⒎ 「寝すぎた」
コトンと、わずかな音で目が覚めた。
10分だけと思っていたつもりが、かなり眠ってしまっていたようで、ベッドの下から窺える室内が白く照らされていた。たぶんこれは、太陽の日差しだ。
精霊界はいつも夜空で統一されている。だから精霊になって朝を感じたことはなかったけれど、この優しく包み込むような光は朝日だと思う。体感的に。
なんだか寝たらスッキリした。
原因は不明だが私は人間界に来てしまって、転移術を行使してみても精霊界には戻れず、現在はベッドの下に避難中。
ここは見ず知らずの人間の部屋で、この部屋の住人は私を保護してくれたようである。振り返ってみるとだいぶ善意ある人っぽかったな、ルシアっていう銀髪の青年。もうひとりは薄暗くて顔も見れなかったし、確かすぐに出て行ったから分からないけど、取って食おうとしてはいなかったと思う。
それにご飯も持ってきてくれて……あれ?
私は皿が置かれていた場所を見る。そこには変わらず同じものがあった。湯気も出ている。
軽く数時間は経っているはずなのに、白い皿に注がれたミルクは温かくて美味しそうだ。……じゅるり。
匂いに釣られた足が前に吸い寄せられ、私はそっとベッドの下から抜け出した。ずっと低い姿勢でいたせいで固くなってしまった体をこれでもかと大きく伸ばし、尻尾をぶんぶん振り回した。
皿の前まで近寄る。
やはりほかほかのホットミルクがあった。
全く冷めていない。なんでだろう。
「……」
一口舐めてもいいだろうか。
匂いに害はなさそう。
私は精霊界で実っていた樹の実の類しか食べてこなかった。精霊は空腹が理由で力尽きたりはしないけれど、味覚はある。かつて人間だった私としては目の前のホットミルクの味に興味がそそられたのだ。
それに私の場合口寂しくて頻繁に樹の実を齧っていたから気持ち的にお腹が空いている。
「飲みたいなー」という素直な欲求と「まずは周囲を警戒しないと!」という野生よりの理性が言い合いをしていた。
「……飲まないのか?」
「シキ! 声を出したら駄目じゃないか」
頭の中で葛藤していると、ふと声が聞こえてきて私はギョッとした。
だって、今までなんの気配もなかったのに、突如として二つの気配を耳が察知したからだ。
そこでようやく私は部屋の状況を知る。
扉の脇に姿勢よく佇む騎士のような青年が、じろりとこちらの様子を観察していた。長い黒髪を高い位置でひとまとめに束ね、短い残り髪がさらりと頬の横に沿っている。父上も私も毛色は暗い紺色だけれど、この人の場合はどんな色でも取り込んでしまいそうなほどの漆黒だった。瞳の色は暗い紫色、アメジストに似ている。
腰には二本の刀剣が納められた鞘。
眠る前に部屋を出て行ったシキって人だ!
そんな怜悧な顔立ちと、冷ややかな瞳が私の姿をじーっと眺めているのだ。
そして私のすぐ真上には、
「ああ、せっかく出て来てくれたのに、また固まってしまったよ」
ベッドサイドから顔だけを出した銀髪とエメラルドグリーンの瞳をした青年がこちらを隠れ見ていた。
彼はふわりと微笑みかけている。……いやいや、いきなりは吃驚するよ!?
毛を逆立て彼らから離れるように、私はミルクの入った皿を飛び越えソファの下に逃げ移った。
一般的に人間は小動物に優しい、なんの意味もなく非道に虐げたりしないのは知っている。そう頭では分かっていても、上を向いてベッドサイドから顔だけ出した人間がいたら驚きもする。
「床から頭を出すのは控えてください、ルシア様」
「だってシキ、君がベッドから出してくれないからだろう。様子を見るにはこうするほかない」
「薬師の診察が終わるまでの辛抱です。大人しく横になってください」
「それではシキだけがこの子の様子を見れることになるじゃないか。ずるい」
「……」
なんだろう、この会話のやり取りは。
シキという人が異様なまでにルシアを過保護に扱っている感が否めない。げんにルシアはシキの言う通りベッドから降りていないようだし、文句を漏らすものの従っている。
ルシアはどこか体が悪いんだろうか。
そういえば、咳がどうとか話していたような……。
そろりと、ソファの下から様子を見る。
パジャマのような寝間着に袖を通したルシアが、私の隠れる場所に視線を送っていた。シキはそんなルシアがベッドから出ないように何度か声をかけている。
ルシアという青年は病弱なのだろうか?
確かに儚い印象を受けるけれど、というかぶっちゃけもの凄い美青年で目がチカチカするのだ。
私がソファの下に潜伏しているので、とても残念そうにしている。
「まだ警戒しているのかな……」
その落胆っぷりはこっちが申し訳なくなるほどだった。なんだか胸が痛い。
私は鼻を何度かくんくんと動かした。
この人たちからは嫌な匂いがしない、敵意や邪な気も感じない。どちらにしてもこのままでは埓があかないと、私は腹を括った。
「……! 出て来た、出てきたよシキ」
「出て来ましたが、腰の引けようが目立ちますね」
それは言わないでよ!
ソファの下から意を決して出た私は、ちょこんとその場に座って青年二人を見上げた。
突然私が出て来たことにシキは驚いた顔をしていたが、ルシアは嬉々とした笑みを浮かべる。
ちょいちょいとベッドの上から私に向けて指を動かすルシアに、眉間に皺を寄せたシキが「やめてください」と早々に止めていた。
ルシアはシキを『シキ』と呼び、シキはルシアを『ルシア様』と呼んでいる。風の妖精たちから人間界のことについて聞いてはいた。というより噂好きな妖精たちの世間話を盗み聞きしていたのだが。
今世は身分というものがはっきり区別されており、王族、貴族、平民がそれぞれ生活しているらしい。
つまり『様』付けされているルシアは平民より身分が高い人なのではないだろうか。そもそも部屋の家具の高級感具合が凄いもの。
私はまだ3歳だったから詳しく教えてもらえなかったけれど、全体的に西洋よりの文化と、加えてファンタジーが混ざったような世界だと考えている。
見た目だけで言ったら童話に登場する王子様っぽいルシア。そう考えると余計にシキが騎士に見えてくる。
しばらく私はぼうっと主従関係のような二人の会話を聞いていた。昨日の今日で既に警戒心がゆるゆるである。
そもそも前世は至って平和な世にぬくぬくと暮らし、生まれ変わった今世でも精霊界で危険と掛け離れた生活をしていた私の自己防衛なんてハムより薄いものだったのだ。
「そこまで頑なに言うなら、シキがこの子に餌をあげてくれよ。そうすれば僕もここから眺められる」
「……はあ、ルシア様に床から抜け出されては俺が困りますから。分かりましたよ」
シキは深い嘆息をこぼしながら、ベッドの近くに置かれたホットミルク入りの皿を手に私の方へ近寄ってきた。
感覚的にシキは私の警戒範囲を理解しているようで、一定に離れたところで立ち止まると、静かにしゃがみ込んで私に中身を見せるように皿を傾かせたあと、そっと置いた。
「ほら、ミルクだ。こっちに来い」
濃厚なミルクの匂いに、私は口端から出そうなよだれをぐっと堪えた。