緑の丘と真っ赤な嘘(1/3)
短編その2です
3万字くらいあるので分割して上げます
教会の巫女、神楽耶の朝は早い。
深夜。夜が明けるよりも早くに起こされて、侍女の手と蝋燭を頼りに離れで冷水を被って全身を清める。それから紅白の重苦しい祭服に着替えさせられて、教会は大聖堂の祭壇に向かって跪いて日の出に向かって数時間の無言の祈りをささげ、漆器で七草を煮込んだ汁を飲んで精霊に身を捧げる。
そしてこれを毎朝繰り返す。
心地よく夢へいざなう春の日も。
蒸し暑い熱気に満ちた夏の日も。
食が豊かで煩悩多き秋の日も。
文字通り身も凍る寒さの冬の日も。
それが教会が神楽耶に課した職務であり、これだけが神楽耶の生活の全てであり、逆にこれ以外が――生まれが違えば、ごく普通の村娘であれば体験できただろう当たり前の一切が、許されなかった。
今よりも幼かった頃、神楽耶は侍女にこう聞かれた事がある。
「巫女様はこのお仕事をどうお考えですか?」
教会に身を捧げていた彼女にとってみれば、単なる好奇心だったのかもしれない。あるいは信仰心からきた素朴な疑問だったのだろう。
こんな幼い子供が何を考えて教会に尽くしているのか、崇拝する巫女様の意見を聞いてみたい、とあまり深く考えなかった末の言葉。
しかしそこは危険地帯だった。
「趣味の悪い拷問だね。きっとこれを考えたのは相当な加虐趣味の変態野郎なんだろうさ」
侍女は卒倒した。
翌日、巫女は噂を聞き付けた大神官から大目玉を食らい、数日間三食野草に置き換えられたという。曰く、爪の先に至るまで体を清めて巫女の体から邪念を追い払うために。
しかしこのような厳しい毎日が齢十の幼い少女に耐えられるはずもなく。
またそれ以上に巫女は、少女というには至極――厄介者だった。
神殿と呼ばれる巫女を軟禁、もとい祀っている屋敷に怒声が響き渡る。
「神楽耶! 神楽耶はいるか!」
大神官は限界だった。
近隣の町や村の全ての教会の長を勤めるという教会でも重要かつ偉大な職業を勤める彼だったが、そんな彼にも限界の二文字があったらしい。干からびた巨木のような男には今はその威厳は欠片もなく、顔面で怒りと理性が合戦繰り広げている。
ずんずんずん。声は地響きと共に縁側を奥へ。たまたま居合わせた侍女の悲鳴を散らしながら、神殿の中枢へと入っていき――ぴしゃん。
「神楽耶!」
「なんだい、騒がしい」
しなる程強く障子戸を開けると、畳に寝そべった神楽耶がそこにいた。
人前にもかかわらず薄い着物たった一枚。足袋に包まれた足をパタパタと上下させて、はしたなく裾をはだけさせている、巫女でありながら、巫女に相応しくない身だしなみの女子。
見下ろされながら神楽耶は、パキリ。煎餅を歯で割る。
「大神官。ここは神聖なる巫女が住むお屋敷だよ? 少しは静かにしたら?」
それに寒いじゃないか、と眉をひそめて続けられて、大神官は無言で後ろに控えていた侍女を下がらせたのちに後ろ手に戸を閉めて胡坐をかいた。
「座りなさい」
そう言われてようやく神楽耶は渋々と着衣を整えて居住まいを正す。
「神楽耶、お前は何度いえば気が済むんだ」
「え? 何のこと?」
無邪気な顔を不思議そうに傾げる神楽耶。
その様は年相応の子供のようで、大神官の慧眼をしても嘘をついてるようには見えない。日頃の行いさえ健全であれば、きっと「そうか、勘違いだったようだな」とあっさり引き下がっていた事だろう。
だが当然そんなはずもなく、大神官は、
「……また不敬な事をしたそうではないか」
神楽耶は今度は反対側に首をもたげて、
「不敬? 私が?」
「神殿の外に出ていたのはもう知っている。巫女が儀式以外で外出してはならん事を忘れたとは言わせんぞ」
「神殿を出た? どうやって?」
三度繰り返した仕草に、大神官は眉をピクリと震わせた。
そして瞳を閉じて首を小さく振る。
いかんいかん、このままではまたいつものように遊ばれるだけだ。相手は巫女だ、厄介ではあるが巫女なのだ。大神官としての威厳と巫女への敬意を忘れてはならない。
大神官はそう自分に言い聞かせると、懐から取り出した扇子で自らを仰ぐ。
「もう手引きした者を突き止めて、既に直接本人から話を聞いている。まさか巫女ともあろう者が、正直者の信者を差し置いて言い逃れをしようだなんて思わんだろうな?」
厳つい顔でそう凄む大神官。
すると流石の神楽耶も分が悪いと思ったのだろう。
唇に指をあてて虚空を眺め始めた。
「う~~~~~~~~~~ん…………」
可愛らしい唸り声が畳の間に響く。
大神官は急かす様に閉じた扇子を掌の上に降ろして拍を刻む。
五秒が経ち、十秒が経つ。
まだか。
まだなのか。
数十秒が経ち、扇子の音が鋭さを得る。
はよせんか。
さっさとしろ小童。
やがて百を数えたあたりで――破裂した。
大神官が手に持っていた扇子と、こめかみに浮かんだ堪忍袋の緒が。
「下手な芝居はやめてさっさと答えんか! 貴様が信者をたぶらかして何か『ふしだら』な事を教えとるのは知っとるんだぞ!」
「えー、そんな事してないよ。たまたま面白そうな子を見つけたからちょっと誘って夜二人っきりで軽く懺悔聞いてただけだよ。大神官もいつも懺悔聞いてるでしょ?」
「どこの教会にそんなふしだらな懺悔があるか!」
全く言い訳にもなってないじゃないか!
言い訳をするどころか、あまつさえ教会を侮辱するかのような言動。
本来ならその場で説教して懲罰物だ。
だが大神官は叫ぶために開けた口から罵声の代わりに息を吐きだす。
長く、深く。
腹の内で煮えくり返った怒りを全て吐き出すようにして、信仰と意志の強さで再び高ぶりかけていた気を静め、大神官の顔に戻す。
「お前は何だ、神楽耶。お前は教会のなんだ、答えろ」
「巫女?」
「そうだ、お前は巫女だ。人と神を繋げる、神聖にして人の平穏のために必要な重要な存在だ。教会の最高位にして教会そのものなのだ。それがみだりに外へ出て人と接触するなど、どんな穢れを呼ぶか分からん。だから規律でお前を縛り付けると同時に守っている」
「うん、もちろん知ってるよ」
「そうだろう。当然だ、知らんとはいわせん。お前がここに来るより前から教えとるのだから」
「抜け出すたびにも教えてるし?」
「そうとも。もうかれこれ何百……いや、何千と教えた」
「さすがにそろそろ嫌になってきたんじゃない?」
「分かるか? お前のおかげで屋敷の前を通るだけで気が滅入るわ」
「じゃあ玄関に『大神官様お断り』って張り紙でもしておく?」
すると大神官は一瞬きょとんと。
しかしニヤリと口の端がつり上がり、思わず神楽耶も笑い返す。
ククク、カカカ、ハハハ――笑い声は次第に大きくなり、最終的に瑞々しい高音とかすれた低音による抱腹絶倒の二重唱が始まった。何も知らない人間が通りかかれば、なんて賑やかな屋敷なのだろうと思った事だろう。
ただし実際には爆発寸前である。
――ズドン。
屋敷が唐突に、縦に揺れた。
建物全体が軋みを上げて埃が天井から僅かに舞い落ちる。
その原因を神楽耶は見た。
震源地は目の前。大神官が畳に打ち下ろした拳だ。長い年月の修行の果てに引き締められ無駄をそぎ落とした鉄拳は、見事な信仰心によって拳大の穴を空けていた。
「いいか、よく聞け。もし再びお前が規律を破れば、二度と逃げないように鎖で繋いででも規律を守らせてやる。分かったな」
「…………」
立ち上る圧力と有無を言わせぬ言葉に、神楽耶は目を丸くして無言で頷いた。
「はあ。参ったなあ……」
神楽耶は一人きりの部屋で嘆息する。
大神官は怒って帰ってしまったから当分は顔も見せないだろうし、侍女も大神官の怒りを恐れてしばらくは遊んでくれないに違いない。
まるで籠の中の小鳥だ、と神楽耶は思う。
巫女だ、巫女様だ、と教会と信徒は神の代替物のように崇めてくれるが、実際には自由本坊を想起する彼らとは程遠い。今も誰かが手を引いてくれなければ外に出る事もできないし、青空の下を羽ばたく事も叶わないのだ。
それを人は何と呼ぶだろう。
ぱたり、後ろに倒れて。仰向けに寝転んで天井の染みを見つめながら思う。
――退屈だ。
◆
根雪もすっかり溶けた春の初め。
塀の向こうから肌寒い冷気が押し寄せる朝。庭園ではひりつく寒さにも負けずに葉を散らした木々が昼の陽光に新芽が顔を出していた。
それと同じ様に、ひょっこり。
そっと開かれた障子と障子の隙間から飛び出した童顔がある。
神楽耶だ。
神楽耶は顔をきょろきょろと動かし、同時に丁寧に切りそえられた毛先も揺れる。
右を向いて、ゆらり。
「右よし」
左を向けば、ふらり。
「左よし」
縁側に誰もいない事を確認。
小さな草履を片手にしめしめと声を抑えて笑う。
だが尻を突き出したその後ろ姿は子供らしくて滑稽で、きっと侍女が見ていれば逆に声を抑えて笑われていたに違いない。
幸いそんな侍女はいなかったが、代わりにひっそりと溜息を吐く影がそこにあった。
「何がしめしめですか?」
「む」
後ろ目に見れば見知った顔。
「……乙女の一人遊びを覗くなんて変わった趣味を持ったもんだね」
「都合のいい時だけ『乙女』の振りをしないでください」
「十歳の女子だよ? 恋もすれば色付きもする。乙女には違いないだろう?」
「そんな事はこれっぽっちも思っていないでしょうに。それに、私から見れば神楽耶様はまだまだ子供ですよ。少なくともそんな隙を見せている内は」
言いながら呆れ顔で尻を見下ろされて、ようやく神楽耶はやれやれと呟きながら首を引っ込めて障子を閉める。居直り、改めて白髪の顔を見上げて、
「失礼。それで今日は何の用だい、宮守神官?」
「はて。用がなければ来てはいけないと?」
「いやいやまさか。敬愛する神官殿だ。いつでも歓迎するよ」
「同じだけの敬愛を大神官様にも抱いていただければ、私の仕事ももう少し楽になるんですけどね……」
「ふぅむ……それは難しい問題だね」
さも難問のように唸る神楽耶。しかし、
「しかし君とも長い付き合いだ。善処しよう」
明朗快活。打って変わって笑顔で頷いた。
勿論、そんな気はさらさらないのだが。
だが宮守も揶揄っているのだと分かっているようで大仰に畏まりながら「有難きお言葉」と苦笑。神楽耶の方も無駄だと知りながら進言してみせる付き合いのいい彼の演技にニマニマ笑い返す。
見つめる先、枯れ木のような顔に滲むのは友愛だ。今朝見たばかりの大神官とは真逆の物。我が子同様に向ける慈愛と、文字通り幼子の神楽耶にも払う敬意が、そこには含まれていた。だからこそ神楽耶は彼を年の離れた友人として歓迎している。
「――でも、今日は本当に何か用があったんじゃないのかい?」
表情を変えぬまま、満足そうに頷きつつ言う神楽耶。
すると宮守は虚を突かれつつも、いやはや敵いませんな、と。
「大神官様がまたお怒りなったと聞きまして」
「耳が早いね」
「きっと神楽耶様は退屈されているでしょうと思いまして」
「耳が痛いね」
「ですから、一つ面白い話を持ってまいりました」
「よし聞こう」
さあ話せとせっつくと宮守は苦笑。やがて神妙な顔つきで口を開いた。
「実は、娘がもうすぐ十五になります」
宮守の娘。
それが誰なのか神楽耶は知っていた。
「紗代、か」
「はい。男も女も十五にもなれば一人前。農家であればとっくに嫁に出している年頃です。ですが娘は、私同様に生涯を教会に尽くす立場です。きっと今日も街へは行かずに朝から教会で奉仕しているでしょう」
そして直ぐに思い至る。彼が何を言わんとしているか。
だからこそ、誇らしげに語る宮守にじっと静かに耳を傾け続けた。
「ですから。女の身ではありますが、いずれは私の後を継いでもらおうと思っています」
「神官に、っていう事?」
「ええ」
「それで彼はなんて?」
「大神官様も、紗代の献身的な活動に認めてくださいました」
なんと。
あの大神官が。
神木に信仰を蒔いて生まれた様な堅物が。
「驚いた」
ほう、と神楽耶は僅かに見開く。
紗代が真面目で模範的な侍女という事そのものはよく知っている。だが一方で女性が神官というのは聞いた事がなかった。むしろここ数か月で一番の話題だ、驚かない訳がない。
頬を緩めて相槌を打つ彼の反応もまた至極当然。教会に仕える人間にとって役職を与えられるのは光栄な事で、きっと宮守は内心有頂天なのだろう。
神楽耶が簡単に言祝ぐと、彼は深々と頭を下げて礼を言う。
「でもきっと本人が一番驚いただろうね」
「ええ、そりゃあもう」
「寂しくもなるね」
「ですが、誰もが通る道ですから」
「でも大神官はきっと、その道を簡単には通らせないだろうね」
「それは――……ゆくゆくは私の代わり、ですから」
砂を口に含んだように言い淀み始めた宮守に神楽耶は、そりゃあそうだね、とそっぽを向いた。見ていられず、何となく床の間に掛けられた掛け軸を見つめる。
宮守もまた、それっきり何も言わずに目を伏せた。
沈黙だ。
互いにそれ以上言うべき言葉が見つからず、示し合わせたように無言が続いた。不思議と障子戸が揺れるカタカタとした音が、やけに部屋に響いたように神楽耶は感じた。
風が鎮まる頃。
やがて神楽耶は前触れなく立ち上がった。
「どちらへ?」
「厠だ」
そうぶっきらぼうに告げて、言葉を継ぎ足す。
「ただ、神殿は無駄に広いから道に迷ってしまうかもね」
「何をおっしゃる。慣れ親しんだ我が家でしょうに」
「最近は物忘れが激しくてね。おかげで大神官の有難いお説教も右から左だよ」
「左様ですか。それはまた難儀ですな」
宮守は苦笑。
お道化た神楽耶の冗句に。気を利かせて一人にさせてやろうという、隠す気もない粋な計らいに。
「それじゃあ失礼するよ」
「はい、ごゆっくり。ああ、でも――」
呼び止められて、片側の障子戸に手を掛けたまま振り向く神楽耶。
「……何?」
「大神官様のお耳に入らないようお気を付けください。もしもその草履を使うなら、ですが」
ひしと神楽耶の足と微笑が固まった。
目敏くも宮守は気付いていたのだ、手を掛けなかった戸の裏側に隠していたそれに。さらりと縁側から抜け出そうとしていた算段に。心眼とも呼ぶべく勘の鋭さである。
……これだから年寄りは。
「今何かおっしゃいました?」
「いいや、何も?」
目敏いだけじゃなく耳聡くもあるらしい。
やれやれと神楽耶は肩をすくめて、諦めて捨て台詞を置いていく事にした。
「確かにバレたら大変だ、善処しよう」
吊り上げた口端に、今度は宮守の方が肩をすくめる番だった。
そして障子の向こうからぼそりと呆れた様な声が聞こえた気がする。
やれやれ、うちの巫女様は――と。
◆
教会の施設を中心に据えた街は国有数の都であった。
多くの人々が毎日信仰や観光のために訪れるので、そういった人間を狙った商人もまた多く集まり、いつしか街は周囲の町の交易拠点にもなっていた。そのため街の入り口から信徒のために開け放たれた大聖堂まで続く大通りは午前中でありながら賑わいを見せていて、正に都らしい華やかさがそこにあった。
その一方で、その華やかさを支える人間もいる訳で、
「あー……もう部屋に帰りたい……」
侍女の寧々は薄暗い部屋の中で一人、重い溜息を吐いていた。
片手に持ったそれを脇にコトリ。作業をしやすいよう袖をたすき掛けにしているので、手の甲で額の汗を軽く拭った。
それからもう片方の手にある雑巾を桶の中に手ごと突っ込む。
「うぅ……冷たい」
汲んだばかりの井戸水に、熱が吸い取られる。作業で火照っていた体も一瞬でぶるりと震えた。
朝の室温と汗を吸った着物が余計に寒気を呼んで、まだ水仕事は辛い、と身を持って実感しつつ、雑巾を軽く絞って手指の水気をぱっぱと切った。
はーっ。
着物の裾で拭った手に、息を吐きかける。
冷え切って白くなった柔肌に、赤みと生気が宿る。
それから再び脇に置いたそれを手に取って、洗ったばかりの雑巾でせっせと磨き始めた。蓄積された汚れに雑巾は直ぐに黒ずんでしまう。まるで墨汁を零したかのような状態だ。
終わりの見えない作業に、寧々は顔を顰め、呟く。
「これ。いつになったら終わるんだろう……?」
初めてこの仕事を聞いたときの状況を寧々は思い出す。
衝撃的だった、と。
桶が頭に降ってきたかと思ったくらいだった。おかげで寝惚けていた頭が一瞬で覚めた。その代わりに信じられない内容に夢でも見ていたのかと勘違いをして、失礼にも「はい?」と再び聞き返してしまったのだが。
その時の相手の顔を思い出すと、今でも恐ろしい。めきめきと音を鳴らしながら顔の皺がいくつか増えだしたのをまだ覚えている。今思えばあの音は大神官の握りこぶしか、握られた扇子か何かだったのではないだろうか。
彼女が今朝与えられた仕事は掃除だ。
勿論、大神官から直接与えられる仕事がただの掃除な訳がなかった。
その理由が――衝撃的な光景が、寧々の目の前に今、堂々と広がっていた。
大聖堂は最奥、祭壇の間。
入口を信徒に解放しても絶対に開けられない場所。巫女や大神官などの一部の関係者にしか入る事を許されない不可侵の領域に存在するのは、おびただしい量の像だった。
形は大小様々。像は何段も増築された棚にずらりと並んでおり、一つとして同じものはないが、しかしどれもどことなく似通っている。
その数は数十や数百どころではない。かといって正確な数は不明。大聖堂前に並ぶ長蛇の列を連想するそれは、文字通り山を形成する程に大量だった。
改めてそれを見上げながら、寧々はその終わりの見えなさに愚痴をこぼした。
「これ全部掃除するくらいなら、巫女を神殿で大人しくさせてくれって頼まれた方がよっぽど楽なのに……」
巫女も結局は人間で、人一人大人しくさせるのに縄の一本でもあれば十分なのだ。ただしもし縄がなければ諦めるしかない。彼女を改心させるのはきっと、神様にも不可能なのだから。
「あいつのどうしようもなさは一級品だもの」
そう言って寧々は本人の居ない所で笑う。
どうせ誰も聞いてないのだから問題ない。大神官が見張っていればもっと真面目にやれと怒られていただろうが、独り言でも呟かないとやってられない気分だった。
像に文句はない。
教会にも、当然神様にも。大神官にだって、多分。
でもこれをやれと言われれば、いくら教会の侍女であっても仕方ないだろう。溜息や愚痴や独り言くらい零したくなるものだ。最も自分をこの状況に陥れた張本人には直接文句を言ってやりたい所だが。
そう局所的に腹を立てつつ、くすくすと笑いつつ。
寧々は磨いたばかりの像を元の位置にそっと供えて、
「順調?」と声が掛けられる。
横から。
耳に息がかかる程の距離から。
当然、驚かない訳がない。
「ひゃんっ!?」
寧々の口から、自分の物とは思えない悲鳴が飛び出した。
反射的に体がこわばって跳ね上がる。
そうなってしまえば本人の意思とは関係なく手元が疎かになってしまうのが世の常だ。
結果、必然的に。驚いた拍子に引いた手が隣に並ぶ像に強く当たってしまった。
ぐらり。傾いた。
このままでは像が棚から零れ落ちてしまうだろう。
直感的に彼女の脳裏を三文字が支配する。
危ない。
咄嗟、落としてはいけないと手を差し出す。
しかし不幸にも像は予想していた軌道から外れる。慌てて出した手は像を掴むには至らず、むしろ強く当たってしまった事で像は掌の上で一度踊ると寧々から逃れるように飛び跳ねた。素早く追いかけるも像は再び寧々を拒否し、低い軌道を描いて地面へ。
ずさあ――
畳が振動、重たい摩擦音。
祭壇の間に埃がふわり舞い上がる。
沈黙が訪れる。
数秒後、寧々は呟いた。長く息を吐いて、
「はぁーー……助かったぁ……」
決死の思考停止全力全開飛び込みの甲斐もあってか、像は何かに激突して角が欠けてしまう事もなく、無事に寧々の掌に収まっていた。
(心臓が飛び出すかと思った……)
どきどきだ。今もまだ心臓の余韻を全身で感じている。
息を整えながら、全開で伸ばし切った小さな体をくたりと畳の上に委ねた寧々に、
「間一髪だったね」
あたかも他人事のようにくつくつと笑う人物がいる。
いらっ――そして――ぎろり。
寧々はそいつを恨めしそうに伏したまま睨めつけて、
「間一髪だったね……じゃな――」
「しーっ……」
言われて慌てて両手で言葉を飲み込んだ。
祭壇の間が聖域だという事もあって正面玄関から入れないよう隔絶されているが、幾重もの襖を隔てた先とはいえ大勢の信徒が来ているのだ。大声を上げれば大変なことになるのは彼女にも容易に想像できた。
幸いにして、妙などよめきも怒鳴り込んでくる神官の姿もない。
寧々はほっと胸を撫でおろしながら立ち上がって、こう言った。
「……それで、何の用? っていうか、何よそれ」
小麦色の笠を被って羽織を上に来た奇妙な子供――神楽耶に、胡散臭そうな視線を向けながらぶっきらぼうに顎をしゃくった。巫女に対するものとは思えない態度だが、神楽耶に気にする様子はない。
「変装のつもりだけど……変?」
寧々はあっさりと断言する。
「変」