ある夏の日の話。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう?
そう、心の中で何度呟いただろうか……この言葉を溜りに溜まった不安と共に吐き出してしまいたい。
しかし、今現在の自分はそれすらも許されない状況下に身を置かれていた。
ただ、何事もなく過ぎ去るのを祈るしかないのだ。
数時間前、気乗りしない夏休みの宿題を気分転換に別の部屋でやろうと思い立ち居間へ降りた。
風通しの良い広い居間で、畳の踏み心地がとても好きだといつも思う。
それに、家の建て方の関係で太陽を完全に避けることができて昼間でも少し暗い部屋の中は、ひやりとしていてとても過ごしやすく、降りてきて正解だ、よくやったと心の中で自画自賛をする。
そんな風に自分を自分で褒めている間も風鈴が風に揺れて、ちりんちりんと鳴り、日よけに下げられた簾も時々煽られてじゃらじゃらと音を立てた。
そんな環境もすきだったが、外から聞こえる大勢の蝉の合唱のせいで、夏が暑い事を忘れさせてはくれなかったので少しばかり苦笑いをしてしまう。
それでもここで宿題をやると決めたのだから、夏休み用の冊子を開き、シャープペンを走らせる。
蝉は煩かったが、風が気持ちよかったので結構集中が出来た。いつもよりは早く進んだという
実感がわいて、充実した気分になった。
少し休憩しようと台所へ向かい、氷を入れたグラスに麦茶を注いで座布団を片手に縁側へ出て
座布団の上に腰かけてから麦茶を一気に飲み干したその瞬間だった。
突然、周りから音が消えた。日差しが体中に当たっているのに温度を感じない。
風も当たっているのに涼しくもない。風鈴も、簾も、揺れているのに少しも音がしなかった。
耳が聞こえなくなったのだと思い、不安に駆られて誰かに連絡を……と、立ち上がろうとした時、
部屋の奥から聞いたこともない唄が聞こえてきた。
張力は正常だったと安堵しかけたが、いったい誰が唄をうたっているのか? 次に沸いた不安はそれだった。
いま、家にいるのは自分一人だけだ……泥棒か? 否、泥棒なら唄などうたわない。
ではいったい誰が?
唄はどんどんこちらへと近づいてくる。
とりあえず縁側と居間を隔てる障子を音をたてないように、わずかに隙間を開けて閉めて、隙間から覗きながら様子をうかがうと、居間の向こう側の廊下を人影がぞろぞろと歩いていた。
皆黒装束に、真っ黒な布の垂れ下がった黒頭巾をかぶっていて、見た目は黒衣の様だった。
……人じゃない。
そのことを認識した途端、背筋が凍る思いをするのと同時に、唐突に誰かに言われた事を思い出した。
――家の中で人で無いものを見かけたら、目を閉じて声を出さずにやり過ごせ
自分がそこにいることを障子越しに見つからないよう慌てて横になり、黒装束の列に背を向けて気づかれぬよう目を閉じて両手でをふさいだ。
奴らは居間の方まで入ってきたのか、唄が背中の真後ろから聞こえてくる。
障子の隙間からこちらの様子を見ているのかも知れなくて、不安と恐怖で叫びそうになる。
しかし耐えるしかなかった。
そのうち放っておけば出て行くかと思えば、やつらは今の中をぐるぐると歩きまわっているようで、衣擦れの音とともに歌が離れていく事は無かった。
眠っていれば奴らは手を出してこない……そうも言われたような気がする。
唄はまだ続き、止むことはなく、早く行ってくれることだけを祈るしかできずにいたが、心臓が早鐘を打ち、音に気付かれるかもしれないと思うと恐ろしくて眠れるような余裕などなかった。
早く去ってくれと祈っていると、唐突に音が消えて、恐る恐る口を押えていた手を離してあたりを確認するようにゆっくりと身体を起こしていると聞き覚えのある音が耳に入ってきた。
ちりんちりんと涼やかな音を奏でるのは風鈴で、そして簾も相変わらず揺れている。
さっきまで何も感じなかった日光が暑くて、居間へ逃げるように戻った時、ガラガラという音とただいまという言葉と共に誰かが帰ってきた。
声を聴いて今まで外に出かけていた家族だと安心してほっと息を吐いた。
足音がこちらへやってくると襖が開き真っ先に言われたのは、何でクーラーつけてないの? だった。
風が入って涼しいからいいじゃんと、背中を向けて答えると少しだけ不満の残った態度で土産を置いて台所へと消えて行った。
ああ、夏の暑さも、風の涼しさも、風鈴の音の心地よさも、蝉のうるさい鳴き声も、全ていつも通りだ。
帰ってきた家族が、黒衣に見えること以外は。