旅立ちの準備
引越しの準備は、たったの二日で終わってしまった。
学校の制服はセルティア家が用意してくれるらしいしので、フレッドさんのところで採寸だけしてもらって、後は任せている。
家具も寮に備え付けのものが一式揃っているらしい。こだわりもない俺からすれば、家具なんてちゃんと使えればどんなものでもいい。
つまり、うちから持っていくほどのものなど何もないのだ。
日用品や筆記用具は向こうでも買うことができるから、俺としては、汽車のチケットを栞代わりに、お気に入りの本を二三冊小脇に抱えて出発してもいいくらいだった。
エリグール魔術学院、そしてセルティア家がこれほどまでに厚遇してくれるのは、俺が図抜けて優秀な生徒だから……ではなく、貴族のプライドというやつのせいだろう。
エリグールに通う生徒は、やはりそのほとんどが貴族の子息子女たちだ。
平民からも幾らか生徒をとってはいるが、よほど秀でた一芸があるか、今回の俺のように貴族からの推薦でもなければ、入学を許されることはまずないと言っていい。
そもそも、中途半端な成金程度ではエリグールの学費を払うことも出来ないだろう。
ただ、そのハードルを越えて入学を勝ち取った生徒たちには、最高の環境が約束されているらしい。
卒業生、あるいは在校生が魔術の分野で大きな功績を残せば、それはエリグール魔術学院の栄誉にもつながる。
身分制度の縛りは、数十年前に比べればかなり緩くなっていると爺ちゃんが言っていた。
実力もなく、ただ威張り腐っているだけの貴族などは、遠からず淘汰されていくだろうと。
しかし、そんな時代にあってもやはり貴族社会では見栄と体面が重視される傾向にはあるようだ。
関係者が成果を出せば学院の株が上がるというのは、分かりやすい理屈なだけに学院側も必死だ。
生徒たちが周囲を気にせず研究に没頭できるよう、寮の部屋は全て個室になっているらしい。
学校というのは集団生活を学ぶ場所だと思っていた俺は、その話を聞いたときには素直に驚いた。
エリグールでは協調性などより、己の能力の研鑽の方がよほど求められているわけだ。
まあ、冷静に考えて見れば、前世で小・中・高・大と十六年も学校に通ったにも関わらず、気付けば立派なコミュ障に成長した俺のような人間もいるのだから、それで正解なのかもしれない。
出発までの三日間、俺はまた図書館に入り浸ることにした。
残念ながら出発までの間は、興味の赴くままに好きな本を読み漁るというわけにはいかない。
俺が読もうとしているのは、魔術の、主に実践に関する本だ。
今まで俺が読んでいたのは、魔術の歴史、その発展の仕方や、どのように新たな発見がなされたのかといった内容がほとんどだった。
それはそれで、エリグールへ送った論文を書くのに役立ったからいい。
ただ、これから学院へ通うとなれば実技の授業などもあるのかもしれないし、実践経験が皆無なままではまずいんじゃないかとさすがに不安になってきたのだ。
だから、せめて初歩的な呪文や魔方陣は暗記しておこうと思いついて、一夜漬けならぬ三日漬けを始めることにした。
結論から言うと、これは俺の考えが甘かった。
呪文が載っている事典のようなものがあって、魔法の種類別、効果量別で掲載されているのだが、これが分厚いというレベルですらない。
なにしろ、鈍器として使えそうな重量の本が十巻だ。
しかも、ページ毎の文字量がまた半端ではない。少し視力の落ちた人なら、虫眼鏡が必要なること請け合いの小さな文字が、びっしりとページを埋め尽くしている。
なぜこんなに大量の呪文があるのかと、じっくり読み込んでみれば、中には呪文というよりは祈りの文句みたいなものや、何だったらほとんど罵詈雑言に近いものまであった。
確かに、未だ呪文や魔法陣に統一的な法則のようなものは見つかっていないようだが、だからと言って魔法が発動した際に術者が口にした言葉を全て網羅しようとするのは、どうなんだろう?
まあ、資料的な価値はあるのだろうけど、間違っても初心者が読むものじゃないのは理解できた。
『魔術・呪文事典』というこの本は、暗記するには分量が膨大すぎるが、流し読みすると意外と面白い。
例えばこの事典には、「神よ――」で始まる呪文がいくつも掲載されいてる。ここで術者が呼びかけている神は、魔術師狩りを行ったあのカルネット教や、ハーモイド教の神々だ。いや、ハーモイド教は一神教だったか……
それはともかく、実は魔術師狩りの時代にあってさえ、司祭たちが魔法を使うことは珍しいことではなかった。ただし、彼らの中では、司祭が行使する魔法は、〈魔法〉ではなく〈奇跡〉と呼ばれていた。
人の命を救ったり、あるいは魔物を屠ったりした場合は〈奇跡〉として認められ、逆に人々に迷惑をかけたり、損失を出したりすればそれは〈魔法〉として告発されてしまう。
見つからなければ節税で、露見してしまったら脱税くらいの乱暴な理論だが、肥大した権力というのは基本的に理不尽なものだ。時代だったのだろう。
それが今では、魔法も奇跡も一緒くたになって事典に掲載されているのだから、時代は変わったのだ。
話しが逸れた。
とにかく、俺は『魔術・呪文事典』は諦め、もっと初歩的な入門書にあたることにした。
『バカでもわかる! 超魔術入門!』は何か嫌だったのでスルーし、『かんたん魔術、基礎の基礎』という本を見つけて、まあこんなところかと手に取った。
表紙とタイトルって大事だよね。
サルティの図書館は本の貸し出しはしていないので、俺はメモを取りながら、その入門書を一日で読破し、次の日には早速、初歩的な呪文を試してみることにした。
発動するのは火の魔法。説明によれば、前世のライターくらいの炎が指先からボッと出るものらしい。
とはいえ、俺もこう見えて異世界転生者のはしくれ。冴えない人生を三十うん年も続けていたせいで、自分の実力にあまり自信はないが……「俺、何かやっちゃいました?」が発動する可能性はゼロじゃないはずだ。
よって一応、練習は海辺で行うこととした。ここなら魔力が暴走して、強力な火の魔法が発動しても問題はないだろう。
正直、期待していなかったと言えば嘘になる。チートな魔力に覚醒して、魔術学院で優秀な成績を残せれば将来は安泰だ。面倒な就活をせずとも引く手数多だろうし、労働力を安く買い叩かれることもない。
胸の高鳴りを抑え、目を閉じた。指先に意識を集中させ、覚えてきた呪文を詠唱する。
体内を魔力が駆け巡っていくような感覚は、まるでなかった。ちょっと不安になる。
だが、詠唱を終えて、目を開けてみれば指先からは小さな焔が立っていた。
ライターどころか、マッチにしすら届かないほどの小さな火……あ、消えた……
頼りなく揺れていた火は、潮風にあおられてあっさりと消えてしまった。
「ええ……」
もしかして、俺って才能ない?
ちょっと格好いいポーズまで決めたし、呪文だって頑張っていい感じに発音したのに……
「カディナ、何やってんだ?」
漁師のおっちゃんが、そんな俺のことをジロジロ見ながら横を通り過ぎていく。
「いえ、別に……」
俺はひきつった笑みを浮かべながらおっちゃんを見送り、盛大にため息をついた。
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