僕とあなたと煙と珈琲
他の投稿サイトへ寄稿したものを手直ししました。
彼女と知り合ったのはとある喫茶店だった。
といっても客ではなく、バイト先。
駅から少し離れたところにある知る人ぞ知る、という昔ながらのその店を知ったのは、サークルの先輩の紹介だった。
自分1人ではちょっと入りづらい雰囲気の、でも居心地は決して悪くない喫茶店。
「お前こう言うところ好きだろう?」
扉を押すとギィっと小さく鳴って、上の方についているベルがカランカランと乾いた音を響かせる。
使い古された木製のテーブルと座り心地の良さそうなソファー。
オレンジ色の照明。
棚にはマスターが旅行先で買ってきた小さなアンティークっぽい置物。
壁に掛けられているのは小さな額縁に入れられた風景画。
「バイトを一人雇おうと思ってるんだ。君、どうだい?」
不思議と居心地がいい店内を気に入り通い詰めるのに時間はかからなかった。
そんな僕がマスターからのバイトの誘いを断るわけもなく。
形ばかりの面接を受け、早速次の日から入ることになった。
彼女は最初に通いだした頃から店にいた。
少し年上で、でもどこか幼さの残る彼女は店の看板娘。
こう言っては失礼だけれど、とびきり美人でもアイドルのように可愛いわけでもない。
でも、人を不思議と惹きつける魅力を持っていた。
彼女と話すのを目当てに来る客もいたくらいだった。
僕もその一人。
持て余した時間をバイトに当てた僕と違い、彼女は真剣にコーヒーの勉強をしたいのだと言っていた。
「実はコーヒー苦手だったの。けどここのコーヒーを勧められて飲んでみたら美味しくって。私って単純よね」
それからこの店のコーヒーは僕にとっても特別な味になった。
僕も大概単純だ。
「お客さんでコーヒーと煙草が合うっていう人いるでしょう? 私タバコ吸わないからわからないのよ。だって煙が目にしみるんだもの」
店の大半の客はタバコを吸う。
例外なく僕も喫煙者だ。
「やっぱり煙草に合う珈琲もあるのかな? 私じゃ分かんないんだよね」
勉強熱心な彼女。
一度だけ、すい差しのタバコを彼女に進めてみたことがある。
断るかなとも思ったけれど、ちょっと迷った後に恐る恐るフィルターに口をつけていた。
吸ってみれば何かわかるかもしれないと思ったみたいだけど。
吸い慣れない彼女は案の定咳き込んでしまって、パタパタと顔の周りの煙を払う。
むせて僕に文句を言う涙目の彼女を可愛いと思うと同時に、フィルターについた口紅にどきりとした。
そのあと何食わぬ顔で残りを吸ったけど。
間接キスでドキドキするなんて中学生じゃないんだから、と言い聞かせながら。
以降、タバコを吸うたびに思い出してしまうことになる。
いつも通りバイト帰りに帰宅して、シャワーを浴びて横になる。
1日働いた体は正直で、もう今日の体力はありませんと眠気が襲ってきた。
眠る前のまどろみの中に彼女の顔を思い浮かべて、これは恋なのだろうかなんてぼんやり自問自答したり。
彼女ももう寝る支度を終えただろうか。
自分と同じようにベッドに横たわったのだろうか。
寝顔はどんな感じなんだろう。
気恥ずかしいやら、でもどこかワクワクするような感覚に口元が緩み、次第に色々なものがぼやけていく。
ふわりふわりゆらりゆらりと沈んでいく意識に身を委ねていると。
唐突に響いた着信に、ビクッと体が跳ねた。
せっかくいい気持ちだったのに、なんて思いつつディスプレイを見るとマスターからだった。
彼女が死んだ。
交通事故とは本当に突然であっけないものだ。
今日のバイトの帰り道、居眠り運転の車が突っ込んできたらしい。
明後日、喫茶店のメンバーの代表でマスターと葬式に出ることになった。
店もその日は休みにするらしい。
ビックリするぐらい、数日間の実感がなかった。
何が起こっているんだろう。
いつも通りに起きて大学へ行って、喫茶店でバイトをする。
ただ、そこに1つだけピースが足りないんだけど、それでも景色は何も変わらなくて。
思ったよりも冷静で、涙も不思議と流れなくて。
片思いかもしれない人がいきなり死んだっていうのに薄情なやつだなって思ったりもして。
そんなこと思っても、やっぱり僕の周りは日常がちゃんとあって。
世の中というものはなんて理不尽で平等なんだろう。
葬式の日。
彼女はマスターの知り合いのお孫さんだったらしく、家も知っているようだった。
1人で最後まで葬式に出るのは不安だというマスターに付き添う役目が自分でよかったのだろうか。
そんな事を電車に揺られながら思っていると、幼い頃からの話をポツリポツリと話してくれた。
内気でいつも大人の陰に隠れてしまってなかなか懐いてくれなかったこと。
珈琲を初めて飲んだ時、苦味にびっくりして泣き出してしまったこと。
ちょっと大人になって、珈琲好きになっていた彼女にマスターの方が驚いたこと。
ここで働きたいと言い出した日のこと。
失敗も少なくはなかったけれど、一生懸命働いていたこと。
僕が知らなかった彼女から、知ってる彼女までたどり着いて。
「あの子はね、君がきてからより一層楽しそうに働いていたよ。ここは若い子はあんまり来ないからねぇ。本当に嬉しそうだったんだ。あの子もお別れを言いたいだろうからさ。付き合わせてしまって悪いね」
そう呟くマスターの声は、掠れて裏返ってしまっていた。
ああ、彼女がいなくなってしまった。
こんなにも唐突に。
理不尽に。
「また明日」
終わったあの日。
送っていけばよかった。
珈琲の話をすればよかった。
どうして泣いてしまうくらい苦手だった珈琲をまた飲んでみたのか。
どうして珈琲を好きになったのか。
あの店で働くことにしたのか。
将来は自分の店を持ちたかったのか。
あの店を継ぎたかったのか。
もっと、彼女のことを知りたかった。
棺の中の彼女は、少し窮屈そうに白い花に囲まれていた。
僕も彼女の顔の隣に花をそっと置いた。
彼女の顔も、花のように真っ白になっていた。
眠ってるみたいだ。
君はこんな風な寝顔だったんだね。
みんなが泣いているよ。
母親らしき人は泣き崩れているし、父親らしき人もハンカチで目元を押さえたままだ。
肩が震えてる。
みんなが彼女を惜しんで泣いている。
棺が運ばれていく。
これでお別れですって言われても、よく分からないよ。
だって本当に眠ってるみたいにしか見えなかったんだ。
待っている間、外で煙草を吸うことにした。
1本取り出して口にくわえる。
ふと見上げると、煙突から煙が立ち上っていた。
雲ひとつない青空に、白く、もくもくと。
先の方から空気に溶けて見えなくなって行く。
彼女が空に溶けていく。
だんだんとそれが滲んでいった。
「…ああ、本当だ。煙は目にしみるね」
僕はカチリと煙草に火をつけた。
ふわりと、あの日の間接キスの香りがした。
おわり
読んでいただきましてありがとうございました。