ことの顛末
シルドが顔を上げた。そこには、表情と呼べるほどの変化は何も刻まれていなかったが、俺は嫌な予感がしていた。
狭い部屋なりに一歩、距離を取ろうと後ずさった、その瞬間――
シルドが恐ろしい勢いで間合いを詰めてきた。膝を屈した状態から、よくもこれだけの初速が出せるものだと思うが、感心している場合じゃない。
俺は後ろへ飛ぶようにして、逃れようとするが、虚しい努力だった。大人と子供では、たった一歩とはいえど大きな差がある。
これはヤバイ。恐怖心が膨れあがると同時に、眼前の光景がスローモーションになっていく。
シルドの手はすでに短剣の柄にかけられていた。その瞳は虚ろで、まるで何も見ていないかのようだ。それだけに、剣筋が読めない。
命を懸けた、純粋な読み合いだった。
「まだだ……まだ」
破裂しそうになる心臓を制しながら、シルドの剣をぎりぎりまで引きつけようと耐えていた。
だが、不意に横から飛び出してきた影が、吹きぬけていく風のように通り過ぎると、次の瞬間にはシルドの殺意は消えていた。
知らず額に汗をかいていた。大きく息をしながら見上げた影は、カティさんの後姿だった。
メイド姿の女性の拳が、シルドの鳩尾のあたりに深くめり込んでいる。何度も激しく咳き込むシルドの首に手刀が落とされると、それで彼の意識は途絶えたようだった。
「大丈夫でしたか?」
振り向いてそう尋ねるカティさんの声と目つきは、思いのほか優しかった。
それから、カティさんが手馴れた様子でシルドを拘束すると、俺はお嬢様のいいつけ通り車掌を呼びにいくことになった。
四十を少し過ぎたくらいだろう。小柄なものの、芯の太さを感じさせる顔つきの車掌は、部屋に入るなり、拘束されたシルドを目にして、それで大体のことを悟ったらしい。すぐに事情を話してくれた。
「本人の口から直接そう言われたわけじゃあ、ありませんがね……窓口の方じゃあ、身分や人脈を盾にずいぶんと圧力をかけられたそうです。うちの会社も、上層部は貴族とずぶずぶですし、なんと言ってもお得意さまですから、そうそう逆らえませんや。
ですがね、一本列車を走らせて、それが赤字となった時、シワ寄せを受けるのは上層部ではなくて現場の人間なんですわ。ふんぞり返ってるだけのお偉いさんはどう思ってるのか知りませんが、ろくでなしの貴族のためにいちいち赤字を出してたんじゃ、身を切るような思いで働いている他の乗務員に示しがつきませんや」
急な事情からアリアとリリアが王都に行くことになったのは、車掌さんにとっても、またオデラさんにとっても渡りに船だったというわけだ。
「さすがにサルティの領主様は、こっちの事情も汲んでくださって、急な手配でもあるしと割増料金を払ってもいいと仰ってくださった。そうなればこっちも出来る限りのおもてなしをしなくちゃ男がすたるってもんです」
なかなか肝の据わった人のようだった。俺は気になっていたことを質問してみた。
「隣の部屋に乗客がいた理由はそれで何となく分かるんですが、何でこの部屋には清掃が入らなかったんですか?」
「そりゃあ、あの手の人間には、綺麗な部屋を提供する価値もないからですよ。いくら貴族だろうと、もうその身分だけで特別扱いされる時代は終わっているんですから。適正な価格を払えないならば、うちはそれ相応の対応をしますよ……というのは理屈で、まあ気に食わないから嫌がらせをしてやったんですな、ははは」
それでシルドが怒り狂ったりしたらどうするつもりだったんだろう? そんなことを考えていたら、顔に出たのだろう。車掌さんはにやりと笑った。
「面倒なことになりそうだったら、あの貴族の坊ちゃんの上司ってんですかね? まあ偉い人に全部ぶちまけてやるつもりでしたよ。チケットは三枚。あれだけの部屋を用意させる人間が、自らチケットなんか買いに来るはずはないから、あの坊ちゃんは、まあ使いっぱしりだと分かっていました。だとしたら、その品性のない行いは、上からの指示なのかって疑問に思ってはいたんです。そこの部屋を所望したのは、どう考えても金に糸目をつける人間じゃないですからね」
車掌さんなりに考えての行動だった、というわけだ。確かに筋は通っているように思えるが、だとしても下手したら斬り捨てられていたわけで……大胆な人だ。
お嬢様は、車掌さんの話を一通り聞き終えると、小さくため息をついた。そして、車掌さんに頭を下げる。
「私の警護の者が失礼した。あれで警護の責任者だから、列車の手配も一任したのが間違いだったようだ。あれが値引きを強要した額については、後ほど私の方から支払おう。申し訳なかった……
カディナ、お前もだ。言いがかりをつけた上、あのような狼藉をはたらいて、怖い思いをさせてしまったな。どうか許して欲しい」
このお嬢様がどこのどなたかは存じ上げないが、かなりの資産家であることは間違いない。
普段なら、そうそう人に謝罪することなどないはずだ。そんな人物が素直に謝っている。
俺と車掌さんは顔を見合わせた。彼の顔には、まあ仕方ないなという疲れた笑みが貼り付いていた。俺も似たような表情をしていたのだろう。それが自分でも分かった。
もちろん、お嬢様にはほとんど罪はないのだった。
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