02.血の臭い
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違和感を覚えつつも、しばらく私は倉庫に入る機会がなかった。
次にその機会があったのは、やはり前担当者の書類不備を確認するためだ。そのたび遡って訂正をしないといけない。……いや、本当、ミスが多過ぎる。決算期のことを思えば憂鬱になる私だった。
朝早く出社すると、課長がすでに来ていて、プリンターに紙を補充しているところだった。私はふうん、と思う。前の部署では、プリンターの紙補充みたいな雑用は新人か女性社員の仕事だったなあ。私は課長に近付いて、おはようございます、と言った。
「課長、倉庫の鍵、頂けますか?」
「うん、どうした?」
私が訳を話すと、課長はため息をついた。
「また伝票ファイルが必要なのか……彼女の書類が、事務不備で迷惑をかけるね」
「いえ」
確かに迷惑はかかっているが、それも含めて仕事だから致し方ない。私は課長から鍵を受け取り、倉庫に向かう。鍵を開けて、中に入った。
目的としていた、伝票ファイルは、一番直近のものが倉庫に入ってすぐの手前の方に置いてあった。おや、と思った。この前入った時と場所が変わっているような気がするのだ。記憶を辿ったが、間違いない。私は使った翌日、元の棚に戻したはずだ。
過去の伝票ファイルなんて、私以外の誰かが使うとも思えないが、誰かが使って、元の場所に戻すのも面倒なのだろうか?
何しろ、他の伝票ファイルは、年数もぐちゃぐちゃに、様々な場所に突っ込んである。他のファイルはまだ同じものが一か所に固まっているのに、これはひどい。
鼻をすん、と動かして臭いを嗅ぐ。以前感じた、血の臭いのことが、どうしても気にかかっていた。
(やっぱり、臭い。臭うな……)
やはり、血の臭い――だ。
ダウザーとしての訓練を重ねた結果、私の五感は、人より優れているという自負がある。気のせいではない――私は目を細めて倉庫を見渡した。
何しろ、本当に散らかった倉庫だ。入り口付近に置いたままのコピー紙などの消耗品はいいとして、奥の方は、何だかよくわからない段ボールやら何やら。会社の書類が保管されている場所だから、常時施錠されていて、清掃サービスも入らない。だから、埃っぽいのは仕方ないとして、色々なファイルがナンバー順に並んでいないのは、明らかに今までの総務課の社員の責任だよねえ。いかがなものか。
ここにいると、首の後ろにチリチリするような嫌な感じがする。だけど、どうにもその原因が分からない。
意識を集中させていると、足音が聞こえた。足音は、急いでいるようで、すぐに近付いてくると、ドアを開けた。
「水落さん。おはよう」
「……井森さん?」
私が振り返ると、井森さんは少し目を伏せながら言う。
今日は、顔色は悪くない。
「いや、課長が、水落さんが書類探して、倉庫に行ったって、言ってたから。手伝う?」
「それならもう見つかってますから」
私はバインダーを手に答えた。良かった、と答える井森さんの視線が不自然に動き、倉庫の奥に向いたのが分かる。
私はその視線を追って――後ろを振り向いた。
「水落さん?」
「いえ……」
乱雑に積まれた段ボールがあるだけだ。違和感を覚え、そっちに意識を集中しようとした瞬間――腕を掴まれた。咄嗟のことに、避けられなかった。
「えっ?」
「あっ、いや、」
何ですか、と聞こうとしたが、私の腕を掴んだ井森さんの方が動揺していた。
「朝礼、始まるよ」
「……。はい」
そう言って、そそくさと倉庫を出る。私も倉庫を出て鍵を閉め、課長に返した。
(――怯えてる?)
井森さんは、微かに額に汗をかいていたし、顔色が悪かった。
私は倉庫にあったバインダーを自分の机に置き、そして――気付く。
微かに、背表紙に赤黒い、筋のような汚れがある。
鼻を近付ければ、微かだが、鉄の。いや、血の臭いがした。
「――!」
頭の裏に、何か瞬くように閃く。
朝礼が終わり、井森さんが部屋から出た瞬間を見計らい――私は再び課長から倉庫の鍵を借りて、倉庫の伝票ファイルをすべて集めた。そして、一番古いものから、ナンバリングされた順に並べ直す。
恐らくこれが元あった通りに、並べれば。
「やっぱり……」
並べ直した背表紙には、どれも同じ筋の汚れが残っていて、繋がっていた。
血の痕は、擦られていたが――人の掌の形をしていた。
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昼下がり、キーボードを叩き、書類を片付けていきながら、私は思考の半分で、あの倉庫のことを考えていた。
ファイルの背表紙に残った血の痕。血まみれの手で触り、そしてそれを擦れば、ああいった形になるだろう。
そして――それは、隠されている。
ファイルの背表紙についた血は、綺麗に拭えず痕が残ってしまった。だから、それを隠すために、伝票ファイルをバラバラにしたのだ。順番通りに並んでいると、手の形の血痕がついていることに気付いてしまうから。
そして――それは、私の勘違いでなければ。
「すみません、課長。鍵貸してもらっていいですか? このファイル、元の場所に戻すので」
「水落さん、いちいち面倒だったら、そのファイル、君が持っててくれていいよ。自分の机の中に入れて鍵をかけておけば、問題ないから」
「いえ、一応、共用の資料ですから、元の場所に戻しておかないと」
そう言って、私は倉庫の鍵を受け取り、ファイルを元の場所に戻そうとした。横から、井森さんの視線を感じたが、ちら、と視線を返すだけで、特に言葉はかけなかった。
――面倒なんてとんでもない。この伝票ファイルを手元に置いておいたら、理由をつけて倉庫に入れなくなるじゃない。私は、薄暗くて散らかった倉庫に入った時、知らず笑みが零れた。
私が今持っている、直近の伝票ファイルは、以前私がしまっていた場所から、すぐに見つかる手前の方に移動させられていた。誰かが使って、適当な場所に放置しただけという可能性は排除していいだろう。総務課でこの過去の伝票ファイルを使って仕事をしているのは、私だけだ。
だから、私が見つけやすい場所に、誰かがわざわざ移動させたと考えるのが自然だろう。私がこの伝票ファイルのために、倉庫を探し回ることを、避けてほしい人間がいるのだ。
そうまでして隠されたら、探してみたくなるじゃない。
隠されているものは見つけたい。気になるものは追いかけたい。
これは、ダウザーの性かしらね?
「ま、とりあえず、今は業務中だから……さっさと仕事に戻らないと」
お楽しみは、業務後。胸元にしまった水晶の感触を確かめ、私はオフィスに戻った。