僕
それはちょっと、非常に困った事であった。僕の困ったそれとは、概ね僕の精神状態のことを示していた。この頃、僕の心はざわざわと音を立てたまま、しばらくの間静まらなかった。理由は明白であったが、僕はそれを誰にうちあけることも出来ず、対処の仕方も分からないでいた。そんな訳で僕は、今ちょっと、非常に困っているのである。とは言っても、いつまでのこのままでは居られないので、僕は自分の心を鎮めるため、いくつかの策を試してみることにした。
まず、1人になること。思うに、これが1番効果的であった。僕の心を荒らすものは全て、外的なものであった。そしてそれらを遮断することは、僕の心のモヤを取っ払うという点では、非常に的を得た行為であった。が、1番的を得ていたからこそ、また余計に困ったことになってしまった。だって僕はそれ以上、どう自分を落ち着ければ良いのか分からなくなってしまったのである。1人になった僕の心の喧騒は、休日の渋谷辺りから平日の代官山くらいまでには静まったけれど、水曜日の藤沢にまでは届かなかった。まだ休日の女子大学生や、自営業の個性的な髪型をした男たちが僕の心をウロウロしていた。
「これではいけない....」
また強く決心した僕は、次に町外れにある洋菓子店へと向かった。少し贅沢なものを食べれば、休日の女子大学生くらいは喜んで家へ帰るだろう。
僕の住む町は商業施設もあり、都会と言えば都会だが、そこまで栄えているわけでもない。しかし治安は良い方なので、小学生くらいの子供達が多い、大変賑やかな町であった。そしてそこから10kmくらい歩けば、隣町へ出る。隣町は、言い方が悪いが僕の町よりもっと廃れている。住人のほとんどは老人がしめ、大きな商業施設も特になく、買い物をするならば街に一つだけの小さな商店街へ行くしかない。商店街と言っても、魚屋や八百屋、精肉店などの最低限の店しか無い本当に小さな商店街だった。そのくせ、何故か洋菓子店も彼らに並んで長年、そこに店を構えていた。落ち葉の色を観察しながらふらふら30分くらい歩くと、桃色商店街と書かれた赤い看板が見えてきた。今日も今日とて、桃色の筈の商店街は廃れていた。だがそれが良かった。人気のない感じとか、全部の店がなんだか面倒くさそうに営業している感じとかが、僕の心を少し安らげた。
洋菓子店へ入ると、20代くらいの茶髪の女が、面倒くさそうに僕を迎えた。ここへ来たことで、僕は落ち着きを超えて寧ろ少しハイになっていたので、僕は彼女に嫌がらせをしてやろうと思った。
「こんにちは、友人へのプレゼントにしたいのですが、何かオススメはありますか」
さっきまで面倒そうに伝票か何かを書いていた女はハッとしたようにこちらを向いて、キラキラと形容するのが正しい笑顔で
「プレゼントですか!そうですね、今丁度、新商品が入荷しまして...この、桜をイメージしたクッキーとフィナンシェの詰め合わせがオススメですね。あ、でももっと甘いものがお好きでしたら、このチョコレートとか...こちらの方がつまみやすいですね!それから...」
と口早にペラペラと説明しだした。もっと露骨に嫌な顔をして面倒がるだろうと予想していた僕は少々驚いたのと同時に、非常に恥ずかしい気持ちになった。仕事を愛している彼女と、それを知らずにからかおうとした僕。自分はやっぱり情けない人間だと、僕はチョコレートを手に洋菓子店を出た。店員の彼女は、僕が店を出るまでずっと楽しそうであった。
洋菓子店を後にした僕は適当にその辺の公園のベンチに座った。今はもう、歩くことさえも僕には苦であった。現在の僕の心の中には、小3くらいの少年がやって来ていて、その辺で拾ったちょっと太くて長めの枝をブンブン振り回していた。かの女子大生も、太るから要らないと買ったチョコレートを受け取ってはくれなかった。
「ますますダメになったな....」
なんだか変な方向に困ってしまったカスみたいな性格の僕は、これ以上カスみたいな行動を取らないために、しばらくここでぼうっとすることにした。僕は先程のように、結果的に他人を傷つけなかったとしても、自分の行動で自分自身を傷つけることが多かった。それは多分、他人をからかうことが上手く無かったせいだろう。小学生の頃、クラスの女子にエッチ!と叫ばれながらも何だかんだで人気のあったこうき君に比べて、彼よりずっと誠実であった筈の僕は、クラスの女の子にも他クラスの子からも大変人気が無かった。自分も彼のようなフランクでなんだか憎めない人間になりたいと彼の行動を真似して見たこともあったが、何故なのか僕がやると本当に気持ち悪がられて、女の子から距離を置かれてしまうだけであった。そうして僕は、僕という人間が周りからどう見られているのかということ、そして自分自身の価値を学んだ。少しだけ、落ち込んだ。僕は僕に生まれた時点で、皆から愛されるような人間にはなれないのだと、小5辺りで理解した僕は、それから無理やり注目を集めようとするのを辞めた。そしていつも本ばかり読んだ。文学は良かった。僕が出来ない事を代わりにしてくれる。僕が見ることのできない世界をこの物語はフィクションですと書くだけで簡単に見せてくれる。そして、そんな世界で輝く主人公に嫉妬してしまう時は、僕みたいな根暗な主人公が活躍する物語へ寝返る。そうやって僕は、書き手の解釈と読者である自分自身を重ね合わせたり、彼らに渇望することで、何人ものもう1人の自分を作り上げてきた。辛い時、何割かの苦痛を彼らが一緒に受け持ってくれる。失恋した時には、愛に生きる主人公に。仕事でミスをした時には、慌ただしく生きる社会人の彼女に。死にたくなった時には、戦場で生き抜くあの少佐と。僕は彼、彼女らと共に生きてきた。今僕が生きているのは、確実に文学という学問が存在していたからだ。自分の感情を外へ上手く出せなかった僕に、書くという表現方法を与えてくれた。ああ、そうだ。文学は素晴らしい。そうやって思考を連ねて行くうち、僕はまたどうしようも無いような、幸せな気分になった。全てが美しく見えてくる。あの枯葉は、精一杯生きた証。あそこに落ちている小さな手袋は、小さな命を守っていた。隅に見える作りかけの砂山は、誰かの好奇心と想像力が生み出した、そうあれは最早芸術。そして、僕は文学を愛する、世界にたった1人しか存在しない僕だ!
「あ!先生!」
躁状態の僕が空を仰いでいると、聞きなれた若い声が背後から聞こえた。その声に振り返ると、額に汗をかいた青年がこちらへ駆け寄って来るようであった。
「もう!こんな所まで来てたんですか!?探しましたよ!ああ!時間がないのに!」
青年は汗を拭きながら僕を叱った。彼の拭った汗が、冷や汗になって代わりに僕の額へと流れてくるようであった。
「また勝手にふらふらと!遅れそうならせめて連絡を下さいと何度も言っているじゃないですか!」
青年はその爽やかな風貌からは考えられない程の大股で、こちらへズンズンと向かってくる。拭いても拭いても、彼の短い前髪から汗が滴る。
「締切は明日なんですよ!分かっているんですか!」
僕は大空へ広げていた両手を膝の上へ戻した。そして思考も現実へと戻ってくる様だった。青年はそんな僕の縮こまった態度に更に声を上げた
「今回の長編は絶対に落とせないんですよ!!」
それからのことは概ね予想通りというか、いつも通りであった。公園では書けないと駄々を捏ねて見ると、それならカフェへ行けと。カフェなんかこんなところに無いというと、大至急家へ帰れと、顔を焦りと怒りで赤くした青い僕の制御人は、僕を引っ張って電車に乗りこんだ。電車の中で彼向かって、若いんだからもっと適当にのんびり仕事をしなよと言うと、彼は今までで1番血走った目で僕を睨見つけた。この失態はちょっといつも通りでは無かった。電車から降りると、先程の失言のせいなのか心無しか彼は更に歩幅を大きくした。ついでに僕の袖を掴む手の力も強くなっていた。家の前で鍵をなくしたともう一声粘って見ようかと考えていたけれど、彼の横顔が恐らく、僕の悪口をブツブツ呟いていたのが怖かったので辞めようと思った。
家に着いた僕は彼に見張られながらやれやれとペンを取った。文学とは本当に容易にはいかないものである。締切まで後3時間。真っ白な原稿が後30枚。僕は家を出る前よりもちょっと、いやもっと、本当に非常に困ってしまった。
書き忘れたのですが、pixivにも搭載予定です。
ユーザーネームはこちらと同じく「紫青」です。