出発の日
どうやら、俺には魔法の才能はないみたいだ。
とはいえ、自慢じゃないが才能がないことには慣れている……本当に自慢じゃないな。
前世ではギターを十年以上やっていたのに、まるで上達しなかったし、レシピ通り作ったはずのチャーハンがねっとりした感じに仕上がる……のは、前に言ったかもしれない。
「初回でちゃんと炎が出たんだから上出来じゃないか」と自分を慰めて、俺は何とかその日の内に、自分の無能さと折り合いをつけた。
一夜明ければもう出発の日なのだから、いつまでも思い悩んでみたって始まらない。切り替えは早いほうがいい、というのは俺が人生で学んだ数少ない有用な教訓だった。
けれど、爺ちゃんと婆ちゃんとの別れに関して言えば、そう簡単に割り切ることは出来なかった。
振り返ってみれば一緒にはいたのは、ほんの二三年のことだ。けれど、その間ずっと一緒に暮らしてきたし、俺が迷惑をかけても、二人は常に優しさや思いやりをこちらへ返してくれた。
家を出る直前は、さすがに涙腺が緩んだ。
俺ですらそんなだから、年を食った二人はもう目元と鼻の頭を真っ赤にして、流れ出る涙を隠そうともしていなかった。
「夏と冬の休暇には帰っておいでよ。ああ、お前がいなくなると寂しくなるねぇ」
「夏なんて、ほんの数ヶ月先だよ。そしたら帰ってきて、また迷惑かけるから、よろしくね」
「それでいいさ……それでいいんだよ」
爺ちゃんは涙を流しながら、笑顔で俺の頭を撫でた。おかげで髪の毛はくしゃくしゃだ。
これから駅へ行ってアリアとリリアと合流しなくちゃいけないのに、俺はすでに酷い有様だった。
駅までの見送りは断ることにした。これ以上一緒にいれば、離れがたくなって、別れがもっと辛くなってしまう。それに、姉妹に情けない姿を見せるのも嫌だった。
婆ちゃんはまだ名残惜しそうだったけれど、爺ちゃんがそれを説得してくれた。
玄関で手を振って別れを告げ、外に出る。一歩外に出たらもう振り向かないと決めて、俺は足早に駅へと続く道を歩き始めた。
駅に着くと、すでに姉妹はキャリーバッグを足元に置いて俺を待ってくれていた。
俺はまだ顔が赤かったのかもしれない。アリアもリリアも、こっちを見るなり心配そうな顔をした。
「おはよう」
空元気だと思われたかもしれないが、明るく挨拶すれば二人は表情を緩めた。
「おはようございます、お別れは済みましたか?」
「うん、心配かけちゃったかな?」
「いいえ、カディナもわたくしたちと同じなんだと思って安心したくらいです」
「ええ? 僕はアリアには一生敵わないなと思ってたんだけど」
「あら、エリグールに通うような秀才からそんな風に思われていたなんて、光栄ですわ」
俺とアリアが軽口を叩き合っていると、リリアが暗い顔をした。
「カディナさん、わたしは?」
「リリアを見ていると、僕はもうリリアのような純粋さを取り戻すことは出来ないんだなって思うよ」
「それは……」
リリアが口ごもって返答に困っていると、アリアが悪戯っぽく笑う。
「まるで純粋だった時代があるかのような口ぶりですね?」
「あるに決まってるだろ? 例えば……赤ちゃんの頃とか?」
「わたくしから聞いておいて何ですが、純粋さを捨てるの、早すぎませんか?」
物心ついた瞬間から、もうおっさんだったからなぁ。
下らない話をしていると、すぐに駅員たちが乗車を促し始めた。三人ともがポケットからチケットを取り出し、改札へ向かう。アリアとリリアはキャリーバッグを引きずっているが、俺は小ぶりなリュック一つ。中に入っているのは数日分の着替えと、お気に入りの本数冊、それに財布だけだ。
列車には一等席から三等席まであって、一等が個室、二等が指定席、三等が自由席だ。
アリアとリリアはもちろん、俺のチケットも一等席だった。
一等の車両の乗車口には、制服に身を包んだ乗務員がいて、乗客の荷物を部屋まで運んでくれる。姉妹はキャリーバッグを預けていたが、俺は大した荷物でもないので断った。
案内されたのは、姉妹の隣の部屋だった。中の広さは、前世のビジネスホテルよりも一回り狭いくらいだ。大人からすればかなり窮屈だろうが、俺の今の体格なら丁度いいかもしれない。
左側にソファーと兼用の小ぶりなベッド、中央にはリュックを置いたらそれ以上何も置けないようなテーブルがあるが、調度はそれだけ。
不思議なのは、右側の壁にノブのついたドアがあることだ。
まさか開くわけはないだろうと思ったが、気になってノックしてみると向こうからアリアが返事をした。
「どうぞ、入ってかまいませんよ」
「これ、開くの?」
「ドアですもの」
確かにドアですけど……半信半疑のままノブを回せば、いともあっさりドアは開いてしまった。
開けた途端に二人が顔を覗かせて、「狭いですわね」「狭いですね」と口をそろえる。
「そっちはどうなの?」と聞けば、リリアがどうぞどうぞと手招きする。
遠慮なく上がらせてもらえば、姉妹の部屋は寝台車の個室というより、いっそ高級ホテルのようだった。
広さは、俺の部屋の四倍くらいあって、奥にはベッドメイクの済んだ大きなベッドが二つ並べられている。手前にはテーブルとソファ、これはそれほど大袈裟なものじゃない。その分、この部屋にはクローゼットと姿見の鏡、そして流し台とコンロがある。
「これが領主様のお力か……」
呆然と呟く俺に、二人は慌てて手を振った。
「いえいえ、わたくしたちも、ここまで豪華な客車に乗ったのは初めてですわ」
「ええ、何で今回だけこんなに広いお部屋なのかと、お姉さまと首をひねっていたんです」
乗務員が部屋を間違えたのかとも思ったが、乗車券の表記では間違いなくここが姉妹の部屋になっているらしい。
「広い分にはいいじゃない。間違いだったとしても、二人に非はないんだし」
「そうですわね」とあっさり頷くアリアに対して、「いいんでしょうか」とリリアは不安そうだ。
とはいえ、チケットの表記まで確認したのなら、これ以上できることはない。リリアもそれを分かっているので、ソファに腰掛けると、すぐに気持ちを切り替えたようだ。
「あの、カディナさん、わたし家から少しクッキーを持って来たんですけど、一緒に召し上がりませんか?」
「いいの? じゃあ、僕がお茶を淹れるよ」
流し台には茶葉やティーポット、カップ類も一式揃っていた。ポットに水を注ぎ、コンロにサッと手をかざして火をつける。
茶葉を用意していると、不意に汽笛の音が鳴り響いて、ゆっくりと車窓の景色が流れ始めた。
「おお、動いてる」
電車にはさんざん乗っていたので、驚くようなことでもないのだが、汽車も初めてなら、こんな豪華な客室も初めてなので、我ながら少し舞い上がっていた。
振り向けば、アリアもリリアも、汽車の旅には慣れているようで、二人にとっては特に面白みのある光景ではないようだ。
お茶をカップに注ぎ、テーブルに出すと、リリアがクッキーの缶を開けてくれた。
ソファの背もたれに肘をついて車窓を眺めていたアリアが、のそのそと体をこちらへ向けた。
「いただきます……あ、美味しい。カディナ、意外とやりますね」
「爺ちゃんと婆ちゃんに仕込まれたからね。でも、茶葉もいいやつだったよ、自分で買ったわけでもないのに少しケチっちゃうくらいには。あ、リリア、クッキー一つもらうね」
「どうぞ、わたしもお茶、いただきます」
列車は少しずつ速度を上げていく。都市部を抜ければ、車窓に映るのは似たような田園地帯と、森林ばかりだった。視界が開け、いつまでも同じような風景が続くのでその速度は体感しにくい。
けれど、王都までおおよそ一日、そこからノーリッツまでもう一日、長いようで短い旅の始まりだった。
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