答えを聴いた。
「そうだよ。テオ」
「ーーーっ、〜〜っっっ!!」
そうだよ。
肯定の言葉が脳に染みる。じわじわと内側から広がって、それは体温となって頭の先から爪先まで身体中に巡っていく
その瞬間から白狐はテオになった。
「テオ!今日から、テオ!」
重たい尻尾がゆらゆらと揺れて、顔はきっと真っ赤だろう。言葉にならない感情が爆発して、居ても立っても居られない。勢いよくエマに抱き付いた。
嬉しい。こんなにも嬉しいことが、世の中にあったなんて。
喧しかった心臓が、今は心地よい。
「喜んでもらえて良かったよ」
「うん!!」
ギュギュと力いっぱいエマの身体を抱き締める。暖かくて柔らかくて安心する彼女を全身で包み込み、首筋に額をぐりぐりと擦り付ける。
魔王様が睨んでるけど関係ない。今だけは許してくれ、と強烈な眼光を無視した。
「テオも受け入れてくれたし、このまま私たちは行くよ」
「はい、その方がいいでしょう」
「また来てくれ。今度は、嫌な思いはさせない」
「期待しないで待っているよ」
エマの肩越しに獣人を見た。
トマトみたいに真っ赤になって、こちらを睨み付けていた。名を受け入れた僕が気に入らないのだろう。
鼻で笑ってやった。
胸の内を占めていた悪態はいまや欠片も無い。その場所はすでに幸福でパンパンで、一部も悪感情が入る隙間など無いのだ。
幸せで幸せで八切れそう。獣人に向けるのは優越感のみ。
それに、とテオは思う。
どうせこれが最後だ。次に会うことなんてない。だってその前にーー
「その前に滅びていなければ良いがな」
「ーー!」
「ははっ、そうですね。そちらも考えなければなりません」
「こら、」
ーーーどうせ滅びている。
先ほどとは違う嫌な心臓の音。思わず押さえた口元を、彼が愉快そうに眺めていた。なんだ、魔王様か。
本心が漏れたのかと思った。
「配慮がないぞ」
「ははっ、いまさらではないか」
結界はすでに1割ほど損傷している。
手入れをしなければ、5年と立たずに、跡形もなく消えるだろう。
巫女も助けてはくれない。
聖女の結界に頼って、ぬくぬくと過ごしてきた獣人が生き残るとはとても思えない。
「良いのです。そろそろ自分たちの足で立たねばなりません」
「そっか、頑張って」
「はい!」
エマに手を引かれて歩き出す。
にぎにぎと執拗に手を握って顔を顰められている魔王を見てーー
「テオ」
ーーーデイビットの声に振り返る。
「どうか、幸せに」
「ん」
悪意のない純粋な好意だったから、テオは仕方がないと手を振った。
ポータルが淡い光を灯す。
触れた指先を包み込むように青白は強くなり、やがてその全身を覆い尽くした。
幸せになるに決まっているじゃん。
だって、母様に会えたんだもの。
白狐、改めてテオちゃんでした。
お口悪いのは環境のせいですよ。エマたちはお育ち良いので、お口は良い方です!