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読書三昧の異世界スローライフ   作者: 小峰
港町での生活
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長いお別れ

 癌の告知を受けたのは春、三十五歳の春だった。

 癌細胞はすでにリンパ節を踏み越えて、全身の臓器に転移しており、医者からは、何もしなければ余命はおおよそ半年だと言われた。


 手術や放射線治療はもう意味がなく、抗がん剤がよく効くようなら一年、もしかしたら二年くらいは生きられるかもしれないということだった。


「寛解した例がないわけではないですが、進行の度合いから見て非常に厳しい状況です。最近では抗がん剤の副作用も多少は緩和されていますが、それでも治療には苦痛がともなうことに変わりはありません。残りの人生をどう生きるか、それを考えれば、がむしゃらに治療に向かうことだけが正解ではないのかもしれません」


 医者やカウンセラーの言葉を要約すればこうだ。


――諦めが肝心――


 ネットをあされば、絶望的な状況から奇跡の寛解というおとぎ話みたいな記事がいくつでも見つかった。もちろん、それは珍しいから記事になるのであって、その裏には、苦しんで苦しんで、それでも何の甲斐もなく亡くなっていった人たちの、何の救いもない現実が山のように積みあがっているに違いない。


 見栄えのする奇跡に、愛想のない現実……ネットで調べて知れば知るほど、俺は生きることの不条理や理不尽、白々しさを痛感させられた。

 運や確率といったものが、どれだけ俺たちの人生の趨勢を決めてしまうか。それを知ったら真面目に生きるのがバカらしくなってくるほどだ。運命に意志はない。それはただ無慈悲かつ不公平に、裁定の斧を振るうだけだ。


 遺伝に生活習慣にストレス、癌を誘発する要因はいくつもあるが、一つ一つは決定的なものではない。いくつかの要因が重なったとしても、それはただ確立を高めるだけだ。

 DNAが損傷して細胞が終わりのない増殖へ突き進んでしまったことも、そして癌細胞が免疫との戦いに勝利をおさめてしまったことも、結局のところ運に過ぎない。

そして、運の悪い人間は世界からつまはじきにされるわけだ。


 会社に辞表を出した。上司には、治療に専念するためだと説明したが、実際のところもう治療を受ける気はなかった。

 真面目に生きても、頑張って生きても、まともに報われることもない世界に、俺はもうあまり未練を感じなくなっていた。

 

 初夏の頃、田舎に帰って実家の両親に自分の病状を説明した。その頃にはすでに、少し歩くだけでもすぐ息が切れる有様だった


 久しぶりに会った両親は、なぜかやたらとニコニコしていた。もしかしたら彼女でも出来て、結婚の報告でもと勘違いしていたのかもしれない。


 けれど現状を説明するにしがたって、二人の顔色は見る見る青白くなっていった。そして皺の目立つ目じりに涙の粒がたまり、頬から顎の先へ流れ落ちた。このときばかりは、さすがの俺も辛かった。


 母親は無理に笑顔まで見せて、明るく振舞った。


「でも、治った人だっているんでしょう?」

「治療費のことは心配しなくていいから、あんたは少し休みなさい。今までが働き過ぎだったのよ」

 そんな気休めの言葉が、薄暗い食卓に虚しく響いた。


 だから俺ははっきり言わなければならなかった。宣告を受けてから今までの間に、数ヶ月の時間があったことを。治療費は問題ではなくて、俺には治療を受ける意志もなく、タイムリミットは目前で、今から治療を始めたところでもう手遅れなんだと。


 家の庭先では、セミがやかましく鳴いていた。地上で生きられるのはたった一週間なのに、何をそんなに必死になれるのか、俺にはわからなかった。

 生きているという実感、生きていたいという意志、抜け殻になった俺にはもはや関係のないものだった。


 別れ際、新幹線のホームで母さんが言った言葉を覚えている。のどの奥から搾り出すような声で「諦めないで」と。両親が俺に望んだのは、たったそれだけのことだった。

 だが、もう遅すぎた。


 秋、病院に戻った。治療ではなく、苦痛を緩和するためだ。

 大きくなった腫瘍は時にひどい痛みを引き起こす。それを誤魔化すためには、かなり強力な薬が必要だった。最初は錠剤だったが副作用がひどくて、途中からは注射してもらうようになった。痛みが強くなるにしがって薬の量は際限なく増え続けたが、いまさら中毒になることは怖くなかった。投薬を中止すれば禁断症状が出るし、またあの痛みに襲われることになる。

 そっちの方がずっと恐ろしかった。


 薬の影響なのか、それとも病気のせいなのか、最後の方はもうずっと意識が朦朧としていて、一日中ボーっとしていたような気がする。自分が生きているのか、死んでいるのかそれすら定かではなかった。


 さまざまな想念が境界を滲ませて混ざり合い、もはや何を考えているのか、自分でもよくわからない。宇宙空間では水と油が混ざってしまうように、本来は交じり合わない相反する観念が、漂うような意識の中ではあっさりと一つになった。生と死が、善と悪が、過去と未来が混ざり合ってスープになり、頭の中でちゃぷちゃぷ鳴っていた。

 

 DNAの二重らせん、水面で屈折する光の粒子――生と死は別のものではなく、コインの裏表のように一つのものの別の側面なのだ――そんな気取ったセリフ、セルオートマトンに、増殖する癌細胞……様々な想念がフラッシュバックする。

 

 以前は本当によく本を読んだ。けれど、頭に浮かぶ想念の一つ一つを一体どこで読んだのかは、まるで覚えていない。

 ちらと降る雪の切片が、アスファルト落ちる。その冷たさを路面に伝え、溶けて消えていく。だが路面はすぐに乾くし、アスファルトはやがてもとのぬくもりを取り戻す。


 俺もまた恐るべき長い時の流れの中に消えていく雪の切片だった。

 俺の身体は内側から染み出した黒い影に侵され、意識は強い薬に甘く攪拌され、俺という切片はやがて世界の中でほとんど誰の記憶に残ることもなく、消えた。

マイペースで頑張っていきたい

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