魔物をめぐる祖父の冒険【1】
これからの数パートは主人公カディナの視点ではなく、爺ちゃんの視点になります。
婆さんは、いつもより早く床に着いた。あれも大分ビスカに振り回されたくちだから、一週間分の疲れが出たのだろう。
疲れてはいるものの、話した限り大事はなさそうだったので安心した。
ジェムに手を触れ、居間に明かりを灯す。一人でお湯を沸かし、茶を淹れた。
いつかこんな風に一人で暮らす日々も訪れるのかもしれない。先に死ぬのは、わしか、婆さんか。
いいことも、悪いことも、全てが恐ろしいスピードで過ぎ去っていく。それがこの世の理だ。
若い頃は、未来にこそ光があった。泥沼でもがくような日々にあっても、がむしゃらに努力し、手を伸ばせば、いつかは夢にみた生活に手が届くはずだと、そう信じることが出来た。
だが、今は違う。輝ける未来だと思っていたものを、わしはとうの昔に通り過ぎていて、それはいつの間にか過去の栄光と呼ばれるようになっていた。
わしの先には、過去からの光を受けて長く伸びる、自分自身の影しかもう見えない。
何もかも昔の方がよかったと、そう叫び出したくなるような暗い衝動に貫かれる瞬間は、今でもある。
けれど、カディナや、ビスカ、それにアリアさんといった子供たちが、あれほど素直に、あれほど驚異的な速度で成長していくのを見せられれば、そう、未来も捨てたものじゃないと年甲斐もなく信じてみたくもなる。
願わくは、あの子たちの成長を出来るだけ長くこの目で見ていたいものだ。
一人柄にもなく感傷に浸っていると、廊下からカディナが顔を出した。
「婆ちゃんは?」
「この一週間、ビスカに振り回されっぱなしだったからな。疲れが出たのだろう、先に眠ったよ」
「そう……爺ちゃん、この前の話覚えてる?」
そう問いかけられて思い返してみたが、すぐには出てこない。喉元に言葉が引っかかるような感覚は、今ではもう馴染みのものだ。自分の記憶力に信頼を置ける歳でもないので、わしは素直に謝った。
「すまん、何か約束をしたことは覚えているんだが……」
「爺ちゃんが若い頃、魔物と戦った時のことを話してくれるって」
「おお、そうだったな。じじいの昔話なぞ聞いてなにが楽しいのか知らんが、まあいいだろう。今日はもう遅い、明日にしようか」
だが、カディナはかぶりを振ってわしを見据える。その眼差しは、あまりにも真剣だった。
子供が魔物退治の物語をせがむ時に見せる期待や憧れの表情とは、あまりに遠く隔てられた、悲痛さすら感じさせる表情に、わしは少なからずたじろいだ。
「お前は一体、何が知りたいんだ?」
相手が小さな子供であることも忘れて、思わずそう尋ねてしまう。
しかし、それを言うならカディナの方も、わしのそんな言葉にまるで動じていないのだ。
「わからない……肝心な部分のピースが足りない、パズルみたいな感じなんだよ。それに僕自身、自分が本当にそれを知りたいのかすら、自信がなくて……ただ、知らなくちゃいけないって、そう強く思うんだ。だって……たぶん、これは僕にしか考え付かないことだから」
――僕にしか考え付かないことだから――か、何か確信があるかのような口振りだ。
サルティにやってきた時から、カディナは底知れない子供だった。言葉への異常なこだわりを持ち、四歳や五歳で大人顔負けの話し方をした。
わしも婆さんも、あまりにも近くでその成長を見ているからか、時にその非凡さを忘れがちだ。
だが、同年代の子供と並べば、その落ち着き払った態度や、達観した物言いはやはり際立つし、こうやって差し向かいに話せば美しいエメラルドの瞳の奥には、この世ならざるような苛烈な知性のひらめきすら感じられる。
アリアさんや、その妹さんが、カディナのことを気にかけているのは、この子のそういった部分を敏感に感じ取っているからに違いない。
「そう、ならば今から始めていいんだな?」
「うん、お願いします」
記憶というのは不思議なもので、例えば数日前の食事のことなどはすっかり忘れ去っているのに、何十年も前の思い出は、まるで昨日のことのように鮮やかに思い起こせる。
一つまた一つと記憶の糸を手繰れば、白と黒でしかなったあの日の映像に色がのっていく。
カディナにとって何が重要なのか、それはわしにも分からない。だとすれば、細かいことでも、出来る限りのことを思い出してみるとしよう……
――わしも幼い頃はカディナと同じように、自分のことを『僕』と呼んでいた。あまりにも昔のこと過ぎて、自分でも信じられないような気すらするが、確かにそんな時期もあったのだ。
何年かして悪ガキに成長すれば、今度は『俺』だった。
十五で王都の軍へ入隊すると、生意気な口を利くたびに先輩たちから叩きのめされ、おかげで生傷は絶えなかったが、損得を計算して話し方を変えるくらいの知恵はついた。
十年も世間の波に揉まれる間には、徐々に大人としての自覚も芽生え、やがて自分のことを『私』と呼ぶようになる頃には、思春期の荒々しさもひとしきり落ち着いていた。
軍では、独り身の身軽さを理由に任地を何度も変えられ、ここ数年は、ほとんど数カ月おきに国内をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている有様だった。
ここ国境の町アリフローズには赴任して四ヶ月になる。国境とは言っても、隣国との関係はすこぶる良好で、国境線を挟んで向こう側の兵士たちとは、笑顔で敬礼を交わすようなことも度々あった。
国の外れの田舎町での生活は、どこまでも平穏なものだった。その生活に特に不満があったわけではない。けれど、果てしなく続く退屈な日々は、徐々に心の芯までを腐食させていき、やがて兵士たちの心から危機感というものを奪い去っていった。
警備隊と軍が合同で行う訓練は身体をいじめ抜くような厳しいものだったし、兵士たちもみなそれぞれに勤勉だったが、彼らは実践の厳しさを知る機会もなく、訓練の相手も身内ばかりなので、その錬度はお世辞にも高いとは言えなかった。
国境の町といっても、ここは外交の中心ではない。我々はせいぜいドアマンに過ぎず、王都の政治家たちが決めたとおりに、黙ってドアを開け閉めするのがその仕事だった。
情報の流入も遅いため、外交や政治といった話題から隔絶されたこの町では、人々の興味と関心は、金と色恋に絡んだゴシップに集中していた。
街角や路地のそこここで、老若男女がかどをつき合わせて噂話に興じる様子は、異様といえば異様だったが、古い書物を紐解けば分かるように、太古の昔から人々はそのようにして短い人生の時間を浪費して生きてきたのだ。
だが、そんな平和な町の空気に、ある日鑿の一撃が加えられた。
隣町の兵士が息も絶え絶えにこの町へ転がり込んできて、魔物出現の報を知らせたのだ。
乾いて赤黒く変色した血と、泥にまみれたその伝令兵は、遠目には荷馬車から転がり落ちたずた袋か何かに見えた。私も、彼の腕にぱっくりと開いた大きな傷がなければ、人間だとは気付かなかったかもしれない。
水を与えられ医者へと運ばれる前に、彼はなけなしの力を振り絞って私たちに手紙を差し出した。
懐にしまっていたからだろう、汗と血にぬれてはいたが、封を開けば中は判読に耐えた。
要約すれば、このアリフローズと隣町カネンの間にある森――といっても二つの町の間は、その大半が森林地帯に覆われていたが――に魔物が出没した。相手はたった一頭だが、カネンの警備隊では太刀打ちできそうないので助力を請うとのことだった。
おそらくは現場で、半狂乱になりながらしたためられた手紙は、その筆跡の乱雑さと紙に滲んだ血液によって、その内容に言葉以上の臨場感を添えていた。
警備隊の宿舎に兵士達が集められ、満員の会議室で手紙の内容が読み上げられると、室内にはどこか戸惑うような空気が広がった。
魔物、と一口に言われても、警備隊にはその姿を見たことのある者すらほとんどいなかったからだ。
そんな中、年配の警備隊長オッド=オルツは苦悩する素振りを見せたのも一瞬、すぐに頭を切り替えると部下達に指示を出し始めた。
「魔物はこちらへ向かってきている可能性もあり、放置は出来ん。討伐隊を組むが、命がけの作戦になるから、志願兵を募る。人員は六名。残念ながら、新人の小僧と妻帯者はお留守番だ。
アーリ! ケット! お前らは他の小僧たちと装備の点検を始めろ。銃はいらんぞ、どうせ奴らには弾なんぞ当たらんからな。それに防具も軽いものを中心に選んでおけ。
ソドカとホボは、嫁さんや子供、他の住民たちを避難させたら、国境の向こうの奴らに魔物が来るかもしれんと教えてやれ。それと、俺達がいない間に、この町に攻め込んで来やがったら後でケツの毛まで毟り取ってやるとな」
指示を受けた隊員たちが三々五々に散っていくと、副隊長のモード=モンがオッドの肩に手を置いた。
「志願しよう。二十年前にはひどい目に合わされたからな、そろそろ仕返しがしたいと思っていた頃だ」
「強がるなよ。あの頃より剣の腕は上がったかもしれんが、身体の方はガタが来てるんだ。年寄りの冷や水で張り切りすぎて、戦う前に怪我でもしてもらっちゃ困る」
「はっ! そいつはお互い様ってやつさ。とはいえ、これが十年早けりゃ軽くひねってやれんだがな、確かにこの歳じゃ少しばかり手こずりそうだ。そういう意味じゃ運がなかったな」
「こうやって生きているだけでも、死んでった奴らよりはマシってもんさ」
二人のやりとりを横目に、私は志願をすべきか悩んでいた。
私は町の警備隊員ではなく、王都から派遣されてきた軍人であり、その使命は基本的には国境の守護、つまり隣国からの侵略に備えることだ。
とはいえ、王都とその近辺では、はっきりと二分されている警備隊と軍の役割だったが、田舎の方ではその区別は曖昧だ。過疎の村では若者の数が減って、少人数の警備隊だけでは治安の維持に不安が残る場合も多い。
アリフローズはそこまで厳しい状況ではないものの、受け継がれてきたこの町のやり方というものがある。ここで生活する以上はそれに従っておくのが賢いやり方だろうと、私は町の見回りなどを頼まれれば、基本的には快く受け入れていた。
それに、国民に危機が迫っているのにそれを見過ごすようでは軍人として失格だろうという思いもあった。魔物と遭遇したことのない私は、それがどれほどの災厄であるのかも知らないままに、手を挙げたのだった。
「私も志願します」
「トニオ、いいのか? お前さんの役職からいえば、ここで命を危険にさらす義理はないはずだ」
「かまいません。相手が魔物だろうが隣国の軍人だろうが、人々の命を守るという点では同じでしょう」
「悪いが遠慮をしていられる状況じゃない。その命、預からせてもらうぞ……ではあと三人! 誰かいないか?」
宿舎の狭い会議室に集まった隊員達の手がいっせいに挙がる。オッドは、その様子を半ば寂しそうな、半ば満足そうな表情で眺めた。
「若造どもが、勇敢なことだ」オッドがそう呟くのと、ノックもなしにドアが開いて、見知らぬ男が
会議室へ入って来たのは、ほぼ同時だった。
「悪いが今は重要な会議中だ」
早く出て行けという圧をかけたオッドの言葉に、その男はまるで動じない。それどころか、笑みさえ浮かべて「存じております」と慇懃な態度で答えた。
小柄な男だった。そして、それ以外には全てにおいて印象の薄い男だった。
男性の平均値をとったような、どこにでもいそうな顔に、高くも低くもない、聞いた端から忘れてしまいそうな声音。
だが、それでいてその男には、どこか見ている人を不安にさせるような不思議な存在感があった。
「先ほど医者へ運ばれていく兵士の方をお見かけしまして、もしかしたら魔物の仕業ではないかと思ったのですが、いかがでしょう?」
「おたくは?」
話の主導権を渡すまいと放たれた短い質問に、男は口の端の笑みを深くする。
「申し遅れました。わたくし、魔術師のコルネリオ=アノと申します。こう見えても今までに何度か魔物とまみえたことがありますので、何かお手伝いが出来るのではないかと参った次第です」
「ふん、コルネリオ=アノと言えば、こんな田舎にもその名がとどろく高名な魔術師だ。で? その魔術師様が一体こんな場所で何をなさっていたので?」
「いやあ、そのような過大な評価をしていただいては照れてしまいますな。本当ならば、ここへ来た目的は他言無用なのですが、緊急時なのでまあいいでしょう。実は……」
コルネリオは軽薄な態度を崩さずに、そこで思わせぶりな間までとってからこう答えた。
「わたしく、隣国へスパイとして潜り込む予定だったのです。ですが、魔物の被害に遭う可能性のある方々を放ってはおけませんので」
これだけ名を知られた人物がスパイもないものだ。正直、全てにおいて胡散臭ささしか感じさせない。だが、もし彼が本物のコルネリオ=アノならば、我々にとってこれ以上ない戦力であろうことも、また事実だった。
魔物との戦闘経験があるのは隊長と副隊長の二人だけのようだし、他の隊員達は経験以前に錬度が足りていない。
オッドはそう長くは悩まなかった。
「ではコルネリオ殿、お願いいたします」
「殿は結構、こちらこそよろしくお願いいたしますよ、オッドさん」
なぜ初対面のはずの警備隊長の名を知っていたのだろう? その疑問はその場にいた全員の頭に浮かんだはずだ。
だが尋ねる時間が無駄だと悟ったのか、コルネリオの飄々とした態度に首を振ったオッドは、志願者の中から残りの二名を素早く選び出した。
「では、後の二人はロレンとパー、お前らだ。残りは住民の避難誘導に回れ。ガキどもが武器と防具を揃えているはずだ。俺達も装備を整えたら、すぐに町を出る。ぐずぐずしている時間はないぞ」
兵士達は弾かれたように立ち上がると、それぞれの仕事を果たすべく散っていった。
志願兵六名がその場に残されると、オッドは何も言わずに頷いた。そして、それを合図に我々もまた会議室を出た。
素敵なレビューのおかげで、沢山の方のに読んでいただけているようで嬉しい悲鳴です。
評価、ブクマもありがとうございます!
トニオ視点のこのパートも、想定よりかなり長くなってしまいました。
次回も引き続き、おっさんばかり出てきます。




