50、ルイの回想
「疑え、その方が信用できる」
明確な牽制と忠告にルイは唇を噛む。
月だけを写す瞳は真っ直ぐで、どこまでも己の愚かさを自覚させた。
人間には種類がある。
奴隷商を悪だとするのならば、エマは善だ。善だったのだ。
エマという少女の感性に、不器用で歪な優しさに触れる度に思い出す。己が嫌った人間がどれだけ醜悪であったのかを。
彼女との落差が。温度の違いが。デイビッドをも魅了した少女の清らかさが身に沁みる。
「ーーーった、たす・・・・て」
目を瞑れば思い出す。
伏した獣人の少女が手を伸ばす姿。血と明確な死の匂いに、あの男を。額から血を流す獣人の少女を足蹴にした騎士の存在をーー。
ーーー数刻前。
デイビッドの命を受け怪我人の介抱に向かったルイは、眼前の光景をただ見ていた。
死の臭いを纏う兎の少女が、人間に手を伸ばすのを見ていることしか出来なかった。
あの兎は死ぬ。あと数刻もすれば呼吸は自然と止まり、永遠の眠りに着くだろう。
獣人は死に敏感な生き物だ。
みんな彼女が死ぬと理解している。
傷付いた仲間が多いいま、死を待つばかりの彼女に割く時間を同胞たちは与えてはくれなかった。
「いたい、いたの、助けて」
兎は必死に手を伸ばしていた。
例えその相手が人間だと知っていても、彼女は懸命に救いを求めた。
生きるために。
「はい、はい、サラ様はご無事で」
「おねが、たす・・・」
男は動かなかった。
手中の水晶に語りかけたまま見向きもしない。ズリズリと這いずって移動するしかない兎の声は、男に届かない。
後少し、後少し。伸ばした指先が男のズボンの裾に触れる。
ようやく男が女の存在に気がついた。
驚いたのか水色の瞳を見開く。
男は水晶をポケットにしまうと、女に向かって手を伸ばす。
「たす、たす、け、」
指先が女の手に触れる。
安堵する女が口を開く。男は女の手を、そのまま振り払った。
「っ!?」
「汚い手で触れるな。獣風情が」
男は伸ばした手でズボンを払うと、女に一瞥もくれることなく水晶を手にとる。
「ーーー」
「いえ、虫がいただけです」
「ーーーーー」
「問題ありません。以上で定期連絡を終わります」
光を失った水晶が女を写す。
男は特徴的な橙色の髪をかき上げると、水晶を袋につめて懐へとしまった。
「・・・はぁ、最悪だよ」
「あ、あっ?」
「連絡してる最中は静かにしろ、って親に教わらなかったのか?」
マナーがなってないよ。マナーがさ。
苛立った口調で男、パドレイクが女を睨め付ける。ズボンの裾が気になるのか、彼は同じ場所を払うとわざとらしくため息を吐いた。
「はぁ・・・はぁ、ううっ」
「返事もない。まったくここの教育はどうなってるんだか。王都なら今頃は首が飛んでいる」
「・・・・・っ」
「ここまで言ってだんまりか」
これだから獣は。
パドレイクがゆっくりと膝を折る。女の前髪を鷲掴み、持ち上げる。強制的に水色と視線が合う。
「なに、その目。邪魔して、ズボンまで汚してきたくせになんで被害者面してんだよ。なあ、おい」
「ーーっ、いた」
「謝罪は出来ないくせに、一丁前に自己主張はするのか?本当に獣だな」
反吐が出る。
パドレイクが女から手を離す。重力に従い顔面を地面に打ち付け呻く女を、彼は冷たい目で見下ろしていた。
それがトドメだったのだろう。
女はそれっきり動かなくなった。
「だいだいさ、自分から声をかけてきたくせに話さないってなに。失礼だろ。それともお前たちの理論では、人間の方が下だから無礼を・・・・って、なんだ死んだのか」
小言が止まる。
サラたちには決して見せない一面に、ルイは目の前が真っ赤になった。
彼は見ていた。
いや、見ざるおえなかった。
盗賊に蹂躙され傷付いた他の仲間たちを介抱するために、動けなかった彼は一部始終を見ていながらなにも、何もしてやることが出来なかった。
これは選択だ。
手の施しようがない彼女を見捨て、助かる命を優先した結果だった。
己の選択で、彼女は最悪な最後を迎えた。
「手間が省けたな」
後はゆっくりと瞳を閉じるだけであったのに、世界を恨んで彼女は死んだ。
人間のせいで。
気付いた時には武器を手に取っていた。音もなくパドレイクの懐に潜り込むと、殺すつもりで首を狙った。
「ーーーおっと」
軽い口調で初撃が防がれる。
魔法で作り出した短剣だろうか。炎がルイのナイフを阻んでいた。
ーー魔法使いか。それなら、
身体を捻って胴を狙う。長い健脚から鋭い一撃が繰り出される。
だが、足は獲物を捉えることなく空を切る。避けられた。
「今度は襲撃・・・・・勘弁してくれよ。服を汚すとドヤされる」
「貴様!!」
「なんでキレてんだ?短気か」
「仲間を、なぜ、なぜ」
「あ?あ、この女ことでキレてんのね。なら、なぜ助けてやらなかった、か?」
愚問だろう、とパドレイクは言う。
「俺は獣が嫌いなんだ」
「ーーーっ!!貴様!」
「おいおい、ヒートアップするなよ。お前たちだって同じだろう」
「一緒にするな!」
「人間は嫌い。人間は敵。だから助けないし、罵倒してもいいし攻撃しても問題ない。だろう?同じだ」
「黙れ!人間と獣人では歴史が違う!」
「同じさ」
「ーーっ!」
眼前に水色が迫る。
瞬きの間に懐に潜り込まれ、パドレイクの手がルイの頭を鷲掴む。
「同じクズだよ」
「ぐっ、あ“っ!?」
脳が悲鳴をあげる。前頭部からこめかみにかけてを万力で締め付けられ、視界がぐらりと揺れ動く。
嫌悪の滲んだ声が耳元で囁かれる。
「助けられたのに礼も言わない。施されるのが当然とふんぞりかえる姿なんて、お貴族様そっくりで笑っちまう」
「ーーっ、っつ!あがっ、はな、せ」
「離せ?違うだろ」
ミシミシと頭部から嫌な音がする。
嘲笑するような声色だが、瞳は爛々とこちらから目を離さない。
この細腕のどこからそんな力が出るのか。ルイの足はすでに地面から浮き、頭部だけで身体を支えてる。
「ごめんなさい、だろ?」
「イ“ァア“ぁ“あ“!?」
逃れようとパドレイクの手を掻いていた腕が、ダラリと垂れ下がる。瞳は焦点を失い、口の端から涎が溢れる。
死ぬ。俺は死ぬ。
死の臭いが己に迫っている。
いやだ、死にたくない。死にたくない死にたくない死にたく
「おっと、」
ピクピクと身体がおかしな痙攣を始めたところで、パドレイクはようやく手を離した。身体が地面に叩きつけられる。
「獣人は丈夫と聞いていたんだがな.....やりすぎたみたいだ」
「.......っ、ぁ......ぅゔぉ.....」
「おいおい吐くなよ。汚いな。臭いがついたらどうしてくれるんだ」
「はぁ、はぁはぁ.....っ、はぁ」
「ダンマリか。これだから獣は」
なにが、起きた。
目の前に吐瀉物が広がる。息をする度に込み上げる吐き気を止める術はなく、胃の中身が空っぽになってもルイは嘔吐し続けた。視界が回る。男の声だけがいやに鮮明に聴こえる。
「弱いくせにイキがるところなんて、本当に瓜二つだ。お前らを奴隷と呼ぶ、臭くて汚い溝みたいな人間とな。反吐が出る」
「そんな......ことは、」
「あるさ。会ったことないから夢を抱ける。自分たちが綺麗だなんて幻想だよ。どちらも等しく醜い獣だ」
反論が震える。
感じたことのない明確な死への恐怖に、カチカチと歯が音をたてる。
殺される。いや殺されはしない。なにか理由があってルイは殺されないだろう。だが、それだけだ
冷たい双眼に肩が震える。
恐怖がルイを支配していた。
「..........ちが、う」
エマの顔が頭に浮かぶ。
魔王様を、デイビッドを誑かした醜い女の顔が。傷付いた同胞に杖を向ける醜悪な姿。
本当に?
本当だ。
同胞に向ける罵詈雑言。治療した対価を要求する悪辣な声。
本当に?
本当だとも。あの女は獣人を獣としか思っていない。
なら、白狐はなぜ元気にしている。
「お前たちが獣でないなら、人間はなんだ。善人は、獣人を治療したサラ様やエマちゃんは天使か?それとも神か」
「........ち、ぅ」
助けてなどいない。
あれは当然の結果で当たり前の行動で義務で、感謝などする方がおかしい。
息をするように当然の対応だ。
本当に?
ぽつ、ぽつぽつ、と疑念が落ちる。
パドレイクの言葉がルイの中で反復しては、黒いシミを落としていく。
杖を向けたのは治療のためでは。
罵倒していたのは獣人ではなかったか。
人間を悪魔と罵ったのは仲間だで、俺たちは仲間のためになにをした。俺たちはその当たり前を、やったことがあっただろうか。
「おれ、たちは......」
「なあ、死期を待つ獣に手を差し伸べたサラ様を、エマちゃんを、無碍に扱って得た結果は美味いか。獣」
蔑むような視線。
嘲笑を帯びた声が心臓に突き刺さる。彼女たちの姿がフラッシュバックする。誤魔化してきた現実が、信じたくないと目を背けた真実が、ひとりの男によって突き付けられる。
あの目が声が言葉が頭から離れない。
ーーゆっくりと瞳を開く。
隣に佇む麗しい少女を、獣として見ることはもうできない。
瞼の裏にはいつも橙がいる。
生涯忘れることはないだろう。
「俺は見誤った」
何も変わらない。
何も違いはない。
認められなかった事実は今や、驚くほど骨身に染みてしまった。
俺は忘れない。
長年積み上げてきた罪を。
責務が責任が罪に変わったあの白昼夢を、二度と忘れることはできない。
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