002●エッセイ…『シベールの日曜日』とヴィル・ダヴレイの魔法
●『シベールの日曜日』と、ヴィル・ダヴレイの魔法。
映画『シベールの日曜日』の日本公開は1963年。
『魔法自衛隊1964』の世界では、“昨年に公開されたばかり”の、話題の映画ということになります。作中でもチラリと触れることになります。
私の知る限り凡ての映画の最高傑作と言えば……
即決で『シベールの日曜日』です。
そんなの、ただのロリコン映画にすぎないでしょうが……とレッテルを貼って済ませる御仁は、二十一世紀の今どき、さすがにおられないことを祈りますが……
なるほど、予備知識なく普通に鑑賞すれば、ロリコン的な禁断の蜜がまぶされた、記憶喪失の男と親に捨てられた少女の、哀しき純愛物語、ということになります。
それはそれで、ストーリーは成立しています。
ところが……
ヒロインの不幸な少女が、じつは女神キュベレー(仏語表記ではシベール)の分身であり、主人公の青年ピエールの前に魔法の力でつかわされた“妖精めいた巫女”のような存在だったとしたら……
そう仮定したとたん、作品世界はがらりと様相を変え、古代ギリシャ以前からの民俗的な異教信仰と、紀元後のキリスト教との二千年にわたる相克を象徴する、深遠なファンタジーに転換するのです。
キュベレーは、古代ギリシャ以前から信仰されてきた大地母神。
もちろん、キリスト教からみれば、宗教的管轄外の、妖しい異教の神となります。
異端の魔法を使う存在です。
そして主人公の青年ピエールは攻撃機パイロットとしてインドシナ戦争に参加し、東洋の異教の国を破壊し、その国の異教の少女を殺害したであろうことが、作品冒頭で暗示されます。
その罪悪感から、彼は“記憶喪失”という罰を自らに課したと考えられます。
異教の神の怒りによる、魔法的な罰なのかもしれません。
彼が背負っているのは“異教を排撃し破壊した”ことによる罪です。
自分が何者であるかを見失ったまま、パリ郊外の街ヴィル・ダヴレイの鉄道駅をさまよい、心病むピエール。
彼の前に現れたのは、親に見捨てられ、キリスト教系の孤児院に入れられた少女でした。
この少女がじつは、ピエールの苦しみを取り除き、魂の浄化と救済をもたらすために、異教の女神キュベレーが分身として派遣した“妖精めいた巫女”だった……と解釈してみましょう。
そうすれば、作品の中で何気なく暗号のように散りばめられていた、何かの魔法に見える、ちょっと不可解な事物や出来事が、一発で明瞭に読み解けるのです。
あまりにも明瞭過ぎて、鳥肌が立ちそうなくらいです。
詳述はできませんが、作品を貫く大きなルールとして、“キリスト教の神は昼を支配し、異教の神は夜を支配する”という歴史的な不文律があるように思われます。
ウィキペディアの“ミサ”の項目をみると、“かつて20世紀半ばまではミサの行われる時間が厳しく制限されており、降誕祭と復活祭の前夜を除いて午後1時から夜明けの1時間前まで行うことができなかった”とあります。その理由は他にもありそうですが、キリスト教は原則的に、夜の儀式をなるべく避けてきた……のではないでしょうか。
クリスマスやイースターのような例外はありますが、これはキリスト教成立以前の異教の習俗が引き継がれて合体したもの……すなわち、キリスト教と異教の、ある種の妥協によって継続した儀式だという見解があります。
そして実際に、夜になると、異教の神々が堂々と存在をあらわします。
夜空に輝く星座。
その名はほとんどがギリシャ神話など異教に由来していて、キリスト教由来が極めて少ないことが、ひとつの証左かもしれません。
もしもキリスト教が夜も支配しようとするならば、おそらく中世あたりに、星座の名前は全てキリスト教由来のものに変更されていたはずです。
たぶん教会の力で可能だったのに、なぜか、そうしなかった。
ですから、キリスト教の神と異教の神、両者は、昼と夜に住み分けているように見えます。
そうすることで、双方の摩擦と破滅的な破綻を避けているかのように……
これはすぐれて合理的な配慮です。“異教に屈服することはしない、しかし異教に寛容であることを悪としない”という規範で臨んでいるとしたら、永続的に平和な共存が可能であるからです。
ピエールと少女、二人が出会う最初の場面は夜、そして最後の場面も夜です。
異教の魔法が存在を許される夜の闇に、少女は姿を現し、そして去ることになります。
さて少女は、キリスト教に支配された厳格な孤児院に暮らしています。その生活行動は強く制限されています。
しかし週に一度、日曜日ならば、キリスト教の神は安息日のなごりとして手を休められ、その支配力が弱まります。
異教の妖精である少女は、だから、もっぱら日曜日にピエールと会うことにしたのです。
異教の女神キュベレーの魔法を使って、ピエールの心の罪を赦し、魂の浄化と救済をもたらすために……
だから、肩寄せ合って歩く二人の親しい語らいは、まさに魔法の時間なのです。
付言しておきたいのは、まず、ピエールという名前です。
“ピエール”の由来は、“聖ペテロ”とされます。キリストの生前の弟子たちの中で筆頭格にあたるともいえる重要人物です。
そして記憶喪失のピエールを助けて養い、愛を注ぐ大人の女性がいます。
その名は、マドレーヌ。
“マドレーヌ”の由来は、“マグダラのマリア”とされます。生前のキリストに献身した優しい女性で、映画『ダ・ヴィンチ・コード』等で、キリストと結婚していたのではないか……とまで推理されています。
ピエールとマドレーヌ、生前のイエス・キリストにおそらく最も近い男女の名が、キリスト教側の登場人物に冠されているのです。
ピエールは結果的に、恩義のあるマドレーヌの眼を盗んで、ヒロインの少女と逢瀬を繰り返すことになります。キリスト教の赦しと癒しよりも、異教の赦しと癒しを、彼はどうしようもなく希求するのです。
異教に対する罪なのだから、異教の赦しを求める。
理屈は通りますが……しかしそれは、キリスト教の視点からすれば、おそらく異端的な魔法魔術に類する行動でしょう。
それを、マドレーヌ…マグダラのマリア…は、どのように受け止めるのか。
その後いろいろなエピソードがありますが、ここでは割愛します。
物語のクライマックスはクリスマス・イブです。
キリスト教の神と異教の女神キュベレーが、互いを排斥せずに夜の時間をともにできる、年に一度のチャンスです。
少女はピエールに、異教の救済の儀式を行わせようとします。
それは、キリスト教からみて異端の、魔法の儀式です。
しかし、教会の塔の天辺の十字架の上には、異教の魔物を排除する“風見鶏”が設置されています。パリのノートルダム大聖堂の尖塔の最先端にも風見鶏があって、あの火災から生き残ったことが伝えられましたが、あれが無目的なただの飾りであるはずがありません。
おそらく街全体の、魔除けの結界生成装置あるいは警報装置であるのでは……。
夜明けとともに鳴き、魔物を追い払う役割を果たす風見鶏ですから、もっぱら明るい昼間に機能しています。
しかし作品中の場面はイブの夜です。暗がりなので風見鶏の魔除け機能は衰えているはずなのですが、その夜だけは、地上の投光器が教会の尖塔を照らしていて、風見鶏は明るい光の中にあるのです。
これは異教の儀式……すなわち魔法の儀式にとって、最後に残された決定的な障害となります。
イブの夜、ついに少女は、自分の“本当の名前”をピエールに捧げます。
キュベレーの魔法が二人を包みます。救済の時間の、始まりです。
ここでピエールには、試練にも似た一つの行為が課せられています。
彼は教会の塔に登り、大胆にも十字架の横腕を両足で踏んで、先端の風見鶏に手をかけるのです。
このときピエールは、迷いと苦しみからの爽やかな解放を感じます。
魂の解脱です。
で、二人の、異教による救済の儀式は、成就されたのか……
それは、物語の最後に少女が叫ぶ言葉で、明らかになります。
このように『シベールの日曜日』は、ヨーロッパをあまねく照らす巨大な神の力と、それよりも以前から世界の各地に信仰されていた異教の信仰との歴史的な関係性を、あまりにも美しい画面と神秘的な空気感の中、汚れなき少女と青年の無邪気な交流を通じて描き上げているのです。
正体のわからない異教であるとしても、信じる人の魂にとっては、それも真理のひとつ。それを邪な忌事として排撃するか、それとも慈悲ある寛容をもって、ともにあり続けることを許すのか?
神は、お答えにならない。
それゆえに私たちは、異質なるもの、異端なるものを、ただそれだけの理由で抹殺しているのではないだろうか?
二十一世紀のヨーロッパが、あるいは世界が、その精神世界にいまだに抱えている大いなる命題を、『シベールの日曜日』は静かに問いかけているのです。
いつまでも、永遠に伝えられるべき、至高の傑作であると思います。
【秋山完 2019.04.19】