短いお別れ
合格発表を待つ受験生の気分は、二十年近く経った今でも俺の心をかき乱した。
合格だと決まれば引越しの準備にかかれるし、不合格だとしても奉公先の面接に専念できる。何も出来ないまま、ただ宙ぶらりんな状態で結果を待ち続けるしかない現状が、最も精神力を削られる。
分かっていたことではあったが、実際これは拷問に等しかった。
奉公先の面接では、計算や言葉遣いのテストが終われば、その場で結果を知らされる。
前世と違って労働者の権利などないも同然だから、雇う側はダメなら解雇すればいいと思っているせいだろう。
おかげで子ども達は安い賃金でこき使われるわけだが、反面、別の職場でヘマをしたり、長いブランクがあったりしても、どこかしらに受け皿があるという利点もある。
ところが貴族社会においては、事はそう簡単ではない。
使用人一人紹介するにしても、家柄や素行の調査は徹底的だ。何しろ、紹介状を書けばそこに家名の入った印が押されることになる。評価を見誤れば、その名誉に傷すらつきかねない。
そう考えればオデラさんは、一度しか会ったことのない俺のために相当なリスクを負ったことになる。
俺を推薦してくれる理由を尋ねたときには、「半分は私にも分からない」などと嘯いていたが、オデラさんは何の見返りもなく善意を振りまくタイプには見えないわけで、その言葉をそのまま信じるほど俺もバカではない。
これはただの推測だが、恐らくエリグール魔術学院はアリアを招聘したかったのではないか。
だが、アリアを自分の後継者にしたいオデラさんはそれを断る口実を探していた。あるいはアリア自身が嫌がったのかもしれないが、とにかく、アリアよりも難しい本が読めて、なおかつ魔術に興味がある俺という存在は渡りに船だった可能性がある。
俺の論文は、オデラさんによって一度検められているはずで、そこであまりにも酷い出来ならば論文は送らず、こちらに不合格を通知をすればいい。
もちろん、オデラさんは第二、第三の案を用意したはずだ。
まあ、提案を受け入れ、論文を提出してしまった後では考えても詮無いことではあった。
論文の提出から一週間後の夜、セルティア家の執事がうちのドアをノックした。
ドアを開ければ、現れたのはもはや見知った顔だった。三度目ともなれば慣れたものなのか、向こうは以前よりぐっと気安い笑みを浮かべていた。
「夜分遅くに失礼いたします。セルティア家の者ですが、オデラ=セルティアより言付けがございます」
「承ります」
「例の件について結果を自分の口から伝えたいとのことでした。つきましては、大変恐れ入りますが城の方へご足労願えないでしょうか? 日時は、明日の午後八時。当家から馬車で迎えを出します」
「かしこまりました。特別なご配慮に感謝するとお伝えください」
「では、そのように」
城へ続く坂を上っていく執事さんの背中を見送りながら、俺は思わずため息をついた。
ここまで来たら、もういっそ結果を伝えて欲しかった……
次の日、時計と睨めっこしながらまんじりともせず待っていると、約束の時間の少し前に馬車馬の足音が聞こえた。
思わず立ち上がって迎えに出ようとしたが、「少し落ちつけ」と爺ちゃんに制止されてしまった。
とはいえ、そういう爺ちゃんの方も普段よりはいくらか落ち着きを欠いている。
迎えに来た執事さんは、馬車の扉を開けて俺を中へと促すと、自分は御車台に腰掛けた。
「ハッ!」
鋭い掛け声が夜の空気に吸い込まれると、馬車は軽快な足取りで走り始める。
車内は、車輪が石畳の路面を乗り越える際の振動と騒音に包まれたが、座席がふかふかなおかげで、そこに体重を預けてしまえば居心地は悪くない。
馬車に取り付けられた小窓から外をのぞけば、城へ近づくに従って眼下にはサルティの夜景が広がっていった。
ひしめき合う民家から漏れ出るジェムの光は、前世の蛍光灯のネオンに比べればずっと弱々しかったが、それだけにその仄かな明かりが身を寄せ合う姿には素朴な温かみが感じられた。
――美しい町だな――
胸に去来したその感慨は、そう、俺が初めてこの町を見たときとまるで同じものだった。
城門をくぐり、中庭を抜けた馬車は、城の玄関前でやっとその足を止めた。
執事さんが御車台から降りて、ドアを開けてくれる。
「こちらへ、オデラ=セルティアがお待ちです」
「恐れ入ります」
通されたのは、前回と同じオデラさんの執務室だった。今回は先客はいないようで、先に待合室へ入った執事さんが、執務室のドアをノックした。
「入りたまえ」の声が中から聞こえると、執事さんは恭しく一礼をして待合室を出て行く。
「失礼します」と声をかけてから執務室へ足を踏み入れると、机の向こうで何やら書類に目を通していたオデラさんが顔を上げた。
「このような時間に呼び立ててしまい、申し訳ない」
「いえ、領主様がご多忙なのは存じ上げております」
「エリグールへの推薦の話も、元はといえばこちらの身勝手な提案だ。貴族が平民の好意に甘えているようでは……いや、これ以上言い募ってもカディナ君に気を使わせるだけか。さらにこの上、気をもませるのも忍びない。エリグールからの結果を伝えよう、用意はいいかね?」
「はい」
応える俺の声は、情けなくなるほど震えていた。
「カディナ=モーリア、おめでとう。きみはエリグール魔術学院への入学を許された。就学期間中の生活費、及び学費はこのセルティア家が保障しよう。エリグールでの活躍、期待しているよ」
「……ありがとうございます」
結果を聞いてしまうと、途端に肩の力が抜けた。喜びに頬が緩んだが、同時に、ここを離れたくないという気持ちが湧き上がってくるのを抑えることもできなかった。
オデラさんが席を立ち、そばに寄って俺の手を取った。
「誠心誠意、勉学に励みます」
「そうして欲しい」
顔を見合わせ、お互いの顔に浮かんだ苦笑を確認したところで、不意に執務室のドアがノックされた。
「ご面談中に失礼いたします、領主様のお耳に入れたいことが」
「カディナ君、悪いが何かあったようだ。詳細は追って連絡しよう。今、馬車を用意させるから、少し待ってくれたまえ」
「いえ、それには及びません。今は、サルティの夜景を眺めながら歩いて帰りたい気分です」
「……そうかね? 夜の一人歩きは感心しないが……どうしてもと言うなら、裏通りは避けるように」
「ええ、そのつもりです」
感謝の気持ちと、別れの言葉をオデラさんに告げて執務室を出ると、ドアの脇には執事さんが控えていた。
「いい知らせだったようですね」
向こうから話かけてくれたのは初めてだったので、俺は少し面食らってしまった。
「ええ、本日はありがとうございました」
「いえ、領主様にお伝えしなければならないことがありますので、馬車は少々お待ちください」
歩いて帰る旨を伝えると、執事さんは笑みを崩さずに頷いた。
「では、くれぐれもお気をつけください」
そう言って、執務室へ入っていく。
俺は胸に渦巻く何ともいえない気持ちを少し吐き出すように嘆息すると、待合室のドアを開けた。
散在するランタンに照らされた中庭を抜け、警備の人に城門を開けてもらえば、サルティの夜景はもう目の前に広がっていた。
馬車の窓から覗くのとは違って、視界いっぱいに広がる町の灯が、その向こうにある海の水面に映って波のリズムに揺れている。
「カディナさん!」
背後から声がかかって振り向けば、リリアが息を切らしながらこちらへ駆けて来ていた。
「リリア!」
「カディナさん……はぁ、はぁ……あの、エリグールの入学試験の結果は? どうなったんですか?」
「うん、合格だった。リリアが応援してくれたおかげかな」
「そんな……わたしなんて……その……おめでとう、ございます」
瞳を潤ませながら、リリアがお祝いの言葉を送ってくれた。
「ありがとう」
あまり実感も湧かないまま、無意識にそんなお礼の言葉が口をついた。
途端、リリアが俺の胸の中に飛び込んでくる。
ビスカと暮らした一週間で、こんなシチュエーションにも慣れたと思っていたが、抱きとめたリリアの体はビスカよりもずっと華奢で、俺はおっかなびっくりその肩に手を置くことしかできなかった。
「わたし……カディナさんがエリグールに受からなかったら、そしたらまた一緒にいられるなんて考えていて……でも、カディナさんに自分の好きなこと諦めて欲しくもなくて……」
「ありがとう」という言葉が、今度は胸の奥から自然に転がり出た。
「僕もリリアや、ほかの人たちと別れるの寂しい。でも前も言ったように、夏と冬の休暇には帰ってくるし、また会えるよ」
「憧れていたんです……わたし、カディナさんに……自分の好きなことに没頭して、お姉さまよりも先を歩む人、そんな人ほかに知らないから。だから、わたしもカディナさんみたいになりたくて、色々本を読んだりして……でも、カディナさんはわたしが思っていたよりずっと凄い人だった。エリグールの魔術学院に受かるなんて、わたしとても……」
リリアが問題にしているのは、物理的な距離だけじゃないのだろう。その根っこは、アリアへのコンプレックスにあるような気がする。
冷たい言い方をしてしまえば、それはリリア本人が乗り越えるべき問題だ。けれど、だからといって苦しんでいるリリアを放っておくことはできなかった。
俺はリリアの背中に腕を回し、その頭を撫でる。
「リリア、演奏会のときはありがとう」
「えっ?」
「慣れない貴族の集まりで僕が困っていたとき、一番最初に助けてくれたのがリリアだった。オデラさんに話しかけられたときも、ずっと傍にいてくれようとしたよね?」
「そんなの……誰だってそうします」
「そんなことはないさ。仮にそうだとしても、やっぱりあの時、僕を助けてくれたのはリリアだったんだよ。人生の一瞬一瞬に、同じものは二度とない。足踏みをしていたって時間は流れていくから、後悔をしないように生きていくには、望まないお別れをしなくちゃいけないときもあるんだ」
「短いお別れ、なんですよね?」
「そうさ。さよならを言うのは、死んでしまうのとは違うんだから」
リリアが涙を拭う。
俺はその背中から手を離した。
「あの……お話しは終わりましたか?」
呆れたような声に顔を上げれば、アリアが気まずそうな表情で自分の毛先を弄っていた。
「おっ、お姉さま!? いつからそこに?」
「ええと……カディナが合格だって言った辺りからですわね」
序盤も序盤じゃねーか。
俺とリリアが恥ずかしさから黙ってしまうと、アリアはふっと微笑んだ。
「まあいいですわ、何だかんだと長い付き合いでしたものね。カディナ、合格おめでとうございます」
「ありがとう」
「それでその……感動のお別れの後で申し訳ないのですが、その短いお別れ、もう一日だけ短くなりそうです」
「どういうこと?」
「先ほどお父様に呼ばれて話を聞いたのですが、どうやら、わたくしとリリアで王都へ行くことになりそうなんです」
「二人だけで? オデラさんとセルバさんは?」
「お母様はすでに王都にいるのです。貴族の付き合いというやつですわね、今日もパーティーに出席していたのですが、そこでまた別のパーティーに誘われてしまって」
「よくあることなんじゃないの?」
「ええ、本当によくあることなのですが……どうやら今度のパーティーには王族も何人か出席するようなのです。となれば当然、お母様だけが出席というわけにはいきません。それが何故か今になって分かったので、お母様はあわてて使いを走らせたようです」
「うわぁ……」
連絡の行き違いなのか、何かしらの嫌がらせなのか知らないが、聞いているだけで胃が痛くなりそうだった。
「で、わたくしとリリアが出発する日が、カディナがエリグールへ出発する日と同じなのです」
エリグール魔術学院のあるノーリッツ領は、確かサルティから王都を抜けた先だ。
「……いや待って、出発っていつなの?」
「五日後です」
「良かった……わりと余裕がある」
「カディナにはいつもギリギリでのお知らせになっているようで、申し訳ありません」
「いや、これだけの条件で通わせてもらって、文句を言うわけにはいかないよ。ということは、本格的なさよならは汽車の中か」
「ええ、忙しないでしょうが、そうなりそうですね」
「なら、僕はもう帰るよ。爺ちゃんと婆ちゃんも、やきもきしながら待っているだろうし」
「ふふふ、そうでしょうね。気をつけてお帰りください」
坂を少し下って振り返ると、アリアとリリアはまだそこにいて、手を振ってくれた。
俺も手を振り返す。
「カディナ!」
「なに?」
「リリアのこと、そう簡単には渡しませんわよ! わたくしの可愛い妹なんですから!」
アリアは、そう言うとリリアを後ろから抱きすくめた。リリアはぎょっとして後ろを振り向く。
「ちょっと、お姉さま!?」
「仲睦まじい姉妹の邪魔をするつもりはないよ。じゃあ、またね」
更新、遅くなってしまいました。
ブックマークありがとうございます。
これで一章は完結となります。
次回からは二章ですが、ストックがないので書き溜めの時間をいただきます。
展開も遅く、説明が長々と続く小説に十万字も付き合ってくださった方々には感謝しかありません。ありがとうございました!
もしよろしければ、引き続き二章もお付き合いください。




