港町サルティ
ドアを開けた瞬間、風が潮の香りを運んできた。海が近いのだ。
ここ港町サルティは町全体が、傾斜の緩い山の上にのっかっている。
石畳で舗装された細い道が、曲がりくねりながら裾野から頂上まで続く。山の下の方では、道の両脇に商店や住居がずらっとならんでいる。
建物の外壁はほとんどが白で統一されていた。
町全体が、太陽の光をまぶしいくらいに反射している。
今日は三人で買い物だ。爺ちゃんと婆ちゃんと手をつないで、その歩調に合わせて、傾斜をゆっくりと上っていった。日差しが強くて、眼がチカチカする。歩いていると、シャツの内側が少し汗ばむくらいの気温だ。季節は初夏、本格的な夏はもう目と鼻の先だった。
この世界にはクーラーがないのだが、風がよく吹いてくれるから、なんとかやっていけている。
夜になれば海水を孕んで湿った風は、かなり冷たくなるし、窓を開けて眠ると少し寒いくらいだ。
頂上に近づくにしたがって、とうぜん山の面積は狭まり、建物の数は減ってくる。
道の両側にあった建物が山頂側の方にしかなくなる。そしてその山頂には、巨大な城壁が見えた。
「あのお城には王様が住んでるの?」俺の手を引く爺ちゃんに質問する。
「いや、あれは領主様のお城だね。ここのような大きな町は、それぞれに領主様が治めているんだ。緊急の問題が起きたときに、いちいち国王様にお伺いを立てていては判断が遅くなるからね。
領主様が住む町と、その周辺の村々や集落をあわせて領地となり、領地がいくつかあつまって国を形作っているんだ。まあ、集まってと言っても国土は広い。町から町へと移動するとなったら大変なことさ」
「どうやって町から町へ移動するの? どれくらい距離が離れているの?」
俺の矢継ぎ早な質問に、婆ちゃんは苦笑する。
「そうねぇ、町と町の距離はそれぞれ違うけど、例えばここサルティと隣の領地のオバルまでなら汽車で半日くらいかしら?」
半日もかかるのか、どれだけ遠いんだろう。そう思ったけれど、冷静に考えてみればこの世界の汽車が新幹線と同じ速度で走るわけはない。
そしておそらく、新幹線のように主要な駅だけに停まりながら、道程のほとんどを最高速で駆け抜けるわでもないのだろう。
周囲に点在する村々に寄り道しながら、加速と減速を繰り返して進むのならそれくらい時間がかかっても不思議じゃない。
裾野側には建物がないので、そこから町を一望できた。
所狭しと並んだ建物の屋根々々が、一枚の絨毯のように眼下に広がっていた。そしてその先、町の境界のところには、恐ろしく背の高い壁が聳えたって、それが町をぐるっと取り囲んでいる。
「爺ちゃん、あの壁は?」
「あれは魔物避けだね。兵士が見張ってるだけじゃなくて、壁そのものに魔術が施されているらしいよ。わしは魔術に関しては詳しいことはわからんが。
それと一応、馬車や徒歩でこの町に入ってこうようとする人間の中に犯罪者が紛れ込んでいないかなどを衛兵が確認しているんだ」
魔物か。魔法があるんだから、魔物が存在してもおかしくはないと思うけど、あれだけの防壁を築く必要があるって一体どんな生き物なのだろう?
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。魔物の方でも人間のことは好きじゃないみたいだから。会うことなんてめったにないのよ」
俺の表情が不安そうに見えたのか、婆ちゃんが俺の頭を撫でながらそう言った。
爺ちゃんもその言葉に頷く。
「魔物に襲われたらカディナはもちろん、屈強な兵士ですらひとたまりもない。とはいえ、この辺りにはほとんどおらんし、婆さんの言うように向こうから姿を見せることはまずないから、安心しなさい」
町を囲う壁の向こう側、西側には平地が広がっていて舗装されていない踏みならしただけの道が何本か伸びていた。
反対の東側は全て、果てしなく続く海だ。水面は茫洋としたリズムを刻んで揺れながら、陽の光をキラキラと反射させている。
壁の外にある港には、かなりの数の船が停泊している。朝の漁はとっくに終わっているのだろう。今海に出ているのは、真っ白い帆を張ったヨットが数隻だけだった。
港町らしく、商店には活きのよさそうな魚が並んでいる。婆ちゃんは手馴れた様子で、魚を選んでいる。そのとき、どんな魚が新鮮なのか、その見分け方を俺に教えてくれる。残念ながら一番上等なやつは、あらかた朝の市で売れてしまっているらしい。
それでも「例えばこの魚なんて王都で買えば目玉が飛び出るくらいの値がつくんだから、おいしい魚が食べられるのは、この町に住んでいる人の特権ね」そう言って婆ちゃんは笑う。
買い物を終えて帰宅すると、潮風でキシキシしていた髪をシャワーで洗い、汗を流した。婆ちゃんが出してくれた服に着替える。
爺ちゃんと婆ちゃんは、最近よく二人の得意なことを俺に教えてくれる。
本の読みすぎで体がガチガチに強張ってしまったとき、軽くストレッチなんかをした後で、何かすることがないかと家の中をふらふらしていると、大抵どっちかが家事をしているので、俺はわけもなくその姿を眺めたりしていた。
「カディナ、お前もやってみるかい?」「カディナ、これはな、こうやるんだよ」
優しい手招きに誘われるままに近づいていくと、自然と何かしらのレッスンが始まった。
これが意外と楽しかった。
今日はキッチンに婆ちゃんがいたので、料理を教えてもらうことになった。
とは言っても、以前一回だけ包丁を持たせてもらったら、あまりにも危なっかしいということですぐ取り上げられてしまった。
今はただ料理するようすを眺めて、婆ちゃんの手際のよさに感心したり、レシピを見て覚えるくらいしかさせてもらえなくなってしまった。
とはいえ、さて、今日の夕飯は何だろう?
婆ちゃんは、昼に買った魚に塩コショウを目分量でパッパと振ると、フライパンにオリーブオイルをひいて熱した。
魚をフライパンに投入し、両面こんがりと焼くと、そこにタマネギ、トマト、オリーブ、にんにく、唐辛子を入れて炒めていく。
ある程度火が通ったところで白ワインを加え、フライパンに蓋をし、蒸し焼きにして魚にしっかり火を通せば完成だ。
手順はこれだけだし、時間もそれほど掛からない。
だがこれがやたらと美味いのだ。口に入れると白身魚がホロホロとくずれ、野菜の甘みとワインのコクをしっかりと伝えてくる。全体としてはあっさりした味なのだが、にんにくと唐辛子がピリッときいているおかげで、いくら食べても飽きがこない。
魚の質もいいのだろうけど、俺が同じ材料と手順で作っても同じ味になるとは思えないから不思議だ。
前世ではよくチャーハンを作っていたが、レシピどおりに作ったはずなのに、なぜかねっとりとした食感になった上、味がほとんどしないものが出来上がった。
まあ、それは極端な例としても、上手な人には上手な人なりの勘のようなものがあるのだろう。
それもまた一つの魔法みたいなものだ。
平穏な生活が数ヶ月も続くと、俺も徐々にこの世界に慣れてきた。
一人で外に出れば、近所のおばちゃんからよく挨拶された。この町の人たちも、徐々に俺の存在に慣れてきたというわけだ。
時には、同い年くらいの小さな子どもたちと遊ぶこともあった。前世で子どもの頃よくやった懐かしい遊びを教えてやると、結構喜ばれた。
はしゃぐ子どもたちが可愛らしくて、調子に乗って色々教えていたが、たか鬼、これは失敗だった。
たか鬼のルールでは、高い場所にいる人を、鬼はタッチできない。逆に人間側は、高い場所にいられる時間にはタイムリミットがあるので、なんとか鬼の不意をついて高いところから降りて、別の高所に避難しなくちゃならない。
前世では、ちょっとした手すりや、縁石なんかを上手くつかって鬼から逃げていたものだ。
だが、この町は前も言ったように、頂上の領主の城に向かって町全体が緩い上り坂になっている。
俺の説明も悪かったのかもしれないが、やってみようということになって始まった瞬間から、俺たちは長く続く上り坂を延々と追いかけっこするはめになった。
何度か鬼を交代しながら頂上にたどり着く頃には、全員が汗まみれで死にそうな顔をしていたのをよく覚えている。
それでいて子どもたちは、このたか鬼が気に入ったらしく、俺が一緒に遊ぶときにもよく誘ってくる。一体なにがそんなに楽しかったのだろう?
俺は今でもやつらから、たか鬼に誘われるたびに首をひねる。
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