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読書三昧の異世界スローライフ   作者: 小峰
港町での生活
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図書館の『魔術史 第一巻』

 家事の勉強をして多少は手伝い、たまにがきんちょたちと遊ぶ。そこから食事や睡眠をのぞいても、残りは全て自分のものだから、自由に使える時間は相変わらずたっぷりあった。

 

 俺が一日の内で一番多くの時間を過ごしたのは、図書館だった。

 

 図書館といっても、前世のように本の貸し出しはしておらず、書棚の本は館内で読むしかない。ちょっと前までは、爺ちゃんか婆ちゃんに連れてきてもらっていたけれど、誰かが自分を待っていると思うと落ち着かない。

 最近やっと二人から、一人でここへ来てもいいと言われて、思う存分色んな本を読めるようになった。


 読書は前世からの趣味だったし、どうしても学んでみたいことが一つあった。


 それが魔法だ。この世界では、魔法が生活に密着している。

 とは言っても、自分の力だけで魔法を発動させる場合には、一般人に出来ることなんてたかが知れている。意識を集中し、それっぽく呪文を唱えてみたところで、指先からはしょぼい火が出るだけ。煙草に火をつけるのがせいぜいといったところだ。

 

 これでは日々の家事をまかなうには、まるで足りない。


 そこで登場するのが、ジェムと呼ばれるアーティファクトだ。

 その構造はとてもシンプル。ものによって形は違うが、大抵は五角形や六角形をしている。透明な宝石みたいな見た目だ。ガラスのようなその表面には、魔術の術式が刻印されていて、ジェムの内部には濃縮された魔力が注ぎ込まれている。

 使用者がジェムに手を触れて、ほんの少し魔力を流し込むと、表面の術式が励起され、内部の魔力を消費して魔法が発動する。


 ジェムが、この世界ではガスや水道の代わりを担っていると言えば、これがどれだけ大事なものか誰だって理解できるだろう。俺たちはジェムの火で料理をするし、ジェムの水でシャワーを浴び、ジェムの光で夜を照らす。


 このジェムの技術は、比較的最近に完成したもののようだ。


 色々な書籍を読んで調べてみたが、ジェムがどうして魔法を発動させることができるのか、その仕組みは、まだほとんど解明されていない。


 術式の発展は、偶然の発見と、そこらの試行錯誤による改良によって支えられていた。


 裏を返せば、魔術にはまだまだ伸びしろがあるということだ。

 だとすれば、今の時代は魔術という無限の可能性を持った技術の登場によって、ある種の転機を迎えていると言ってもいい。


 今俺が読んでいるのは、その名も『魔術史』という。

 サブタイトルは『ペテンか科学か、その歴史をさぐる』だ。

 お堅いタイトルに反して、内容は基礎知識のないひとでも読める入門的なものだった。


「人間と魔法の最初の出会いは、おそらく悲劇的なものだったはずだ。なぜなら、まだ魔術という言葉すらなかった太古の昔、魔法は魔物や、無慈悲な神々がふるう理不尽な力であり、人間はその力を自分たちが操るようになるなど想像すら出来なかったからだ。

 

 今から二千年ほど前の時代を生きた哲学者たちにとって、魔法とは天に住まう神の一人一人、地を這う魔物たちの一頭一頭がそれぞれに持つ力だった。

 だからこそ古代の人々は、空から落ちる雷の向こうに怒れる神の姿を見たし、打ち寄せる波のリズムを奏でているのは、半身半魚の優しき精霊だと夢想した。


 魔法は個の力だと彼らが考える、その根拠となったのは、魔物の存在に違いない。魔物たちが使う恐ろしい力は、彼らの肉体の内側から湧き出てくるのだと、人々は信じていた。

 何の証拠も、裏づけもなかったが、そもそもそんなものは必要ないと当時の人々は考えていたことだろう。なぜなら、魔物たちは魔法を使うことが出来ない一般的な動物に比べて、明らかに強靭な肉体を持っていたし、体躯も大きかった。

 運悪く魔物に出くわし、ひと睨みされた人間は、魔物たちの瞳の奥に残忍な衝動と、人知を超えた暴虐の力が渦巻いていることを疑いはしなかっただろう」


 科学も魔術もまだ未熟だった時代には、自然現象すらある種の魔法であると解釈され、それが神話の形成にも繋がっていく。

 では、人間が魔術を生み出したのは一体いつごろなのだろう?


「人類にとって最初の魔術の萌芽は、古代メティシアの音楽家たちが奏でた弦楽器の音色だった。今でもそうだが、当時も音楽家であるということは、ある程度まで数学者でもあるということだった。

 古代メティシアの音楽家たちは、弦の長さが、発する音の高さに反比例することにすでに気付いていた。そして、弦の長さの比によって音を配置したり、重ねたりすることでメロディやハーモニーを作り出していた。


 では何故、数学者ではなく音楽家、と私は書いたのだろう?

 ここで古代メティシアの哲学者ツムトの書いた文章を読むのは、意味があることのように思う。抜粋しよう。


『われわれが夕方からモタシリの劇場で見た演劇は退屈なものだった。

 

 ただある場面で流された音楽だけが、その美しさの点で群を抜いていた。それはデイラの息子フリロが書いた楽曲だった。当世で高名な音楽家の名を三人挙げるならば、おそらくフリロの名を外すわけにはいくまい。

 

 優れた音楽家には、それぞれに美点があり作風もまるで違うのだが、そういった作家の条件は一つだけだ。それは、感覚を通じて、感覚を超越したものをこちらへ伝えてくること。


 世の高慢な数学者の中には、たった一つの数式によって、この世の全ての理を言い表すことができると豪語するものがいる(著者注、この文章が書かれた千数百年後には、科学者や数学者たちがまさにこの種の仕事をすることになるわけだ)。

 あるいは、詩人たちの中には、たった数行の詩の中に人の感情の全てを詰め込むことができると言う者がいる。

 だが私は、残念ながら今までそんな数式や詩に出会ったことはない。


 そんな中で音楽だけは別だと言っていい根拠があるように、私には思える。聴覚だけを通じて、聴覚だけでなく全身に、さらには精神にまで響かせることができるからだ。

 それだけではなく、優れた音楽は、長い時間演奏を聴いていても、終わってみれば、それはほんの一瞬のような気がする。つまり、時間の流れを凝縮しうるのだ。それでいて、その一瞬と感じられた時間の中には、めまぐるしく様相を変える美の要素がいくつもひしめき合っている。


 これらのことから、私は一部の音楽家には特権的な地位を与えてもいいと思えるのだ』


 この後、ツムトは音楽家の名前を数人あげるのだが、それは必ずしもツムトが独断と偏見で選んだわけではないことは、同時代の哲学者たちの文章に同じ名前が何度も登場することからも分かる。


 ある種の特別な才能の持ち主だけが、こういった壮絶なビジョンを多数の人々に体験させることができた。そして誰がその能力の持ち主なのか、という点において、意見はほとんど分かれなかったのだ。

 人々が選んだのは常に、数字やその比率によって作曲を行った純粋な数学者ではなく、情熱を内に秘め、時には数字のルールに抵抗すらした芸術家すなわち音楽家たちだった」


魔術の前身となったのは、芸術、その中でも特に音楽だった。少なくともこの本の著者はそう考察している。これは、なかなか面白くなってきた。

今日の夜にもう一度更新する予定です。

やっと女の子のキャラが出せる! やっほー!

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