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001●エッセイ:映画にみる1964年

●映画にみる1964年



●銀幕の向こう側……1964年世界のイメージ


 西暦1964年前後の時代の雰囲気は、当時の国産映画からうかがい知ることができます。

 出演者がまさに当時の人物であることに加えて、全般にロケ撮影が多用され、家屋や街並み、人々の生活がふんだんに観察されるからです。

 私の主観ですが、下記の三作は必見でしょう。

『馬鹿が戦車タンクでやって来る』(1964)

『キューポラのある街』(1962)

やばいことならぜにになる』(1962)

 百聞は一見に如かず、未見の方はぜひご覧あれ。

 どことなく「これってジブリの宮崎アニメと、高畑アニメのムードじゃないか? こちらは、まんま“ルパン三世”テイストだぜ」と気付かせてくれるあたり、味わい深い傑作です。


 「古い映画だ」と思って見ればそれまでですが、「レトロ感覚の異世界を描いた映画だ」と自己暗示をかけて見れば、全く古さを感じさせません。ジブリアニメやルパン三世の感覚で、割とすんなり理解できて、現代の映画作品とは異なった楽しみを発見できるのでは……と思います。

 もちろん、細部をつつけばいろいろと問題点はあるでしょうが、映画作品として、不朽の魅力を備えていることは間違いないでしょう。


 同様に、当時の“異世界的な青春”を体験してみるには……

『上を向いて歩こう』(1962)

『ひとりぼっちの二人だが』(1962)

『青い山脈』(1963)

『仲間たち』(1964)

『東京は恋する』(1965)

 が、おすすめです。

 ホント、当時の青春って、今からみれば“ベタで野暮”なんですが、そのカッコ悪さを許容するゆとりが、恋愛にささやかな希望を与えてくれるんですね。

  “貧しくても、愛さえあればなんとかなる!”と信じさせてくれる時代の明るさが、背景にあるのかもしれません。

 なにかにつけてストレートなところが、かえって新鮮。すべからくスマホ……の現代、なにもかも技巧的であざとくなっちゃいませんかね?


 青春を豪快にはっちゃけてみるには、やはり……

“若大将シリーズ”の第一作から、第四作『ハワイの若大将』(1963)

 これが鉄板ですね。

 この若者像の爽快さ……ってのは、格差固定社会の二十一世紀には望むべくもなさそうですが。


 喜劇では……そう、この時代、全編が大喜利と言ってもよさそうな、底抜けに明るく楽しいコメディが散見されます。

 とりわけ“クレージー映画”シリーズの逸品。

 なかでも群を抜く面白さは……

『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963)

 “無責任”サラリーマンで売り出したクレージーキャッツの面々ですが、この回では立場を逆転、全員真面目におかしく社業に励みます。それもそのはず、彼らの上司の社長や役員、偉いさんたちこそが、本物の極悪“無責任”揃いなのでした。若手の熱意と愛社精神を食い物にして私腹を肥やします。ニッポンの無責任、ここに極まれり、ですな。二十一世紀の某巨大自動車メーカーの騒動なども、本質は変わらぬような……


 同じくクレージーキャッツ総出演で、後年の『ルパン三世 カリオストロの城』を彷彿とさせながらも、トンデモなスケール展開で笑いの威力もメガトン級なのが……

『大冒険』(1965)

 スタントを使うシーンの直前直後、生身でギリギリここまで魅せてくれるか! ……的なピカ一演技もチラホラ。冒頭、植木等が披露する室内体操で、たちまち目がクギヅケです。


 で、見落としたくないのが、

『クレージーだよ奇想天外』(1966)

 単なる、ずっこけギャグであるようで、言いようのない哀愁が漂う不思議感覚。

 チャップリンの和風版かと思わせる谷啓の、ユーモアとペーソスの絶妙バランス。

 でも、これSFなんですね。完成度もなかなかのSFです。


 そしてまた、当時の“男ども”の、どうしようもないさがをえぐり出す怪作がこちら……

『からっ風野郎』(1960)

『豚と軍艦』(1961)

『ジャコ萬と鉄』(1964)

 当時の三島由紀夫(出演してるんだ!)、長門裕之、丹波哲郎、高倉健の鬼気迫る“怪演?”を堪能できます。

 ドロドロの“男の情念”がエネルギー満タンで炸裂また炸裂。

 もっとも、女性から見たらただのバカでしょうが……


 当時の社会、明るく楽しい高度成長ばかりではありません。

 実体はやはり、やるせない貧しさ、というものがありましたし、不条理な災難も降りかかってくるものです。

 ジミだけど、しっかり生きよう……と決意しても、虚しくなるばかり、というのが現実かもしれません。

 それでも、どうすればいいのか。

 作品それぞれに、“不幸”との戦い方を教えてくれます。

 人生の闘い、それは単なるバトルの勝ち負けでは終わりません。

 ましてや昨今流行りのゲームであるはずがありません。

 何もかもリアルな本番で、後戻りがきかず、生きている限りゲームオーバーがないのですから。

 我慢強く、しぶとく、死ぬまで“生き抜く”ことが肝心。

 うまく言葉にできませんが、これらは、大切な何かを心に得られる作品です。

『生きる』(1952 黒澤映画)

『ここに泉あり』(1955)

『喜びも悲しみも幾歳月』(1957)

『第五福竜丸』(1959)

『名もなく貧しく美しく』(1961)

『非行少女』(1963)

『拝啓総理大臣様』(1964)


 一方、洋画はまさに絢爛たる黄金期です。

『ウエスト・サイド物語』『ナバロンの要塞』『栄光への脱出』(日本公開1961)

『気球船探検』『ハタリ!』『史上最大の作戦』(日本公開1962)

『シベールの日曜日』『大脱走』『アラビアのロレンス』『クレオパトラ』(日本公開1963)

『マイ・フェア・レディ』『アイドルを探せ』『博士の異常な愛情』『大列車作戦』(日本公開1964)

『頭上の脅威』『素晴らしきヒコーキ野郎』『グレートレース』『007ゴールドフィンガー』『メリー・ポピンズ』『サウンド・オブ・ミュージック』も翌年に公開されています。

 さらにその翌年1966には『バルジ大作戦』『ドクトル・ジバゴ』『ミクロの決死圏』……と、振り返れば60年代、金字塔的な超大作や歴史に足跡を残す傑作が目白押し、半世紀を優に超えた今でも、何ら陳腐化していないところが凄いですね。


 『大列車作戦』は超イチオシ。歴代戦争映画の最高傑作だと思います。

 なお『シベールの日曜日』は全映画の最高傑作だと思います。理由は次回の章に記述。


 国産アニメも隆盛で……

『わんぱく王子の大蛇おろち退治』『わんわん忠臣蔵』(1963)

『ガリバーの宇宙旅行』(1965)

 と、大作が公開されます。CG全盛の現代のアニメに比べて、画風が個性的であることに驚かされます。これはアニメであり同時にアートなのだと。

 現代アニメの美少女キャラはみんな美少女なんですが、違いが判らないほど同程度に美少女で、どれがだれだか……そういえば英字or漢字の三文字に二桁の数字をつけた美少女アイドルたちも、申し訳ないが個体識別ができない。みんな同じ美少女に見えてしまう。クローンのはずがないのだが……これは歳のせいか。


 1964年前後の時期、国産戦争映画も健闘したと思います。特撮の派手さというよりも、“戦争”という題材へのアプローチのユニークさでは、下記の作品が一癖あって、なかなかの秀作です。

『グラマ島の誘惑』(1959)

『独立愚連隊西へ』(1960)

『南の島に雪が降る』(1961)

『世界大戦争』(1961)

『独立機関銃隊未だ射撃中』(1963)

『海底軍艦』(1963)

『太平洋奇跡の作戦 キスカ』(1965)

 これらの中で『海底軍艦』は特撮SFですが、戦争に関して根本的に考えさせてくれる、ある意味、時代の問題作。いくら憎っくきムウ帝国でも、あんなに簡単に滅ぼしていいのだろうか? 立場を変えれば悪夢の大量破壊兵器となる轟天号。兵器の持つ二面性をこれだけわかりやすく端的に表現してくれたことを高く評価したいものです。

 人類平和のためとはいえ、超絶美貌のムウ帝国皇帝陛下を自死へ追いやった責任はどうする、神宮司大佐? あなたが殉職してもいいから皇帝陛下に生き残ってもらいたかった……と悔やむファンも、少なからずいたことでしょう。


 それはさておき、『太平洋奇跡の作戦 キスカ』の、兵士たちが銃を捨てる場面では、ホロリときます。……みんな生きて帰りたいよなあ、できれば人を殺さずに生きて故郷へ帰りたいよなあ……と、しみじみ思いが伝わる名シーンなのです。


 さて、当時の国産映画は、いずれの作品も、二十一世紀の今、同じものが公開されたら、こだわりのネット民に重箱の隅をつつかれて炎上間違いなし……的な問題点は少なからず有していることでしょう。

 しかし細かなことは別にして、良くも悪くも本音を通す一徹さや、正直者が馬鹿を見ない価値観や、底抜けの明るい開放感が地下水脈のように流れていると思います。

 素朴だけれど、どこか痛快で、理屈抜きでスカッとする空気が吹き通っているのです。

 世の中の理不尽にしょせん対抗できなくとも、一発食らわせるくらいのことはできるんじゃないか……といった、制作者たちの人間的なパワーが、その根元にあるのではないでしょうか。



●“異世界”1964年……“不便だけど、自由”


 もちろん、実際のリアルな1964年の日本は、映画の中に描かれた世界に比べて、はるかに泥臭く、汚く、残酷な面も多々あったことでしょう。映画のような、綺麗ごとに終始できる場面は、まずあり得なかったに違いありません。

 しかし、これらの映画の中の世界は、当時の人々が心の中で共有した“現実とは異なる、もうひとつの現実世界”と捉えることができるでしょう。

 すなわち二十一世紀のライトノベルの文脈に言うところの“異世界”です。

 現代からみて、これらの映画に描かれた世界を、ある種の“異世界”と認識すれば、また一味違った楽しみ方もできるのでは。

 なにぶん、ネット環境がなく、パソコンやスマホがなく、電話があっても旧式なダイヤル式で、コンビニも自販機もATMもない……といった“生活の不便性”においては、現代のライトノベルが描くところの、剣と魔法の“異世界”に近いと考えられるわけですから。

 かえりみれば、昭和の時代をイメージさせるジブリアニメや、“ハリー・ポッター”の魔法世界も、そんな“不便性”が日常である社会です。

 ライトノベルにあふれる異世界の大半がそうであるように、二十一世紀の私たちは、本音のところ、“不便でも自由な世界”を欲し、懐かしがっているのではないでしょうか。

 それは、私たちが今、“極めて便利だが、極めて不自由な世界”を生きてゆかざるを得ないという現実の裏返しなのでしょう。


 スクリーンの画面の向こうに映る、1964年前後の時代の人々を見るにつけ、繰り返し感じることがあります。

 ……あの時代の人々は、今よりもずっと少ない資源と素材から、より多くの幸福しあわせを引き出していた。それは確かな事実ではないか……ということです。


 二十一世紀の今を生きていながら、そんなことを思っても無意味かもしれませんが、氾濫するメディアの中で“幸せだ、幸せだ、これが幸せだ! 超幸せだ!”とばかりに大袈裟に持ち上げられている物事を、ちょっと疑ってみる材料エビデンスにはなるでしょう。



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