修行の前に
駅からの帰り道、前を行くビスカさんと婆ちゃんの後ろ姿を見守りつつ、俺は爺ちゃんの袖を引っ張った。剣の修行とはどういうことなのか、事情が知りたい。
「爺ちゃん、剣の修行って何?」
爺ちゃんは、さてどうやって言い訳したものかと考えるように、遠い目をする。それから自分の言葉の正確さを確かめようとする人のように、ゆっくりと語り始めた。
「ビスカが剣術を始めたのは、五歳の頃だったか。確か騎士物語の絵本か何かを読んでもらって、それに影響されたらしい。小さな子供というのは、思いつきで何かを始めては、すぐそれに飽きてしまう、そういう生き物だ。だから、わしらも息子夫婦も、どうせすぐ飽きがくるだろうと高をくくっておった。だが……」
「だが?」
「本人はああいうまっすぐな性格だから、わしらが思っていたよりずっと本気だったんだな。誰よりも練習して、ぐんぐん実力を伸ばしていった。お前がまだサルティに来る前、一度息子夫婦のところへ遊びにいったことがあるんだ。そのときに稽古をつけてやったことがあるが、驚いたとも、努力だけじゃなくて才能もある。ただ、去年の剣術大会では決勝で敗れてしまったのさ」
「二位でも十分凄いじゃない」
「確かにそうなんだが、そう言われて本人が納得すると思うか?」
それもそうだ、競技での一位と二位の間には、天と地の開きがある。たとえ実力は拮抗していたとしても、だ。
それに、そもそも大会で決勝戦まで残るほど練習に打ち込んできた子が、二位で満足するわけがない。
「しかも相手は年下、初出場の女の子だぞ? 本人なりに色々思うところはあったはずだが、この程度で折れるたまじゃない。今年の雪辱を誓って、というやつさ」
「でも、それじゃあ僕がいたら邪魔じゃないの? というか爺ちゃん、剣の稽古なんてつけられるの?」
爺ちゃんはニヤリと笑ってみせる。
「つけられるともさ、こう見えても昔は軍にいたんだぞ? 魔物と戦って大怪我をするまでは、腕自慢で通っていたんだ。まあ、短い栄華だったがね、後悔はしとらんよ。考えてみれば、わしが人生で得たかけがえのないものは、ほとんど軍を辞めた後に得たものだ」
「へえ」
「例えば、婆さんもその一つさ」
「うん」
「その頃、婆さんは看護師をしておった。わしは、この世にこんなに優しく美しい人がいるものかと思ったね。そして、婆さんや他の人たちに助けてもらって考え方を変えることができた。
打ちのめされるような苦境に陥ったときにこそ、その人間の真価は発揮される。確かにその通りだ。だが、何もたった一人で、全ての問題に立ち向かう必要はない。それを知ってどれだけ気が楽になったことか。
カディナ、お前にとって読書が大事なように、ビスカにとって剣術は大事なんだよ。だから本当に嫌なら断ってくれても構わないが、できればあの娘を助けてやって欲しい。技術的なことではなくて、精神的なところでな」
「……わかった。じゃあ僕は一回だけ、断じて一回だけビスカさんの修行に付き合うよ」
「お前、思ったより諦めが悪いな」
「だって、読書の時間が……」
爺ちゃんは何かを考えるように、顎をさする。
「なんだ、欲しい本でもあるなら買ってやるぞ?」
「それより、僕は爺ちゃんが魔物と戦ったときの話が聴きたい」
「……そんな昔話を聞いてどうするつもりなんだか……だが、まあいいだろう。ただし修行が終わってからだな」
「うん、それでいいよ」
家に帰り着くなり、ビスカさんは荷物を置いてストレッチを始めた。両足を大きく開いたまま、上半身を床に倒していく。いくら相手は子供とはいえ、あまり凝視していい体勢じゃない。
「汽車の座席がかたくてさ、このままじゃ、まともに動けないよ」
「少し休んだらどうですか?」
「何言ってんの、カディナ君! 時間は一週間しかないんだよ? 修行の時間は目いっぱいとるつもりだから」
ビスカさんは、ぺったりと床に伏したまま、上目遣いでそう宣言した。
この人、今日からもう練習を始めるつもりなのか……
「おいビスカ! 部屋はカディナと一緒でいいんだろう? 荷物を運んでおくぞ」
「うん、ありがとう!」
「いいんですか? 部屋、あんまり広くないけど」
「いいのいいの、どうせ修行が終わったら後は寝るだけなんだし、広さなんて気にしないから。それよりカディナ君、柔軟が終わったらウォーミングアップ代わりに散歩しようと思ってるんだけど、町を案内してくれない?」
「ええ、別にいいですよ」
「やったー!」
荷物を置いた爺ちゃんが、俺の部屋から顔を出した。
「なんだ、二人して出かけるのか? 今日から修行を始めるんだろう?」
「もちろん!」
「よし、ならカディナ、町を一回りしたら、最後に道場に来なさい」
「いいけど、道場ってどこにあるの?」
「待っていなさい、今地図を書く」
爺ちゃんの書いた地図はびっくりするほど簡単なものだったけど、この町に長く住んでいるだけあって要点をおさえていた。見れば、全然気付かなかったけれど、コンサートホールへ行った時に目の前を通っていたはずだ。これなら迷うことはない。
ビスカさんのストレッチが終わるのを待って、二人で家を出た。
案内するといっても、観光名所になるような場所はほとんどない。港から始めて、坂を上りながら各商店を見ていこう。頂上の城まで案内したら、そこから道場の方へ坂を下っていけばいい。
よし、このプランで行こう。
家から出るなり、ビスカさんは何故か俺の手を握ってきた。
「さあ、出発だー!」
「手、握ったまま行くんですか?」
「うん、だってあたし、サルティにあんまり来たことないし、迷子になったら怖いもん」
まあ、いいか。
いつものように深く考えず了承して、そのまま町を案内することにしたのだが、おかげで町の方々で冷やかされることになった。
「ああ! カディナが女の子と手つないで歩いてる!」といった子供達からのヤジは、まだかわいいものだ。
商店の密集するあたりでは、道の両脇から、店のおっちゃんおばちゃんたちが、本当に好き放題に声をかけてきた。
「おいカディナ、かわいい彼女連れてるじゃないか!」
「なんだ、領主様のところの娘さんたちには振られちまったのか! 可哀想に」
「この歳からあの調子じゃあ、将来どうなるんだろうね……刺されなきゃいいけど」
まったく……人間、いくつになってもやることは変わらないもんだな。
うんざりもするが、長い付き合いでこの人たちに悪意があるわけじゃないことを、俺は知っている。この人たちはただ、デリカシーという言葉と無縁な生活を、何十年も続けてきただけなのだ。
ワインのように長時間熟成された無神経、そう簡単に直るわけもない。
横を見ると、意外なことにビスカさんは顔を真っ赤にしていた。
「ビスカさん、大丈夫ですか? もしかして、結構人見知り?」
「カディナ君には言われたくない! カディナ君なんて会ってからずっと敬語じゃん。っていうか、人見知りとか、そういう問題じゃないよ!」
「まあ初対面だし、年上なんで一応……」
「うちの道場の子たちなんて、会った瞬間からずっとタメ口だよ!」
「そ、そうなんですか……」
どんな反応すればいいんだろう……子育ての経験もない俺は、スイッチの入ってしまったビスカさんの態度に戸惑うことしかできない。
「ああ……じゃあ、手、離しましょうか」
「いや!」
ビスカさんは、握っていた手にさらに力を込めて、体をこっちに寄せてくる。この態度から察するに、爺ちゃん婆ちゃんがいるとはいえ、親元から離れて一人で心細かったのかもしれない。
俺もビスカさんの手を握り返して、出来るだけ優しく語りかけることにした。
「わかりました。それなら案内は早めに終わらせて、道場へ向かいましょうか」
「……そうする。ごめんね、あたしが言い出したことなのに」
「謝らなくてもいいです。道場はあっちの方です、行きましょう」
ブクマありがとうございます!
次回は剣術修行です。