アリアとリリア
『魔術史』は全六巻の長大な読み物だった。本読みにとって、内容さえ面白ければその分量は決して減点要素にはならない。社蓄時代は時間がとれなくて、泣く泣く短編集などを優先した時期もあったが、今となっては余裕の笑みを浮かべて大長編にも挑戦できる。
こんなに嬉しいことはない。
さて、では一巻を返すついでに二巻目を借りてこようかと思っていると、不意に声をかけられた。
小さな子どもの声だが、照れも怯えもない、凛とした声だった。
「ここ、よろしいですか?」
見れば、俺と同い年くらいの女の子が対面の椅子に手をかけて微笑んでいる。そして自信に満ち溢れた態度のその子の後ろに、もう一人。眼鏡をかけた気弱そうな子が隠れていた。姉妹だろうか? 二人とも髪は蜂蜜色で、肌は透き通るように白い。
声を掛けてきた少女は肩までのストレートヘア、前髪は眉毛の辺りでまっすぐに切りそろえられている。切れ長の瞳には、どこか挑発的な光が宿っていた。
その後ろにいる女の子の髪はセミショートくらいの長さだが、前髪はほとんど眼鏡にかかりそうなくらいだった。前にいる少女のような華やかさはないが、どこか人をホッとさせる魅力がある。
どちらも作り物のように整った顔立ちの姉妹は、おそろいのコートドレスに、色違いのワンピースを合わせていた。
周りを見れば、確かに席はポツポツと埋まっている。珍しいこともあるものだ。今はまだ午前中のはずで、この時間、漁師たちは漁から帰って家で寝ているし、商店主たちはまだ店を開けている。だから図書館にいるのは老人と子どもばかりで、普段はけっこうがガラガラなのだ。
「もちろん、どうぞ」
俺は頷いて席を立った。相手の女の子はどちらもまだ幼いけれど、声をかけてきた子は丁寧な口調が堂に入っていた。つられて俺も社会人時代の口調に戻ってしまう。
「あら、お帰りですか?」
「いえ、新しい本を持ってきます」
借りていた本を棚に戻して、隣にあった『魔術史』の二巻を小脇に抱えた。
だが、そうすんなりと元の席に戻ることは出来なかった。帰りがけに、別の棚で魔物の生態に関する本を見つけてしまったのだ。
――ああ、あれも読みたい――
だが、二冊持って戻ったところで今日中に読みきるのは無理だ。魔物に関する本を読み始めたら、『魔術史』の方が中途半端なところでとまってしまう。
だが、別にお金がかかるわけじゃないしいいじゃねーか、と俺の内なるディーモンが囁く。
「何せ時間はたっぷりあるんだからよう、思うがままに読み散らかしたって誰も文句は言わねーぜ」
……そうだよね。俺はあっさりと悪魔の囁きに屈した。二冊の本を小脇に抱えて、意気揚々と席に戻る。
そういえば、学生の頃は古本屋の百円ワゴンの本を手当たり次第に買いまくって、親によく叱られたな。まったく、三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。
席が二つずつ向き合った四人用の読書机では、すでに先ほどの姉妹が横並びで本を読んでいた。俺の隣の席は、まだ空いている。二人の邪魔にならないように、静かに椅子を引いた。
見れば(おそらく)姉の方は、すごい集中力で読み進めているが、眼鏡の(たぶん)妹の方はこっちが気になるのか本から顔を上げてちらちらと俺の方を見てきて、たまに目が合うと、あわてて視線をそらす。
妹の方は年相応にテレ屋なんだな。自分も前世ではこんな感じのこどもだったから、微笑ましい。
だが、そんな二人の存在も、魔物の生態に関する入門書の方を手にとって読み始めてしまえば、意識の外に追いやられていった。
一時間くらい経っただろうか? 少し疲れを感じ、ストレッチでもするかと思って顔を上げると、正面で姉妹の姉の方が難しい顔をしていた。
「一つ聞いてもよろしいですか?」
「ええ、なんでしょう?」
「あなた、ずいぶん難しそうな本を読んでいますけど、それ本当に内容を理解なさっているんですか?」
いぶかしむような口調。
「全部を完璧に理解はしていないかもしれませんが、まあ大筋は」
「失礼ですけど、軽く説明していただけませんか?」
どうやら疑っているらしい。俺は苦笑しながら、かいつまんで説明する。
「これは魔物の生態に関する本なんですけど、魔物と一言でいっても、実際にはかなりの数の種類があって、その生態も千差万別です。この本は、その全てを一つ一つ列挙していくんじゃなくて、いくつかの魔物の生態に触れながらも、魔物全体の共通点を探っていくという内容です。
人間だって、たくさんの人種があり、また個人がいて、それぞれに全くの別の特徴を持っていますけど、やっぱり人間としての共通点がありますよね? 魔物もそれと同じように魔物としての共通点があるはずだと著者は考えたわけです。
さて、じゃあその共通点は何かというと、やはり一番重要なのは魔法が使えることです。驚いたことに、魔物の体内には、ほぼ全ての固体に魔核と呼ばれる結晶状の臓器が……」
「わかりました。結構です」
これからが面白いところだというのに、彼女は俺の説明を手で制した。
「ご迷惑でなければ、是非、あなたのお名前をうかがいたいのですが?」
笑顔でそうたずねる姉からは、黒いオーラが漂っている。なぜ? 俺の見間違いではないらしく、微笑む姉の横では、妹がおろおろしている。
「カディナ……ですけど」
「家名はなんとおっしゃるの?」
家名? ああ、名字のことね……いや、よく考えたら聞いたことないわ。爺ちゃんも婆ちゃんも、俺のことはカディナとしか呼ばないし、両親のことについてはあまり詳しく教えてくれない。もっと言えば、爺ちゃんと婆ちゃんの名字も知らない。
「ごめん、知らない」
あまりのことに素でタメ口になってしまった。相手も驚いているが、無理もない。
「……家名すら言えない者にこのわたくしが……まあ、いいですわ……いや、よくないですけど……いいですわ!」
どっちだよ。
面倒だから口には出さなかったけれど、俺は心の中で突っ込んだ。
目の前の少女はそんな俺の気持ちを察したのか、微かに頬を赤くしながらも、俺に人差し指をビシィっと突きつけてきた。
「わたくしの名はアリア=セルティア! カディナ、あなたは今日から、わたしくの読書のライバルであると、ここに宣言いたしますわ!」
「……図書館では静かにね」
「……っぐ、し、失礼しました……とにかく、あなたはライバルですから、それだけは覚えておきなさい」
言われなくても、アリア=セルティアの存在感は忘れようもない。
こいつは関わったらヤバイやつだ、俺はしっかりと覚えた。
「別にいいけど、読書って競うものじゃないでしょう」
「だとしても、です。どんなものであれ、セルティア家の者が、家名も言えない人に負けたとなれば面目が立ちません。見ていないさい、今にあなたより難しい本が読めるようになって見せますわ」
「ま、読書仲間が増えるなら歓迎するよ」
俺がひらひらと手を振って見せると、アリアはぷいと横を向いて行ってしまった。なぜ敵視されているんだ。
「あの……すみません」妹の方がペコリと頭を下げる。「お姉さまは、何をするにも、誰かと切磋琢磨するのが好きなのです。でも、お姉さまと対等に張りえる人というのは、特に同年代ではとても少なくて……きっとお姉さまは、そういう相手にめぐり合えたことが嬉しいんだと思います」
たどたどしいけれど、この子の言いたいことは不思議と伝わってくる。
「本人にも言ったけど、別に構わないよ。本について語り合える知り合いが増えるのは僕も嬉しい。ところで、君の名前は?」
「ああ! 申し遅れました。わたくし、リリア=セルティアと申します」
「じゃあリリア、読書仲間として、これからよろしく」
「でも、わたしなんか、まだ絵本しか読めないですし……」
「本を愛する心があれば、誰でも読書仲間さ。よろしくね」
「あの……はいっ! よろしくお願いします」
リリアは深く頭を下げると、すぐに姉の後を追って行ってしまった。
その日の夕方、家に帰ってアリアとリリア姉妹のことを話すと、爺ちゃんと婆ちゃんは目をむいて驚いていた。
「カディナ、あなたもしかして、気付かなかったの?」
「何のこと?」
「あのなぁ……アリア様とリリア様といったら、領主様の娘さんだよ」
爺ちゃんがため息をつく。
「だいたい、気付かんかったのか? お二人の家名はセルティア、この町の名は?」
「サルティ……あ、そう言われれば確かに似てるね」
俺の言葉に、今度は婆ちゃんまでも深いため息をついた。
なんで俺が悪いみたいな雰囲気なんだろう? 完全に一致していたら、いくら俺でも気付いたはずだ。こんなもの引っ掛け問題みたいなもんだろう。
「別に失礼な態度をとったりはしてないから大丈夫だとは思うよ。ただ、なんか一方的にライバルとか言われてたから、また会うことはあるかも」
「ライバル? なんだ一体ライバルって」
「僕もよく知らないけど、僕の読んでいた本がアリアのより難しかったらしくて、それで読書のライバルだって言われた」
「何と……まあいい。カディナ、お前は口調だけは丁寧に取り繕うのが上手いんだから、決してボロを出すんじゃないぞ」
「そうですよ、口調を取り繕うのだけは上手いんですから」
……それ、ほめてるのか? もうタメ口をきいて、二人の懸念は手遅れだということは言わないでおいた。
それより、二人には聞きたいことがあった。
「そういえば、アリアに名乗ったとき、家名を聞かれたんだ。知らないから答えられなくてさ、これからまた聞かれることがあるかもしれないから一応、教えてもらおうと思って」
爺ちゃんは虚をつかれたみたいだった。一瞬フリーズしたが、すぐ婆ちゃんと顔を見合わせる。アイコンタクトで、素早く、二人は合意に達したみたいだった。
「なあ、カディナや」普段とは違う、優しい声色だ。「確かにお前は、わしらの本当の息子でも孫でもない。だが、わしと婆さんはお前のことが心の底から大切だし、本物の家族だと思って接してきた」
わかってるよ、と言葉に出すのもためらわれるくらい、それは分かりきったことだった。だから、俺はただ無言で頷く。
爺ちゃんと婆ちゃん、二人の表情が優しく、明るくなった。
「お前もそう思ってくれているなら、これ以上嬉しいことはない。血は繋がってなくとも、心で結ばれているなら、わしらは本物の家族だ。カディナ、これから家名を聞かれたら、わしらの家名を答えなさい。カディナ=モーリア。どうだ?」
「うん、わかった」
一気に空気が弛緩する。二人が何かを俺に隠しているのは知っていたけれど、言いたくないのなら、言わなくてもいい。そう思った。仕事で忙しいという母さんや、俺の本当の家族、家名のこと、それだってもしかしたら大切なことなのかもしれない。
ただ少なくとも今、この町で過ごす幸せな時間ほどじゃない。
新キャラです。血が繋がってないとはいえ、爺ちゃん婆ちゃんはヒロイン枠に入りませんから。