緑の丘と真っ赤な嘘(2/3)
神楽耶はしきりに自分の格好を見回していた。
おかしいなあ、ととぼけた独り言を呟きながら。
街の中ならともかく教会の所有地で。大人ならいざ知らず子供が。そんな恰好をするのは巫女くらいだろうと余計に怪しまれるだけなのに、と寧々はため息しか出ない。
「というか何でここにいるのよ、あんたが」
「巫女が祭壇の間に来ても別におかしくはないだろう?」
「おかしいわよ、それは儀式の時間の話でしょう?」
逆をいえば巫女は儀式以外では神殿にいなければならないのだが、
「硬いこと言うなよ。私達の仲だろう?」
「あのねえ……」
「そんな怖い顔しないでよ。一体何を怒ってるんだい?」
何を怒ってるのか?
神楽耶に尋ねられ、ひく、と口端が引きつるのを寧々は感じた。
確かに像を落としかけた事には肝を冷やした。普段の態度だってあまりにも巫女らしくなくて、おまけに妙に関わってくるわで、正直気に入らない。でもそんな事よりも――
果たして、寧々が掴みかかるまでに時間は掛からなかった。
「あんたが大神官様に変な事を吹聴したからじゃないっ……!」
寧々は、声を潜めながら叫ぶという器用な芸当をやってのけながら続ける。
「何よ、『ふしだらな事』って……何よ、『二人っきりで懺悔』って! あんたが勝手に会いに来ただけじゃないっ……! おまけに何故かあたしが神殿から脱走させた手引きをした事になってるし、変な噂もできちゃったし……あんたのおかげであたしがこんな事やらされてるのよ? 怒ってるに決まってるじゃない!」
がくがく、と互いの着衣が乱れるのも気にせずに体を揺する寧々。
子供ながらの精一杯の抗議。
だがしかし、
「『こんな事』とは失礼な。これも教会の大切な仕事だろう?」
「なっ……」
反省の色が見られないどころか、神楽耶は変わらず飄々と。本人でさえ気にしていないだろう言い回しをさも巫女らしくも指摘する。
「丁度よかったじゃないか。誰もやりたがらないから長らく放置されていたみたいだし」
「おかげさまでねっ!」
そう言い切ると寧々は「ふん!」と鼻を威勢よく鳴らしてそっぽを向いた。
まだまだ像は残っているのだ、言い争ってる暇はない。
もういい。こいつと話しても一方的に遊ばれるか余計に腹が立つだけだ。こうなったらもう徹底的に無視しよう。うん、そうしよう。
そう一人納得して、像の頭を鷲掴みしながら作業を再開する。
新しい像を取って、磨いて、磨いて、ひたすら磨いて。汚れた雑巾を濯いで絞って、ああ冷たいとしかめっ面を浮かべながらもう一度。丹念に磨いて僅かに元の色を取り戻した像を元の場所に戻す。
真剣に、汚れが残らないように、怒りでついつい余分な力を入れてしまいながらやるのだが、
「……」
その間にも視線がじっとりと纏わりついている。
横目に見れば、一見して真面目な巫女。
何よ、こっちはまだ怒ってるっていうのに、そんな顔で。
湧き上がる疑念と苛立ち。
さっさとどこかに消えてしまえば良いものを、今度はさも当然のように横に並んで何をするかと思えばただ眺めてるだけと来たもんだ。鬱陶しいったらありゃしない。おまけに、へえ、だの、ほう、だの、妙に感心したような声までわざとらしく付けてくるのだ。
そしてそれは効果てきめんだった。
はっきり言って――こっぱずかしい。
人に見せるような仕事でもないのに、なんだか品定めされているようで。
結局、寧々が我慢できる事はなかった。ただこの状況を耐え忍ぶだけの彼女が、その様子を内心嬉々と楽しんでいた神楽耶に、我慢勝負で勝てるはずがなかったのである。
よって、寧々は呼吸を整えて言葉を選ぶ。
可能な限り、努めて冷静に。射貫くような視線で、冷たくあしらうように。
「何見てるのよ」
「君の仕事ぶりを」
「邪魔しないでよ」
「ただ見てるだけじゃないか」
「それが邪魔なのよ、いい加減ほっといてどっか行って頂戴。あたしはこれを全部終わらせなきゃいけないんだから」
「それは大変そうだね」
「そう、大変なの」
誰かさんのせいでね、と嫌味ったらしく付け足すと、ようやく困ったような顔をした。
寧々は続ける。
「見ての通り、誰かさんのせいであたしはこんな罰を受けてるの。いつになったら終わるのか見当もつかない。きっと全部磨き終わる頃にはあたしの指はそこの像みたいに黒ずんで染みが取れなくなってるわよ。そんな惨めなあたしをからかいに来て、巫女様はさぞ楽しいんでしょうね」
そう言うと神楽耶は黙ってしまった。
自分のした事を理解してもう見ていられないとでも思ったのか、俯いたまま何も言わない。
沈黙を横目に寧々は、
(いい気味よ、参ったか!)
我ながら迫真の演技だった、と内心ほくそ笑む寧々。
神様がもし存在するなら不敬だと怒ったかもしれない。あるいはなんて人間は愚かなんだと呆れたかもしれない。しかし悪いのは巫女でありながら信徒を欺いた彼女である。なら仕返しをして何が悪いというのだ。
これを機に反省して二度と悪さをしないよう、徹底的に痛めつけてやろう。
しめしめとそう企んでいると、やがて声が返ってきた。
「ごめん。そんなつもりはなかったんだ」
「じゃあどういうつもりな訳?」
すると神楽耶は口を開く。
ぽつりぽつりと紡がれた言葉は、寧々の予想よりも遥かに弱弱しく、切実だった。
「本当は、君に謝らないとって思ってたんだ。ただ、こんな罰を受けてるなんて事は全く知らなくて、さっき君を見て知ったばかりで、驚いちゃって……」
「……それ、本気でいってるの?」
「うん……。教会の仕事とはいえ、本当にひどい仕打ちだね……何て言って謝ればいいのか、どうしたら許して貰えるのか……。だから、元気づけようと思ったんだけど……」
失敗したみたいだ、と神楽耶は苦笑。
それは自らの過ちを自嘲するかの如く情けない代物だった。
そして最後に、本当にごめん、と。
困惑する寧々。その反応はまるで叱られた子供だ。期待していたものとは異なる結果に、たった今さっき決心したというのに毒気を抜かれてどうこうしようと気がしない。
「……あっそ」
「寧々に許してもらうためならどんな償いでもするよ。だから頼む、この通りだから」
「あー……もう分かったから」
「でもまだ怒ってるだろう?」
「もういいから。怒ってないから。だからそれ以上巫女様が頭下げないでよ」
むしろやりすぎたという気さえしないでもない。萎縮して居心地が悪そうに見上げられて、寧々まで居心地が悪くなりそうだった。
全く調子が狂う、と思う。
正直に言ってしまえば怒っていないというのは嘘た。ただこれ以上突いて余計に面倒な事になればたまったもんじゃない。それに少なくとも反省はしているのだ。だったら大目に見てさっさと部屋から追い出した方がいいだろう。
そう考えて、寧々はしっしと面倒くさそうに追い払う。
「もう分かったからさっさと出ていってよ。あんたが居るとそれだけであたしが怒られるんだから。その代わりあんたが抜け出したのはみんなに黙っておくからさ」
「本当にっ? ありがとう、この恩は忘れないよ……!」
寧々は神楽耶の笑顔を尻目に盗み見つつ、はいはい、と素っ気ない態度。
こちらの気も知らずに。罪悪感でちょっぴり胸が痛くなる、ほろ苦い感謝の味だった。
「だったらこの罰を帳消しにでもしてよね……」
流石に叶わぬ願いだろうと思いながら呟いて、それから寧々は一息。
少々の欠伸と共に作業を再開する。
「さてと……」
神楽耶はというとまだどこかへ行く気はないらしい。また黙って作業を見ているつもりのようだったが、きっと今度は邪魔はしないだろう。どうせ暇なんだ、と諦める。
背中越しに彼女を感じながら、気を取り直して、
「……そういえば紗代は?」
それは手始めに雑巾を濯いでいる最中の、何気なく聞かれた質問だった。
「紗代?」
「今朝から見てないんだけど、街にでも出かけたの?」
まさか、と寧々は振り返らずに軽く笑う。
「あんたじゃないんだから。紗代なら多分、丘じゃないの?」
「丘?」
「そう。ここの裏林を抜けた先の」
「ふぅん。そう」と言って、神楽耶は再び沈黙。
暫くの間、ちゃぷちゃぷという水音だけが祭壇の間に小さく響いていた。
日が少しずつ昇っている事もあってか、おしゃべりしている間に水は若干温くなっていた。単純な作業が眠気を誘い、欠伸を噛み殺す。
というか――
「ねえ。結局あんたは何しに――」
来たの、と。
そう尋ねようとするが、結局それは叶わなかった。
誰もいない。
振り返ってみれば、ただ小綺麗な畳が敷かれているだけ。祭壇の間に居たのは無数の像に囲まれた侍女、ただ一人のみだった。
まるで元から居なかったかのように、彼女は忽然と消えていた。
「あれ……? あたし、夢でも見てた……?」
きょろきょろと見回しても、名前を呼んで探してみても。返事をしてくれる巫女の姿はどこにもなかった。また驚かそうというつもりなのかとも思ったが、どうやら素直に神殿に帰ってしまったらしい。あるいは、本当に夢の中での出来事だったのか。
寧々は釈然としないまま作業に戻る。
「えっと次の像は……――」
呟きながら見上げてみれば、どれも似たり寄ったりな像の数々。
ええっと、と困惑顔で像を見つめる寧々。
神楽耶と言い争ったり、探し回ったり。度々作業を中断して余所事をしていたせいで散漫になり、すっかり分からなくなっていた。どれを磨いて、どこまで磨いたのか。次はどれを手に取るべきなのか。寧々は完全に見失ってしまっていた。
記憶からおおよその位置を辿りながら、像の汚れの違いを睨めっこしながら、
「どうしよう……」
頭を抱えて寧々は悩むのだ。
最初からやり直すか、勘を頼りに再開するか。
◆
開けた場所に躍り出た。
空を見上げればすっかり太陽の位置は様変わりし、変装の笠と羽織も木の葉に塗れて森に入る前はなかった緑の匂いを纏っている。
目的の姿は――
「探したよ」
地味な着物姿をした十五、六の真面目そうな顔立ちの女は、探すまでもなくそこに居た。
神楽耶は、紗代、と名前を呼ぶ。
紗代は戸惑いを露わに尋ねた。
「どうしてここへ?」
「まあ、なんとなくだよ」
それと場所は寧々に聞いたんだ、と共犯者の名前を付け加えて。
「またですか、神楽耶様。駄目ですよ、大神官様にまた怒られてしまいます」
「大丈夫。ここには怒る人は誰もいないよ」
そう言って神楽耶は彼女の横に腰を下ろした。
幸いにして二人きりだ。他には誰もいない。
聞き耳を立てていれば抗議をしていただろう寧々も、見つかれば怒鳴り散らして神殿に連れ戻すだろう大神官も、あるいは密かに脱走を報告する敬虔な信徒も。
そのおかげもあってか。紗代は帰宅を催促する事もなく、仕方なさそうに苦笑する程度にとどめた。
「それでも本当は駄目なんですよ」
「変装しても?」
「駄目です」
「バレなかったら?」
「駄目です」
「でもちょっとくらい……」
「ちょっとでもそっとでも駄目です。ちゃんとお天道様は見てるんですから」
ほら、と紗代が指差す方には煌々と天に輝く『お天道様』があった。子供に諭すように言いつつも眼差しは真剣。まるで本当に空に神様の使いがいると信じているかのように。
このやり取りじゃ敵わないな。勝ち目がないのであっさり話題転換。
「紗代こそどうしてここに?」
そういえば寧々から場所は聞いても目的までは聞いてなかったのだ。教会関係の仕事だと辺りは付けていたが、それ以上は不明。辺りを観察しても有象無象の草花が生えているだけで神楽耶には特別何かがあるようには見えなかった。
「私は野草を摘みに来たんです」
「野草?」
返事をしつつ包みを持ちあげる紗代。使い古された風呂敷にはきっと積んだばかりの野草が包まれているのだろう事が神楽耶には分かった。
なるほど、確かに周囲を掻き分けてみればそれらしき草や摘んだ跡がちらほらと。
だが、なんのためにそんな事を?
首をひねる神楽耶に紗代はこう答えた。
「神楽耶様に毎朝飲んでいただくためです」
明るく言われて神楽耶は豹変。苦虫を噛み潰したような顔でこう思い出した。
「あー……あれかー……」
毎朝の儀式で儀礼上飲んでいる朝食代わりのそれ。
最小限の味付けのために全く美味しいとはいえない汁物。毎日精一杯気を静めて意識しないよう飲んでいるのだが、つい思い出させられて盛大に残った青臭さが舌の上に甦る。
うげえ、と舌を出した神楽耶を見て苦笑。
紗代は手を二度拍手した。
「はいはい。気晴らしはこれでお仕舞です。神楽耶様は本来巫女様としているべき場所に戻ってください。もしも本当に大神官様に見つかったら、次こそはただでは済みませんよ」
「そんな寂しい事言わないでよ、私達の仲だろう?」
「そう言っていつも誤魔化してませんか?」
「まさか!」
そういえばつい先刻同じ様な事を言った気もする。
「まあまあ。もしかしたらこれっきりかもしれないんだから」
一瞬、紗代は固まる。
それから曖昧な笑みを浮かべ、
「これっきりって、どういう意味ですか?」
「どういう意味って?」
「だって……まるで今生の別れみたいな……」
「確かに、本当に今生の別れかもしれないよね」
淡々と告げる神楽耶に、紗代は今度こそ体をびくりと震わせた。
ふわり。草が揺れて小さな花びらが舞った。
大地に温められた春を告げる風が、ゆっくりと草木を掻き分けて丘の上を過ぎていく。
神楽耶は優しい表情を浮かべて言う。
「紗代は私がもっと小さかった頃から面倒を見てくれたからね。せめて最後に、別れる前に話しておきたかったんだ。君はそうは思ってないかもしれないけど、周りが大人だらけの私にとって、紗代は本当に、姉のような存在だったから」
神楽耶は巫女だった。
いくら信徒とはいえ、安易に面会する事が許されるはずがなく。彼女に会えるのは教会で重要な役割を担った人間か世話係の侍女だけ。周囲の大半は当然の様に歳が一回りも二回りも離れた大人ばかりだった。
おかげで自分の心まで老いてしまった、と自嘲。
その中で、神官の娘として将来を期待された彼女は、周りが都合を利かせた貴重な年の近い遊び相手だった。
神楽耶の告白に紗代は、初めは恐れ多いと慌て、
「いえ、そんなっ……。……私にとっても神楽耶様は、まるで大事な妹のようでした。手の掛かる子でしたけどね、ちょっとだけ」
しかしやがて嬉しそうに微笑み返した。
「なら、折角の晴天だ。縁側で煎餅片手に話に花を咲かせるのにぴったりの、気持ちのいい日だ。少しくらい話したっていいだろう、お姉ちゃん?」
「分かりましたよ、神楽耶――ちゃん」
自分から呼び捨てしておいて、流石に不敬ですかね、と苦笑して。
だが何も気にする必要はない。
胸襟を開いて話すには絶好の日和で、それこそ幸いにして二人きりなのだ。
寧々も、神官も、大神官もいない。神楽耶を探し回る几帳面も、無礼だと紗代を咎める年長者も、二人の団欒に割り込む邪魔者も、誰もいないのだから。