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ヤマダヒフミ自選評論集

ドラマはいつ始まるか (ハムレットとラスコーリニコフ)

 小林秀雄に「ハムレットとラスコオリニコフ」という文章がある。私はこの短い文章に固執している。私は、藁をもすがる気持ちで本を読んでいるので、この短い文章には随分すがりついている。


 そこに次のような文章がある。


 「シェイクスピアは、劇はリアリズムではない事を、特に内的なリアリズムなどといふものではない事をよく承知していた。劇は眼に見える氷山の頭だけで演じられる。隠れた部分が、非常に多い。ハムレットの様な男を主人公にするのは冒険だったに違いない。」


 この短い文章から、長い哲学的思索を引き出す事ができる。私は眠れない夜に、そういう事を一人で長々と考えていた。考えて、どうなるものでもないが。


 小林は「劇は氷山の一角で行われる」と言っている。隠れた部分が多い、と。隠れた部分とは何か。ここで言われているのは、個人の内的意識の事である。


 ラスコーリニコフしろ、ハムレットにしろ、極限的に内省的な人物である。彼らの自意識は巨大なものである。彼ら自身が自分を見た時、彼らの存在はその意識にすっぽりと包まれてしまうだろう。


 しかし、それらは劇の表面には浮かび上がって来ない。「ハムレット」の劇の中で、ハムレットの内省はどういう意味を持っているか。例えそれが、ハムレット自身にとっては『全て』が賭けられている内省だとしても、彼は劇の一登場人物に過ぎない。そしてここに、我々の悲劇がある。我々全ての悲劇の根底がある。


 ラスコーリニコフを見てみよう。ラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺す。その際に、偶然のアクシデントで、その妹を殺してしまう。しかしラスコーリニコフが思い出すのは老婆の殺害であり、妹の殺害についてではない。何故か。ラスコーリニコフが計画を練り、理性的に全てを計算して、実行して殺したのは老婆だけだからだ。妹はその場に入ってきてしまったという偶然で殺されただけだ。


 ラスコーリニコフは、自らを振り返る。強烈な自己意識で、自分の行為について考える。だが、その時、彼は事前に計画していた行為、成就した行為、そうして今の自分に思いを巡らせるだけで、妹にまで思いが至らない。それは、彼の意識にとって盲点となっている。


 このドストエフスキーのプロットは、ラスコーリニコフにとっては悪魔的なのもである。ラスコーリニコフの罪は老婆を殺した事よりも、老婆の妹を殺した事にある。だが、彼は自らの「罪」を思い出せない。何故、こんな風になっているのだろう? 何故、人間の生はこうなのだろう?


 何故ならば、人間の理性には限界があるからだ。人間は神ではないからだ。だから、ラスコーリニコフは自分の行為そのものに躓いてしまうのだ。


 「作者は『罪と罰』を『犯罪心理の計算報告書』と呼んでいるが、これは言わば、カントが批判と言ふ意味での『心理批判』でもあるのであつて(略)」


 と小林は書いているが、それはそういう意味だ。ラスコーリニコフは自分の理性の限界に躓いたのであり、それは彼の理性が足りなかったからではない。彼が、人間だからだ。


 ※

 「ラスコーリニコフはただの殺人犯で、彼の考え方が間違っていたから失敗したのだ。もっとうまくやれる方法があった」という意見がある。私はこうした意見を拒絶したい。こうした意見が間違っているとか、正しいとか言うのではなく、私一個人としてはこのような意見は峻拒したい。


 こうした意見は、抜け道を考えている。人を殺さずに、救われる道があったのではないか。もっと合理的に、良い方向に行く事が可能だったのではないか。それは結構な話だろうし、立派な意見だろう。だが、私はそれら全てを拒絶する。


 なぜなら、私は人間であり、同時に、人間の限界について考えたいと思っている人間だからだ。ドストエフスキーが描いたのはラスコーリニコフという一個の人間の運命ではなく、人類全体の運命であると思っている。私はそう信じている。


 ラスコーリニコフは理性的に全てを計算して、それを実行しようとした。しかし、理性の外側にドラマが生まれる。そのドラマは彼の手に負えない。これは全ての人間が辿らなければならない道である。私はそう思う。


 ドラマは、個人の心理の余白で生まれる。ドラマは、個人の心理については、行為の動機としか取らない。ドラマは無慈悲に進行していく。一方、豊富な内的意識は、ドラマに逆らおうとする。


 意識はどのようにドラマに逆らうか? 意識は現実を見つめ、それらを総括し、結論を出す。「全ての事柄は虚しい」 行為が何を生むわけではない、努力したりあくせくしたりする事が何か素晴らしいものを生むわけではない。自己の意識以上のものはこの世に現れない。それを、意識は知っている。意識は現実から遠ざかり、自分の内部に閉じこもろうとする。


 ラスコーリニコフは屋根裏部屋に閉じこもって、ずっと思索していた。現実の全てを見下していた。ところが、そこから出てくる所から物語は始まる。ハムレットは、亡霊を見て、行為の動機を与えられる。それが物語の始まりである。彼らの内的意識が、現実に巻き込まれる所から物語は始まる。


 それはどういう事か?ーーだが、ここで問いは止まってしまう。その意味を私はこれ以上、問う事はできない。なぜなら、意味を問う事はまたしても、ハムレットやラスコーリニコフの内的意識に逆戻りする事になってしまうからだ。「何故なのか?」「どうしてなのか?」 こんな問いをラスコーリニコフもハムレットもさんざやった事だろう。そうした問いが終わる所から、物語は始まる。ここには意味はない。…というよりここは、意味とか価値とかいうものが途切れる地平線なのだ。


 意味もわからずにドラマは始まる。ハムレットは言う。「こちらの気持ちでは幕開きの用意も出来ていないのに、もう眼の前で芝居は始まった」 これは内的意識と、ドラマとの差異を言い表した言葉だ。ただ、いつ芝居が始まろうと、ハムレットは同じように言った事だろう。内的意識と、行為ードラマの間には絶対の差異がある。それが遂に埋まる事はない。意味について考える全ての思索は、意味などどうでもいいといったドラマの中に叩き込まれる。そうして人間はあれこれ考え、感じたり、行動したり、殴ったり、犯したり、犯されたりしながら、死んでいくのである。


 「ハムレット」も「ラスコーリニコフ」もそうした過程を描いた物語だ。小林秀雄が言わんとしているのはそういう事だ。だから、この物語は二重である。現実を全て見て取って、抽象的な結論を出した、学者や聖者のような男が再び、ドラマという名の現実に叩き込まれる。そうした物語だ。人々が終わりだと思った所から、物語は始まる。しかし人々はそんな風にこれらの物語を見ないだろう。彼らは自分が参加しているドラマの全体像が見えない(見ようとしない)から、それが自分自身の運命を指しているとは気づかない。


 ドラマは氷山の一角で行われる。小林秀雄の言う通りだ。そこには意味もなければ脈絡もない。あるいは、脈絡があるように思われるかもしれない。「罪と罰」や「ハムレット」には立派なストーリーがあるではないか、というように。だが、私にはそれより大切な事は、ラスコーリニコフやハムレットの内的意識の問題に、それぞれの作者が全く解決を用意できなかったという事にある。


 ラスコーリニコフはエピローグで改心するが、その内面はもはや語り得ないものとなっている。ハムレットはただ死んでしまう。ハムレットの内省は一体何であったのか、それにはどのような解決がつけられたのか? 全くわからないまま、ハムレットは死んでしまう。


 ラスコーリニコフも本質的には同じだ。ラスコーリニコフは良心の痛みを感じて罪を償うというプロットに沿っているが、彼の内的意識、その迷いについては何の解決も与えられてはいない。…いや、読者は、きっとプロローグで解決されていると言うだろう。だが、あの場面おいては、ラスコーリニコフは内面を破棄している。それは問題の内的解決ではなく、内面を破棄する事によって、より高い場所が暗示されるというにすぎない。


 ドストエフスキーは「罪と罰」の後の物語を示唆していたが、それが描かれる事はなかった。それは、人間の物語ではないから、無理だ。もし物語の続きがあるとしたら、ラスコーリニコフはもう一度罪人にならなければならない。ラスコーリニコフは犯罪に対して悔悟したのか? この問いは、そもそも真なる悔悟が何かという定義をくださなければ解けない問題だろう。そしてこの定義をくだす事はできない。


 もし、くだす事ができるとすれば、それは死ぬ事だけだ。ラスコーリニコフは内面を破棄して、新しい何ものかへの転身を示唆されているが、意味としては現実の死と同じだ。ラスコーリニコフが人間として、内的意識に閉じこもっている限り、彼は真に悔悟できない。彼はどうやっても自己正当化してまうし、反省していると言っても、反省している自分を後から肯定してしまう。その過程からは逃れられない。


 ※

 最後に結論を書いておく。ハムレットやラスコーリニコフのような、どれほど豊富な自意識の持ち主でも、彼らは一人の人間として人生を生きなければならない。だから「ハムレット」にも「罪と罰」にもドラマがある。


 このドラマそのものに関しては意味がない。意味がないというのは、自己意識との関係においてだ。自己意識は、自分一人に閉じこもり、絶えず自分自身であろうとするが、彼も世界の住人の一人であるから、自らの意識に安住する事はできない。彼は勝手にドラマの中に叩き込まれ、あれこれしている内に、死んでしまう。ハムレットの死は唐突である。ラスコーリニコフの内的な意識には解決がない。彼は突然、外部の風景によって強制的に改心される。それらは唐突だ。物語が始まる時と同じように唐突だ。


 人間の生というのはそのようなものだろうと私は思う。意味について考える事、合理的に計算して利益を上げる事、人を愛したり、嫌ったり、殺したり、その他色々する事。それら全ては、唐突な死によって区切られる。この死は、生と同じように意味がない。意味がないというのはナンセンスというよりは、人間の意味についての問いが届かない領域だから、意味がないという事だ。


 「ハムレット」にしろ「罪と罰」にしろはっきりしたストーリーがある。ドラマがある。だから、文学に詳しくない人でも、そういう作品を読んで面白く感じる事はできる。シェイクスピアやドストエフスキーよりも難解な作家は存在する。しかし、シェイクスピアやドストエフスキーの理解しやすさは、おそらくそれら難解な作家よりも先に進んだからだろう。


 というのは、ドラマにはそもそも意味がないからだ。我々はそれをよく知っている。それはストーリーという名でも呼ばれている。確かに、我々はその中で生きている。「ハムレット」も「罪と罰」も普通に読んで面白い読み物だが、そこには、我々の内的意識が届かないドラマというものがはっきり描かれている。それ故に読書初心者にも届きやすい。


 同時に、これらの作家は内的意識の複雑さの中に入り込んで、その中に正解を見つけ出している(と思っている)人間にはわかりにくいものとなっている。彼らは言うだろう。「もっと複雑で、素晴らしい作家がいる」 しかし難解さの先にさらなる難解さがあるとは限らない。難解さの先にあるのは、水中から空中に出て息がつけるような、そのような簡潔さである。それがドラマであり、人は誰しもがドラマの中に生きざるをえない。そんなわけで、読書初心者にとっては「ハムレット」や「罪と罰」が読みやすい作品になっているのだ。



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