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⒏ 満足お腹と王子様




 ミルクの香りがふわふわと鼻をくすぐる。

 二メートル先に置かれた皿を眼前に口からは涎が垂れそうだった。


 様子を静かに眺めていたシキは、わずかに顔を緩めると、


「どうした、冷めるぞ?」


 可笑しそうに言った。

 しかし私の中で未だに葛藤が残っていた。

 本当に? 本当に食べちゃっても平気なの?


 ミルクとシキの顔を交互に見比べ、その更に遠くに居るルシアを見る。日光でも発しているんじゃないかと疑いたくなるルシアの微笑は健在で、私が食物を口にするのを今か今かと待ち望んでいる。そんなに期待されてもなあー。

 

 そんな時だ、くう~と何とも情けない腹音が聞こえてきた。何を隠さずとも、私の腹の虫がいよいよ我慢ならず鳴き始めたのだ。


「……?」

「ふふ、可愛らしい音だね」


 何の音かと神妙な顔をしてあたりを見回すシキと、音の正体に気づいてくすくす笑うルシア。

 毛が覆われているからわからないだろうが、人間だったら私の顔は茹でダコのように紅潮していたに違いない。


 は、はずかしいー!! 

 そういうお約束みたいなのはいらないよ!



「お、おい? いきなり口をつけると……」


 羞恥心のあまりシキの言葉を振り切って、私はホカホカの湯気が漂う皿に舌を突っ込んだ。舌先がほんのわずかにミルクに触れた瞬間、ヒリっとした痛みが口内に広がった。


「……くひんっ」


 なんともか細い鳴き声が響く。


 舌の先がチリチリとして、それを紛らわすように頭を大きく上下左右に振った。まるでヘドバンのような(さま)は、私でも傍から見ていたなら吹き出してしまいそうである。


「くひゅん! くひゅん!」


 想像以上の熱さに顔を振り回していれば冷めるのではないかと、ぶんぶん、ぶんぶん動き回っていたら、大きな手のひらが私の頬の毛をそっと包んだ。


「おい、それでは首が取れるだろ……」


 呆れを含ませた顔でシキが私に触れていた。

 表情や態度とは裏腹に、壊れ物を扱うような、案外優しい手つきでひとり暴れる私を諌める。

 シキの手はちょっとだけミルクの薫りが移っていた。その匂いのおかげなのか、あれだけ警戒していたはずの体が勝手に逃げることはなく、瞬きを二度三度してマメの痕が薄ら確認できる手をじっと見つめた。


 あれ、意外と平気みたい。

 一度触れてしまえば慣れ始めるというか、こうして人間であった自分の人格があるから簡単に受け入れたのかもしれないが、拍子抜けするほどすんなり触れられてしまった。


 嫌悪感は全くないし、こうして人の手に接触するというのも……あれ、そういえば私って……父上に撫でられたことあったっけ?


 膝から下ろしてもらうときに持ち上げられたりはしたけれど、撫でられたことはない気がする。

 ふと父上のことを思い出し、その事実に今更ながら気がついた私は落胆した。

 耳がひょこんと、勝手に下向きになる。



「どうしたんだろう、急に俯いてしまったね。シキ、なにかしたのかい?」

「いえ、あなただって見ていたじゃありませんか」

「そうだけど。シキばかり羨ましい限りだね」

「睨まないで頂けますか、ルシア様」

「睨んでいないよ? ただ見ているだけさ、見ている……ね」

「はあ……」


 気分が沈んでも誘惑には勝てなかったので、彼らの注意がこちらから逸れている間に、私は鼻息でミルクを冷ましもう一度舌で掬ってみた。

 もう熱くない。ちょうど良い温度に胸が躍る。

 ちょんちょんと、舌先をうまく動かして喉を潤わせていく。これは一体何の乳だろう。牛乳にしては甘くてついつい飲み進めてしまっていた。


「あ、見てごらんシキ」

「気に入ったようですね」


 うまうま。



 あっという間に皿の底があらわになってしまった。

 満足してけぷっと息を吐く。

 ミルクを飲み終える私の姿を、いつの間にかルシアは愛らしいそうな眼差しで見ていた。決してベッドからは降りずにシキの言いつけを守ってるようだった。

 食事中一切の危害を加えられなかったおかげなのか、満腹中枢を刺激された私はすっかりルシアとシキが怖くなくなっている。

 口周りや肉球をぺろぺろと舐め、毛づくろいを済ませると、ようやく私はルシアとシキの顔を見ることが出来た。


「にゃーあ」

 ごちそうさまでした。美味しかったよ。


「ん? 美味しかったのかい?」


 本当に嬉しそうなルシアの声で、耳がピクピクと動く。なんだかこっちも悪い気はしなくて目を細めてしまった。するとベッドの上のルシアからは「ああああ……」などと奇妙な声が聞こえてくる。

 シキは少しだけ残念そうな様子でルシアを見つめていた。



「ルシア殿下、今朝の分の調合薬をお持ち致しました」


 女性の声がすると同時に、扉からはノックの音が聞こえてきた。

 びっくりした私の体は大きく飛び跳ねて先ほど隠れていたソファに潜り込む。シキとルシアには慣れてきたと思ったけど、突然の人の声にはまだ驚いてしまうらしい。

 出たり潜ったり忙しいなあ。


「少しの間、出てはいけないよ」

 

 ルシアのその言葉は私に言っているのだろう。おとなしく体を縮こませ、耳だけ意識を集中させた。


 シキが開けた扉から入ってきたのは白衣のような制服を着た綺麗な女性だった。胸下あたりまである薄いうぐいす色の髪の人間の手にはトレイに似たものが置かれている。残念ながらここからではよく見えなかった。


「おはようございます殿下。今朝のご体調はいかがですか」

「おはよう、ミサナ薬室長。ふふ、自分でも不思議なくらい今朝は体が軽いよ」

「おお、さようでございますか。今日の気候は安定しているし、そのおかげかもしれませんね」


 女性はそう言って、手に持ったトレイをベッドのすぐ横に配置された小さな飾りテーブルに置くと、脇に挟んでいたクリップボードのような板にペンで何かを書き込み始めた。

 あの低さならトレイの上の物が見える。

 クッションみたいな布の中心にあるのは小瓶? どうやら液体が入っている小瓶が一つ置かれているだけのようだ。


「ふむ、熱もなさそうですね。どうやら殿下のお話は本当のようです」

「酷いな、嘘を吐いていると思ったのかい?」

「現にそういったことがちょうど一週間前にありましたから」

「そういえばそうだった」


 悪気はないと主張するルシアは肩を竦めて小さく笑っていた。


 白衣を着た女性は医者なのかな。そういえばさっき「薬室長」とルシアが言っていたけれど、私が考える薬室長で合っているか分からないし、前世ではあまり馴染みのない言葉だったけれど、要は薬を作ったりする人だよね。

 私は部屋でのルシアとシキのやり取りを振り返ってみた。過保護な様子のシキ、咳がどうたらと言っていたルシア。……やっぱりルシアはどこか体が悪いのだろうか? 


「シキ、殿下が無茶しないように気を付けるんだよ」

「分かっている」

「相変わらず無愛想なようね、あんたは」

「ふふ、薬室長。これでもシキは分かりやすいんだ。僕の事になると余計に口うるさくて叶わないよ」

「ははは、それは言えてますね」

「…………」

「どうしたんだい? シキ、眉間にシワが寄っているよ」

「いえ、お気になさらず」


 室内は和やかな雰囲気で満ちている。薬室長と呼ばれる女性は姉御肌な美人で、ルシアやシキとも気軽に話している感じだ。でも、どうしてだろう。明らかに年上のはずな女性がルシアに畏まっているのは。


 …………そういえば、さっきから殿下って。



「それでは殿下、こちらの薬を服用しましたらいつも通り三十分はベッドに横になっていてください。では、また昼過ぎに伺います」

「うん、いつもありがとう」


 女性は部屋を出て行った。

 コツコツと扉の外から聞こえる足音が遠ざかったのを確認して、私はずざざざと音を立てながら急いでソファから出る。

 あいたっ、一瞬お尻が引っかかってしまった。

 そして先ほどより少しだけルシアのいるベッドと距離を縮める。ちょこんとお座りをして見上げると、ルシアが不思議そうな表情でこちらを眺めていた。あ、ちょっと嬉しそう。


「ニィー?」


 訳、ルシアって王子様なの、だ。

 当たり前とでも言おうか、まったくルシアには伝わっていなかったが、それよりも彼は私が近くに寄ってきたことが嬉しかったみたいだ。

 確かにルシアは王子様っぽい。背景にキラキラが浮いて見えるもん。へええー王子様か〜。かっこいい。

 前世で王子様といえばおとぎ話の方が縁深いかもしれない。白馬に乗ってお姫様を迎えに行くとかは定番になりつつあったけれど、ルシアはどうなんだろう。ルシアの髪の毛は銀色だから、白馬より金色の毛並みの馬の方が似合いそうだ。


 続いて私は小さなテーブルの近くに寄ってみる。女性が置いていったトレイには硝子の小瓶が一つ。中身は苦そうな色をした液体が沢山入っていて、思わずウッとした。

 くんくん、と匂いを嗅ぐ。

 密封されているようで少しだけしかわからなかったけど、やっぱり薬だ。あの前世で嗅いだ粉薬と同じようなものを感じる。


「にゃ」

「ん? どうしたんだい」


 またクンクンと鼻を動かして、ルシアを見つめる。それを何度か繰り返した。


 ルシア、どこか体が悪いの?

 動作を利用して聞けないかと思ったのだが、普通に考えたら動物に尋ねられていると人間は気づかないだろう。けれど私は妙に気になってしまって、何度も繰り返し繰り返し薬とルシアに交互に視線を送ってみる。


 ルシアは無言で私の様子を眺めていたが、しばらくするとゆっくり眉尻を下げてしまう。

 


「――――ごめんね。君が何を言っているのか、僕には分からないんだ」



 その時のルシアは、何だか少し悲しそうに笑った気がした。


 






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