死闘
アルコンの瞳が放つ赤い光が、長い尾を引いて伸びた。
風を纏った巨体が、地を滑るように駆け出している。重さを感じさせないその歩様は助走を必要とせず、二度も地を蹴れば、すでにトップスピードに達していた。
「こちらへ寄ってください!」
コルネリオの声に慌てて身を寄せれば、彼は短く呪文を唱えて杖を振った。
数歩先で大地が抉れるようにして盛り上がり、そこに分厚い土の壁が出来上がっていた。風が止んだ、そう思った次の瞬間には、アルコンの鋭い爪が、壁を容易く切り裂いていた。
とはいえ、壁は魔物の足を止めていた。こちらの攻撃を阻む風の勢いも、壁の残骸によって弱まっている。オッドとモードがその機を逃すはずはなかった。
合図すらなくとも、すでに二人は同時にアルコンの懐へ飛び込んでいる。
「うおおおおおお!」
モードが低く咆えながら、自分の身長ほどもある大剣を振り下ろす。だが、刀身の大きい大剣はその分風の影響を受けやすかった。壁の裂け目から吹き込む魔物の風によって、モードの剣筋は大きく逸れてしまった。
「チッ! これじゃあ自慢の大剣が使い物にならねえな」
吐き捨てるようにそう言うと、一番手に馴染んでいるはずの武器をあっさりと捨て去る。
腰の鞘から剣を抜き払い、鞘の方は大剣と同じように放り投げた。
アルコンがバックステップで距離を取る。二人は深追いをするほど愚かではなかった。
「コルネリオ、もう一度同じことが出来るか?」
オッドが冷静にそう尋ねる。
「承りました。ですが、何度も手の内を見せれば、獣といえども学習しますよ?」
「問題ない。次で仕留める」
「ははあ、それは心強いことで」
軽い口調は相変わらずだが、コルネリオの目はすでに笑ってはいない。先ほどの土の魔法、足止めとしては、距離、タイミング共に完璧に近かった。神業と呼ばれる類の仕事は、いつだって何でもないことのように行われるものだ。
――お前は、ここに見学に来たわけじゃないんだぞ――私は自分にそう言い聞かせる。
オッドとモードには長年の間に培った連携がある。となれば、私に出来るのは、それを邪魔しないよう、あの二人が仕損じた場合に備えておくことだ。
高ぶって荒くなっていた呼吸をなだめ、深く息を吐く。
剣の柄を握り直せば、
「来ますよ」
もはや遊びのなくなったコルネリオの声がした。
風が唸りをあげて荒れ狂い、その勢いを駆ってアルコンが猪突して来る。
ぐっと身を寄せれば、コルネリオの呟きが聞こえる
「まだ……まだ……」
そして素早い呪文の詠唱――土の壁がせり上がる。だが、今度は爪の一撃はない。一拍置いて、魔物の咆哮が空気を震わせた。何かがおかしい。
四人ともに異変に気付いていたが、誰より早く状況を把握し、行動を起こしたのはコルネリオだった。
「やつの魔法が来ます! 散開して!」
叫びながらすでに飛び退っている。壁の向こうに嫌な気配を感じた私は、ためらいもせず、彼に倣った。オッドとモードは一瞬の逡巡の後でだが、やはり同じように横に飛ぶ。
着地の衝撃が来るより前に、背後を壮絶な空気の波濤が渡っていった。着地と同時にチェストプレートに衝撃が走り、息が詰まる。それでも振り向かずにはいられなかった。
今さっきまで我々がいた場所には、強大な力が地面を抉り取っていった跡が残されていた。土の壁は跡形もなく消え去り、アルコンの魔法が残した破壊の跡は、木々をなぎ倒しながら目の届く限り続いていた。
「獣の分際で頭が回るようですね」
「それにしても、何て威力だ」
「見とれている暇はないぞ、構えろ」
呆然と呟くモードを、オッドが叱咤する。
「オッドさん! 三人で、やつの足を狙って攻撃できますか?」
「無理だと言ってもやるしかないんだろう? だが、なぜだ?」
「持久戦ですよ。あの威力の魔法なら、あと二三発も使わせれば打ち止めだ。魔物というのは、確かに相当量の魔力を保持していますし、使う魔法も強力ですが、一度魔力を使い切ってしまえば、回復するには人間以上に時間がかかるのです」
「で、コルネリオ、お前の魔力はどうなんだ?」
「いやあ、痛いところを突きますね。おかげさまで、杖に蓄えていた魔力はすっからかんです。ですが、私自身の魔力は満タンですから、これからが魔術師コルネリオ=アノの本領発揮といったところです」
「そいつは頼もしい」
「ただし、魔法の威力は先ほどの三分の一程度になるとお考えください」
腕をぐるぐると回すコルネリオを横目に見ながら、オッドが苦笑する。
「そういや、そいういう奴だったな、お前は」
「お褒めの言葉と受け取っておきますよ。どちらにせよ、もう土の壁は使えません。あんな方法で突破されてしまっては、もはや視界をふさぐだけですからね。その代わり……」
アルコンが地を蹴った。それと同時に、私たちも散開する。
コルネリオは走りながら器用に呪文を唱え、さっと腕を振る。無骨な土塊が地面から突き出し、アルコンのわき腹にぶち当たった。風によっていくらか威力は弱まっていただろうが、それでも、アルコンの巨体がわずかによろめく。
私もすでに覚悟を決めていた。全速力で魔物に駆け寄り、足の関節に一撃を加える。気まぐれな風に右へ左へと翻弄されているため、私の剣はアルコンの硬い皮膚に浅い傷をつけるのが精一杯だった。
とはいえ、そう何発も叩き込んでいる時間はない。反撃を受けないうちに、急いで間合いを取る。
「風のせいで剣が通らない」
思わず独りごちる。
「かまいません。少しでも傷をつければ、獣は冷静な判断ができなくなる。もっと怒らせて、魔法を使わせましょう。ただし、魔法の回避は自己責任でお願いしますよ」
コルネリオの言葉通り、アルコンは憎悪に満ちた目をこちらへ向けた。だが、戦闘の高揚感が恐れを忘れさせてくれる。
心臓が早鐘を打ち、首の辺りに熱を感じる。こんな状況で笑いたい気持ちになっている自分を、深く戒めた。
長い髪を振り乱して地を蹴る獣からは、またあの嫌な気配が漂っている。
「魔法が来ます! 注意して!」
叫びながら、私も駆け出している。魔物はまっすぐにこちらへ向かって来ていた。コルネリオが補助してくれるはずだと信じて、迎え撃つ。左右からは、オッドとモードも必死の形相で間合いを詰めてくるのが見えた。
嫌な予感が膨れ上がり、私は横っ飛びに飛んだ。だが、アルコンは器用に首をめぐらせると、右からやってくるモードへ向かって魔法を放つ。
フェイント? いやおそらくは、私が飛んだのが早すぎたのだろう。魔法が当たらないと判断したアルコンは、咄嗟にその標的を変えたのだ。
「チイッ!」
魔法が発動する直前には、一瞬の間がある。モードもそれを利用して飛び退ったが、それでも間に合わない。直撃こそ避けたものの、右の足首から先をもっていかれた。
押し殺した悲鳴を上げながら地に伏したモードの足からは、大量の血液が流れだしている。
風の魔法の反動で、アルコンの巨体が地を滑り、モードの反対側から迫っていたオッドとすれ違う。オッドはすれ違いざまに剣を振るったが、届かない。
爪を地面に食い込ませ、反動を殺すと、アルコンは続けざまに二発目の魔法を放つ。
射線にはオッドと、コルネリオ。
コルネリオはすぐさま回避行動を取っていたが、オッドはこれほどすぐに二発目が来ることを想定していなかったのだろう、動き出しが遅れた。球形に圧縮された空気が、自らの枠の内側で荒れ狂いながら進み、オッドの左腕を引きちぎっていった。
オッドの肩から噴出した血を吸って、アルコンの魔法が赤く染まる。あまりの痛みに膝をついたオッドへ、アルコンは風に乗って突進し、爪の一撃を繰り出す。
オッドは動かない――爪は、少し厚めの紙を貫くかのように、易々とオッド体を貫通した。その背中から血が溢れ出し、地面を赤黒く染めていく。
だが、最期の瞬間、オッドは右手に握っていた剣をアルコンの前足に突き立てた。獣は痛みに声を上げ、オッドの身体から爪を引き抜こうとするが、深く刺さった剣がつかえて、なかなか抜けないでいる。
アルコンがその前足を振る度、すでに事切れているであろうオッドの身体はおもちゃのようにガクガクと前後に揺れた。
「あと一回、やつに魔法を使わせれば、それであいつは図体がでかいだけの獣に成り下がります。ここで仕留めましょう」
コルネリオの静かな声に頷く。
「ああ、やろう」
モードはまだ生きてはいるが、戦力としては数えられない。それは本人も分かっているのだろう、匍匐前進で戦場から離れようとしている。
コルネリオと二人でやるしかない。
ようやくのことでオッドの遺体を振り払ったアルコンは、殺意のこもった目で私たちを見た。
赤い輝きが揺れる――風を纏い、跳躍して一息に距離を詰めてくる。
コルネリオの呪文が発動し、魔物の身体に土塊がぶつかっていく。だが、先ほどのようにやつの身体をよろめかせはしなかった。
それでも、攻撃の勢いは確実に落ちている。怒りに我を忘れたアルコンは、それに気付かない。
それが獣の弱点だ。
半歩下がって、前足の一撃を紙一重で避ける。突き出されたその前足には、オッドが残した傷があった。私は迷わず、その傷の上に渾身の剣を振るう。
「おおおおおおお!」
すでに裂け目のできていた肉をさらに切り裂き、剣先は太い骨の中ほどまでを割った。
森の果てまで届きそうな音量で、アルコンが絶叫する。
もう、やつの目には私の姿しか映ってない。こちらを噛み殺そうと、鋭い牙が迫る。抜けなくなった剣から手を離し、バックステップ。だが、タイミングが一瞬遅れた。
間に合わない?
とっさに懐からジェムを取り出し、その表面に触れながら、目を瞑り、手を伸ばす。爆発的な光が弾け、瞼の裏を赤く染める。一瞬の間を置いて、ゆっくりと目を開けると、魔物はほんの数メートル先で激しく頭を振っていた。
混乱、苦痛、苛立ち、さまざまな負の感情がアルコンを責め苛んでいる。群れの秩序に縛れるわけでもなく、森の動物たちはみな自分よりも弱い餌でしかなかった。そんな一匹の獣にとって、今やつが置かれている状況と、そこから湧き出る感情は、初めてのものだろう。
それだけに、受け入れがたいのだ。
錯乱したアルコンの周囲で、風が戸惑うように渦を巻く。それと同時に、私の背筋を冷たいものが走った。
魔法を使う気だ。咆哮に応えるように空気が圧縮されていく。だが、アルコンはすでにこちらを見ていない。それどころか、その瞳にはすでに何も映っていないのかもしれなかった。
放たれた魔法は、明後日の方へ飛んでいく。威力も大分弱まり、地表の土を浅く削り取っていくだけだ。だが、
「いけない!」
叫ぶやいなや、コルネリオが呪文を唱え始める。風の魔法の進路の先には、モードがいた。這って進むモードは顔色も青白く、その歩みは頼りない。魔法を避けるほどの体力など、もう残っていないのは明らかだった。
コルネリオが素早く魔術を完成させた。土塊を当てて、何とかモードを魔法の射線から外そうとしたが、遅すぎた。
モードの身体を飲み込んだ魔法は、赤く変色しながらのろのろと進み、弾けた。
威力が弱まっていたとはいえ、人間の体ではひとたまりもない。モードの肉体は、ほとんど跡形も残らなかった。
風が止んだ。アルコンを包んでいた風が、唐突に消えた。もはや魔物は、強大な魔力の全てを使い果たし、いくらか凶暴なだけの動物に成り下がった。
瞬間、私は自らの内側から突き上げてくるような怒りに導かれるままに、駆け出していた。
モードが投げ出した大剣を拾い上げると、両手でその柄を握り締め、アルコンへ迫った。
風の鎧を失ったことで我に返ったのか、アルコンは牙を剥いて威嚇した。
だが、もはや魔法は使えず、前足は片方が潰れている。恐れる要素は何もなかった。
アルコンは傷のない方の腕で攻撃をしようとした。だが、踏ん張りがきかず体勢は不安定になり、その速度も威力も失笑ものだった。身を低くして避わし、赤い瞳を斜めに突き上げる。だが、刀身の大きさが災いして、剣が頭蓋に引っかかり、奥へ入っていかない。
全体重をのせて、剣の柄に力を込める。数ミリ、また数ミリと刀身がアルコンの眼球に埋まっていく。アルコンが前足を、私の腕にかける。その爪が、右肘のプロテクターを固定した革の帯を裂き、皮膚に食い込んできた。
激痛。肘に熱い血が流れるのを感じ、それと同時に力が入らなくなる。
「いいかげんに……くたばれっ!」
柄から手を離し、アルコンの爪を振り払う。その時、爪が肉の一部を抉っていったが、もはや痛みなど、どうでもよかった。剣の柄の先端を足で踏みつけると、硬いものが砕ける鈍い音がして、剣先が柔らかなものを蹂躙していく感触が伝わった。
刀身が七割ほどアルコンの頭の中に埋まると、それでやっと魔物は動きを止めた。
コルネリオが駆け寄ってきて、私の横に跪いた。
「大丈夫ですか? いえ、大丈夫ではありませんね」
「おっしゃる通りだ、魔術師殿」
「殿は結構と言ったはずですよ、歩けそうですか?」
「痛みで気を失わなければな」
私の右腕は、繋がっているのが不思議な状態だった。筋肉が思ったより盛大に裂けていて、内側の骨が露出している。
「お待ちを、回復の魔法を使います」
「魔法というのは、何でもできるんだな……」
何気ない呟きを、コルネリオはあっさりと否定した。
「残念ながらそういうわけにはいきません。他の皆さんを死者の国から呼び戻すことは出来ませんし、トニオさん、あなたの腕も以前のように剣を振るうことはできないでしょう」
「そうか……」
目を閉じれば、自然と涙がこぼれた。
コルネリオが呪文の詠唱を始める。その声は戦闘の時とは打って変わって、ひどく優しく、まるで小さな子供に寝物語を読み聞かせているかのようだった。
「癒せ、癒せ、誤りに満ちた現の時よ去れ。甘き香りに満ちた夢の果実よ、どうか正しき配列を」
トニオの視点はここまで、次回からはまたカディナ視点に戻ります。
次回は『魔術史 第六巻』です。




