8、薬屋3
「なにをすればいい」
「まずは治療ね。ちゃちゃっとお願い」
指示通りちゃちゃっとやった。
詠唱も無い雑な回復魔法で薬屋の火傷を治療する。内部組織が中途半端にしか治らなかったが、壊死するわけでも無いので放っておく。せいぜい、シミが増えるだけだ。
「次は金魚鉢を落として」
「分かった」
「あ、掴んだら駄目よ。肘でね」
指紋を残すのは三流よ、とエマは箒を手に取る。
逆さに持ち肢をカウンターの下に滑り込ませると、手のひらサイズの植木鉢を突いて動かしていた。
指示に従い金魚鉢を探すと、戸棚の上にそれはあった。カウンターの後ろ、それも己が立つ場所の真上にコレを置くとは……。
薬屋は随分と頭が残念なようだ。
「いいよー」
エマの準備が整ったようだ。
彼女が移動したことを確認すると、シオンは指示通り金魚鉢を肘で小突いた。
その動きに躊躇いは無い。
器が空中に投げ出される。ふわりも金魚が浮いて、水と共に重力に従い落下していく。
ガッ、ガシャン。
抵抗することなく、金魚鉢は植木鉢を巻き込んで割れた。
「おー、完璧すぎる配置ね!わたしすごい」
水が床に広がる。散乱する土が水を吸い込んで、じわじわと色を変えていった。床を金魚が跳ね回っている。
これで準備は整った。エマが笑った。
「わたしの後ろにいてね」
「ああ」
さて、これからどう動くのか。
不安は無い。不満も無い。好奇心に濡れた瞳があるだけ。
シオンはエマの後ろに回り込むと、壁に寄り掛かり腕を組む。ちょっぴり悪どい彼女が、今度はどんな手を使うのか。実に楽しみだ、と不敵に笑った。
「起きて、ねぇ起きてったら」
シオンが後ろに回り込んだことを確認すると、エマは薬屋の側にしゃがみ込んだ。横たわる男を揺する。
「うっ」
「薬屋、起きて」
「ぁ......エマ?」
「良かった。痛い所は無い?」
「俺はなにを」
「あなた疲れてるんじゃない?急に倒れるなんて.....少し休んだ方がいいわ」
あくまで優しく、そして気遣わしげに。状況を把握しようと忙しない視線を己に誘導し、情報を遮断させることは忘れない。
カウンターに手をつき緩慢な動きで立ち上がった薬屋は、頭を押さえぼんやりとしている。だがシオンを見た瞬間に跳ね上がる。腰を抜かし震える指で彼を指差すと、バケモノと口にした。
ああ、やはり忘れていないか。
ふたりは顔を見合わせると頷いた。
小芝居の開始である。
「それは酷いんじゃない?彼は倒れてたあなたを介抱してくれたのよ」
「介抱?なにを言っているんだ。エマだって見ただろう!こいつは俺の顔をや、焼いて!あんなに熱くてい、いた痛く......ひゅっ」
「焼かれて.....?ちょっと正気?」
「火が、火がいっぱいで」
「可哀想に夢と現実の区別が付かなくなるなんて.....」
「夢!?エマこそなにを言って、顔だってこんな火傷で」
「火傷?」
エマは用意していた手鏡に薬屋を写した。
そして一言。
「火傷なんてないじゃない」
「ふざけるな!こんなにひどぃ........は?」
ペタッ、ペタペタ。鏡を、続いて顔を触る。だがそこには火傷などない。ただ綺麗な肌が広がるだけだ。エマは内心でほくそ笑んだ。
「....違う。だって俺は焼かれて」
「火傷なんて一つもないわ」
「そんな、どういうことなんだ....?」
何度見ても触れても火傷も痛みも無い。いつもどおり綺麗な肌がそこにはあった。焼け爛れたはずの顔などどこにも、無かった。
なぜ。思考がで停止する。では、あの痛みは。肌が、細胞が、己が壊れいく恐怖の時間は。間近に迫った死の感覚は。いったい何だったというのか。
「きっとこれのせいで幻覚でも見たのね」
鈴を転がすような声が意識を掬い上げる。
揺れる視線を向ける。そこには、痛ましいと眉を顰めたエマが床を指差していた。
転がる金魚鉢だったものと、割れた植木鉢があった。
あっ、と声が漏れる。
植えてあったのはゲンカーク草だ。ゲンカーク草はその名の通り幻覚を見せる草だ。水に濡れると葉に含まれる成分が気化し、周辺に幻覚を見せる危険な薬草。それが水に濡れていた。
なにが起こったのかは一目瞭然だった。
「きんぎょ、ばち」
「落とすなんて、ツイてないわね」
「そうかそれで水が.......」
火傷は幻覚。顔面に水をかけられたように感じたのは、倒れたことで床に溢れた水に触れたから。それなら全て説明がつく。
薬屋は椅子に座り込んだ。
なんだ己の不始末のせいではないか。
「今日はもう休んだ方がいいわ。片付けておくから、ね?」
「.....うん、そうするよ。あなたもすまない。初対面なのに疑ってしまって」
その声に覇気はなかった。
エマに促されると、ふらふらと薬屋は奥に戻って行った。その背中をじっと眺めていた彼女は、扉が閉まるのを確認すると振り返った。その顔には満面の笑みが張り付いていた。なんならガッツポーズもしていた。
うっきうきで杖を振った。軽やかに、まるで音楽でも奏でるように。
「星よ導け、あるべき物をあるべき場所に『整列』」
破れたガラスがふるりと震える。床に落ちた水が揺れた。床を跳ねていた金魚が重力に逆らい滑空する。土が割れた鉢が、命を持ったかのように歩き出す。まるでパズルのピースを埋めるように、残骸たちは己が場所へと帰って行った。
気がつけば、金魚鉢も植木鉢も元に戻っていた。
ヒビのひとつ、土の一粒すら落ちていない。
「よし、こんなもんでしょ」
ふん、とエマが鼻を鳴らした。
自画自賛は忘れない。
片付け魔法は一般家庭でも使われる魔法だ。この程度なら探知に引っかかることもない。手早く済ませるとエマは紙袋を引っ掴んだ。
「行くわよ」
顎で出口を指すと、エマは颯爽と薬屋を後にした。その様子を興奮した様子でシオンだけが眺めていた。
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