ぬくもりの行方
額や背中から汗が滴り落ちてくる。
でももう、そんな事どうでも良かった。
ガタガタ震えた手で病室の扉を開けると…
泣いているお母さんの隣には、白いベッドの上で眠っている啓介くんの姿。
ピッピッと機械音が響く、殺風景な部屋の中で眠っている。
その場に立ちすくんで一歩も動くことが出来ない…。
「あなたが…日菜子さん?」
「は、はい…。」
バイクで私のアパートへと向かう途中、道路に飛び出した女の子を避けようとして対向車とぶつかった。
対向車がハンドルを切ったので傷は酷くはないが、頭を強く打ったのだ。
大脳の機能の一部を失って意識がない状態で、脳幹の機能を残していて自発呼吸は出来ている。いわゆる植物状態で、まれに回復する可能性があるらしい。
…えっ?植物状態?
…いつ目覚めるか分からないってこと?
昨日も電話で話したこの人が?
私の事を「愛してる」って言ってくれたこの人が?
私を〔人間〕に戻してくれた人なのに。
どうして…啓介くんが…こんな事に?
な…ん…で…?
「目覚めるか分からないっておかしいでしょう?こんなにキレイな顔しているのに…。」
「…本当ですね。寝ているなんて…信じられな…」
もう声が出ない…息が出来ない…苦しい。
「日菜子さん、手を握ってあげて。」
いつも触れていた大きな手を両手で包み込む。
こんなにあったかいのに…眠っているの?
いつもみたいに目を覚まして、
「ウソだよ。」って言って。
お願い…目を…覚まして。
この日から私の世界は色を失い、ガラリと変わってしまった。
彼が隣に居ない。
手のぬくもりも
キスのぬくもりも
体温も感じない…。
この現実が受け入れられない。
何日経っても、彼は眠ったままだった。
「あのね啓介くん。私、会社で友達が出来たんだよ。色々話し合える友達。啓介くんのおかげだよ。あなたに会えた事で私は変われたし、救われたんだ。」
温かな手をぎゅっと握る。
「私はあなたの傷を癒してあげたいって思ってた。でもそれは出来ていたのかな?あなたを私は救えていたの?」
教えて欲しいよ、啓介くん。教えて…。
彼とたくさん過ごした家に帰ってくると、悲しみが込み上げてくる。何も食べれない…何も考えれない…涙ももう枯れてしまっていた。
そんな私を見て、啓介くんのお母さんは言った。
「日菜子さん、啓介を信じましょう。絶対に戻って来るって。」
「はい…。」
そうだ、私が信じなきゃいけないのに。
「あと、これ…啓介本人が渡したかったと思うんだけど…。」
そう言ってお母さんは、私に小さな箱を渡した。
小さなリングケースだ。
「えっ?これっ…」
中を開けると…キラリと光輝く指輪。
『指輪とかいらない?』
あの時の啓介くんの言葉を思い出す。
あの時…サイズを測ったのは…まさか。
「ポケットに大事そうに入っていたのよ。
こんなに高そうな指輪…あの子、あなたにプロポーズするつもりだったのね。」
…プロポーズ?
花火大会の日に?
私の誕生日のあの日に?
胸がぎゅっと締め付けられ、枯れたはずの涙がまた溢れ出す。リングケースを握り締め、眠っている啓介くんの顔を見つめる。
「私にプロポーズするつもりだったの?
ずっと待ってるから…戻って来て。」
家のソファに座り、リングケースをそっと開けた。
プロポーズをするつもりだったなんて、全然知らなかった。
指輪を薬指にはめてライトに向けて掲げると…キラリと眩しくて、また涙が溢れる。
今の私を見たら啓介くんはどう思うだろう?
何にもやる気がなくて、だらしがなくて、きっと嫌いになるに違いない。こんな私じゃダメだ。啓介くんも必死で頑張っている。
私も頑張らなきゃ!
数ヶ月経ったある日
いつものように仕事帰りに病院へと向かった。
「こんばんは。」
「いつもありがとね、日菜子さん。顔色悪いけど大丈夫?」
「…大丈夫です。」
頑張り過ぎているからかな?
体が熱いし…頭もクラクラする…なんか吐き気もする。
バターーン!!
「日菜子さん?!」
…気が付くと白いベッドに横たわっていた。
あぁ、私あのまま倒れて…
最近啓介くんの事考えないように、仕事頑張り過ぎてたから…疲れてたのかな?
そこに女の先生が現れる。
「頑張り過ぎよ、あなた。もう少し体を大切にしなくちゃ。」
「はい…すみません。」
「あなた…気付いてないの?」
「え?」
「あなた、妊娠しているのよ。もう三ヶ月よ。」
「…えっ?!」
う、うそ?!啓介くんとの子供が…私のお腹の中に?信じられない…本当に?
お腹にそっと手を当てると、温かなぬくもりを感じた気がした。
検診にも行き、母子手帳も貰って来たが…実感がわかない。もちろん嬉しいけど、不安の方が大きかった。一人で産めるだろうか?
このまま啓介くんが目覚めなければ、一人で育てていかなければいけない。
私一人で…この子を…。
もう不安に押し潰れそうだった。
お腹が大きくなっても彼は眠ったまま。
啓介くんの手をお腹に当ててみる。
「元気でしょ?最近お腹をよく蹴るんだよ。女の子なんだって。」
お腹がもっと大きくなっても彼は眠ったまま。
「啓介くんが居ないと不安で怖い。助けて。」
私が母みたいな親になってしまったらどうしよう?赤ちゃんのぬくもりを感じなかったらどうしよう?あなたならきっと「大丈夫だよ。」って言ってくれるよね。
「頑張るからね、無事に産まれるように願っていてね!啓介くん。」
***
私は無事に赤ちゃんを産んだ。
2950gの元気な女の子。
赤ちゃんのぬくもりをちゃんと感じる。
凄くあったかくて…愛しい。この子を守りたいと強く思う。
啓介くんに早く抱っこしてもらいたい。
母親と言うのは本当にすごいなと思う。
今なら母の気持ちが少し分かった気がした。
産んだ瞬間だけでも、母は私を愛しいと思っていてくれていただろうか?そう思っていたと信じたい。
命はこうやって繋がっていくんだね。母が私を産まなければ、この子は産まれていないのだから。今なら天国の母に言える。
「産んでくれてありがとう。」
彼はまだ眠ったままだった。
私は初めての子育てに奮闘していたが、この子の為なら辛くても頑張れた。
成長していく姿が可愛くて…嬉しくて…啓介くんにも早く見せてあげたいと思った。
それから時が経ち、
子供が二歳になったある日
「もう二歳になったんだよ。啓介くんに似て、まつ毛長くて可愛いでしょ?」
「あなたのパパだよ。」
小さな手が啓介くんの手を握った時…
ドーン!ドーン!
聞き覚えのある音が病室に響いた。
カーテンを開けるとあの花火が夜空へと舞い上がっている。
この花火は二人で約束した花火。
二人で見るはずだった花火。
ここから見えるんだね。
「ほら、あの花火だよ。見える?来年は三人で一緒に見に行きたいね。」
私は彼の手を握り祈った。
目を覚まして…お願い。
ドーン!
…ピクッ
「け、啓介くん?!」
また手をぎゅっと握り、彼の顔を見ると…
目蓋がゆっくりと…開いていく。
目が覚めた??
戻ってきてくれたの?
ほ、本当に…?
涙がじわじわ溢れ出してくる…。
「ママ?」
「パパが…戻って来てくれたよ。」
「ん…日菜子…俺は…」
「バイク事故に遭って、ずっと眠っていたんだよ。」
「え…事故で…」
啓介くんはぼんやりとした目で、隣にいる女の子を不思議そうに見ていた。
「この子はあなたと私の子供だよ。」
「…えっ?!」
「事故の後で妊娠に気付いて、無事に産まれてもう二歳になったんだよ。」
「…本当なのか?」
啓介くんはその小さな手をぎゅっと握る。
「名前は美優。」
「いい…名前だ。」
「ぱぁ…ぱ…」
美優の言葉を聞いて、啓介くんの目から涙が溢れる。
「…ごめん、日菜子。一人で産ませてしまって…。」
「大丈夫だよ。もう…戻って来てくれただけで…充分だよ。」
啓介は二人の手を握りながら、話始めた。
「俺はずっと夢を見てたんだ。ふわふわしてて…誰かが俺の名前を呼んでくれてるのが聞こえた。でも…誰か思い出せなかった。ずっと温かな手のぬくもりを感じていて…そのぬくもりを大切にしたいと思った。」
「そしてその誰かの笑顔を見たい、会いたいって強く思ったら…戻って来れたんだ。
ずっと手を握ってくれてたのは日菜子だったんだね、ありがとう。俺はいつも日菜子に救われていたんだよ。」
…私があなたを救っていた?
本当に?嬉しい。
私はうん、うんと首を縦に振って、溢れてくる涙を左手の人差し指で拭った。
「あ…その指輪。」
「うん、もう受け取っちゃったよ。凄くキレイ…啓介くんありがとう。」
「何年も待たせてごめん。」
「俺と結婚して欲しい。」
ずっとずっと…待っていた言葉。
「はい。」
もう一生離れないと、私たちは強く強く抱き締め合った。
こんなにもあたたかくて…
こんなにも優しくて…
こんなにも幸せなぬくもりをくれて…
ありがとう。
窓からは最後の花火が舞い上がっているのが見え、私たちを優しく照らしていた。
end