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12. 美しいひと、要するに敵わない相手

 その日は、梅雨の蒸し暑い夜だった。

 我の強い後輩との関係に悩んでいた同期の真理を誘い出し、律子は駅前の居酒屋で愚痴を聞いていた。入社して丸三年が過ぎ、基本的な業務をこなせるようになった律子と真理だが、新入社員の頃とはまた違った悩みや葛藤が生まれてくる。毎月シフトが出ると日程を調整し、月に一度はストレス発散と称してふたり飲み会を開いていた。

「今日はありがとう。律子に愚痴ったらすっきりした」

「わたしは焼き鳥食べながら、ただ聞いていただけだよ」

 会計を済ませて賑やかな店の外に出ると、朝から降り続いていた雨はあがっていた。喋って飲んで食べて、少しはストレスを発散できたのだろう。真理の表情は随分と和らいでいて、律子はほっと胸を撫でおろした。

「焼き鳥美味しかったね」

「うん。安かったし、また来よう」

 そんな会話を交わしながら、ほろ酔い気分で駅に向かう。ふたりは別の路線の電車に乗るので、改札をくぐったところで解散だ。またメールするねと手を振ると、律子はホームへ向かう階段をのぼって行った。

 飲みの帰りか、はたまた残業か。夜十一時を過ぎた駅のホームには、それなりに電車を待つ人がいた。律子の降車駅の改札は前寄りに位置しているので、進行方向に向かって移動する。その時、ふと律子の視界を見慣れた横顔が掠めた。


 ホームで二列になって並ぶ人たちの間に見えたのは、長身の男性の姿だった。斜め後ろの方向から見える顔の範囲は限られているが、この三年間見つめ続けたその人を、律子が見間違える筈はない。休みの日に偶然会えるなんて、ついている。一日の終わりに訪れた幸運に胸を弾ませながら、律子は入社以来密かに慕っている先輩の名を呼ぼうとした。

「辻内先輩」

 口にしようとしたその瞬間、律子は長身の影にもうひとり見知った顔が隠れていることに気づいた。

 彼の隣に立っていたのは、すらりとしたスタイルの女性だった。いつもはストレートの黒髪をきっちりとまとめているのだが、今はおろしているので印象が違い、彼女の存在には気づかなかった。さらりと髪を揺らして笑う横顔は、職場で見せる表情より柔らかい。律子は鼓動が早まるのを感じながら、ただ茫然と立ち尽くした。

 不意に、女性が何か言葉をかける。それに対して短く答えると、辻内は小さく笑った。


 気づけば律子は、逃げるようにしてホームの端へ移動していた。

(あんな顔、知らない……)

 じわりと涙が滲むのを堪えるように、律子はきつく唇を噛んだ。

 律子の指導担当として入社した時から色々と面倒をみてくれた辻内は、先輩にも後輩にも態度を変えない優しい人だった。律子がミスした時も、忙しさに余裕を失った時も、辻内は常に的確なアドバイスで彼女を導いてくれた。けれども先程、彼が隣に立つ女性に向けた優しい笑顔は、そのような類のものではなかった。

 恋愛経験の少ない律子とて、辻内の面倒見の良さを愛情からくるものだと勘違いするほどおめでたくはない。後輩として可愛がってくれている自覚はあるが、向けられる笑顔や言葉は、他の同僚に対するのと同じ種類のものであることくらい知っている。目標としていた人物がいつしか恋い慕う相手になったものの、彼にとっては律子がただの後輩であることに変わりない。

 だけど、それでも良かった。頑張って仕事を覚えて、いつか辻内に見合う女性になれたら、その時には勇気を出して告白しようと思っていた。まだ自分はひよっこで、だから一日でも早く認めてもらえるよう一人前になろう。付き合っている人は今はいないと言っていたから、自分が努力さえすれば彼の隣に立てると、無邪気にもそう信じていたのだ。

(わたし、馬鹿だなあ……)

 湿気を含んだ生暖かい風が、肌に纏わりつくようにして吹き抜けてゆく。先程までの楽しかった酔いはすっかり醒め、律子はホームの片隅で、己のみじめな恋の終わりを自嘲した。



   ***



「どうしたの? 何だか疲れた顔してるよ」

 律子が休憩室に入ると、先に昼休みをとっていた真理がそう声をかけてきた。

「夢見が悪くて、昨日あまり眠れなかったの」

 冷凍食品と残り物を詰め込んだ弁当を電子レンジで温めながら、律子はそう答える。

「どんな夢を見たの?」

「……さあ、忘れちゃった」

 真理の問いに、一瞬だけ思案する表情を見せる。やがて曖昧に笑いながらそう答えると、律子はレトルトの味噌汁にポットのお湯を注いだ。

 夢の中の情景は、かつて実際に律子が目にしたものだ。もう随分と昔のことの筈なのに、あの人の名前を聞いただけで、それはあっさりと鮮明に夢の中に蘇った。温まった弁当箱を取り出すと、手を合わせて小さくいただきますと呟く。あまり食欲はなかったが、律子は平気な顔をして無理矢理にごはんを口に運んだ。


「そう言えば来月、本社人事の部長と課長が来るらしいね」

「ああ、うん……」

 既に弁当を食べ終わっていた真理は、お茶を飲みながらそう言った。先日部長から告げられた内容は、既に全スタッフに引き継がれている。

「人事課長って、前にここで働いていたって本当?」

 部長から聞いたのか、それとも辻内から聞いたのか。早くも真理は、冴子がもともとソレイユホテル本宮中央のフロントスタッフだったことを知っているようであった。

「本当だよ。わたしと辻内課長の先輩」

「え、辻内課長よりも先輩なんだ?」

「うん、ひとつ先輩。寺本マネージャーと同期らしいよ」

 四年先輩にあたる冴子は、専門学校卒の律子に対して四大卒なので、年齢は六歳上になる。律子が入社した時には既に二十代後半で、見た目も仕事ぶりも洗練された大人の女性であった。冴子と同期の寺本やひとつ下の辻内など、当時は同世代のスタッフが多く、酒好きという共通点もあって彼らは非常に仲が良かった。律子は皆に可愛がってもらっていたが、年齢が少し離れていることもあり、彼らと仕事外で飲みに行く機会はさほど多くはなかった。

「辻内課長より先輩か。それなら色々と、若かりし頃の課長のことを聞き出してみよう」

 ぶつぶつと呟きながら、真理が黒い笑顔を見せる。どうやら冴子から、辻内の弱みを聞き出してからかおうという魂胆のようだ。

「すごく仲が良かったから、色んなエピソードを知っていると思うよ」

 そう言って、わざとふざけて真理をけしかけてみる。途端に目を輝かせる真理を見ながら、律子はくすりと笑った。


「桐谷課長は、結婚して本社に行かれたんだよね?」

「うん。結婚して一年くらいはこっちにいたけど、旦那さんの転勤を機に異動されたの」

「それでキャリアを積んで、本社で管理職か。すごいなあ」

 律子が入社した時から、冴子には付き合っている恋人がいた。普段はクールな雰囲気なのに、彼氏のことを話す時は照れた表情になって、年上なのにそれが可愛らしいなと密かに思っていた。そして同時に、安心もしていた。辻内と仲が良かったけれど冴子には彼氏がいるので、先輩後輩の関係以上に発展することはないと、律子はそう信じていたのだ。

 けれど、そんなことは関係なかった。いくら律子が大人の女性になれるようにと懸命に仕事に励んだとしても、それは律子が勝手にやっていることで、その間に辻内が誰のことも好きにならないという保証なんてない。いくら冴子に恋人がいたとしても、美人で仕事のできる女性と長く一緒に働いていれば、彼女に魅かれる気持ちを抑えることはできない。愚かにも律子は、あの夜までそんな当たり前のことに気づかなかったのだ。


 やがて何とか弁当を食べ切った律子は、再び手を合わせて弁当箱に蓋をした。

「ところで、真理は次のところ決まった?」

 これ以上冴子に関する話題を続けたくなくて、律子はさりげなく話を逸らす。咄嗟に思いついた質問もまったく愉快な内容ではなかったけれど、それでも幾分ましな気がした。

「ううん、まだ」

「次もホテルで探してるの?」

 辻内は、真理にも再就職先を紹介したのだろうか。本当はそれが気になっていたけれど、尋ねる勇気はなかった。

「もちろん経験を活かせるホテルが理想だけど、カズのお迎えとかがあって働ける時間が限られているからさ。仕事内容よりも、融通が利くかどうかが最重要事項かなあ」

 自分の生活を自分で支えなければならない独身の律子も大変だが、子供を育てながら働く真理もまた大変だ。これまで当たり前のように勤めてきたけれど、仕事があるということは決して当たり前ではなかったのだと、この場所を離れることになって律子はようやく気がついた。

「大変だね、お互い」

「まあ、旦那は焦って探さなくても良いと言ってくれてるから、じっくりと条件に合うところを探すつもり。律子は?」

「さすがにお給料が下がるのは嫌だから条件絞って応募してるけど、書類選考でガンガン落とされてるよ」

 自虐的にそう零すと、律子は苦笑いを浮かべながら肩を竦めた。

「そっか。でもさ、転職活動なんて結局は、自分の経験を必要としている会社の求人を待つことなんだと思うよ。いくら律子が経験積んで仕事ができると言っても、第二新卒を求めている会社には受からないんだから。会社都合の退職ならすぐに失業保険が出るし、焦らずじっくりと律子に合うホテルを探しなよ」

「ありがとう、真理」

 親友の言葉はすべて正論で、だから律子は素直に頷く。先が見えないことに対する焦りはあるけれど、それでも随分と気持ちが軽くなった。


「それにしても、履歴書を書くのが面倒なんだけど。面接を受けるなんて、もうやりたくなかったんだけどなあ」

 やがて真理の口からは、今更な愚痴がぶつぶつと零れてきた。それはきっと全員の本音で、だから律子も思わず深く頷いてしまう。

「わたしは転職どころか異動もしたことがないから、新しい環境に馴染めるか、そもそもそれが不安だよ」

「大丈夫だよ。まあ、慣れるまでは気疲れするだろうけどね」

 もともと別のグループホテルで働いていた真理だが、ここでパートとして働き始めて慣れるまでの緊張感が蘇ったのだろうか。眉を寄せ、小さく溜息を吐く。やがて、ふと思い出したように口を開いた。

「そう言えば、本社人事が来館する用件の中に、他のソレイユホテルの求人情報を伝える為ってあったよね?」

 基本的にはソレイユホテル本宮中央のスタッフは全員、会社都合による退職となるのだが、グループホテルに欠員があれば希望者は異動できることになっている。人事部長と冴子がやって来る際にそれらが提示され、恐らくそこで異動希望者を募ることになるのだろう。

「同じ会社ならオペレーションは同じだし、全然別のホテルに行くより負担は少ないと思うけど、律子は異動も考えているの?」


 律子の通勤圏内に位置するグループホテルは、かつて真理が勤務していた隣の市にあるホテルと隣県のホテルだ。けれどもそこで退職者が出たという話は聞こえてこない。つまりソレイユホテルに残ることを希望する場合は、必ず引越しを伴う異動になってしまうのだ。

「知らない土地に行く勇気はないよ」

 二十代前半なら、また違う答を出していたかも知れない。だけど年をとるごとに臆病になってゆき、今の律子は、誰も知っている人のいない土地でゼロからスタートする勇気を持ち合わせてはいなかった。

「気軽に友達や家族に会えないのは、さすがに寂しいかな」

「まあ、そうだよね」

 シフト制で家族と生活時間が違うこともあり、律子はお金が貯まると早々に家を出た。ひとり暮らしは気楽で寂しいと感じたことはなかったけれど、それはきっと、いつでも会える距離に家族がいるからだろう。今回のように悩んだ時に相談にのってくれる真理や実花のような親友と離れてしまうことも、定期的に遊んでいる友人たちと会えなくなることも、想像しただけで心細い。

 それに、会社だけでなく住む街まで辻内と離れてしまうことが、何よりも寂しかった。偶然なんて都合良く起こるわけがないのは分かっていても、近くにいればまた会える可能性はあるかも知れない。遠い街に越してしまえば、二度と会えなくなってしまうのだ。

「やばい、そろそろ戻らなきゃ」

 やがて時計を見やると、真理が立ち上がった。ストライプ柄のランチバッグを手に、お先と声をかけて扉を開ける。その瞬間、真理が驚いたように声をあげた。

「あっ、すみません!!」

 どうやら外に誰かがいたようで、扉を開けた際にぶつかりかけたらしい。慌てて頭を下げると、真理はぱたぱたと事務所に戻って行った。


「お疲れ」

「お疲れさまです」

 真理と入れ替わりで休憩室に入って来たのは、先程まで律子が頭に思い浮かべていた人物だった。短く挨拶を交わすと、辻内はポケットから取り出した硬貨を自販機に入れてカフェオレのボタンを押した。もともと甘党の辻内だが、疲れている時はいつもミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレを好んで飲む。別に教えられたわけではないが、ずっと見つめていればそれくらいのことは把握できた。

「……」

 プルトップを開けて、カフェオレを一口飲む。缶をテーブルの上に置く。けれどもその一連の動作の中で、いつもお喋りな辻内は何も言葉を発しなかった。

「お疲れですか?」

「なあ、矢野」

 人が減って、管理職である辻内がフロントに立つ時間が増えた。律子たちには分からない業務も抱えているだろうし、きっと色々大変なのだろう。気遣うような問いは、けれども思いのほか真剣な声に遮られた。

「はい」

「今晩時間あるか?」

「え?」

「久しぶりに、飲みに行かないか?」


 今日はふたりとも日勤で、しかも律子は明日公休だ。特に予定は入れていないので、飲みに行くことに全然問題ない。むしろ、一緒にいられる時間がどんどんと少なくなっている状況で、ゆっくりと話ができるこのチャンスを逃す筈がなかった。

「全然暇です! 飲みに行きたいです!!」

「あまり酒に強くないくせに、どれだけ飲みたいんだよ」

 唐突な誘いに一瞬驚いたのち、律子は咄嗟に予定がないことをアピールした。けれどもそれはあまりに必死すぎたようで、辻内は呆れたように苦笑いを浮かべている。

「別にそんなんじゃないです」

 お酒が飲みたいから食いついたわけではない。辻内と一緒にいられるから、こんなにも必死なのだ。

 もしも律子がそう口にしたならば、辻内は一体どんな反応を見せるだろうか。ふざけて誤魔化してしまうのか、それとも、まだ諦めていないのかと困ったように笑うだろうか。


「よし、今晩は師弟でサシ飲みだ!」

 そう言うと、辻内は残りのカフェオレを飲み干して立ち上がった。

「何が食いたいか、夜までに考えておけよ」

「はい!」

 恐らく辻内は上司として、かつての指導担当として、今後の律子の身の振り方を気にかけてくれているだけだろう。ふたりきりで会うことに、期待したって無駄なことはよく分かっている。だけど、辻内のことを少しくらい尋ねるのは許されるだろう。この先辻内がどんな道を選ぶつもりなのか、それを聞いても律子にはどうしようもないけれど、好きな人の未来を応援する言葉をかけることくらいはきっと許されるだろう。

 ふと、今日はたまたまお気に入りのニットワンピースとコートを着て来たことを思い出す。誘われたのがお気に入りのコーディネイトで出勤した日で良かったと、律子は密かにそう思った。

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