緑の丘と真っ赤な嘘(3/3)
会話の話題は限られている。
巫女である神楽耶は基本的には神殿に引き籠りだ。稀に良く抜け出すという例外はあっても、普段の話し相手は教会関係者ばかり。変化の少ない教会の中で過ごす彼女にとって、やはり目新しい出来事は少ない。
そのため基本的にはその日その日の些細な話をする訳で、
「巡礼に出るんだろう?」
やはりどこかでこの話題に行きついてしまう。全てが楽しい話とはいかない。まだ見分が少なく狭い神楽耶にとっての限界だ。
巡礼は、儀礼だ。
世界各地の聖地を巡る事で信仰を高める行為で、神楽耶達が所属している教会にとっても一般的な儀礼や修行法として数えられている。
「……お父様が?」
「うん、聞いたよ。宮守ったら良い歳して嬉しそうに、まるで娘の婚約を祝うみたいにね。きっと全てが終わったら直ぐにでも神官の座を譲る気だろうさ」
「喜ばれるのは当然です、だってめでたい事ですから」
「でも人の苦労も考えずに喜ぶのはどうだろうね」
何せ過酷だ。人の身でありながら世界を旅しなければならず、その期間は年単位に及ぶ。
そして紗代は若く、ようやく大人として見られたばかりだ。経験しているはずがない。
だから宮守から神官を継がせると聞いた時には、更に言えば年頃の娘の事を改まって聞かされた時には神楽耶は覚悟していた。きっと協会は通過儀礼として彼女を旅立たせるはずだ、と。
紗代は嫌味ったらしい発言に少し眉を吊り上げつつ、
「駄目ですよ、そんな事を言っては。大変なのは当たり前ですし、我慢して頑張らないと。何たって教会で奉仕している人達にとっての憧れの存在になれるんですから」
「紗代も憧れてるの? 神官になりたいの?」
問いかけると、紗代は胸を張って、ええ勿論です、と。
「ふぅん……」
神楽耶が目を細めて観察するように見つめるも、紗代の表情に嘘は見られない。なりたいというのは本音なのだろう。しかしそれは、神官については、だ。
「じゃあ巡礼は楽しみ?」
意地悪な質問だと知りながら尋ねてみれば、
「正直な所、分かりません……。旅は旅でも観光ではなく修行の旅ですから、楽しみという感じではないと思いますが……まだ実感が湧かなくて」
予想通り、紗代の顔には不安が浮かび上がる。だが気丈に振舞って、
「でもきっと、長くて厳しい旅路になると覚悟はしてるつもりです」
「じゃあ街の外は? 知らない村や町で、見た事もない景色や珍しい食べ物とか、色んな面白い物がたくさん見つかると思うけど?」
「それも、正直――」
そう首を振って現すのは否定。
「分からない?」
「というよりも……想像が付かないんです。私はお父様が教会に住んでいましたから、私もずっと小さい頃から教会の中だけで生活してきましたし。街の外どころか、教会の外さえ――」
行った事がない、という事実に驚くと同時に神楽耶は、そう言えばそうだった、と納得する。彼女は教会に住み込みで働いていて、侍女は巫女同様、原則規律で外に出る事を許されていない。そもそも機会は皆無なのだ。
しかし何事にも例外があるはずだ。
「じゃあこの丘は? 教会の外じゃないの?」
「ここも教会の土地なんです。街を守る木々を無暗に切り倒されないようにって」
「でも一度くらいは街に行った事あるんでしょ? ちょっと抜け出して、とか」
「ありませんよ、神楽耶様じゃないんですから」
ひどい言い草だ。
「そもそも普通なら規律を破るなんてしないんですよ」
模範的な信徒の彼女が言うと妙に説得力があって否定できない。
しかしそれならなおさら巡礼と聞いても外の世界と聞いても実感が湧かない訳である。見た事もない物をどう想像できようか。紗代にとって教会以外は正に未知であり、無知なのだ。
その結果、
「紗代、君はもしかして巡礼が怖いんじゃないの?」
「怖い……?」
見知らぬ土地を歩き続ける終わりの見えない孤独の旅。楽しみだというのは余程の楽観主義者か、怖い物知らずの勇敢な戦士か、街で罪を犯した無法者くらいか。
その上、教会に飼い殺されて世間知らずにされていれば、尚の事外の世界に放り出される巡礼に恐怖し萎縮しても仕方がないだろう。
「本当は巡礼になんて行きたくないんじゃないのかい?」
「そんなっ……!」
叫ぶ。
悲痛な声が青空に響いた。
続けて、私は、と教会の侍女としての感情が前のめり気味に異を唱えようとするが、
「――いえ……そうかも、しれませんね……」
やがて意気消沈。ゆっくりと理性が認めた。
信徒であるが故に、神官の娘であるが故に口に出来なかった本音を。
だが紗代は静かに呟く。
「でも、だったとしても……」
「うん、そうだね。宮守も仕方ないっていう顔だったよ」
難儀だ、と神楽耶は思う。
例え紗代が行きたくないとしても、結局は行くのだ。
大役だ、父の勧めだ、教会の意思だ。怖いからと言って拒む訳にもいかない。
ならいっそ口を閉ざした方が良い。己を殺してでも、周りを騙してでも。皆に言祝がれながら、自ら誇らしさを抱いた振りをして旅立った方が、誰も不幸にならない。
今更巫女が声を上げた所で止めれるはずがない事を神楽耶は知っていた。
だからこれは、ただの自己満足なのだ。
神楽耶が感傷に浸っていると、今度は紗代が口を開く。
「神楽耶様は教会の外をご存じなんですよね?」
ずっと自分が質問攻めにしていたので、不思議と久方ぶりの質問の様に思えたそれは、拍子抜けするくらい簡単なものだった。
「勿論。いつも暇つぶしに抜け出してるからね」
「まあっ……。いつも、ですか?」
「でもおかげで教会の誰よりも外に詳しい」
「自慢になりませんよ」
もうっ、と呆れてるのか、怒っているのか。困ったように息を吐きだす紗代。
「もしよかったら聞かせて頂けませんか? 街の話」
「いいよ。その代わり、私が神殿を抜け出していた事は内緒にしてくれる?」
「それは構いませんが……」
言いつつちらりと見上げた先には燦燦と輝く太陽が昇っている。また空から『お天道様』が見ていると言いたいのだろうが、問題ない。
「これくらい気にしないよ。どうせ毎朝会ってる仲なんだから」
巫女流の冗談に紗代はクスリ。
その間に、さて何から話そうか、と神楽耶が話題を選んでいると、中断を要求する音色が一つ鳴り響いた。
きゅるるるるるるる……。
「おや……もうこんな時間か」
「ふふっ……すっかりお昼ですもんね」
発信源は神楽耶の腹部、腹時計による正午のお知らせだ。
すると神楽耶は少考して、提案する。
「じゃあせっかくだから街に降りて話さない? 美味しいお団子の店を知ってるんだ」
「えっ? いくらなんでもそれは……」
巫女と侍女が教会を抜け出して街へ。
人前での堂々たる規律違反に、寛容さを見せていた紗代でも流石に困り顔だ。
そんな彼女を安心させようと神楽耶は明るく笑って見せる。
「練習だよ、練習。やってみなくちゃ分からない、分からないならやってみようってね。まずは教会の外――街での生き方を教えるよ。お店の探し方に、買い物の仕方と、お金の使い方も、あとそれから……――」
「それくらいは知ってますよっ」
「ともかく色々と、何か食べながら。そうすれば多少は恐怖心も和らぐだろうしね」
「はあ……その、本当にいいんでしょうか?」
「たまには息抜きも大切だよ? それに大事な巡礼前なんだ、バレたって大神官も大事にはできないだろうさ。丁度私も信者一人一人と話してみたいと思ってた所だし」
「流石にそれは――」
「まあ、そっちはお咎めなしとはいかないだろうね」
神楽耶は想像上で怒鳴り散らす大神官に嘆息。それから口角を吊り上げて、
「気にする事はないさ。我に秘策あり、だ」
自信満々に告げられるも、根拠が分からず紗代は曖昧に返事をするしかない。
どうしようか考えあぐねている所へ、手のひらを差し伸べる。
行こう、と。
「野草摘みを邪魔したのが少し心残りだけどね」
すると紗代は、仕方なさそうに神楽耶を見上げて、手を取って、
「それなら心配ありません」
なんで?
そう尋ねる前に、彼女は風呂敷の角を指先でつまみ上げた。
「おやまあ」
結び目のない包みは自然と解ける。元の一枚の布へと姿を取り戻した中身は――空っぽだ。
折りたたまれていく風呂敷には野草なんてくるまれてはいなかった。
その意味を、口実です、と紗代は告げた。
「本当は巡礼と聞いて、どうすればいいのか分からなくて、一人になりたくて。それでここまで来たんです。教会の仕事を口実に――」
神楽耶様にはバレてしまいましたけどね、とお茶目に付け足して。
「真面目な紗代にしては珍しい嘘だね」
「きっと嘘吐きな妹がいるせいかもしれませんね」
そう言って紗代は、ようやく晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
◆
――翌日。
荘厳な教会一帯に、怒声が響き渡った。
あまりの声量に教会中の信徒が何事かと飛び上がっては、発声地点を突き止めようと奔走する。そして誰もが駆けつけて覗き込んだ先が、神殿だった。
そこには、怒りで顔を真っ赤に茹で上がらせた大神官と、涼しい顔で話を聞く巫女という、神殿が騒がしい日のいつもの組み合わせがあった。
「一歩間違えれば暴動になっていたかもしれん! 幸い、そうはならなかったが……――だが! 巫女である貴様が勝手に街に降りた事も! そこで民草と同様に遊びに興じた事も! 挙句の果てに正体を現した事も! その結果、信徒が集まり街中で大騒ぎになった事も! どれ一つとして許されんのだ!」
声と同時、痛烈な音が鳴り響いた。
大神官の扇子が弓の様に撓って畳に打ち下ろされたのだ。
目の前で聞けば誰もが反射的に首を竦めるだろう鋭い音色。一触即発の空気に聴衆が戦々恐々と見つめる中、当の本人は不思議と平然とした様子で瞑目して聞き入っている。
神楽耶は露ほども動揺を見せない。
業火の如き憤怒にも、何か言う度に飛ぶ唾にも。
寂々と。
まるで人の心が宿ってないかのように。
大神官は悔しそうに歯を軋ませながら次の言葉を考える。神楽耶の様子はいつも通り飄々と嘲笑っている訳ではない。だがやはり反省の色は欠片も見えない。
しかしそれでは困るのだ。
問わねばならない、と決意して、表情を崩さずに口を開く。
「答えろ、貴様は今何を考えている? 貴様がしでかした事をどう思うんだ?」
すると神楽耶は――平伏した。
畳の上に静かに両手をつき、濡れ烏の髪と共に首を垂れて、
「誠に申し訳ございません」
「……は?」
困惑した、誰もが。
塀の上から覗き込む無作法な信徒も。
隣の部屋から襖越しに見た寧々や紗代達も。
畳一畳も離れていない眼前で直視している大神官さえも、固まった。
「規律を破る重大な違反に、軽率な行動。本来であれば信仰を通して見守り、導かなければならない信徒の皆を混乱させた事。そして教会に、大神官に多大な迷惑を掛けた事も。全て、あってはならない蛮行であると考えております。教会の象徴たる巫女の座に就きながら教会の意思に反する巫女らしからぬ行いをしたと、深く反省し、重ねてお詫び申し上げます」
思わず言葉が出なかった。
大神官は静寂の中で神楽耶の言葉を数回反芻し、渋い表情を浮かべる。
神楽耶が。
あの神楽耶が、深く反省する、と。
もしもこれが嘘偽りのない言葉だとすれば何年待った事か!
過去のじゃじゃ馬ぶりを考えれば、にわかには信じられない事実。気味が悪いくらいだ。だが見つめ直せば確かにそこにはこちらに頭を下げたまま待っている神楽耶がいる。少なくとも夢幻ではないのは確実だ。
「神楽耶、面を上げなさい」
「はい……」
「何故、街へ降りた?」
「はい。巫女である私は信徒一人一人と話す機会がございません。彼らが日頃何に悩み、どう生きているかを知らないのです。しかしこれでは信徒の何を想って導けばいいのか分かりません。ですから、信徒の言葉を直接聞いて導く必要があると考えたのです」
「……ここで侍女と話す機会くらいはあるではないか」
「それでは侍女の考えしか分かりません。私はできる限り多くの信徒の言葉を聞きたかったのです。すべての信徒を導くためにも、どうしてもそれが必要なんです」
ふむ、と大神官は感心したように呟いて彼女の顔をじっと見つめる。
筋は通っている。巫女らしいというよりはまるで純朴な子供の様な言葉。だがそれが純粋に信仰から沸き上がった考えのようにも大神官には思えた。
よくよく見れば顔つきも普段とは違う。
愁傷とはいかないものの、その表情からは誠実さが垣間見えた。
肩透かしを食らった様で納得はいかないが、今まで反省の〝は〟の字も見せなかった彼女がその姿勢を示した事には間違いない。少なくとも反省した事だけは認めなければならないだろう。
「分かった、反省した事は認めよう」
「ありがとうございます」
ほっと吐息がどこかから聞こえてくる。
きっと彼らはこう思っているのだろう。
良かった、無事に終わって――と。
「よってその反省に免じて、神楽耶。お前に罰を与える」
しかしそんなはずはなかった。
大神官を含め、冷静な信徒にとっては当然の結果である。
今回の件は大事になりすぎていた。二度とあってはならない不祥事。彼が大神官を勤めてから最も大規模な騒動と言っても過言ではないだろう。
ある者は止むを得まいと諦め顔で嘆息し、またある者はどんな罰が来るのかと固唾を飲んで見守る中、ならば、と大神官は選択せざるを得ない。
もし全く懲りていないというのなら反省させなければならない。それが例えどんな罰を与える事になろうとも、だ。
さりとて、どんな罰でもいい訳ではない。
大神官は扇子で拍子を取りながら、彼女の反省を踏まえた上で罰を鑑みる。しかし彼をもってしても答えは直ぐに浮かばない。何せ巫女が重大な規律違反を犯して大多数の信徒に干渉するなど前例がないのだ。
反省はした、けれど教会としての体裁は整えなければならない。一方で巫女の儀礼は今まで通り恙無く、やはり幼い身体の健康も考慮した上で、しかし教会の最高位として権威が損なわれない内容にしなければならず――……考えることは山積みだ。
長い沈黙。
扇子の音色だけが神殿を支配していた。
それが百回程、持ち主の手の上で跳ねた所で、
「……一つ、よろしいでしょうか?」
おもむろに口を開いた神楽耶に、大神官は片目を開いて、
「何だ?」
「妙案がございます」
妙案?
奇妙な言い回しに、彼は訝し気に眉を顰めた。
「はい。先の私が犯した事は大変な罪です。常であれば軟禁か、教会からの追放も考えられます。しかし私は巫女です。……察するに、大神官はそれ故に私に相応しい罰に見当がつかないのではありませんか?」
……忌々しい事に、この巫女は。
「……その通りだ」
勘の良さと事の複雑さに溜息を吐く大神官。
普段もこれくらい気を使ってくれれば胃痛も減るのだが。
すると神楽耶は、であれば、と。
「私の精神修行を兼ねた丁度よい罰がございます」
まるで妖の囁きの様な魅力的な話である。普段なら聞かなかった事にしたい所だが、今は聞き耳を立てている輩も多いだろう。しかもその殆どが教会の信徒だろう事も。
敬虔な信徒面の彼女を無視は出来ない。それに、もしそんな都合のいい話があるなら是非とも聞きたい状況だ。せめて聞く事だけは受け入れなければならない、例えそれが甘い匂いを漂わせた毒薬であっても、一口だけは。
言え、と大神官が要求すると、かしこまりした、と神楽耶。
粛々と頭を下げて、
「『各地の教会への奉仕』というのはいかがでしょう?」
「奉仕?」
「そうです。かつての巫女がこの地に信仰を広めてはや幾年、全国には数えきれない地方教会が建てられました。地方教会は教会としての体を成してはいますが、しかしそれだけに過ぎません」
その言葉に、
「……地方とはいえ教会は教会だ。今の言葉は教会の存在そのものを侮辱するものだぞ」
分かっているのか。
一言、恐るべき表情で恫喝的に投げかける。
それは信仰そのものとまで信徒に呼ばれている彼にしてみれば当然の反応だが、
「滅相もない事でございます。第一、私が侮辱したというのなら彼らの『信仰』こそ教会への侮辱ではありませんか?」
意味深な問い、腹の底を探るかのような。
意識の奥底に隠してきた何かが燻り出すのを感じる。
「……どういう意味だ?」
大神官が焦れて聞き返すと、神楽耶はたっぷり数秒、間を取って聞き返した。
「お言葉ですが、逆に伺いします。大神官は地方教会を訪れた事がございますか?」
それは――ない。
だが当然だ。管轄している地域だけでもどれだけの地方教会があるというのか。それらを検分した上で大聖堂を所有するここの大神官として職務を全うする事は難しい。というよりも不可能に近かった。
「しかし私であれば可能です。同時に巫女としての職務も地方教会で果たせるでしょう」
その目的、彼女が言わんとする事とは、
「……炙り出すというのか。お前が視察して、怠惰な神官を」
大神官にとっても、その存在を考えた事がない訳ではない。
信仰を広めるために送り出した神官が敬虔な信徒であれば何も問題はない。本人の信仰心を信じれば後は神の御導きで自然とその土地に新しい信仰が根付くはずだ。しかし仮にその者がその土地の、俗世の強欲に染まってしまったのならどうなるか。人々の信仰を出しにすれば神官の私腹がさぞ肥えに肥える事だろう。あるいはそれ程の大事ではないにしても、見た事もない地方教会には懸念があった。正しく信仰を広めているのか、と。
それでも巫女としての地位を餌に釣り糸を垂らせば――
しかし当人は首を振る。
「いいえ、私が行うのはあくまでも『奉仕』。各地に祈りを捧げに向かい、少しでも教会の布教活動を手助けできればと考えたに過ぎません。遠方に住む方々にも私を知って頂く事で、信仰に目覚めるきっかけになるかもしれませんから」
本心はあくまでも巫女らしい勤めの方だと言いたいらしい。
まっとうな意見だ。そう思う一方で大神官には大きな気がかりがあった。
「だが旅路の途中でお前の身に何かあればどうする? 巫女が失われればお前がした以上の大事だぞ? ……いや、それよりもお前が途中で逃亡する可能性も危惧しなければならん」
「……信用しては頂けませんか」
「今までの行動を鑑みれば、当然だ」
大神官は渋面で首肯。無論、一人で逃げ出しても生きていけるとは思えない。彼女の話も一理ある。だがそれ以上に巫女は一人しかいないのだ。
「では、見張り役として同行者を付けるというのはいかがでしょう」
「同行者、だと……?」
「はい。各地の教会とも対等に交渉ができる神官と、私の身の回りの世話ができる侍女。実際に巡礼をする予定の者も連れて行けばより真実味も増します」
「共に巡礼をすると言うか?」
「はい。罰として、巫女として、私の信仰心を試させてください」
「ならもしお前が途中で根を上げて逃げ帰ってくるようなら?」
「煮るなり焼くなりお好きに」
彼女の覚悟に、ほう、と吐息が漏れ出た。
謝罪し、反省し、罰を受け入れ、自ら妙案を提示して、巡礼という重荷を背負う。
見違えた。
よもや改心などあり得ないと諦めていたというのに、たった一日で。
「どうか、巡礼の許可を」
そして、大勢の信徒が見守る中、選択を迫られた大神官は快く答えるのだった。
数日も経たない内に後悔するとは知らずに……。
そして、一か月後が経った。
◆
手狭な個室の中、ふと神楽耶は緊張で体を硬直させた二人に声を掛けた。
「緊張してる?」
「ええ、まあ……」
「そんなに肩に力入ってたら村に着く前に疲れちゃうよ?」
「そ、そんな事言ったって……街の外に出るなんて初めてだもの……」
部屋は小刻みに揺れ、そこには四人の姿がある。巡礼の任を受けた紗代、罰として同行する神楽耶、その世話係として寧々、そして、
「少しは彼を見習ったらどうだい?」
『彼』とはお目付け役として同行した神官の宮守の事。
宮守は二人の侍女とは対照的に、朗らかに皺の入った目尻を緩ませた。
「私は仕事柄、他の町へ行く事もありますし、それに若い頃はこうして皆さんと同じ様に巡礼に出ていた事もありますから」
どうしてそんなに笑っていられるのだろう。
紗代と寧々は困惑気味に彼と彼女を見つめている。
「ほう。なら宮守は熟練の旅人という訳だ、心強いね」
「ははは。この老骨でよければいくらでも力になりましょう」
「じゃあ道中で色々と教えて貰おうかな、旅の心得とやらを」
「お任せください。なに、一度慣れてさえしまえば二人もきっと楽しくなりますよ」
老齢な顔から予想外に頼もしい言葉。これから起こる想像もつかない日々に身構えていた二人も、ようやく少し安堵したようにほっと息を吐いた。
「いやしかし、この馬車という乗り物は快適ですな。巡礼だというのに自分の足で歩く必要もなく、勝手に目的地まで送ってくださるなんて」
そう言って宮守は敷き詰められた畳をさすった。畳越しに決して小さくはないが、しかし不自由のない程度の振動を感じる。それこそが畳敷きの小部屋でありながらも乗り物である何よりの証左だった。
「頑張ってごねただけの価値はあるね」
その言葉に三人は苦笑。
「大した物よ……まさか巡礼が決まった途端、色々と注文を付けだすなんて」
「必要経費だよ」
「持ちきれない大荷物に、専属の御者に、特別に誂えた乗り物――」
「必要経費というには、その、いささか……」
「ええ。『いささか』過剰過ぎるようにも思えますな。大神官様にとってきっと手痛い出費だったでしょうに……」
遠慮から出た紗代の言葉を借りた宮守の話は正にその通りだったのだろう。
いささかという割には大荷物だという点を除いて。
まず青空の下で踏み固められた街道をゆっくりと走る馬車。それは真新しく、二台あった。その内、前を行くのが四人が乗り込んだ車輪の付いた巨大な黒塗りの駕篭の様な代物。その後ろには長持と呼ばれる木箱で溢れかえった荷馬車がある。
即ち――それら全てが巫女の巡礼のために用意された『必要経費』なのだ。
「巫女の旅だ、当然だろう?」
神楽耶は遠慮の二文字を街に置き忘れてきたかの様に振る舞いつつ、続けて、
「街の外でも私がやる事は変わらないんだ。儀式に使う専用の祭服と祭具は必要だし、どんな季節でも不自由なく過ごせるように着物も必要最低限揃えなくてはいけない。普段着だって、まさか巫女が信徒や民草にみすぼらしい姿を見せる訳にもいかないだろう? 勿論、随伴する君たちもだ」
もっともらしい理由に、それは確かに、と不承不承納得を見せる二人。
しかし宮守だけは言い包められなかったようで、
「それだと妙ですな」
「……と言うと?」
「この私達の乗っている馬車についてはどう説明されるので? 荷物を馬車に運ばせているのであればこの通り、私達は身軽です。徒歩でも問題ないでしょうに」
問い質す風に聞きつつも本人はどこか楽し気だ。
さて神楽耶は、よくぞ聞いてくれたとばかりに勿体つけて、こう言うのだ。
「巫女が道中で足を挫いては教会にとって多大なる損失。だからこれも必要経費」
どうだと言いたげに両手を広げて。果たして宮守は、
「確かに。それは致し方ありませんな」
「さすがの大神官も、そう考えると受け入れるしかなかったんだろう。それに信徒の誰もが知っている約束を反故にはできないからね」
うんうんと数度頷く奇妙なやり取り。
若干名は話について行けずきょとんと顔を見合わせてしまう。
無論、詭弁である。
何せ、だったら巡礼に行かなければいいだけの話なのだから。
置いてきぼりの片割れが、おもむろに口を開く。
「なんだか、あん――」
『あんた』と言いかけて、思わず寧々は咳払いして、
「……神楽耶様も、意外と平気そうよね」
「言われてみれば……どうして神楽耶様は巡礼が平気なんですか」
何かコツでも、と紗代は寧々に同調して不思議そうに首を傾げる。
「例えば、こう……巫女的な方法で精霊様のお力を借りて……とか?」
「まさか。別にそんな特別なものは何もないよ」
神楽耶は一笑しつつ内心で苦笑。
そう。別段、神楽耶は大した事をしている訳でもないのだ。二人と同じで。
彼女の胸中とは裏腹に何だろうと考えを巡らしていく二人を見かねて、神楽耶は、
「それにほら。私は二人とは違って教会の外で遊んだりすることもあるでしょ?」
神楽耶がそう言うと、二人はまたしても互いの顔を見た。
まさか――と。
そう同時に呟いて、恐る恐る脳裏に浮かんだ最悪の想像を口にする。
「こっそり遊びに行ってるんですか……? 教会だけじゃなく街も抜け出して……」
「確かに……それくらいしでかしていてもおかしくないわ……」
「それくらいならしていてもおかしくありませんなぁ……」
失礼な! なんて言いがかりだ!
「ひどいなあ……まさか私がそんな事するように見える?」
「見える」
「見えます」
「見えますな」
……あんまりじゃないか、誰も否定してくれないなんて。
自分のあまりの人望のなさに神楽耶はがっくりと項垂れてしまうのだった。
更にはそんな反応を見てもまだ「だって」とか「ねえ?」とか「仕方ありません」とか、しょうがないと言わんばかりに三人は不満げに話し続けているではないか。
おかげで神楽耶は一度で二度も落胆を経験しそうになる。
やがて、降参だ、と両手を上げて、仕方なく白状する事にした。
「今は巫女なんて大層な仕事をやらされてるけど、元々私はこの街の出身じゃないんだ。だから街の外に出るくらいは何でもないんだよ」
「そうだったんですか?」
「ああ。本当に小さい頃の話で私も覚えてないから、そう『らしい』と付け加える必要があるけどね」
意外そうな反応の二人。
なお知っていて悪ふざけに付き合った宮守が確信犯である事は言うまでもなく、神楽耶はじっと視線を向ける。もっとも彼が話に乗らなくても、自分の日頃の行いの悪さ故に同じ結末になったのだろうが。
「でも覚えてないならさ、むしろあたし達と何も変わらないんじゃないの?」
「勿論、私の条件は二人とは変わらないよ、殆どね。でもだからこそ、私が緊張したり、怯えたり、恐れたりする理由はないんだ」
寧々はふぅんと分かったような分かってないような曖昧な表情。
一方で宮守は感心したように、
「ほう。それは是非、私にも教えて頂きたいものですな。神楽耶様の旅への心構えの秘訣を」
同様に耳を傾けて神楽耶の言葉を待ちわびる紗代。
どうでも良さそうに外に目を向けながらも視線を時折向ける寧々。
気付けば二人の顔にも余裕が浮かんでいる。
そんな様子に神楽耶は唇を少し弓なりに下に曲げて、
「さあて、なんだろうね――」
そう言って、誤魔化し始めるのだった。
巡礼は長い長い旅路になるだろう。
一人旅なんて退屈で、きっと寂しい日が続くに違いない。
もしかすればそれもまた旅の一つの楽しみなのかもしれない。
でも、旅のお供に愉快な巫女を一人どうだろうか。
なんでもない日が愉快で騒がしい一日に生まれ変わるだろう。
あるいはもう一人、励まし合える気丈な侍女を連れてはいかがだろう。
余裕があればついでに頼もしい神官も一緒に同行するのもいいだろう。
そうすればきっと、苦痛も不安も退屈も怖くはないだろうから。
それが土下座一つで手に入るなら。
それだけで敬虔な信徒を救えるのなら、安い買い物だろう。
ここまで読了ありがとうございました
おまけ後日談が一本あります